憂鬱な町Ⅳ

 最初はナナの質問に答えるだけのフィリーネであったが、そのうち慣れてくると彼とのエピソードを色々と話してくれた。

 去年のこの季節はこういう所に二人で出かけただとか、誕生日はこんなに素敵に祝ってくれただとか、こういうくだらないキッカケでケンカになっただとか、そんな話だ。


 泣いたり、自嘲めいた笑いを含んだり、それでもやっぱり泣いたりと、忙しない様子でフィリーネは話し続ける。


 感情の高ぶりから時折言葉の端々が危うい感じではあったが、フィリーネがその彼のことをどんなに好きだったのかが伝わってきた。 




「それでその時彼がね……」


 5つ目のエピソードに差し掛かっていた頃である。


「フィリーネ」

「ん? なあに?」


 僕からは表情は見えないが、もうフィリーネの目からは涙が流れていないのであろう。話す声も最初の頃に比べるとだいぶ明るい。山あり谷ありの感情の起伏も、至って平坦になった。そんなことを思ったちょうどその時、ナナがフィリーネの話を遮った。


「フィリーネはなんで彼と別れちゃったの?」

 ナナは最初と同じ質問をする。


「だから彼に好きな人ができて…………あれ?」

 フィリーネは突然言葉を詰まらせる。言ってしまってから、自分の言葉にどこか疑問に思っているようであった。


「他に好きな人ができたんだったら、別れて当然よね? なんでわたしこんなところでこんな話をしてるのかしら」

「もう一度聞くね? どうしてフィリーネは彼のことが好きだったの?」

「好きだったから好きだったのよ。何でかなんてもうわからないわよ。もう別れたんだから」

「そういえばフィリーネ、さっきの話の続きは?」

「え? ああ……いいわよ、もう。そんなに面白い話でもないし。ごめんね、こんな夜中に付き合せちゃって」


 そうしてナナの鬼としての食事は完了となった。


「ごちそう様」

 最後にナナはそう言った。


 その一言はフィリーネに対してと言うよりも、僕に対する合図である。

 それを聞き、僕はナナの前に姿を現す。


「ナナ、行こうか」

「うん」

 僕が声を掛けると、ナナは立ち上がった。


「ナナちゃん、またね」


 フィリーネは座ったまま笑顔で手を振った。対してナナは無言で手を振り返す。


 ナナは鬼だ。

 それゆえ人を食べる。


 だが、ナナは獣のように口のから血を滴らせながら人の肉をむしゃむしゃと咀嚼するわけではない。

ナナは人の大切な一部を、とりわけ「憂鬱」を食べるのである。


 現代において鬼のほとんどはその血が薄れてしまって、それぞれが人間の一部分しか食べることができないという。政府の報告では人の血だけを糧にする鬼、いわゆる吸血鬼と呼ばれる鬼が比較的多いそうだが、ナナのような人間の負の部分だけを食べる鬼はかえって重宝され始めていた。


 いかにも暇な研究者たちの好みそうな話題だ。彼らにとっては牛や羊の乳を発酵させてチーズを作る菌を発見したようなものに近いのかもしれない。


 「憂鬱」を食べるのに必要なことは、その間ナナがその対象となる人物の近くにいること。これが簡単なようで難しかった。だからさっきのように、会話をして間を持たせる必要があるのだ。


 そしてこの会話にはそれ以上に「憂鬱」を食べやすくするという重要な役割もあった。ナナに言わせてみれば「憂鬱」を食べるということは単に「記憶」を食べることとは違うらしい。人間の頭の中をパンに例えると「憂鬱」はそこに生えたカビのようなものらしく、感情やら記憶やらが詰まったそのパンのカビの部分だけを、丁寧に取り除いて食べるそうだ。だから、ナナが食べることによって記憶が消えてしまったり、その人の人間性が著しく変わってしまったりという心配はない。そして、そのカビの位置を明確にするという役割が、一見すると無意味にも思えるナナの会話の中に含まれているのだ。 


 だが、それも「憂鬱」の度合いによってはカビの周りの記憶やらそれに付随する他の感情やらを、根こそぎ食べてしまわないとならない場合もある。大抵そのような重篤な場合は、食べきるのに時間が掛かるので、僕たちとの何日間かの共同生活を余儀なくされるであろう。


「ナナ、美味しかった?」

 歩きながら僕はナナに尋ねる。


「うん、美味しかった」

 やはりこちらの食事に関する話になると、ナナはやや感情が乏しい反応になる。


「失恋の味ってね、すっごく濃いんだ。それってその人にとっては死にたくなるほどツラい感情ってことなんだと思うんだけど、食べる時はとても食べやすいんだよ。なんて言うんだろうな、わかりやすく固まっててくれるというか、まとまっていてくれるというか……」


 その感覚は、実際に食べることができる彼女にしかわからないのだろう。あまりそのことについて言及しても意味がなさそうだ。


「濃いって言ったけど、時間と共に薄れていくのも失恋の特徴だよ。特に新しい恋を見つけてしまっては、もう食べるに値しない程の濃さになっちゃうしね。失恋からくる憂鬱は早く食べてしまうに越したことはない。恋に関する憂鬱は新鮮さが大事なんだ。特に女の人はね」


 「恋」と「濃い」。

 

 同じ響きの言葉を使うものだから、ナナの話は余計に分かりづらかった。だが、こういう説明をしてくれる時と、道案内の時だけは年下のナナが少し頼もしく思えた。年下であれ、自分に無いものを持っているというのは、それが何であれ素直に感心してしまう。


「女と男で違うの?」

「うん、男の人は新しい恋をしてもわりと前の憂鬱が綺麗に残ってたりするけど、女の人はごちゃ混ぜにしちゃうことが多いよ。だから薄れちゃうの」

「ごちゃ混ぜねぇ」


 それがわかるという感覚は、僕には一生感じることがないものであろう。空を自由に飛び回る鳥から翼を動かす感覚を説明されているようなものだ。


 相手が自分よりも若い女の子だから良いものの、これがそれなりの風体をした者であったなら、それなりに恐ろしくも感じるのかもしれない。


 人間は元来、自分とは著しく異なるものを拒絶したがるものなのだから。

 それが表面的であれ、内面的であれ。

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