二〇二五年六月二九日(日)—上
都心部近くの駅から、徒歩で二十分程の所にある大学病院――それが上永の入院先だった。
入って行くと、エントランスからして立派で、まるでホテルの様だった。
高校の頃、家が割と裕福だとは聞いた事があったけれど、まさかこんな大きな病院に大した怪我でもないのに入院しているんだとすれば、上永家は想像より遥かに裕福なのかもしれない。
受付で病室を確認し、複雑に入り組んだ病院内を右往左往しながらやっと彼女の病室まで辿り着いた。
「5023号室、ここか……」
札の名前を確認すると、木製のスライドドア三回ノックしてから中へと入る。
ドアを開けると、十畳程もありそうな部屋にベッドが一つ。後は小さなテーブルに椅子が二脚。ベッドの脇には見覚えのある機械や点滴、車椅子等が並んでいた。
そしてそのベッドには、上半身を起こし、こちらを向いて座る上永がいた。
「いらっしゃい、早寧君」
少し以前より明るい声。けれどそれは間違いなく彼女のものだった。
「久しぶり」
「来てくれて嬉しいわ。さ、座って座って」
上永は歓待の言葉と共に椅子を勧める。
そこへ座りながら、改めて彼女を見ると、その印象が以前と随分変わっている事に気付く。
前髪も短くなり、眼鏡もしていない。元々目鼻立ちはしっかりしている方だったが、今はそれが一層引き立って見えた。
それにより、彼女は確かに随分綺麗になっていたけれど、そういった事とは別に――電話で話した時から気になっていた以前と違う雰囲気に、若干の戸惑いを覚えた。
それは今彼女が見せている、幼さすら感じさせるはばかる事ない笑顔も、その理由の一端だった。
「上永、少し雰囲気変わった?」
「そう? あ、前髪切ったし眼鏡も取ったものね。覚えていてくれたのね」
彼女はより一層嬉しそうな表情を見せる。
「早寧君だって前より少し筋肉ついたんじゃない?」
「授業で体力作りもさせられるからね。元々あんまり運動してなかったから、ついて行くのが大変だよ」
「そっか、早寧君はPCS系の専門学校だったよね?」
「そう。双葉重工のお膝元」
入院した原因は気になったけれど、彼女の元気そうな様子にあまり心配なさそうだな――と半ば安心し、その事はひとまず脇に置くことにした。
「すごいね、じゃあ卒業したら双葉重工社員だ」
そう言って彼女は大げさに拍手する。
「卒業出来ればね」
「やっぱり大変?」
「まあね。もう結構辞めちゃってる人もいるみたいだし」
「そうなんだ。
それで学校ではどんな事してるの?」
「色々だよ。実技だとどのコースも無重力訓練は必修だから、入学してすぐ飛行機に乗せられて疑似無重力体験をしたり。
後は各種作業のシミュレーションとか、閉鎖空間テストで何日も泊まり込んだりとか」
「大変そうだけど楽しそう。けど座学もあるんでしょ?」
「まあね。やっぱり工学系が多いかな。後はうちのコースだと、情報系の授業もだね。
最近だと実際に人工衛星に積んでるOSを弄ったり。後は普通に物理や数学とかかな」
そうして上永にせがまれるまま、二時間近くもそんな事を延々話していた。
最近になって少しは社交的になったとは思うけれど、それでもこんなに話したのは高校で枳殻と話して以来だ。
そんな時間も、看護師が昼食を運んで来たのを合図に一段落する。
「そういえばもうお昼なのね」
入って来た看護師を見て少し驚いた上永は、時計を見て続けた。
「今日はまだ時間、大丈夫?」
「うん、こっちは大丈夫だけど」
「ほんと? じゃあお昼食べて来て。その後は病院の周りを散歩しましょ。今時分は小紫が実をつけていて、とっても綺麗なの」
「分かった。じゃあまた後で」
そう言って、僕は一度病室を後にした。
終始子供の様な笑顔を浮かべていた彼女は、僕が部屋を出る時でさえ、その表情を変える事はなかった。
常に笑顔である事が不自然なのかとも一瞬思ったが、あれが作り笑いでない事は病室に入ってから今まで、疑う余地はなかった。
◇
病院の中には見舞客用なのか、様々なレストランが入っていたけれど、一人で入るのも気が進まず、結局敷地から出て近くを探す事にした。
店を探しながらも、頭の中は相変わらず上永の事で占められていた。
彼女は変わった――間違いなく。
外見もそうだが、何より中身がまるで別人の様だった。
高校時代の彼女は普段みんなと話していても、いざとなると我慢して、結局最後の最後で言いたい事を言い切れない。いじめられる程地味でもないが、目立つ事は決してない。見るからに運動が苦手そうな、根っからの文学少女。それが僕の持っていた彼女の印象だった。
しかし今の
そこでふと、枳殻の事を考える。
彼女とも上永同様三年の二学期が始まって以降、会ってはいなかった。
結局知り会った時に彼女が言っていた二度目の告白も、まだ受けてはいない。
今にして思えば、彼女に引っ張り回されるのも、あれはあれで楽しい思い出だったんだな——と改めて思う。
そこまで考えたところで、道路の向かい側にこじんまりとしたラーメン屋を見つけた。
そこで枳殻の事を考えるのを止め、店に入るべく近くの横断歩道を探し始めた。
早々に出てきたラーメンを啜りながら、上永に怪我らしい怪我が見当たらなかった事を思い出す。
確かに下は毛布で見えなかったし、隣には車椅子もあったから、足かどこかを怪我したのかもしれないし、あるいは胃潰瘍や肝炎等、少々の入院を必要とする類の疾病かもしれない。
けれど彼女のあの変わり様と、入院の理由を一切口に出そうとしない言動が、一度は安心した気持ちを再びざわつかせた。
昼食を済ませ、病室の前まで戻って来てみると、さっきは閉まっていた扉が開いていた。
どうやら部屋の窓も開いているようで、梅雨には似つかわしくない春の匂いを残した爽やかな風が、廊下へと吹き抜けてきた。
部屋に入ると、二つの出窓の内ベッド側の窓が開いていて、そこから風が入って来ていた。
肝心の上永はベッドではなく車椅子に座って、本を読んでいた。
その姿は入院着を着ていても尚、病室の真っ白な壁に映え、吹いた風に髪を抑える仕草は、さっきまでの子供の様な雰囲気とは対照的だった。
髪を抑えた拍子に視線が本から離れ、彼女がこちらの存在に気付く。
「あ、早寧君。戻ってたなら声掛けてくれればいいのに。人の事黙って観察するなんて、趣味が悪いよ」
そう言って、わざとらしく頬を膨らませる。
その仕草でまた雰囲気が一変し、午前中の子供っぽさが顔を出す。
「ごめん。ドア開いてたから、ノックしようか迷って」
「まあいいわ。さ、お散歩に行きましょ」
読んでいた本をベッドの上に置くと、彼女はまた嬉しそうに笑い、促されるままに僕は車椅子を建物の外へと押して行く。
病院内の敷地は思っていたより更に広く、都心部付近だというのに緑も豊かだった。
彼女に言われるまま病院内を散歩しながら、花の名前を聞いたり、高校の頃の思い出話をしたりした。
正直、話しながらもずっと入院の理由を聞くべきか迷っていた。
今や毛布も掛けていない彼女の足にはギブスや包帯等の類は見受けられなかったし、そもそも彼女は度々立ち上がっては普通に歩いてみせたりもした。
そんな姿を見る度に、胃の中に冷たい不安感が流れ込んでくる。
けれど僕とは対照的に、彼女は終始嬉しそうな笑顔で僕との話に楽しんでいる様だった。
暫く歩いていると少し奥まった場所に入り、人気が無くなった事に気付いた僕は、思い切って彼女に尋ねた。
「上永……。そろそろ教えて貰えないかな。どうして入院なんてしてるんだ? 怪我かと思ってたけど、そうじゃないみたいだし」
すると彼女はさっきまでの笑顔をふっと消し、本を読んでいた時のように大人びた雰囲気へと変わる。
しかしその表情は人形か彫刻の様に無機質で、更に不安を掻き立てた。
顔を正面に向け、お互いの顔が見えない状態でしばらく時間が過ぎた。
「慢性骨髄性白血病」
不意に彼女が口にした病名は、前半部分は良く知らないが、後半部分は聞き覚えのあるものだった。
「中学三年の時にね、一度発症して薬で治療したの。けど治ったと思ってたんだけど去年の夏休みに再発しちゃって。
普通はその薬で殆ど治るらしいんだけど、私の場合は薬に耐性のある特殊な事例なんですって」
それだけ言うと言葉を切って口を噤んだ。まるで僕の反応を待っているかの様に。
「再発って……。他の薬は?」
「試したわ。ここに入院してから色々ね。
けど化学療法での
「じゃあ、それ以外に治療法はないの?」
「後は造血幹細胞の移植ね。けど両親とは型が合わなかったし、骨髄バンクにも今のところ適合者はなし」
「そうしたら……他に出来る事は?」
「後はもう、薬で
上永の口調は淡々として静かだった。けれど他人事の様に喋る彼女は見えなくなった表情同様、何一つ感情というものを感じさせなかった。
聞いた事に簡潔に答えるだけの彼女との会話は、まるで機械音声の解説を聞いている様だった。相手がこうも無感情だと、その想いも
「適合者っていうのは、どの位の割合で現れるものなの?」
「私の場合は日本人には珍しい型らしくて、大体一万分の一から三万分の一位だって」
「それはその……どれ位見込みのあるものなの?」
「先生はもちろんあり得ないとは言わなかったけど、実際は奇跡でも起こらない限り三十年待っても表れない確率ね。そして付け加えるなら、奇跡が起きるにしても、恐らく私の体はそこまでもたないわ」
それはつまり、事実上の死の宣告という事だ。
だと言うのに、彼女は相変わらず淡々と説明を続ける。
押し殺している訳でもない。ただ台本を音読している様な抑揚のない口調は、話す内容と相まって余計に現実感を削り取る。
「じゃあ何故僕を呼んだの?」
すると彼女は首を振って、
「だから呼んだの。薬を試して、ドナーを探して。どれも絶望的だっていう結果が出たからこそ、あなたに来て貰ったの」
そこで初めて彼女の声に、感情らしい感情が浮かぶ。
悲しそうでも、嬉しそうでもない。まるで何かを決心する様な、そんな感情が台本の台詞に色を添える。
「それはつまり、僕に何かして欲しいって事?」
「ええ、そうよ。今日は早寧君に聞いて欲しい事があって、来て貰ったの」
即答だった。それが目的だと。
そこまで話すと彼女は振り返り、無表情だった顔に薄い笑顔を浮かべた。
「少し冷えてきちゃった。ブランケットも置いて来ちゃったし、そろそろ部屋に戻りましょ」
そう言って前を向くと僕を促した。
時刻は三時を少し回った頃。空からは芝生で昼寝をしたくなる様な暖かな日差しが降り注いでいた。
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