鬼としての食事、人としての食事Ⅰ

 朝、窓から差す白い日差しが部屋を塗り潰す。眩しさで目が覚めた。


 どうやらカーテンを閉め忘れていたらしい。


「ナナ、朝だよ」


 隣りのベッドで寝ているナナに声を掛けてやると、「うーん……」と小さな唸り声を上げて身じろいだ。頬をつまんでやろうかと少し悩む。


 シエナの話によると一階の食堂で朝食が出るらしいが、室内に置かれた時計に目をやるとその時間よりもまだ少し早いことに気が付く。

 

 僕は顔を洗うと、未だ寝息を立てているナナを無理に起こそうとはせず、一階へ降りて行った。


 階段を下りてすぐ、目当てのものが目に入る。

 階段脇にある本棚だ。実は昨日からずっと気になっていた。


 木製の巨大な本棚は僕の背よりも高く、上から下まで本がぎっしりと詰まっている。上の方の本は一体どうやって取るのだろう。


 取りあえず手の届く目線の位置のものから適当に背表紙をチェックしていく。古そうな歴史書から何かの専門書らしきものが目立った。どうやら本のジャンルというよりも、本の大きさで分けてあるようだ。比較的小さめの本がまとまっているところには小説なんかもある。

 中には金銀の箔が押された見るからに高価そうなものもあったので、僕は適当に当たり障りなさそうな一冊手に取り、ロビーにあるソファーに腰掛けた。


 こげ茶色の薄い皮が張られた洒落たソファーは、座るとちょうど良い具合に沈み込んでくれて、朝の怠い体に心地良い。気を抜くとこのままもう一度眠ってしまいそうだ。そうならないうちに手にした本を開く。 


 活字を目で追っていると、突然芳しいコーヒーの香りがふんわりと鼻孔をくすぐる。


 何事かと本から目線を上げると、目の前のテーブルに淹れたてのコーヒーが置かれていた。


「おはようございます」

 配膳用の金属トレーを手に、シエナが微笑みながら挨拶した。


「おはよう……ああ、ごめん」

 僕は勝手に手にしていた本のことを謝罪した。


「いえいえ、良いんですよ。本、お好きなんですか?」

 シエナは僕が閉じようとする本を片手で軽く制した。


 まあ、多少卑怯ながらも、この店主なら許しが貰えるだろうなと思ってそうしていた所もあった。


「いや、好きってわけじゃあないけど、暇な時に読んでると落ち着くんだ」


 前の仕事では本など一冊も読まなかったが、最近は何故だか暇さえあればよく読んでいる気がする。

 いや、読まなかったというよりも、読む暇というか、心の余裕が無かったのかもしれない。


「ふふっ」


 何か可笑しなことを言ったのか、自分でもよくわからなかったが、

「それは〝好き〟なんだと思いますよ?」

 シエナは優しく微笑みながらそう返した。


「シエナはいつからこの宿で働いてるの?」

「物心付いた時からですよ。両親が始めた宿なんですけど、父はわたしが生まれて間もなく、母も二年前に死んでしまって、今はわたしが後を継いでいます」


 シエナは悲しい過去をさらりと話す。見た目より強い娘なのだろう。


「そうなんだ。良い宿だね」

 僕はあまり深く聞こうとはせず、それだけ言うと、

「本当に!? ありがとうございます!」

 と嬉しそうにお辞儀をし、鼻歌交じりに仕事へ戻って行った。


「おはよう、ツルギ……」

 入れ替わるようにナナがやって来た。あからさまに起き抜けといった感じの声色だ。


「おはようナナ」

「ツルギ、今日は何するの?」

「うーん…………」


 僕の意識の大半は未だ目の前の活字に注がれたまま、少し考える素振りを見せ、

「何しようか」

 我ながら国から正式な仕事を受けている最中とは思えない発言だ。


 僕の仕事は町の中で「憂鬱」を見つけ、ナナに食べさせること。そして、ちゃんと仕事をしているという証拠に承諾書のサインを集める。

 政府からの指令によると、一週間に一度報告書と一緒に集めた承諾書を送るだけで良い。それさえこなしていれば、後は現場の裁量に委ねられ基本的に何をしても許されるのだ。


 この仕事はまだ実験段階である為、結果を厳しく求められているものでもなかった。言うなれば、可能性を探る段階といったところだろう。

 それにそもそも僕は、この仕事にそこまで国が考える程の意味があるとは思っていない。


 局長には悪いがむしろマイナスだとさえ思っている。その身の血や肉と一緒で、感情や想いも人間に欠かせないものであって、無闇に取り除いて良いものではない。良い筈がない。

 

 それが例えその人にとって辛いものであっても、血や肉と一緒でその人を形作る大切な一部なのだから。


 でも僕はそんな持論とは矛盾する形で今の仕事をしている。

 それはナナの為だ。


 鬼であるナナに対し、僕は酷いことをした。そのことをナナが口にすることは一切無いが、きっと心に深く刻み込まれているであろう。この仕事を受けなければ、ナナは鬼として僕ではなくても、また他の人間から酷いことをされるかもしれない。

 こうしてナナと共に国の仕事を受ける、それが今の僕にできるせめてもの罪滅ぼしであった。


 僕とこの仕事に就いている間はナナは誰からも酷い仕打ちを受けず、笑顔でご飯を食べ、毎晩気持ち良く眠ることができる。


「じゃあさ、どっか遊びに行こう」

 ナナはねだるように言った。

 その表情を確認する。


「そうだな。着いてそうそう承諾書を回収できたんだ。ナナが決めて良いよ」

 僕はそうやって考えることを放棄しナナに丸投げすると、本に目を戻す。

 そんな僕をよそにナナは深く考え込んでしまった。


「ツルギさーん、ナナちゃーん、準備ができましたよー」


 ナナはしばらく一人どうしようか悩んでいる様子であったが、食堂の方から顔を出したシエナに呼ばれて、嬉しそうに駆けて行ってしまった。

 

 その様子を見た僕は短い溜息を吐くと、本を元の場所に戻し、食堂に入る。


 食堂には僕たちの他に、五人の宿泊客が席に着いていた。中の数人の男は目の前の朝食よりも、せっせと働くシエナに目が行っているようだ。

 なるほど、客が泊まる目的も様々なようである。僕は先程コーヒーを貰った時のシエナの笑顔を思い出す。毎朝あんな笑顔で挨拶されるのならば、喜んで金を払う人間がいても理解できそうなものであった。


 空いている席につくと、すぐに朝食が出される。焼きたてのパンと色鮮やかなサラダだ。この宿に来るまでは朝食なんぞ意識して食べようとはしなかったので、こんな簡単なものでも、とても新鮮に感じ、何となく嬉しかった。


「そうだ、シエナ」

 ナナが近くを通りかかったシエナに話しかける。


「なんですか? ナナちゃん」

 シエナはナナに対しても敬語で話す。客商売の心得のようなものかもしれないが、年齢的な立場を考えると何とも妙な会話であった。


「何か楽しい場所は無いか?」

 そんなナナの漠然とした質問にシエナは少し考える素振りを見せ、

「そうね……、おっきな時計塔が見えるでしょう? あの方角に少し歩くとこの時期、綺麗なお花がたくさん咲いているのが見れますよ。お花は春って思いがちですけど、夏にも綺麗なお花はたくさんあるんです」

 普段よりもさらに明るい声色でそう話した。


「………。それって……楽しいのか?」

 ナナは訝しげな顔をした。


「わ、わたしは楽しいと思うなぁ……」

 シエナはナナに共感してもらえず、少し残念そうであった。そういえば、本棚の専門書は植物や花に関するものが多かった気がする。


「シエナ、僕も一ついい?」

「はい、なんでしょう?」

「その時計塔って入ったらいけないの?」

「いけないってことはないですよ? そんな決まりはありません。でも今は入ろうとする人はいませんよ? ちょっと妙な噂がありまして」

「その噂って吸血鬼のこと?」

「そう言う人もいますが……、でも実際のところわからないんです。なにせ見た人がいませんから」

「そうか、ありがとう」

「いえいえ」

 そう言うとシエナは軽くお辞儀をして、食べ終わった客の皿を片付け始めた。


 レナードの話はどうやら本当らしい。もしあの時計塔に鬼が住みついているのであれば、無闇に詮索しない方が良さそうだ。

 このことが政府に知れれば、現場にいる僕に調査や、さらには討伐の指令が下るかもしれない。そんなことは御免だし、自ら目立った行動を取って町民たちの矢面に立つつもりもない。


「取りあえず来たばかりなんだ、少し町を散策してみようか。シエナの言っていた場所にも寄ってみよう」


 僕も特に興味を感じなかったが、せっかくのシエナの提案を無下にするのは憚られたので、そういうことにした。


「そうだな!」

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