クロロホルム
「ねえ、後輩ちゃん」
「はい。何ですかせんぱ……ムグッ!?」
「ふっふっふ……」
「――――!?(これはタオル!? まさか!)」
『クロロホルム』
「安心しなさい、染み込ませてあるのはただの『サバ味噌缶』よ」
「クッサ!!! なんでだよ!」
「だって本当にクロロホルムだと危ないし」
「え、あれってただの麻酔薬じゃないんですか?」
「クロロホルムが麻酔薬として使われていたのは20世紀前半頃までよ。それにただの麻酔薬だとしても素人が扱うだなんて危険そのものだわ」
「ん……たしかに。でも今でもタオルで口を押さえて失神させるシーンは見ますよ?」
「現実では聞かないでしょう? 誰もホウキじゃ空は飛べないのよ」
『諸注意』
「じゃあ今回はクロロホルムについて調べるんですね」
「ええ。まずはクロロホルムを分かりやすく言い換えると『トリクロロメタン』。いわゆるトリハロメタンね。化学式は『CHCl3』よ」
「これ以降細かい化学についての話は今回は目を瞑ります。ここで化学の授業をしたいわけではないですし、説明を始めたら終わりが見えなさそうなので」
「どこからどこまで説明するかの線引きが難しいのよね。炭素の電子殻がー、なんて教科書読んでくれって感じだもの」
「一応前知識なしでも楽しんでいただけるように書いていきますのでご安心を」
「ああ、それと」
【注意】クロロホルムは厳格に規制されている危険な薬品です。興味本位での入手・使用は犯罪に繋がる他、重大な事故等の原因になります。また、本作品は犯罪等反社会的行為を助長するものではありません。仮に事故等が起こった場合も筆者は一切の責任を負いません。
「大事なことですね」
『クロロホルム登場』
「そういうことで、はいコレ」
「何ですかこの茶色い小瓶は」
「クロロホルムさんよ。光と空気を避けて保存する必要があるからこんな容器に入ってるの」
「あらあらそんなに大事にされて。とんだ箱入り娘ちゃんですね」
「光や空気に当たると『ホスゲン(COCl2)』っていう有毒物質が出るからね。ホスゲンは第一次世界大戦でも化学兵器とした使われていたわ」
「目に入れたら痛いどころの騒ぎじゃない!」
「ホスゲンを吸うと肺に異常をきたして死に至るわ。ちなみに解毒剤はないそうよ」
「まあ筆者の脳内にはありませんよね」
「違う違う。『ここにない』んじゃなくて『存在しない』の」
「いやいや空気に触れただけでそんなものが発生するなんてクロロホルムヤバすぎませんか!? ミステリーの登場人物たちはそんな劇物どこで手に入れるんですか!」
「市販の物には安定剤(アルコール等)が混ぜてあるから安心しなさい。それに買う場合も明確な使用目的や購入者の所属機関などの提示が必要で一般人には買えないわ」
「さ、さすがにそうですよね……。入手ルートが限られているならトリックにクロロホルムが使われた時点である程度犯人が絞れちゃいそうです」
「科学と接点のある人間が怪しいわね」
『クロロホルムを開けよう』
「アレ? 厳格な規制があるならなんでここにクロロホルムがあるんです?」
「脳内だからよ」
「わあ、便利ぃ」
「便利ついでにクロロホルムを瓶から出してみましょう。脳内っていう最強フィールド魔法が効いてるからやるんであって、良い子も悪い子も、っつーか誰も真似しちゃダメよ」
「はーい」
『クロロホルムあれこれ』
「さあ試験管に注ぎ終わったわ」
「これは……水?」
「クロロホルムの融点は-64℃で沸点は61.2℃よ。室内で開けた場合はまず液体でしょうね」
「色も無色透明なんですね。てっきり紫だとか緑だとかの毒々しい色かと思ってました」
「そんな感じで見た目は目立たないけれど、他に何か気が付くことはないかしら?」
「うーん……そういえばクロロホルムを開けてから甘いニオイがしますね」
「その通り。クロロホルムは甘い香りと味を持っているの。筆者自身が嗅いだことはないから詳しくどんなニオイかは説明できないけれど」
「へえ、ちょっと美味しそう。最近見た目は透明なのにフレーバーで色んな味がする飲料流行ってますよね」
「透明なコーラは初めて見たときさすがにビックリしたわ。ただしクロロホルムは飲んだら最後の晩餐になるわよ」
「おおう」
「それとプラスチックなんかをよく溶かすから気をつけてね。密閉できていないと発生したガスでフタ自体が溶けたりするから」
「なんでそんな危険な物を麻酔薬に使ってたんですか……」
『クロロホルムの歴史』
「じゃあクロロホルムの歴史を見ていきましょうか。時は1831年、ユストゥス・フォン・リービッヒ(Justus Freiherr von Liebig、1803-1873、独)とウジェーヌ・ソーベイラン(Eugène Soubeiran、1797-1859、仏)、それにサミュエル・ガスリー(Samuel Guthrie、1782-1848、米)の三名が同年の内にクロロホルムを発見」
「リービッヒは冷却器で名前を聞いたことがあります」
「その後1847年にスコットランドの医師ジェームズ・シンプソン(James Young Simpson、1811-1870)がエジンバラでクロロホルムの麻酔への応用を実験。自らを実験体にしてまで検証し、無痛分娩等に使用されるまでに至ったわ」
「自分で人体実験だなんていかにも研究者というか……。それにしてもこんな危険薬物よく受け入れられましたね」
「この段階では危険だって分かっていなかったのよ。……まあでも批判はあったわ。ただし宗教面からね。陣痛は旧約聖書でリンゴを食べたイブ、すなわち人間の女性への罰とされていたから、無痛分娩とは何事か! って」
「誰かが提出物を出していないのに単位貰えるってなったらみんな怒りますよね。実際は楽どころか毒を盛られていたわけですが」
「薬として使われているものが毒だなんて、そうそう考えつくものではないわ。水銀を飲んだ皇帝だっていたんだから」
「中国の皇帝たちですね。じゃあその宗教面からの批判はどうやって鎮圧されたんですか?」
「1853年にジョン・スノウ(John Snow、1813-1858、英)がイギリスのヴィクトリア女王の無痛分娩にクロロホルムを用いたの。これを機に国教会も無痛分娩を認め、ヨーロッパで広まっていくことになるわ」
「さすがに王族には屈しましたか。ドラマみたいな展開ですね」
「でも女王の際は偶然症状が出なかっただけで、クロロホルムの普及に従って使用件数が増えると『中毒死』の報告も多数あがるように……」
「母数が増えて本来の危険性が見え始めたわけですね。知ってる側からすればようやくって感じですが」
「ジェームズは実験で安全性は証明済みとしてクロロホルムの危険性を否定したんだけど、他の麻酔と比べて明らかに使用時の死亡率が高いことからクロロホルム以前に使われていたエーテル等の麻酔へと主流が戻っていったわ」
「ジェームズからすれば王族にまで認められたプライドの結晶だったんでしょう。認められませんよね簡単には」
「その後ジェームズは新薬の開発に躍起になって繰り返し自分を実験台に。結果体を壊してこの世を去るわ。クロロホルムによる死者は10万人とも言われるけれど、ある意味彼もその一人なのかもしれないわね」
「発明って難しいものなんですね」
『クロロホルムの今』
「そうしてクロロホルムは麻酔薬としての地位を確立できずに終わったの」
「ん? でも今でも市販されているんですよね? まさか毒としてですか?」
「半分くらい正解ね。クロロホルムがプラスチックなんかをよく溶かすって言ったのは覚えてるかしら」
「ええ。容器のフタまで溶かすから気を付けろって……」
「その特性を活かして今では溶媒として使われているのよ。デメリットの部分も扱いを理解していれば特徴のひとつとして利用できるわけ」
※溶媒……実験等に使う物質を溶かし込んでおくためのもの。水に砂糖を溶かした場合は水が溶媒(砂糖は溶質、出来た砂糖水は溶液)となる。工業分野では溶剤と言われることもある。
「なるほど。麻酔薬としてのイメージが強かったので意外ですね」
「元々麻酔薬として扱うために作られた物質ではないからね? どこからクロロホルム=麻酔のイメージが広がったのかしら」
「今回調べた限りでは見つけられませんでしたねえ……。もし知っている方が居れば情報提供お願いします」
『クロロホルムで眠らせるには』
「さて、ドラマなんかで見られるクロロホルム描写が現実的でないことは説明したけれど……」
「何でしょう?」
「実際にクロロホルムには麻酔としての機能もあったわけなのよね」
「女王のように無痛分娩に成功した例もありますからね」
「そこで現実的に犯人がクロロホルムで眠らせるシチュエーションを考えてみたわ」
『サスペンス冒頭』
犯人『じゃあ今からクロロホルムを嗅がせるからね?』
被害者の幼女『はーい!』
__________________________
「……いやいや待て待て待て」
「どうしたの?」
「おかしいでしょうが。何で麻酔されることを承諾してるんですか」
「だってクロロホルムで眠らせるにはかなりの量を吸引させる必要があるのよ? 被害者側の協力なしではまず無理だわ」
「ドラマのように数滴垂らしただけじゃ効果がないと?」
「ええ。あのやり方じゃあ5~15分はかかるでしょうね」
「5分間被害者の口元を押さえるシーンを流してたらチャンネル変えられちゃいますね。それ以前にこの幼女ちゃん犯人に協力してる時点で眠らせる必要が無いと思うんですがそれは……」
「大丈夫よ、その辺考えてあるから」
__________________________
犯人『おじさんはクロロホルムを用いた実験も行っている大学の教授を友人に持つ麻酔医なんだ。だから安心してね』
幼女『本当に『くろろほるむ』をすったらプ○キュアになれる?』
__________________________
「何だこの薄い本!?」
「クロロホルムを知らなくて、なおかつ嘘を簡単に信じてくれる子供である必要があるのよ」
「つーか犯人の素性が露骨すぎますよ!」
「クロロホルムは地肌に付けようものなら
__________________________
犯人『ああなれるとも。さあ吸って……吐いて……。そう、上手だね』
幼女『ごほっ……あたまがいたいよぉ』
幼女のパパ『大丈夫だぞー。お父さんがついてるからな』
幼女のママ『頑張って○リキュアになるのよー』
__________________________
「おうコラ」
「あら反抗期かしら」
「思春期ですよ。何で両親同伴なんですか」
「ある程度クロロホルムを吸うと咳や頭痛が症状として現れるわ。幼女にとってそんな辛い状況を乗り切るには信頼できる両親が傍に居てくれるべきだと思うの」
「両親同伴で誘拐事件とかもはやどうツッコんでいいのやら……」
__________________________
幼女『ぐう……』
犯人『クックック……よく眠ってやがるぜ』
ママ『あの人です』
警察『話は署で聞くから』
犯人『違うんです私はこの子をプリキュ○に……』
【HAPPY END】
__________________________
「はい」
「ハッピーエンドなら許されると思うなよ」
「えっ」
「これじゃあサスペンス始まってないでしょうが」
《幼女が不幸になるなんてダメです!》
「そうよ! 口裂け女ちゃんの言う通りだわ」
「まだ帰ってなかったのかこのロリコン!?」
『結論』
「まあ結局のところクロロホルムを無理やり用いるよりは手早く車に詰め込みでもした方が誘拐の成功率だとかリアリティは高いわ」
《へえ、メモしなきゃ》
「もしもし警察ですか?」
《ま、まだ何もしてないじゃないですかぁ!》
「口裂け女ちゃん、一般人はこの内容をメモすらしないのよ……」
《嫌だなあ、誰でも児童の一人二人……》
「犯罪者予備軍は放っておいてまとめに入りましょう」
《あれ? 私少数派です?》
『まとめ』
「クロロホルムは19世紀に発見された無色透明の薬品で20世紀前半まで麻酔薬としても用いられていたわ。ただし空気や光と反応して有毒な物質を生成するから下火に。現代ではその特性を活かして溶媒として扱われているわね。素人が入手できる物ではないからトリックとして取り上げるには注意が必要よ」
「冒頭でサバ味噌のニオイを嗅がされてお腹空いたんですけどご飯とサバ味噌缶有ります?」
「ああ、その辺に転がってるわよ」
《あの、私少数派なんですか……?》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます