二〇二六年四月一〇日(金)

 まばらに席が空き、物寂しくなったクラスを見渡す。

 二年に上がった今となっては、クラスメイトは二十人近く減り、今では三十人余りといったところだった。

 コースによっては二年に上がる際に合併を行ったところもあり、同じ夢を描いて入学してきたクラスメイトが徐々に先細るように減っていく様は、夢を叶える事の難しさを物語っている様で、より一層物寂しさを助長させた。


 あれ以来、週末のいずれかは上永の病室を訪れるのが日課になった。

 彼女たっての希望で、油絵道具一式を持ち込み、病室にいる日は一日の大半を絵に費やして過ごした。

 絵を描いている時はいつも二人共無言で、彼女は僕が描く様子をいつまでも起こしたベッドから嬉しそうに眺めていた。

 時には車椅子で隣までやって来たり、僕が筆を置くと暫く雑談をしたりして、恋人らしい時間を過ごした。


――明日病室に行く前に、切れそうな絵具を補充しないと。

 取り留めのない事を考えながら、持参した弁当を持って中庭へと向かう。

 中庭は中央の噴水を中心に芝生が、その外周には石畳が敷かれ、石畳の方にはテーブルやベンチ等がいくつも並んでおり、昼食スペースとして利用している生徒も多かった。

 多少社交的になり、クラスで話す友人も何人かは出来たが、未だに昼食は一人で摂る事が殆どで、今日もいつも通り一人でここを訪れていた。

 人混みは好むところではないが、中庭も端の方は割と人も少なく、暖かい日差しを浴びながら昼食を摂るには、やはりここを於いては他になかった。

 適当なベンチを見つけ、鞄から弁当を取り出していると、後ろから近付く足音。どうやら相手もここでひっそりと昼食を摂るつもりなのだろう。

 本来相席は望むところではないが、わざわざ移動するのも面倒なので、無視する事にした。


「秋史先輩! 探しちゃいましたよ」

 急に後ろから肩を叩かれ、驚いて首を捩じると、後ろには見知った顔があった。

「お久しぶりです。もう一年半ぶりですけど、もしかしなくても忘れてませんよね?」

「驚いた。まさか枳殻もここを受けてたなんて」

 そこには記憶の姿より、少しだけ大人びた枳殻からたち美佳みかの姿があった。大人びたとは言っても、それは服装に起因するところが多いようにも感じられたが。

「人が多くて見つけるの大変でしたよ。今日駄目だったら、驚く顔が見れなくなるけど電話かメールで連絡するしかないかなぁ……て思ってたところです」

 やれやれと言った風に、大げさなポーズを取る。

「ところでこんな所で一人でお昼ですか? 辛気臭いですよ。まあ先輩らしいですけど」

「随分な言い草だね。人の多い所はあんまり好きじゃないんだ」

「ま、いいですけどね。あっ、その生姜焼きっぽいの一つ下さい」

 一年半ぶりの枳殻は、以前と全く変わらない無邪気で憎めない図々しさを発揮していた。

 わざわざこの学校に来たのも、僕を追って来たんだろう。

 そう思うと、そんな資格もないのに罪悪感が押し寄せて来る。

「おいしい! 先輩また腕を上げましたね」

 相変わらず無邪気に生姜焼きを頬張ると、彼女も弁当を取り出した。

 昼食の間中、枳殻はこの一年半の近況を話し、僕の近況も聞きたがった。

 昼食を終え、弁当の片づけをしていると、枳殻が思い出したように口を開いた。

「あ、そういえば秋史先輩。今日放課後って空いてますか?」

「あ、うん……。あまり遅くならないのであれば構わないよ」

「そんなに時間は取らせませんから。じゃあ放課後にここで待ち合わせってことで」

 そう言って勢いよく立ち上がると別れの言葉もそこそこに、小走りに校舎の方へ消えていった。


               ◇


 空の彼方、ビルに隠れながらも僅かに確認出来る地平線。そこには橙、紫、藍のグラデーションが、夕日の名残を留めていた。

 それを見ながらいつかも枳殻とこんな空を見ながら、話をしていた事を思い出す。

 周りでは金曜独特の週末を前に、少し浮かれた空気を纏った生徒達が、そそくさと帰路に着いたり、仲間内で遊びに誘ったり、カップルで連れ立って歩いたりと、思い思いの週末を満喫しようとする人で溢れていた。

 そんな中皆とは方向も気分も逆、自己嫌悪に苛まれつつ、校内奥の中庭へと歩いて行く。

 暗くなりつつある空の元、約束のベンチには既に枳殻が座って待っていた。手を合わせて握り、下を向くその姿は、何かに祈っているようにも見える。

 近付いていくと程なく向こうもこちらに気付いたのか、顔を上げて腰を上げる。

 少し恥ずかしそうに伏し目がちだが、僅かに見えるその目には、以前と変わらぬ強い意志が見て取れた。

「秋史先輩すみません。忙しいのに時間貰って……」

 昼休みの元気さとは裏腹に、借りてきた猫のように大人しい。

「そんなの構わないよ。それで用事っていうのは?」

 屋上の時と同じ、内容を知っているのに相手を促す。内心は彼女への罪悪感で溺れてしまいそうだった。

 枳殻は一度大きく深呼吸をして、こちららに視線を合わせると、静かに口を開く。

「屋上での答えを……聞かせて貰いに」

 何かに怯えているかのように、下ろした両の拳は小刻みに震え、瞳は潤んでいた。

 それでも決して、目だけは逸らさなかった。

「秋史……いえ、早寧先輩! 私先輩の事、好きなんです! 付き合って……貰えませんか?」


 枳殻のありったけの言葉を聞きながら、僕は噛み締めた唇の間から滲む鉄の味を感じていた。

 それでも言葉を返そうと噛み締める力を緩めると、想いがあらぬ言葉を口走りそうになる。

 答えの決まった返事を先延ばしにするのは、単なる逃げだと分かっているのに……、この日の為に選んだ言葉だってあった筈なのに……、枳殻を前にすると許される筈のない言葉が自分の心もろとも口を突いて飛び出しそうで、必死に唇を噛み締め続けた。

 それでもやっとの思いで口を開いて出て来た言葉は、自分でも信じられない程冷淡なものだった。

「ごめん、今は恋人がいるんだ……。

 だから付き合えない」

「え……? こい……びと?」

 彼女から表情が抜け落ちていく。そしてまるで抜け殻になったような瞳は、それでもこちらを見つめ続けた。

「うん……。いつまで付き合えるかわから――」

「それってもう別れそうって事ですよね!?」

 急に枳殻が割り込んでくる。

「それならもうそんな人とは別れて――」

「そうじゃない!」

 今度は逆に僕が。

「そうじゃ、ないんだ……」

 余計な事を口走った事を心の底から後悔しながら、それでも声を絞り出す。

 それを聞いた枳殻は、今度こそ一緒に昼食を食べたベンチにへたり込み、そのまま動かなくなってしまった。


 声を掛けたくても、掛ける言葉なんてない。

 何か出来る事を探しても、何をする資格もない。

 むしろ今僕が居るせいで、泣いて悔いる事すら出来ないのかもしれない。

 そんな言い訳を心の中で呟きながら、結局僕は何も声を掛けず、その場を後にした。

 少し離れてから首を捻って目の端に彼女の姿を捉えると、その間もベンチに座ったまま、まるで糸の切れた人形のように力無くうなだれているばかりだった。


          ◇


 足取り重く家に帰り着き、まるで石で出来たかのように重い扉を開ける。

 母が今日も遅い事を願いつつ、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。暫くは何もする気になれそうもない。


――結局、あれしかなかったんだろうか。

 最低限の謝罪と、断る理由……。ありったけの誠意に対する、あまりに冷淡な答え。

 けれど言い訳も慰めも、何一つ掛ける言葉を持たない僕に、出来る事と言えばあれだけだったのかもしれない。

 例えそれがどんなに残酷でも……。

 それともいっそ、上永の事を話せば少しは救いになったんだろうか……。

 それでもやはり、僕は伝えないだろう。例え何度時間を巻き戻してあの中庭に戻れたとしても、きっと同じ言葉で傷付ける……。

 結局僕はそういう人間だ。枳殻や上永の為では無く、自分のエゴを優先する。それが誰の為にならなくても。

 そこでふと、いつか亀井先生が話してくれた言葉を思い出す。

 先生は人の意志は全てエゴだと言い、自分の道を選ぶ時は、決して理由を他者に求めものではない——と言っていた。

 そして僕ならきっと大丈夫だろうとも――。

「全然、大丈夫じゃないです先生……。僕はこんなにも弱くて、こんなにも……冷酷だ……」

 涙が出そうになるのを必死に耐える。枳殻にした事を考えたら、自分が泣く事なんて、とても許せるものではなかった。


 暫くそうしていたが、母がいつ帰って来るかも分からなのに、いつまでもベッドに伏している訳にもいかない。

 残りの気持ちを全て頭の隅に追いやって、晩御飯の準備に必要な気力を体中から掻き集める。

 これで何とか今日一日は持つだろう。

 残りは明日、考える事にした。


               ◇


「まるで前に歩く蠏みたいね」

 菜種梅雨の残滓が窓を叩く中、珍しく筆を持っている最中に上永が声を出した。

「何それ?」

 筆を持ってはいても、昨日の枳殻の事が頭を巡って、遅々とし進まない現状では、描いていないのと変わらないので、筆を置いて問い返す。

「知らない? 南米の方だったか場所は忘れちゃったけど、前に歩く蠏がいるのよ」

「いや、前に歩く蠏がいるのは聞いた事あるけど、どうして今その話?」

「だって今の秋史君、潰れそうな程辛そうなのに、更に自分を責めているようなんだもの。

 まるで傷付くと分かっている道を、敢えて迂回せず直進しているみたい」

 自分を敢えて傷付けているつもりはないけれど、客観的に見ればそうかもしれない。

「すごいね。なんか超能力者か預言者みたいだ」

「日がな一日答えの出ない事ばかり考えているんだもの。そんなの、奇人という意味では預言者と大差ないわ」

 そう言ってくすっと笑う。

 それを見ていると、不思議に思う。

――どうして死ぬかもしれないというのに、そんな風に笑えるのだろうか。

 たまに、本当に待ち侘びているんじゃないだろうかと思う事すらあった。

「上永はなんでそんなに笑っていられるの?

 怖くは、ないの?」

「さあ、どうなのかしらね?

 けどどうせ死ぬなら、恐れて遠ざけるより、受け入れて穏やかに過ごす方が幸せだと思わない?」

「まだ死ぬと決まった訳じゃない。どうしてそんな簡単に受け入れちゃうんだ」

「さぁ……どうしてでしょうね」

 僕の少し非難するような言い方にも、微笑を崩さず涼しげに答える。

「けど一つ言える事は、努力しても祈っても、死ぬ時は死ぬ、てことね。

 こればかりは運だわ。だから願わなくても、助かることもある。

 前向きに過ごせば、少しは余命が延びることもあるかもしれない。けどそれを命が潰えるその瞬間まで続ける事は、他人が強要して良い事ではないわ。

 それに、祈って願って裏切られて死ぬより、諦めて今を楽しんだ方が、余程傷付かないし現実的だと思わない?

 あなたが言っていることは、末期癌の患者に『明日新しい治療法が見つかるかもしれないから頑張れ』と言っているのと、本質的には変わらないわ。

 私達が抱えるものは、未来ある人達に口を挟んで欲しくはないものだから」

 彼女は相変わらずの穏やかな笑顔で淡々と語る。

 けれどその言葉はとても重く、心の深くへと沈んでいった。

「そう……だね、そうかもしれない。ごめん……僕が無神経だった」

「別に構わないわ。それに私、今とても幸せだもの。この幸せを噛み締めていられればきっと、最期まで笑顔で過ごせると思う」

 そう言うと彼女は嬉しそうな表情を見せると起き上がり、車椅子に移ろうとする。

「それで秋史君。何かあったの?」

 戻された話題に、彼女を支えながら話すべきかどうか一瞬迷う。

 話すと言う事は、そのまま枳殻を傷付けた原因が上永にもあると、暗に責める事になるかもしれない。

 けれど結局悩んだのは一瞬で、すぐに話す事にした。

 隠す事で好転するようなものでもないだろうし、病院に一人でいる上永には罪悪感を与える事より、不安や孤独に苛まれる方が辛いだろうと思えた。

「昨日高校の後輩に告白されたんだ、僕と同じ学校に入学までして追いかけて来たのに……。

 その子には高校で一度告白された事があって。けどその時は告白って言うより後輩として普通に接して欲しい、て感じで。

 その時に言ったんだ。いつかもう一度告白するから、その時に答えを聞かせて欲しい……て」

「それで昨日がそのもう一度だった?」

 ゆっくりと頷く。

 気付けば上永はあの時と同じ、何も読み取れない大人びた表情で話をただ聞いていたが、

「それで秋史君の筆は、その子への罪悪感でまるで進まない、て訳ね」

 そう言うと再び微笑みを浮かべた。

 僕がまた頷くと、

「じゃあちょっと外を散歩しましょ。どうせ今日はもうお絵描き教室もお開きのようだし」

 上永はベッド脇の大振な傘を手に取るとにっこり笑って車椅子の持ち手にあるホルダーを指差した。どうやらそこに傘の柄を固定するらしい。

「そうだね」

 彼女の言う通り、これ以上は絵は進みそうもなかったので素直にその提案に乗る事にした。


 外は小雨で、案の定人はいなかった。

 入口まで車椅子を押して行き、傘の柄を固定する。その状態では押せないので自分も傘をさして移動は上永に任せ、斜め後ろをついて行く。

 少し歩き出した頃、上永が口を開いた。

「結局その子には、なんて言って断ったの?」

「ただごめん、彼女がいるから……て」

「『今の彼女が不治の病で放っておけなかったんだ』って言わなかったの?」

「そんな事、言える訳ない。

 僕は上永を選んだんだ。病気だったのは、結果に過ぎないよ」

「ありがとう」

 後ろからでは上永の顔を見る事は出来ない。けれど多分――。

「けど秋史君は少し、優し過ぎるかもね」

 この言葉もきっと、そのままの意味ではないのだろう。

「でもいいの、秋史君はそのままで。変わってしまったら……寂しいものね」

 そう言って振り向くと、いつもの笑顔を見せた。

 けど何だろう。彼女の笑顔は時々、幸せとか喜びとは別の方向を向いている気がする。

 それはやはり、自分はもう助からないと……諦めてしまっているからなんだろうか。

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