3章

仮想世界

 少年は目覚める。ほんの数秒、意識を失った感覚を味わったのみで、すぐに覚醒する。が、目を開き、視界に飛び込んできた風景は先ほどまでのものとは一変している。

 まず、少年は横になっている。横たわる肉体は、温かで心地よいなにかに包まれている。手を伸ばし、己の上にかぶさるものを掴み、すぐにその正体に気づく。布団だ。なんの変哲もない布団をかぶり、自分は今、ベッドの上で眠っている。

 ゆっくりと体を起こす。藍色のカーテンの向こうからは朝日がこぼれている。朝日? 現在の時刻は十七時ごろのはずだ。すでに陽は沈みかけていた。体を起こし、カーテンを開ける。窓の向こうでは、確かに、朝日に照らされた世界が広がっている。民家が建ち並んでいる。見下ろすと、ゴミ出しをする老婦人の姿が視界に入る。狭い公道を白い軽が徐行している。その脇をスーツ姿の男性が歩行している。遠くから電車の走行音が響いてくる。ごくごくありふれた、日本の、地方都市の街並みだ。

 続いて、部屋の中を見渡す。ベッドの横の本棚には少年漫画が並び、勉強机には高校生の教科書が立てかけられている。壁には、制服のブレザーがかけられている。少年はそれに手を伸ばす。着慣れた制服とはデザインの違う、見たことのない制服を。少年の通う高校の制服は学ランだ。僕はこれを着るのだろうか。ネクタイが絞められるか不安だ、と能天気な心配をする。

 制服だけではない。今いる部屋も、居心地のいい自室とは似ても似つかない、見知らぬ場所だ。己の体を見下ろす。身に着けているパジャマですら、持っている記憶のないものだ。少年は眉をひそめる。さっきまで、歩き慣れた通学路で獣と話していたはずなのに、どうして僕は、知らない場所にいるのだろうか?

 尤も、なんの前触れも心当たりもないわけではない。たぶん、獣の言っていた命懸けのなんとかってやつが始まったのだ。僕は、すでに、試され始めている。だったら、まずは現状を理解しないと。

 扉を開き、部屋の外に出る。一般的な民家にふさわしい、取り立てて特徴のない白い壁と廊下が目の前に広がる。突き当たりまで進み、狭い階段を降りる。降りた先で、廊下の向かいの扉を開くと、エプロンをまとった見知らぬ中年女性と遭遇する。女性が、あら、と漏らし、「言われなくても起きるなんて珍しいじゃないの」と、少年に言う。少年は些か動揺し、ああ、はい、とごまかすように答える。戸惑う少年に女性は不思議そうな表情を浮かべ、「顔洗って、着替えてらっしゃい」と告げる。少年は曖昧に頷き、リビングらしきその部屋を後にする。それから、自力で洗面所を見つけ、鏡を見る。そこに映るのが見慣れた自分の顔であることに安堵する。現在までに得た情報から、少年は考える。たぶん、僕は、パラレルワールド的ななにかに、迷い込んでしまったようだ。僕は僕の知らない誰かの家族で、僕の知らない日常を生きていることになっている。ありえたかもしれない、別の現実を生きている僕がここにいる。自分の中で仮説を組み立て、それを分析し、少年の背筋に、ゾクリと冷たいものが走る。獣の姿を見ても狼狽えなかった少年が、小さく怯える。まるでB級のホラー映画のようだ、と思う。

 が、すぐにその怯えを振り払う。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。どうやらおかしな世界に迷い込んでしまったようだけれど、この肉体が、そして精神が自分のものであるということ、それだけは僕が僕自身に向けて確信を持って断言できる。僕は僕だと言える限り、怯えるものなんてなにもない。それに、僕は、少女たちを救わなければならない。そうだ、少女だ。もしかしたらこの世界において、僕自身のことなんて些事なのかもしれない。まずは、前に進もう。たぶん僕は、少女たちに会わなければならないのだろう。そう考え少年は、顔を洗い、制服を着替え、朝食をたいらげる。腹が減ってはなんとやら、と己に言い聞かせる。見知らぬ中年女性に、行ってきます、と告げ、自分のものらしい革靴の紐を結び、家を出る。

 玄関を出てから、自分がどこに向かえばいいのかわからないことに少年は気づく。学校だろうということは予想がつく。制服に着替えて家を出たことにあの女性が、母親がなにも言わなかったのだから。と、目の前を同じ制服の男子生徒が通過した。少し距離を空け、彼の後を追う。三分ほど歩くと、国道沿いの広い歩道に辿り着いた。大勢の、同じ制服をまとった若者たちと合流する。おそらく彼らは電車登校の生徒たちなのだろうと、少年は推測する。何食わぬ顔でその波に紛れ、歩を進める。と、数秒後、ポンと肩を叩かれた。振り返ると、軽薄な笑みを浮かべた長髪の男子生徒と目が合う。彼が、うーっす、と、少年に向かって片手を上げて言う。少年はそれに、うーっすと同じイントネーションで返す。どうやら、彼が僕の友人らしい、と理解する。僕はこの世界で、家族を持ち、学校に通い、友人もいる。この世界に適応した、知らない自分が、ここにいる。けれど僕は。この僕は、この世界に適応していない。目の前の彼の名前も知らない。

「ねえ、ワタナベ」

 少年は適当に思いついた名前で彼を呼ぶ。なんだ、と、当然のように返事がある。少年は眉をひそめる。彼の名前は、どうやらワタナベで正しいらしい。適当に言ったらたまたま当たっただけか、あるいは、僕がワタナベと言ったから彼はワタナベになったのか。言葉に詰まる少年に、『ワタナベ』が「どうかしたか?」と、訝しげに問うてくる。少年はなんでもないと答え、「昨日発売したジャンプ読んだ?」とはぐらかす。『ワタナベ』は表情を緩め、ワンピースが休載でショックだったなどと語り出す。僕がここで口に出したから、ジャンプが昨日発売したことになったのかもしれないと、そんな可能性が少年の頭に浮かぶ。もちろん、そんなものは仮定に仮定を重ねた話でしかない。検証の必要がある。僕はこの世界のことをなにも知らないのだから。

 ふと、少年は気づく。僕はこの世界のことをなにも知らない。同時に、この世界の僕のことを知らない。そもそも、それが僕と呼べる存在なのかもわからない。

「なあ、カムパネルラ」

 少年の思考を読んだかのように、『ワタナベ』がそう呼びかけてきた。少年は『ワタナベ』に視線を向け、束の間、逡巡する。逡巡の末、「それが、僕の名前?」と問う。『ワタナベ』はしばし、間の抜けた表情を浮かべる。そして、笑い出す。「カムパネルラ、お前、急になに言ってるんだよ」と、ゲラゲラ笑う。なるほど、と少年は理解する。『ワタナベ』の名前が決定されていなかったかもしれない世界で、僕の名前は定められていた。僕は、この世界でカムパネルラだ、と心得る。

「お前、ホントにどうしたんだよ」と尚も問うてくる『ワタナベ』を適当にはぐらかし、二人は歩く。生徒の群れは進む。進み、十分ほどで校門に辿り着く。少年はさりげなく観察し、校門の脇の、本来なら高校の名が刻まれているべき場所が空白になっていることを確認する。ここが現実に存在するどこかであるのか、あるいは架空の地なのか。あえて伏せられているということは、おそらく後者なのだろう。

 校舎を見上げる。白い壁と窓が並ぶだけの、ありふれた公立高校の外観だ。中に脚を踏み入れても、古びた木の匂いや廊下の半端な薄暗さは、少年の通う高校のそれとたいして差はない。少年は『ワタナベ』の右隣の靴箱から上履きを取り出す。『ワタナベ』がなにも言ってこないということは、おそらくこれが自分のものということで正しいのだろう。あるいは、この世界において、そんなことはどうでもいいのかもしれない。

 この後は、普通に授業を受け、普通の高校生としての日常を過ごせばいいのだろうか。あるいは魔法少女たちの姿をすぐにでも探すべきか。行動を決めなければ、なにも始まらない。獣はなにも言っていなかったけれど、タイムリミットがあるかもしれない。階段を上がり、『ワタナベ』の雑談に相槌を打ちながら考える。考え続ける

 が、思考は中断される。階上から響いてくる、空気を切り裂くかというほどの、無数の叫びによって。

「どうしたのかな?」

 少年が問うと、『ワタナベ』が「わからん。というか、ウチのクラスの方からじゃねえか?」と答え、走り出す。少年も彼に続いて走る。三階まで上がると、廊下のちょうど真ん中辺りの教室前に、無数の生徒たちが集まっているのが視界に入った。彼ら彼女らは固まり、一様に教室の中へ視線を向けている。近づくにつれ、生徒たちの顔色が確認できるようになる。誰もが、絶望と怯えに染まった表情を浮かべていた。

 生徒の群れに紛れ、少年と『ワタナベ』が中を覗き込む。その中心には、一人の少女が立っていた。教室の中にいるのは彼女だけだった。腰の辺りまで伸びた長い黒髪が特徴的な、小柄な少女だ。少女はじっと、無表情で生徒たちを見つめている。双眸は細く、顔のパーツのすべてが小さい。地味な顔立ちの少女だ。少年には、彼女のなにが恐ろしいのかわからない。が、隣の『ワタナベ』は生徒たちと同様に、驚愕に染まった表情を浮かべる。

「彼女は、誰?」

 少年が『ワタナベ』に問うと、「お前、なに言ってるんだよ」と震える声が返ってくる。

「クラスメイトだろ――昨日、トラックに轢かれて、死んだはずの」

『ワタナベ』の声が静まり返った周囲に響き、同時に、少女がニヤリと笑った。無数の、耳に痛いほどの悲鳴が響く。恐怖のあまりか、何人かの生徒が周囲の人間を突き飛ばしながら逃げ出す。少年の胸も強く押され、衝撃によろめく。と、少女がおもむろに、声をあげて笑い始めた。最初はフフッと、吐息混じりに。徐々にそれは大きくなり、最後には大口を開けて、ゲラゲラと、楽しそうに。

「――なぜボクが蘇ったのか、教えてやろう」

 そして、唐突に笑みを引っ込め、少女は言った。大多数の生徒は未だ廊下にたむろし、少女に視線を向けている。少女は聴衆を見渡し、大きく両腕を横に広げると、

「君たちも知っての通り、ボクは死んだ。無様に轢かれ、肉体が潰れ、鮮血を、腸を路上に撒き散らし、完膚なきまでに死んだ。ボクの死んだ証は、ひしゃげたトラックや路上の至るところに、未だ赤黒い色で残っているだろう。にもかかわらず、ボクはここにいる。ボクは、ボクの肉体と共にここに在る。潰れたはずの肉体と共に、だ。なぜか。魔法少女がいるからだ。魔法少女がボクの、そして君たちの手の届く範囲にいるからだ。具体的に述べるなら、この学校のどこかに、魔法少女がいる。魔法少女の放つ瘴気が、ボクを蘇らせたのだ。どうしてかボクはそれを知っている。死んだはずの、呼吸をしているはずのないボクが、だ。これは呪いという他ない。だってそうだろう? ボクは事故で死んだはずなのだから。永遠に眠るべき魂が、こうして君たちに語りかけている。なんとも恐ろしいことだ。起こりえないことは、例外なく恐ろしいんだ。それがたとえ、どれほど厚く『希望』という皮をかぶっていたとしても、ね。現に君たちはこうして、ボクを恐れている。いいや。ボクを蘇らせたものを恐れている。つまり、魔法少女を、だ。君たちよ。ボクを恐れる君たち。ボクは君たちに語りかける。ボクに怯えるなら、ボクが永久に眠ることを望むのなら、魔法少女を殺せ。魔法少女の命が在る限り、ボクは何度でも蘇る。ボク自身の意思で復活を止めることはできない。すべては、魔法少女の呪いによるものなのだから。忌まわしい魔法少女を殺すんだ。殺せ。殺せ。殺せ。魔法少女を見つけ出し、殺せ!」

 小柄な姿に似合わない、よく響く太く透き通った声で、少女は叫ぶ。叫び、笑う。大口を開けて笑う。いつの間にか、遠巻きに少女を囲む生徒の数は膨れ上がっている。誰もが、呼吸すら忘れ少女を見つめている。あるいは、見惚れている。と、集団の中から「うるさいッ!」と、ヒステリックな嬌声が響く。

 生徒たちが一斉に声の主に顔を向ける。黒縁の眼鏡をかけた三つ編みの女子生徒が、生徒たちを掻き分け少女に近づく。彼女の手には、サバイバルナイフが握られている。

「ワケのわかんないこと言ってないで、アンタが、バケモノのアンタが死ねええええッ!」

 そして少女に向かって駆け出し、ずぶりと、その小柄な肉体の、胸を突き刺した。

 肉体から血が噴き出し、表情をピクリとも変えないまま、少女はばたりと倒れる。女子生徒が返り血で染まる。束の間の沈黙があり、直後、周囲は阿鼻叫喚に包まれる。逃げ出す者がいる。嘔吐する者がいる。辺りは地獄絵図に包まれた。刺した少女までもが、逃げ出す。

 逃げることなくその光景を、少女の亡骸を見つめる者は、合わせて五人。一人は少年。二人目は、赤みがかったショートカットの見知らぬ美少女。そして、神堵イノリと、幽ミコトと、鬼鯉サクラ。

 イノリは唇を噛んだ悔しげな表情で。ミコトは恐怖に歪んだ表情で。サクラはどこかぼんやりした表情で、それぞれ遺体を見つめている。

 少年と、ショートカットの少女の視線が合う。彼女は微笑すると、少年の脇を通って、ゆっくりとした歩みで教室を去る。彼女は果たして、誰だろうか。きっと、無関係な人間ではない。けれど優先すべき相手は、真っ先に話すべきは彼女じゃない。目の前にいる三人だ。少年は「君たち」と呼びかける。落ち着きを失っているらしいミコト以外の二人が、少年に顔を向ける。

「初めまして。突然だけど、僕は君たちが魔法少女だと知っているよ」

 しばしの逡巡の末、ごまかしても仕方ないと単刀直入に告げた。サクラが「へえ」と、場違いにも、どこか楽しそうな声色で漏らす。イノリは対照的に、敵意を露わにした視線で少年を睨む。警戒するように後ずさりする。

「……あなたは誰。そして、この世界は、なに」

「僕はただの通りすがりで、この世界ではカムパネルラと呼ばれている。この世界がなんなのかっていう問いには、申し訳ないけど、僕もわからないとしか答えられない。ただ、どうしてこんな世界に僕たちがいるのかは知っている」

 イノリの問いに、少年は言葉を選びながら答える。イノリの表情がさらに険しくなる。

「はぐらかさないでくれるかしら? きちんと説明してちょうだい」

「これでも、できるだけ親切に説明したつもりなんだよ。願わくば、僕としても君たちに時間をもらって、一から順に説明したいと思っている」

「からかっているのかしら? 今すぐに誠意を見せてくれないのなら、あなたの体を吹き飛ばす。魔法を使えば、あなた一人くらい簡単に殺せるのだから」

 殺気を露わにするイノリの態度に、少年の背筋を冷たいものが這う。どうしようかと言葉を選んでいると、穏やかな笑みを浮かべたサクラが「まあまあ」と仲裁に入る。

「落ち着いてって、イノリちゃん。あたしたちが困惑してるのと同じで、きっと彼にも事情があるんだよ。だから、まずは話を聞いてあげようよ」

 親しげにイノリの肩を叩くサクラを見て、彼女たちのあいだには繋がりがあるのだと少年は今さらながら気づく。彼女たちは、共に魔法獣と闘ったいわば戦友なのだから。

 イノリは不満そうにサクラを見つめるが、「それもそうね」と、渋々ながら納得した様子で溜め息をつく。それからミコトの肩を叩き「幽さんも落ち着いて」と、声をかける。イノリの言葉にミコトはビクリと肩を震わせ、イノリを見、サクラを見、そして怯える目で少年を見る。ミコトの瞳を見つめた少年は、危うい、と、そんな感想を抱く。

 と、階段の奥から無数の足音が響いてくるのに気づいた。四人はほぼ同時に顔を向ける。突き当たりの階段から白衣を着た数人の成人男性が現れ、四人の脇を素通りし、教室の中に入っていく。亡骸を担架に乗せると、慣れた様子でそれを運び、あっという間に去っていた。直後、予鈴が鳴る。どこかへと消えていた生徒たちが一人、また一人と戻ってきて、席に着く。数分後、四十前後と思しきスーツ姿の男性が現れ、教壇に上がり、朝礼を始めると告げる。少年たちは戸惑いながら、空いている席へ腰かける。そして、ホームルームがあり、授業がある。一人の生徒が死んだ教室で、当たり前のように授業が行われる。そういえば、と少年は気づく。昨日だってあの少女が亡くなる事故があったはずなのに、誰もがなんの疑問もなく登校して、授業を受けようとしていた。少なくとも、『ワタナベ』は通学路でそんな様子を露ほども見せなかったし、周囲を歩く生徒からも暗い雰囲気を微かにさえ感じなかった。この世界で常識は通じないらしいと、少年は意識を引き締める。

 授業内容には一切耳を傾けないまま、放課後を迎える。現実のものとは違う機種の、少年のスマートフォンには魔法少女たちの連絡先も記録されていた。他者の耳を警戒した方がいいのだろう、と少年は考える。なぜなら、彼女たちが魔法少女であることを知られるべきではなさそうだから。逡巡の末、徒歩で十数分の場所にある喫茶店の地図を添付し、そこに集合してほしい、と三人にメッセージを送る。少年は足早に教室を去り、帰宅する生徒の群れを追い越し、件の喫茶店に脚を踏み入れる。店内はほどよく混んでいる。家具は木目調のもので統一され、カウンター席の向こうでは白髪の好々爺然とした風貌の男性がカップを拭いている。おそらくは、個人経営の店だろう。あまりにテンプレート的な雰囲気だな、と少年は思う。店員に席を案内され、窓側のテーブルに腰かける。ブレンドを注文し、注文してから、お金はあるのだろうかと不安になる。カバンの中から財布を見つけ出し、少女たちにご馳走できる程度はあるとわかり安堵する。残る問題は、彼女たちが来てくれるか否かだ。数分待ち、コーヒーが運ばれてきたころに、果たして彼女たちはやってくる。イノリは苛立ちを露わにした、ミコトは呆然とした、サクラはどこか楽しそうな表情を浮かべている。今朝、初めて彼女たちを目にしたときと同じ表情だな、と少年は思う。サクラが少年に気づき、「遅れてゴメンね」と手を合わせながら少年の隣に腰かける。続いて正面にイノリが、斜め向かいにミコトが座る。店員が注文を取りに来て、三人がそれぞれ答える。しばしの沈黙があり、数分後、注文の品が運ばれてくる。

「……じゃあ、説明してちょうだい。あなたは誰なのか。どうして私たちを知っているのか。そして、ここはどこなのか」

 底冷えする声で、イノリが少年に問うた。少年はコーヒーに口をつけ、唇を湿らせてから、語り始める。己の知っていることを、すべて。

 前触れもなく現れた獣から、魔法少女の存在を語られたこと。少女たちの半生を追体験したこと。少女たちを救えという獣の言葉に同意したこと。それ以上の説明はなく、この世界に迷い込んでしまったこと……。ただし、『組織』のことは伏せた。少女たちが道具扱いされている事実と、このままでは確実に死に至ることは語らなかった。少女たちが他者の手によって救われなければならない理由を、少年は濁して説明した。

「つまり、僕もこの世界でなにをするべきか、全くわかってないんだ。いきなり知らない世界に迷い込んで、しかも登校してみたらワケのわからない騒動が起きた。ところで、君たちも僕と同じ境遇ってことで大丈夫? つまり、自分じゃない自分の生きる世界に紛れ込んでしまったのかって意味だけど」

 少年の問いに、三人はそろって頷く。イノリとミコトは顔を伏せ、机上の一点を見つめ、何事かを思案している。

 ただ一人、少年の目を見て話を聞いていたサクラが、微笑しながら口を開く。「なるほどね。まあ、そんなに悩むこともないでしょ。だって、あたしたちを助けてくれるって人が……まあ正しくは人じゃないけど、あたしたちをこの世界に連れてきたってことでしょ? だったら問題なんてあるワケないじゃん。あたしたちは、救われるためにここにいるってことなんだから。そもそも、おかしな事態に巻き込まれるなんて、魔法少女になってから日常茶飯事だし。それに、やることの方向性も見えてるでしょ? 今朝の、生き返ったっていうあのコ。あのコがなにも関係ないなんてことはありえないんだから、話してみればいいじゃん。どうせ明日の朝にはまた生き返って、登校してるんでしょ? あ、でもあたしたちが魔法少女だってバレたらまずいのか。なんか殺せとか言ってたし。じゃあ、あれかな? 逆に逃げなきゃいけないとか、そういうことか。うーん、難しい。カムパネルラくんはどう思う?」

「彼女がキーパーソンってことは間違いないだろうね。とりあえず、僕が彼女と接触してみるよ。僕は魔法少女じゃないから、彼女が殺せと言ってる対象でもないし。もしかしたら、僕がここにいる理由っていうのもその辺りにあるのかも」

「お、頼もしいね、カムパネルラくん。危険かもしれないけど、お願いしちゃっていいの?」

「もちろん。僕はそのためにこの世界にいるんだから」

「カッコいいね。あ、でもホントにヤバそうなときは言ってよ? 戦闘はあたしたちの本分なんだから、万が一のときは助けるからさ。じゃ、元の世界に戻れるように、これから手を取り合って、協力してこうね」

「うん、よろしく」

 サクラが少年に右手を差し出す。少年は彼女の手を握り、固く握手する。その後、イノリも話に加わり、三人で言葉を交わす。魔法少女たちは正体を見破られないよう行動を慎重にするべきだと少年が少女たちに告げ、二人がそれに首肯する。ミコトだけは、ただ、沈黙を貫いている。

 なにかあったら必ず連絡するようにと確認し合い、そして、解散する。

 四人はそれぞれ、見慣れない道を通り、見慣れない家へと向かう。


 歩きながら、イノリは思考する。あの少年は信用できないと、イノリは思う。

 彼はあまりに怪しすぎる。少年の話を信じるなら、彼は見知らぬ他人である自分たちを救うために、なんの見返りも求めず、この世界にやってきたということだ。しかも、魔法の存在すら知らなかったというのに、だ。そんな聖人がいるはずない。果たして彼はなにを企んでいるというのか。あるいは彼も騙されているのか。まだ、なにもわからない。わからない以上は、敵意を示すのは得策ではない。表面的には協力関係を結んだ方がいいだろう。そう結論を出し、後半は積極的に、少年とサクラの会話に口を挟んだ。

 少年が信用できない以上、私の知っている日常へ戻る方法を、私自身が考えなければ。例の、死から蘇った少女がキーパーソンであることは間違いない。少年とサクラが話した通り、明日登校すればあの女の子が教室にいるはずだ。彼女の件が、何事もなく終わるはずがない。彼女の方からなにかを仕掛けてくるのか、あるいは自分からアクションを起こすべきか……単独行動は危険だ。が、やるしかない。サクラもミコトも信用できない。サクラは少年に肩入れしているようだし、ミコトは論外だ。生と死の絡む出来事を目の当たりにしたミコトが、冷静でいられるわけがない。事実、この世界に来てからの彼女は明らかに様子がおかしい。ただでさえ精神の脆い人間だ。奇行に走るかもしれない。魔法を使える分、少年よりもミコトを警戒するべきだろう。

 ふと、周囲を歩く人間の誰もが自分を振り返らないことに気づき、苦笑する。誰も自分のを知らないということに、どこか安堵し、同時に虚しく思う。

 そうだ、虚しいのだ。私がいるべきは、こんな場所ではないのだ。華やかで、誰もが私を崇め、奉る、光り輝く舞台の上に、一刻も早く戻らねばならない。


 サクラは思考する。思考しながら、溜め息をつく。諦念と、喪失感と、高揚感が複雑に絡み合った、曖昧で、しかし深々とした溜め息だ。

 不思議なことが起きたと思う。どうしてこんなことになったのかと、疑問に思う。答えを知りたいという気持ちも多少はある。けれど、サクラの心の大半を占めるのは――どうだっていいという、投げやりな感情だった。むしろ、いつまでもこの世界にいたい。

 ままならない現実を変えたくて、弟を救う力がほしくて、知らない老婆に請われるままに魔法少女となり、世界を救った。魔法、という甘美な響きに、自分が強くなれると誤解した。目の前の不条理や理不尽をまるごと消し去ることができるような気がして、無我夢中で魔法獣を殺した。弟の笑顔だけを想って――殺した。殺し尽くした。だけど。世界を救った先にあったのは、なにも変わっていない現実だった。弟は寂しげな笑みを浮かべ続けているだけだった

 だから死のうと思った。自分が死ねば、弟に肉体関係を求める狂った姉が消えれば、汚らわしい長女が、クラスメイトがいなくなれば、誰もが幸福になる。弟が幸福になる。自分が死ねば、罪の意識を感じた両親がきっと、弟をきちんと見つめるようになる。両親から真っ当な愛を注がれれば、弟がこれ以上、苦悩することはなくなる。

 あとは最後の一歩を踏み出すだけだった。どこかのビルの屋上から、飛び降りる決意を固めるだけだった。しかし、その前に、自分は見知らぬ世界に迷い込んだ。少なくとも、すぐに死ぬ必要はなくなった。

 要は、自分があの日常の中にいなければいいだけの話なのだ。だから、目的はもう果たした。自分がこの世界で幸福になろうが不幸になろうが、死のうが、あとはどうだっていい。

 ただ、どちらかといえば生きて、幸福になりたいと思う気持ちの方が強い。さすがに、意味もなく死にたいとは思わない。生きて、幸福になって、弟のことをいつか、忘れたい。すぐには無理だけど、彼のことを忘れたい。この気持ちを消し去りたい。

 あたしはあたしで、彼は彼で、幸せになればいい。それが、最良の方法だ。

 あの、カムパネルラという男の子を誘惑してみようかと、サクラは思い立つ。大人びた佇まいにサクラは好感を抱いた。少なくとも、友人としては仲良くできそうだ。もし仮に、きちんと、真っ当に、血の繋がらない男の子に恋をできるならそれが理想的だ。

 別の誰かに恋をすることが過去の恋を忘れる唯一無二の方法だと、一つの恋しか知らぬサクラは、そう確信していた。


 ミコトの精神は、理性的な思考に没入できるほど安定した状態になかった。ミコトの心は気味の悪いほどの希望に染まり、高揚していた。

 奇妙な世界に紛れ込んだことも、目の前に現れた見知らぬ少年のことも、どうでもよかった。ミコトにとって大切なのは、人が生き返る現実を目にしたこと、それだけだった。ここが。この世界こそが、魔法少女として世界を救ったわたしに与えられた、なにものにも代えがたい報酬だったのか! ミコトは、そう確信していた。死者が生き返る。どうしてそんな幸福なことに、あの人たちは怯えていたのだろう。意味がわからない。ミコトは他の三人と同様、確信している。あの女の子は、明日にはまた、なんでもない顔をして登校してくる。周りの人たちはまた怯えるかもしれない。けれど、いつか必ず、生が永遠に繰り返される事実がどれほど幸福なものかに気づいて、この奇跡を、いや、奇跡でもなんでもない日常を、受け入れる。死が終わりではないことを悟る。人々が永遠の命を手に入れたこの世界で、誰もがいつまでも、幸せに暮らす! ミコトは心の底からの安堵を感じ、幸福感に酔いしれていた。なにものにも怯える必要のないこれからの日々に、期待で胸を膨らませていた。

 と、そのとき。

「――ミコト」

 己の名を呼ぶ声が聞こえた。ミコトは驚き、声の方向へ顔を向ける。視線の先には、民家に挟まれた細道がある。ミコトは迷わず、その隙間に向けて駆け出す。なぜなら耳にした瞬間、それが知っている声だと気づいたから。求めてやまない声だと気づいたから。数メートル進んだ先に思い描いた姿を見つけ、ミコトは歓喜の声をあげる。

 そこにいたのは、犬に喰われたはずの目玉だった。ミコトの、たった一人の、かけがえのない親友。生き返るに違いないと、確信していた相手。

「ほら! やっぱり。やっぱりあなたは生きてたんだ! わたしの思った通りだ!」

 抱きしめんばかりの勢いで目玉に近づくミコトに、彼は彼女は彼らは彼女らは、クスリと笑う。「心配させてしまったようで、すまなかったな。生き返ってすぐ、お前のいる場所へ戻ろうとしたのだが、どうやらずいぶんと遠いところに来てしまったらしいとすぐに気づいた。だから、どうしようもなかったのだ。悪かった」

「謝ることなんてない。生きてくれてたなら、それでいい。あなたは――何度だって、生き返るんでしょう?」

「そんなこと、オレは知らない。ただ、一つだけ言えるのは、これが現実だってことだ」

「ねえ、また、わたしと一緒に暮らそう」

「お前が構わないというなら、そうさせてもらおう。話し相手がいなくて退屈していたのだ」

 ミコトと目玉は、連れ立って歩き出す。ミコトは歓喜のあまり、叫びたいと思った。女の子が生き返り、目玉が生き返った。生き物は、当然、生き返る。永遠の死などない。この世界こそ、ユートピアだ。わたしはこの世界で、永遠に、いつまでも、死を忘れて幸福に暮らそう。

 と、国道沿いの路地に戻った瞬間。目の前を歩いていたサラリーマンらしき男がミコトと目玉を視界に捉える。束の間の沈黙の後、耳をつんざくほどの悲鳴をあげながら、彼は駆け出した。無論、目玉の姿を恐れたゆえに、だ。彼がなにに怯えたのか、ミコトには束の間、本気で理解できなかった。答えに気づいたとき、クスリと、小さく笑った。まだ、彼は幸福を知らないだけなのだ。彼は哀れなだけだ。そう考えると、今まで理解できずにいた他者を愛おしくさえ思える。

 込み上げる幸福を噛み締めながら、ミコトは再び歩き出した。


 少年は思考する。自分が為すべきこと、イノリから信頼されていないらしいこと、ミコトの精神が不安定らしいこと、生き返った少女のこと……あらゆることを、思考する。そして思考の隙間に、己の名について思いを巡らす。つまり、この世界におけるカムパネルラという名について。

 その名から想起されるものといえば、『銀河鉄道の夜』を置いて他にあるまい。言うまでもなく、宮沢賢治の代表的な短篇だ。二人の少年が星空を駆ける鉄道に乗り込み、幻惑的な世界へと旅に出る。そういった物語だ。一人の少年の名はジョバンニ。そしてもう一人が、カムパネルラ。僕が彼の名を冠していることは、一体、なにを表しているのだろうか。

 それにしても不吉だ、と少年は思う。なぜなら作中で、カムパネルラは命を落とすから。僕もこの世界で命を落とすことの暗示だろうか。それは嫌だ。僕は死にたくないし、誰にも死んでほしくない。だから僕は抗う。運命や予感や世界に反抗し、闘う。そのためになにをするべきか、考える。

 思考の中で、少年はふと気づく。カムパネルラと呼ばれる僕がいるということは、ジョバンニもどこかにいるのだろうか。考えてみれば、魔法少女たちを救うための存在が僕だけとは限らないのだ。

 もしかして、今朝、教室の前で視線が合った短髪の少女。彼女こそがジョバンニなのではないだろうか。きっと、そうだ。少年は確信に似た予感を覚える。


 結論を述べるなら、少年の予感は見事なまでに的中している。ジョバンニと呼ばれる少女が。魔法少女を救うために導かれた少女が、この世界にはいる。

 四人が家路を辿っているころ、赤髪の彼女、ジョバンニは校舎の屋上にいる。屋上から、世界を見下ろしている。少女は、ジョバンニは、家々の窓を見つめる。漏れる微かな光に想いを馳せる。あの中のひとつひとつに、本当に生命は存在するのだろうかと、彼女は無言で世界へ、そして己へ、問いかける。

 真実はわからない。自らの中に生まれた疑問に答える声はない。けれど、仮説は彼女の心中でうごめいている。仮説の通りなら答えは、否、である。この世界に真の意味での生命など、ただひとつも存在しない。ジョバンニはそう仮定している。

 まずは、自分の憶測がどれほど正しいのか調べなければならない。否。調べたい。偽りの中に隠された現実を暴きたい。

 ジョバンニは――尤も、彼女にも無論、全く別の、現実の日常での名前があるのだけれど、ここではそう呼称する――幼いころから感情のない子だと言われてきた。喜怒哀楽を表に出すことが皆無だった。物心ついてからは、涙のひとしずくさえ見せたことがなかった。けれどそれはひた隠しにしているわけではなかった。実際に、彼女の心の動きはあまりに希薄だったのだ。ゆえに、クラスメイトはおろか実の両親からまでも、気味の悪い子、と、そう思われてきた。ジョバンニはその事実に気づきながらも、特に悲しいと思うことはなかった。それほどまでに他者や、自身に対してさえも無関心であった。

 そのジョバンニが、今、頬を緩め、ニヤリと笑っている。いつにないほど、己の感情が昂っていることを自覚する。面白い、と思う。唐突に人語を話す獣が目の前に現れたことを。魔法の実在を知ったことを。この境遇を。あらゆることが未知の、目の前に広がる世界を。

「そこでなにをしている」

 背後からの険しい声に、ジョバンニは思考を中断し振り返る。視線の先には、警備員らしき制服に身を包んだ成人の男がいる。ジョバンニが男を見つめていると、生徒は帰る時間だ、と咎める声が続く。それに対し、ジョバンニはニヤリと、見る者を底冷えさせる不吉な笑みを返す。

「――あなたにそれを答えることに、なんの意味もない」

 そして、ジョバンニは飛び降りる。迷いのない挙動で、柵を飛び越え、屋上から遥か真下の地上まで、墜ちていく。彼女の肉体とアスファルトの距離が瞬く間に縮まる。ジョバンニは冷静に真下を見つめる。地面が迫る。迫る。迫る。迫り、ジョバンニの全身はグチャリと潰れその命を散らす――

 ということはなく、気づいたら彼女はベッドの中にいる。体感時間における半日前に目覚めたのと同じ、見知らぬベッドだ。己の体を見下ろし、そのときと同じパジャマに身を包んでいることを確認する。それから、卓上時計に表示された日付を見る。昨日に確認した日にちから、きちんと一日が経過している。

 どうやら、私の仮説は十中八九正しいらしいと、ジョバンニは確信する。自らの考えが正しいことにジョバンニは満足する。とはいっても、まだわからないことの方が多いのも事実だ。それらを検証し、その上で、私の決断を選択する。

 そのために次に為すべきことは――接触だ。魔法少女でもなく、蘇った少女でもなく、少年に、だ。おそらく、あのとき目が合った少年はカムパネルラと、そう呼ばれている。彼は、私と同じだ。少年がジョバンニの存在を確信しているのと同時に、彼女もカムパネルラを意識していた。しかも、強く。とても強く。

 少年が、カムパネルラがなにを願いなにを為そうと決断を下すか。それをなにより知りたいと、ジョバンニは希っていた。


 同時刻。つまり、ジョバンニが目覚めたのと同じ瞬間に、少年もまた眠りから覚める。けれどジョバンニと違い、少年はきちんと半日分の時間を過ごし、今、この瞬間にいる。帰宅し、夕食を食べ、風呂に入り、自室でこの世界のことを思考し、眠りについた。そして、起床した。起床し、昨日と同じく顔を洗い、着替え、朝食を取り、歯を磨き、排泄し、家を出る。昨日と同じ道を歩く。昨日と同じく生徒たちの群れに紛れ、『ワタナベ』と遭遇する。昨日と同じく、『ワタナベ』は軽薄な笑みを浮かべている。そう、昨日と同じく。死んだはずのクラスメイトが蘇り、不可解な言葉を撒き散らし、刺殺される場面を目撃したにもかかわらず、だ。少年は『ワタナベ』の笑みを不気味だと感じる。同時に、周囲の生徒たち一人一人を恐ろしいと思う。まるで幽霊に囲まれているような気になり、薄ら寒い気持ちになる。けれどきっと、もっと不可解なことがこれからいくらでも起きるのだろう。だから少年は思考を切り替える。

「ねえ、タナカ」

 呼びかけてみると、「タナカって誰だよ」と『ワタナベ』が答える。彼に固有の名があるだけ良しとしよう、と少年は思う。他の誰でもない『ワタナベ』と、雑談に興じる。

 教室に入ると、クラスメイトが誰も言葉を交わさず黙って席に着いている、不気味な光景が広がっていた。少年はすぐにその理由を察する。中心の席に、二度目の蘇りを果たした少女が座っているからだ。昨日のようなパニック状態にないのは、誰もがこの事態を予想していたからだろう。急に周囲の生徒たちから人間味を感じ、少年は思わず、安堵に似た感情を覚える。

 少女の後ろには、彼女を刺殺した三つ編みの女子生徒が座っている。殺した者と殺された者が並んで座っている光景を、少年はシュールだと思う。と、背後から椅子を引く音が響く。少年が振り返るとほぼ同時、ポンと肩を叩かれる。場違いに笑みを浮かべたサクラが少年に向け「おはよう」と告げる。少年も「おはよう」と、微笑を浮かべそう答える。

「昨日と違う席に座っても誰もなにも言わないから、カムパネルラくんも好きなとこでいいと思うよ。てか、あたしの後ろがちょうど空いてるからさ、こっち来なよ」

 サクラの誘いに少年は首肯し、彼女に続いて廊下側の席に座る。それから周囲を観察し、窓側最後尾にイノリが、蘇った少女の隣にミコトがいるのを見つける。イノリは警戒するように教室全体を観察し、ミコトはにこにこと、隣の少女の横顔を見つめている。このときイノリは、ミコトと蘇りの少女を視界の中心に据え、互いにとってThe girl next doorは、つまり隣の少女はあまりに恐ろしい存在なのだろうと、そう推測している。

 けれどその実ミコトは、The girl next doorと友達になりたいと、そう願っている。なんと声をかけようかと思案している。

 そして少年は、自らを見つめる視線に気づき、警戒している。最前列の席から振り返り、こちらを無表情で観察してくる双眸。少年がジョバンニではないかと仮説を立て、事実、ジョバンニと呼ばれている少女だ。それぞれが沈黙を貫き、思考し――思考を遮断する予鈴が鳴る。昨日と同じ担任教師が現れ、日直の人は号令、と呑気な口調で言う。起立、と、微かに震える男子生徒の声が響く。機械的な挨拶が交わされ、機械的に連絡事項が告げられ、再び予鈴が鳴る。一時間目の担当らしい担任教師がそのままの流れで授業を始めようとする。教科書を開けと生徒たちへ告げる。はらりと、紙のめくる音が溢れる。カチャカチャと筆記用具を取り出す音が響く。そして――

「そんなことをしている場合じゃないでしょう、先生。ボクたちが語られ、聞かされ、語るべきはそんなことじゃない。言語も数も物理も歴史も社会秩序も、どうだっていい。今、なにより望まれる言葉は生と死についてだ。違うかい?」

 それらを遮断する声が、響く。声の主が視線を一身に集めながら、おもむろに立ち上がる。数多の視線の中心にいるのは、蘇りの少女だ。亡きはずの少女が、すべてを見下すようにニヤリと笑っている。

 わかったから座れ、と教師が半笑いで少女を窘める。そう、窘める。怯えるでも気味悪がるでも指導するでもなく、一人の教師が生徒として当たり前に向ける表情と態度を向ける。死者であるべき存在に対して、だ。生徒たちは誰一人として教師の言葉に反応を示さない。少年とイノリとサクラも、この世界ではそうだろうと、もはや受け流す。沈黙が貫かれる教室で響くのは、死にぞこないの哄笑のみ。

「座る? このボクが? ボクの役目が、口を噤み、この世界のことをなにひとつ知らずにいるあなたの言葉に耳を傾けることだと、そう仰るか? 笑止! 愚かしいよ、先生。だってあなたがこれから語る言葉はどれも、生にとっての手段でしかない。末節でしかない。そんなこと、聞くまでもなく断言できる。なぜなら生とはそれそのものが自己満足であるからだ。学問など、自己満足を補完するための数ある娯楽のうちのひとつでしかない。表面だけに視点を向け内側を見ようとしないのは、それがなんであれ愚かな行為だよ。ましてや、その対象が生ならば尚更だ。さて。これ以上の前置きはいらない。前置きなんていらないんだ。ボクが語りたいことは少ない。今しがた触れたとおり、生きるとは即ち自己満足であるということ。ゆえに死は救済であること。これだけだ。

 いいか、ボクの言葉に耳を傾けるすべての者よ。よく聞け。ボクが絡み取られているこの状況はなんともおぞましく醜悪なものだ。つまり繰り返される生は。生に縛り付けられることは実に恐ろしい! なぜ、ボクが強くそう主張するのか君たちにはわかるか? 何度でも言おう。生とは自己満足であるからだ。なぜ生命は誕生したのか。なぜ、感情があり意識があり自我のある、生命と呼称される存在がこの世界にはいるか。なぜ複雑に絡み合った生態系がこの世界に構築されているか。多くの学者たちが、哲学者たちがその理由をかつて語った。けれどそれらを検証するまでもなく、真実ははっきりしている。自己満足だ。すべての生命は、自己満足を満たすためだけに存在している。生命が発生したことだって、きっと神とかいう輩の自己満足に違いない。医療行為や食事、生殖活動、発明、慈善事業。あらゆる行為は結局のところ、そこに行き着くのだ。なぜなら、それらすべてが要は、長生きしたい、幸福になりたい、楽をしたい、という感情論に行き着くのだから。この世界に感情論ではない行為などないのだ。やらなければならないと人々が思い込んでいるものはすべて、くだらないことだ。争いを止めることも、革命を起こすことも、人の命を救うことも、すべては自己満足だ。なぜならそれらを為さなかったところで、人が死に、不幸になるだけなのだから。人が死ぬ。それのなにが悪い? 君たちはその理由を、理論で説明できるのか? 結局は感情の問題でしかないじゃないか。苦痛だと感じる心さえなければ、それらはなにも悪いことではないんだよ。とどのつまり、生きることそのものが自己満足であり、オナニーなんだ。すべての生はオナニーなのだ――けれど、ここでひとつ、疑問が生まれる。生が自己満足でありオナニーだというなら、なぜ死がある? 生そのものが幸福なら、それを終わりにする理由などないじゃないか。答えは簡単だ。死も、同様に、自己満足だからだ。この世界に存在するすべてが生の効用のために存在するというなら、死も例外ではあるまい。永遠に続く生が不幸であると、神は気づいていたのだよ。だから、死を創った。なぜならそれこそ、最高に贅沢な娯楽だからね。君たちよ、死は救済なのだ! 死は至高のオナニーだ! けれど、ボクからその死は奪われた。魔法少女の呪いによって。間違いなく、君たちも同じだ。刺されようが轢かれようが飛び降りようが燃やされようが溺れようが絞められようが服毒しようが、君たちは生き返る。君たちは永遠にこの生から逃れられない。魔法少女がいる限り。だから、殺せ。殺すのだ。魔法少女を見つけ出し、その肉体を業火で燃やし尽くせ!」

「――その主張はちょっと極端すぎないかな?」

 思わず立ち上がり、そう問いかけていた。無論、少年が、だ。いくら自分が魔法少女でないとはいえ、目立つ行動を取るのはできるだけ避けるべきだと考えていた。が、彼女に向く瞳の大半が恍惚としたおぞましい色に変化していることに、つまりは生徒たちが彼女の言葉に酔いしれていることに、少年は気づいてしまった。これを放置したら大変なことになると確信し、ゆえに少年は声をあげた。

「……ほう。君がどうしてそんなことを言うのか、理由を訊いてもいいかな? カムパネルラくん」

 亡きはずの少女が、出来の悪い教え子を諭すかのような口調で少年に問う。この世界の名で呼びかけられた少年は、それに答える。

「君の言っていることはわからなくない。部分的に同意できるところがあるのも認めるよ。だけど僕の耳には、君の主張は結論ありきのものに聞こえる。それとね、君は死が救済だって、そう言ったけど、僕の考えは違う。死は、休息だ」

「ニアリーイコールじゃないか。休息という言葉を使うということは、カムパネルラくんも生の持つ負の側面を深刻に捉えているんだろう?」

「そうかもしれない。けれどそれでも、君と僕は死の捉え方があまりに違う。君は死を、生とは対極に位置するものだって考えてるでしょう? 僕はそうじゃなくて、死は生の一部だって言いたいんだ。君の考え方は個人的過ぎると僕は思う。君の主張は、死という概念が己の内側にしか向いてないんだ。死が自己満足だって主張は、それ以前の君の考えすべてが肯定されないと成立しない。だけど、そんなことは無理だよ。だって、君の主張は結局、心という概念にすべてが委ねられているから。心は、あまりに不確かで曖昧なものだから。それとね、君は誰かの死がその周囲へ与える影響に言及していない。死は個人的なものじゃない。これからも生き続ける生者にとって、他者の死は、受け入れるべき生の一部だ」

「心は不確かで曖昧、か……なるほどね。だけど、カムパネルラくん。ひとつだけ断言できることがあるよ。人の心は、いつだって孤独だ。ゆえに死は、常に個人的なものだ。なぜなら、フィクション上の死をお涙頂戴の娯楽としてしか享受できないように、あるいはテレビや新聞で見聞きした他人の死を対岸の火事としか思えないように、人間には本当の意味での共感が不可能なんだ。どれだけ綺麗事を並べたところで、人は他者の死にかすり傷程度の痛みさえ感じることができないんだよ」

 彼女の主張に耳を傾け――少年は思わず相好を崩した。少年の表情に少女は眉をひそめる。「なにがおかしいんだい?」と、非難する口調で少年に問う。

「いや。なんだか話がずいぶん飛躍したなって思ったら、つい……ゴメンね。これだけ議論しておいてからこんなこと言うのはフェアじゃないと思うんだけど、ぶっちゃけ、君の死生観なんてどうでもいいんだ。僕は死に対する君の考え方に興味はないし、君自身だって、本当はそんなこと、どうだっていいと思ってるんでしょう?」

「……なにが言いたいのかな」

「率直に言っていいの? じゃあお言葉に甘えると、君は、魔法少女を殺すことしか頭にないんだ」

 少年の言葉に、少女が強く彼を睨む。少年は微笑を携えた表情で見つめ返す。二人は決して視線をそらさない。二人が口を噤むと、風の音も鳥の鳴き声も周囲の教室から漏れてくる声も一切聞こえることのない空間はしんと、静寂に包まれる。

 が、それも刹那のことで、静寂はクスクスと笑う小さな声によって途切れる。生徒たちの視線が一斉に声の主へ向く。つまり、ジョバンニへ。

「――カムパネルラくん。君は本当に面白い。私が期待していたよりも、ずっと」

 ここで初めて、カムパネルラとジョバンニが言語によって接触する。互いの存在をはっきりと認識し合う。「どういう意味かな、ジョバンニさん」と、少年は呼びかける。ジョバンニがそれにクスリと笑い「それはね、カムパネルラくん」と答える。彼女は、自身がジョバンニであることを否定しない。彼女がジョバンニと呼称される存在であるとした己の仮説を、少年は、ようやく真であると認めるに至る。

「カムパネルラくん――そして、あなた。死んでいるべき存在の、あなた。ところで、あなたの名前はなに? 呼びかけるべき名を知らず、あなたのことをあなたとしか呼称できないのはとても失礼なこと。だから、あなたの名を教えてほしい」

「ボクの名か……別に好きに呼んでくれればいいのだけれど、そうだね。〈猿の手〉とでも、自称しておこうかな」

 亡きはずの少女――改め〈猿の手〉が、教室中に向けてそう告げる。少年は〈猿の手〉という言葉をどこかで耳にしたことがあるはずだと記憶を漁り、思い出す。イギリスの怪奇小説だ。ある老夫婦が、持ち主の願いを叶える力を秘めるという猿の手のミイラを知人から貰い受ける。ただし願いを叶えるのには代償が必要であり、老夫婦は息子を事故で亡くしてしまう。悲しみに暮れる妻は猿の手に息子を生き返らせるよう願い、果たしてそれは叶い、老夫婦の自宅の扉がノックされる――が、怯えた夫が猿の手に、息子を墓へ戻すように願う。斯くして息子は死に、老夫婦の生活に日常が戻る、といった概要の話だったはずだ。なるほど、死は救済だと語る彼女とどこか通じるものがある。ジョバンニが「それでは、〈猿の手〉さん」と、定められた彼女の名を呼ぶ。

「そして、カムパネルラくん。君たちがなにを話したところで、どれほど高尚な言葉を投げ合ったところで、それは無駄。無意味。なぜなら、建設的な議論を交わしたフリをしたところで、それは結局、感情論でしかないから。そこには論理の欠片もなく、正しいも誤りもないから――あなたの主張に沿うなら、そういうことでしょう? 〈猿の手〉さん」

「その通りと言えるかもしれない。ただ、正誤の有無にまで言及するのは少々、ボクの意見を拡大解釈しすぎではないかな? それに、ジョバンニさん。君の意見を採用すると、君の言葉の真偽さえ存在しなくなるという矛盾が発生してしまうけれど、それは理解しているのかい?」

「もちろん、理解している。私は理解した上で、こうして言葉を紡いでいる。だって私が吐き出したいのは、感情的で非論理的な、あられもない言葉だから。剥き出しの言葉だから」

「へえ……ずいぶんと抽象的な物言いだね」

「ええ。私の言葉は抽象的。そして私は、抽象的な言葉をさらに続ける。抽象的な言葉で、〈猿の手〉さん、あなたに問う。この世界はなんなの? その答えを知っているのは果たして、誰? それから、もうひとつ。あなたたちはなにを祈っているの?」

 ジョバンニの問いに、少年の心臓がドキリと跳ねた。それは核心へと迫る問いだと、少年は瞬時に理解した。断じて、抽象的だと形容できる言葉ではなかった。動揺する少年とは対照的に、〈猿の手〉は大口を開き、実に楽しそうに、声をあげて笑う。〈猿の手〉の声が辺りを包み、十数秒後、それは唐突にやむ。表情を引き締めた〈猿の手〉が、ジョバンニを睨む。

「この世界とはなにか、か。答えは簡単だよ。ボクの思う答えを述べるのは実に簡単なことだよ。この世界は、魔法少女のためだけに存在するものだ。けれどね、ジョバンニさん。カムパネルラくん。ボクは魔法少女を殺す。矛盾していると思うかい? 世界が魔法少女のために在ると語りながら、その魔法少女を殺すと語ることは。だけどね、これは生と同じなんだ。つまり生きることと。いずれ死ぬとわかっていながら生きることと、これは同義なんだ」

「ねえ、〈猿の手〉さん。魔法少女が死ぬと、この世界はどうなるの? 消滅すると解釈しても構わないの?」

「その質問はナンセンスだよ。誰かが死ねば、その人物にとっての世界は消滅するだろう? そんなのは当たり前の話じゃないか」

「確かに、狭義での世界は、つまり個人の意識は死によって消滅する。それは自明のこと。個人の思想や想像は、それをアウトプットしていない限り、死と共に永遠に失われる。ねえ、〈猿の手〉さん。それは、つまり――この世界そのものが想像なら、それは誰かの死によって失われるということ。そうでしょう?」

「仮定が飛躍しすぎているよ、ジョバンニさん。そもそも、世界が想像であるという仮定は魔法少女の存在が原因で……」

「ねえ、二人とも。『世界』っていうのがなにを指すのかはっきりさせてから議論しない?」

 少年は思わず口を挟んだ。ジョバンニの指す『世界』とは、少年と魔法少女たちとジョバンニの迷い込んだ、この世界のことだったはずだ。それがいつの間にか、あまりに漠然として抽象的な、聞くに堪えない話題に転換している。けれど二人とも、そのことになんの疑問も抱いてない。気づいている素振りすら見せない。少年には理解が追いつかなかった。

 ジョバンニはニヤニヤと楽しそうに笑い、〈猿の手〉は憎悪のこもった眼差しで少年を睨んでいる。少年はジョバンニに苛立つ。彼女の表情が、あまりに周囲を見下しているように見えたから。

「ねえ、ジョバンニさん。君は、この世界のことを知りたくないの」

「カムパネルラくん。私は君のことを、少しだけ理解できた気がする。私には、そのことがとても嬉しい」

 はぐらかすのはやめて質問に答えて――と、少年は言葉を返そうとした。苛立ちのままに口を開きかけた。が、それよりほんの一瞬ばかり早く、

「みんな、ワケのわかんない話はやめようよ。もっと楽しい話をしよう」

 場違いに能天気な声が教室を満たした。声の主が、新たなる演者が立ち上がり、周囲へにこやかな笑みを向ける。少年は彼女の名をぼそりと呟く。幽ミコトさん、と。

 生徒たちがその存在を認め、ミコトへと視線を向ける。彼女の次なる言葉を待つ。が、彼女はただ、笑みを浮かべる。浮かべ続ける。決して口を開こうとはしない。

「楽しい話って、一体なに?」

 業を煮やした少年が問う。しかしミコトはそれに答えない。ジョバンニも〈猿の手〉も、口を固く結び、様子を窺うようにミコトを注視する。しじまの時間が続く。少年もミコトを観察し、まるでなにかを待っているようだ、と感じる。

 直後、その直感が的中していることを、少年は知る。

「――どうやら、オレの出番らしいな」

 招かれざる新たな演者の声が、生徒たちの鼓膜を揺らす。男の声だ。声の主たちがミコトのカバンから這い出し、その姿を露わにする。ミコトの笑みの横に漂う。言うまでもない。さらなる演者とは、目玉だ。

 バケモノの出現によって教室は阿鼻叫喚に包まれる。アレハナンダ? 食われる、殺される! と叫ぶ者がいる。けれどその声は、無数に重なる耳に痛いほどの甲高い悲鳴と、椅子と机の引きずられるギギギと耳障りな音に掻き消される。意味を内包しすぎた言葉に包まれていた教室が、今は無意味な音声の羅列に包まれている。目玉を冷静な感情で見つめるのは、〈猿の手〉と、目玉を目にしたことのある少年とジョバンニと、ミコトからその存在を聞いたことのあるイノリとサクラのみ。四人は、つまり〈猿の手〉を除いた四人は皆、同じことを考える。なぜ、こいつがここにいる?

「――みんな、聞いて」

 四人の思考は、押し合い圧し合い扉へ向かう醜悪な光景と雑音は、声によって同時に停止する。囁くようなミコトの一言が、どうしてか教室にいる者すべての鼓膜をはっきりと揺らす。心を捉える。誰もがミコトを見つめる。ミコトへ視線を向けることによって、その横に漂う目玉のおぞましい姿も否応なく、瞳に映してしまう。ミコトは多くの観衆が目玉に対し嫌悪感と恐怖を抱いていることを理解する。ゆえに、彼ら彼女らを安心させようという全くの善意から微笑を浮かべ、語りかける。

「このコのことを怖いと思う気持ち、わたしにもわかるよ。だけど、大丈夫。彼は彼女は彼らは彼女らはすごく優しくて頭がよくて、わたしの最高の友達なの。人間とは違う姿をしているかもしれないけれど、それは単なるご愛敬。そんなことより大切なのはね、このコも、生き返ったということ。しかも、二度。大切なのは、それだけなの」

 それからミコトは語る。目玉との出会いと別れ、そして再会の話を。自らが魔法少女であることは語らず、それ以外のすべてを。少年はミコトの言葉に耳を傾けつつ、周囲を観察する。ゆえに気づく。教室が沈黙に満たされ、生徒たちの視線と意識が麻薬的なまでにミコトの言葉へ吸い寄せられていることに。ほんの数分前までの喧騒がウソだったかのように静まり返り、呼吸の音さえ響かない。今ではただ一人として、目玉に恐怖を覚えている者はいない。この沈黙が良いものなのか否か判断がつかず、ゆえに少年には沈黙を守ることしかできない。十数分前には、多くの生徒が〈猿の手〉に対し同様の視線を浴びせていた。事実、ミコトと目玉に向けられる視線の種類ははっきりと二分される。憎悪と、羨望。そのふたつは相反する感情だ。それらの存在は一体、なにを生むのか?

 ミコトは言葉を続ける。「人って、どうして不幸になると思う? 死があるからだよ。死があるから、生に限りがあるから、生が終わるリミットまでにできる限り欲望を満たそうとして、傲慢になって、ワガママになって、誰かを傷つけて、争いが起きるんだよ。死は、諸悪の根源なんだよ。そんなこと、誰だってわかるよ。だから、何度でも生き返ることが恐ろしいなんて、そんな考え方は間違ってるよ。本当は、気づいているんでしょう? いくら難しい言葉や建前を並べたところで、最大の幸福は、永遠に生き続けることに他ならないって」

 ――その通りだ! と誰かが叫んだ。生こそが救済だ! と、一人の生徒が叫ぶ。多くの声がそれに続く。その通りだ、僕は俺は私はあたしは、本当は怯えていた、死は恐ろしい、永遠に生きていたい、不老不死こそ素晴らしい、と賛同の声をあげる。幽ミコトこそ我々の救世主で、目玉は象徴だ、と唱える声は瞬く間に教室を埋め尽くす。少年がざっと見渡す限り、生徒の半数がミコトを賞賛する叫びをあげている。中には、歓喜のあまり滂沱の涙を流す者さえいる。泣き、叫び、歓喜する。永遠の生こそ救済だ! 永遠の生こそ救済だ! 永遠の生こそ救済だ! 何度もコールされる嬌声と血走った十数組の双眸に、少年は生理的な嫌悪感を覚える。欲望に捉われ客観性を失った姿とは、なんとおぞましいのだろう。

「――黙って聞いていれば、全く。デタラメばかりで呆れるよ」

 溜め息混じりに呟きながら、おもむろにミコトと目玉へと近づいていく少女が一人。〈猿の手〉だ。彼女はミコトと、もはや信者と呼んで差し支えない生徒たちの集団の間に立つ。〈猿の手〉を罵倒する声が響く。お前は悪魔だ、醜悪だと、生徒たちは叫ぶ。〈猿の手〉は罵倒する彼らを睨みつけ、応答する。

「愚者のくせに、よくわかっているじゃないか。君たちの言う通り、ボクは悪魔だ。醜悪だ。なぜなら、生き返ったこの身はすでに呪われているからだ。魔法少女に毒され、生き返ってしまったこの肉体は、すでにこれ以上ないほどに穢れているよ。そこの、漂っているだけでなにも成し得ない、役立たずの玉ころ集団と同じようにね」

 目玉様に向かってなにを言う! と、〈猿の手〉を非難する声が響く。ミコトは彼らを手で制し、〈猿の手〉の肩にそっと、己の手のひらを乗せる。

「……わたしの友達を悪く言ったら、許さないよ」

「おぞましいバケモノを友達と、そう呼ぶか。幽ミコト。君もなかなかに、醜悪な存在だね」

 挑発する〈猿の手〉の言葉に、再び怒声があがりかける。が、それは再び制される。「待て」と告げるのはミコトの声ではない。ミコトの友。つまり、目玉の声だ。

「なあ、〈猿の手〉。ふざけた名を自称するお前に問いたい。永遠の生を恐れる理由は、前例がないからに他ならないのではないか?」

「……なにが言いたいのかな?」

「オレは提案する。一度、集団で死ねばいい。自ら死を選んだ人間たちが揃って蘇れば、それは生き返りが当たり前のことであり恐れるべきではないことの証左になる。蘇ることを常識にしてしまえばいずれ、すべての人類が死の恐怖から脱却する。不老不死を禁忌とする束縛から解放される。だから、お前たちよ。このオレと幽ミコトを妄信するお前たちよ。死ね。そして、生き返れ。目立ち、派手なやり方で死ねば尚よい。そうだな。一週間ほど先に決行日を、Xデーを設けるか。屋上から集団で飛び降りるのなんか、過激で良いと思わないか? お前たちは集団で死に、自らの意思で生き返った初めての人間たちとなり、人類の救世主となるのだ!」

 目玉が声高々に叫ぶ。それに続くのは、熱狂。歓声。死ぬ、死ぬぞオレタチは死ぬ、アタシタチは死ぬ、死んで生き返ってそれで初めて生きてるってゆえるじゃん? それこそ人生じゃん? と叫び合い、歓喜し合う。集団自殺を決めた若者たちが、歓喜と興奮に叫び合う。「黙れ!」と、その集団へ向けて〈猿の手〉が一喝する。

「愚者たちよ、汚らわしい球体とその従属の悪しき声に耳を傾けるな! 魔法少女の呪いを肯定する言葉を受け入れるな!」

 狂ったようにはしゃぐ生徒たちに〈猿の手〉の言葉は届かない。聞き入られることはない。が、その集団に属さない一人の生徒――つまり目玉に憎悪を向けていたある一人の生徒の何気ない呟きが、さあっと、場の空気を変化させる。

 ――幽ミコトこそが、魔法少女なんじゃないか?

 刹那、場が静まり返り、直後に響くのは――怒号。そうだ。魔法少女を殺せと語る者に異を唱える人間の正体が、他にあるとでもいうのか。いいや、ない。幽ミコトこそ我々が殺すべき、我々に殺されるべき人間だ! 口々に叫ぶのは、ミコトと目玉の信者に成り果てることのなかった残り半数の生徒たちだ。教室に怒号が行き交う。〈猿の手〉を妄信する者と、ミコトと目玉を妄信する者。この瞬間、勢力図が克明になる。〈猿の手〉とその信者。ミコトと目玉とその信者。そして、それ以外――つまり、少年とジョバンニ。そして、イノリとサクラ。属すことのない第三の勢力にして、そのうちの二人は、魔法少女。

「落ち着くのだ、君たちよ! ここで幽ミコトを殺しても、死からの復活を果たす人間が増えるだけだ。呪いがさらに広がるだけだ。幽ミコトが魔法少女であるならいい。けれどそうでなかった場合、事態は著しく悪化する。だから、幽ミコトが魔法少女であると確信できない限り、彼女を殺してはならない!」

〈猿の手〉が自らの信者となった者たちへ向けて叫ぶ。が、その声は届かない。幽ミコトを殺せと主張する声が瞬く間に勢いを増していく。にこにこと笑い続けるミコトの態度が、幽ミコトと目玉を愚弄するなと叫ぶミコト信者たちの声が、〈猿の手〉信者たちの怒りをさらに増幅させる。いつ暴動が起きてもおかしくない一触即発の状態だ。いや、一部ではすでに殴り合いが始まっている。放っておけばそれは確実に、殺し合いとなる。

 殺気に満ちた教室の中で、ただ一人、それを他人事だと感じている少女――サクラは思う。このままだと、ミコトちゃんとか〈猿の手〉さんとかそういうの関係なく、殺し合いが始まるな。触れるもの皆傷つけるなんて、そんな陳腐な言い回しがホントに現実になっちゃうくらいの、凄惨な殺し合い。そうなったら、悲しいな。ミコトちゃんにもイノリちゃんにも、一緒に闘った魔法少女として情があるし、カムパネルラくんのことも気に入ってるから。だから、あたしは闘おう。魔法少女として、魔法を使って、彼らを殺そう。それからあたしも死のう。どうせ死んでもいいと思ってたから。どうせ死ぬなら無駄死によりも、こうやって誰かのためになって死んだ方がいいと思うから。

 サクラは瞳を閉じ、念じる。闘いの中で、魔法を形にするすべは完璧に習得した。念じればいつでも武器を具現化し、背丈を越える刃物を自在に振り回す強靭な肉体も手に入る。無力なただの人なんて、一瞬で殺し尽くせるほどの力をこの身に宿す――はずだった。が、いくら念じても、魔法を発動したときのあの独特な感覚がやってこない。念じても、念じても、だ。サクラは焦る。しかし焦ったときは思考を切り替えろと、殺し合いの修羅場を幾度も潜り抜けてきた冷静な己が自らに告げる。サクラは念じるのをやめ、考える。すぐに二つの可能性へ行き当たる。まず一つ。なんらかの理由で、自分から魔法を使う力が奪われた。二つ目。この世界では魔法を使うことができない。たぶん、後者だ。だってこの世界はなにかおかしいから――とサクラは考え、しかし、それは違うと、直後に目にした光景が、サクラの結論を否定する。

「愚物共よ――お前たちは、ミコトに指一本たりとも触れることができないのだ!」

 目玉が底冷えする声で叫ぶ。次の瞬間、〈猿の手〉信者たちの肉体が一斉に宙を舞い、彼らは壁に、黒板に、窓に叩きつけられた。鈍い衝突音が四方から響く。手加減はされたようで、意識を失った者や怪我をした様子の者はいない。窓が割れることもない。けれどその超常現象は彼らに動揺を与えるのに十分だった。顔をしかめながら体を起こす彼らが目玉を見る。目玉がニヤリと笑う。否。笑ったように見えた。少なくともサクラと、それから少年は、そう感じた。

「魔法を使うのはミコトではない――オレだ」

 一旦ここを離れるぞ、と目玉がミコトに告げ、ミコトが首肯する。ミコトが駆け出し、目玉がその背に付き従う。待て、あいつらを逃がすな、と怒号が二人を追いかける。しかし彼らの肉体が再び宙を舞い、地面に叩きつけられる。

「君たち、落ち着け。幽ミコトはただの狂人だ。恐れるな、キミたち。真の魔法少女は狡猾で、したたかで、傲慢だ。諸悪の根源は別にいる!」

〈猿の手〉が叫ぶ。その一喝によって信者たちは冷静さを取り戻していく。対照的に、ミコト信者たちの常軌を逸した過熱ぶりがピークを迎える。神に続けと彼らは叫び、ミコトと目玉を追って教室を飛び出す。彼らがいなくなることで、ようやく教室は静寂を取り戻す。

 静寂を取り戻した教室で、各々は考えを巡らす。

 少年は冷静になるよう自らに語りかけながら、今後の方針を考える。主に、〈猿の手〉とミコトとジョバンニの語った、哲学的とも詭弁的ともとれる無数の言葉から。

 イノリも少年と同様、自らの取るべき行動を考える。ただし少年と違い、言葉にはあまり意識を向けず、目にしたものをなにより重要視する。

 サクラは思考を停止する。疲れた、と投げやりな気持ちになり、机に上半身を突っ伏す。瞳を閉じ、眠りにつく。

 ジョバンニはただ、ニヤニヤと笑っている。どうやら、他に知るべきはカムパネルラのことだけらしいと、彼女はそう考えている。


 驚くべきことに騒動の後、授業は再開される。生徒の半数がいない教室で、何事もなかったかのように淡々と授業は行われる。尤も、それに耳を傾ける者は一人としていない。教師もそれを理解していながら、虚空へ向けて不定積分を教示する。

 午後になり、ミコトと目玉と信者たちが教室に戻ってくる。授業中の教室に堂々と、前の扉から入ってくる。教室に動揺が満ちる。が、殺気は訪れない。ミコトに手を出してはならないという〈猿の手〉の言葉は、彼女の信者たちの心に強く刻まれている。ミコトは己の安全を確信しているかのような堂々とした振る舞いで空席に座る。信者たちもそれに倣う。教師は彼女らのことなど気づいていないかのように淡々と授業を続ける。そして終わる。時計の針が進み、予鈴が鳴り、おざなりな号令と共に教師は教室を去る。すべての授業が終わり、機械的なホームルームも行われ、放課後を迎える。担任教師が廊下へと消え、真っ先に席を立つのはミコトだ。ミコトと、もはや人目を露ほども気にせず彼女の真横を浮遊する目玉が扉へと向かう。当然のように信者たちもそれに続く。が、ミコトが彼らを制する。「着いて来ないで」と、信者たちへそう告げる。信者たちは一様に不服そうな表情を浮かべるが、命令に背くという選択肢は彼らにない。まるでこの世界に生を受けたその日からずっとそうしているかのように、彼らはあまりに従順に、ミコトの命令に従う。ミコトもそれを当然のこととして受け入れる。ミコトの態度はまさしく、人の上に立つことに慣れた者のそれだ。ゆえに、ミコトの半生を知っている少年は目の前の光景を不思議に思う。彼女は人と話すことそれ自体が苦手なはずだ、と。が、今、考えるべきはそれじゃない。だって僕は、着いてくるな、なんて言われてないから。今なら彼女と二人で話せる。きちんと言葉を交わすべきであろう、魔法少女の一人と。

 周囲を見渡す。〈猿の手〉は未だ席を立たない。〈猿の手〉の信者たちもそれに倣い、着席したまま姿勢を正している。帰り支度を始めた者はいない。ここで立ったら注目を集めてしまう。イノリとサクラが着席したままである理由も、たぶんそこにある。

 だけど、まあ、僕はもう手遅れか。少年は立ち上がり、扉を開ける。視線を走らせ、十数メートル先、ちょうど階段を上がろうとしているミコトの姿を追って駆け出す。駆けて、追いかけて、階段をゆっくりと上がるミコトの背中を視界に捉える。足音が聞こえているはずなのに、ミコトも目玉も振り返らない。数メートルの距離を保ち、少年は彼女たちに速度を合わせ、歩く。歩き、階段を上がり切って辿り着いたのは、窓もなくジメジメした暗い踊り場と、その闇の中に浮かび上がる縦長のシルエット。目を凝らし、それが古びた金属の扉であることに、少年は気づく。ミコトがドアノブに手をかける。ギギギと嫌な摩擦音を響かせながら、それを引く。光が空間を照らし、ミコトがその奥へと脚を踏み入れる。少年もそれに続く。その先に広がるのは――なんの変哲もない、屋上。四方を背丈ほどの高さの金網で覆われた、ベンチも仕切りもない、殺風景な空間。見上げた先に広がるのは、作り物のように塗りつぶされた、雲ひとつない蒼。この世界の空と僕の知る日常の空は果たして繋がっているのだろうかと、少年はそんなことを思う。思いを馳せ、そして再び、視線を正面に向ける。屋上の中心に立つミコトと、その横に漂う無数の目玉が、まっすぐと少年を見据えていた。少年は彼女らを見つめ返す。束の間、両者は見つめ合う。互いの瞳に、相手の姿を映し合う。己の肉体が映るミコトの双眸を観察し、少年はおやと思う。彼女の瞳に浮かぶ感情は、驚きなどと呼ばれる種類のものだった。ミコトの目は丸く見開かれている。僕が着いてきていることに、気づいていたのではないのか? それとも、もっと別のなにかに、驚いている?

「まさか、あなただとは思わなかった」

 少年の問いに答えるかのように、ミコトがぽつりと囁いた。「僕じゃなくて、一体、誰が後をつけてると思ったの?」と少年が問う。ミコトはそれに、やはり囁くような口調で答える。「〈猿の手〉さん」と。

「一人になれば、彼女がその隙を突いて殺しに来てくれると思ったのに。そしたらわたしが生き返って、わたしたちの言ってることが正しいって証明できたのに」

 本気で落ち込んでいるらしいミコトの口調に、少年はぞっとする。かつてあれほどまでに死を恐れた少女が、今は殺されることを本気で願っている。死を恐れるというその一点はなにも変わっていない。それなのに、彼女の言動のなにもかもが変化している。時の流れと環境の変化が、死者の復活というオカルトにすがらずにいられないほど、ミコトを追い詰めている。彼女という人間を構成する根っこの部分が塗り替えられてしまったようで、ミコトのかつて抱えていた恐怖を我がことのように知っている少年は、胸を痛めずにはいられない。

「ねえ、あなた……えっと、名前、なんだっけ」

 ミコトの問いかけに少年は「カムパネルラだよ」と、この世界の名を告げる。

「そうそう。おかしな名前だよね、カムパネルラなんて」

「『銀河鉄道の夜』っていう有名な小説に出てくる男の子の名前だよ。幽さんは小説を読まないから、知らないと思うけど」

「え、どうして、わたしが小説を読まないって知って……ああ、そっか。わたしの半生を、その、追体験? したとか言ってたね」

「うん、勝手なことしちゃってごめんね」

「わたしの考えたこととか、見たものとか、そういうのをあなたも知っているってことだよね?」

「うん、もちろん全部ではないけど、その通りだよ」

「気持ち悪いね」

「全く以てその通りだと思う。否定できない」

「どうして、この世界にいるの? わたしたちを助けようと思ったのは、なんでなの」

「ヒーローになりたいと思ったから」

 意味がわかんない、とミコトは呟く。考えてみれば、フィクションに触れない彼女はヒーローという概念もよくわかっていないのかもしれない。尤も、わかっていたところで、僕の心情に対して同じ感想を抱くとは思うけど。少年は苦笑する。僕の選んだ道がほとんど奇行だって事実は、どうしたって揺らがないのだろう。

「まあ、僕自身のことなんてどうでもいいんだよ。大切なのは君のことだよ、幽さん。気持ち悪い呼ばわりされたついでに、僕の知っている君について語らせてもらうけど、君は、あんなことをする性格の人じゃないと思っていた」

「あんなことって?」

「人前で堂々と演説したり、たくさんの人を引き連れたり」

「今までのわたしだったら絶対に無理だったよ。こうして、ほとんど初対面のカムパネルラくんと目を見て話すのだって難しかった。だけど、もう、わたしには怖いものなんてないから。人が生き返るってことを知った私は、文字通り、生まれ変わったんだよ」

「本気でそう信じてるの?」

 その問いに、ミコトが刹那、息を呑んだことを少年は見逃さない。ミコトの笑みは微かに、けれど確かに崩れかけた。

 そしてすぐに立て直される。「もちろんだよ。というか、〈猿の手〉さんが生き返ったのは事実なんだから、信じるとか信じない以前の問題だよ。もしかしてカムパネルラくんは、人が生き返ること自体を、まだ信じてないの?」

「うん、そうだね」

「かわいそうな人」

「どうして自分が魔法少女だって言わないの? 正直に伝えれば殺してくれると思うけど」

「だって、わたしは〈猿の手〉さんと友達になりたいもん。〈猿の手〉さんは魔法少女を嫌っているみたいだから、正直には言えないよ。さっきもちょっと、ケンカみたいになってヤな感じだったから、これ以上は嫌われたくない」

「友達、ね……まあ、いいや。ああ、それと、挨拶が遅れて申し訳ないけど、初めまして。君たち」

 少年はミコトから視線をそらし、目玉に向けて頭を下げる。「ああ、初めましてだな、カムパネルラよ」と、目玉はそれに応じる。

「失礼を承知で単刀直入に訊ねるけど、君は一体、なに?」

「オレは死から蘇ったものであり、この世界の一部だ。それ以上でも以下でもない」

「君の言うこの世界って、なに?」

「この世界はこの世界だ。お前たちが二本の脚で立つ地の他に、世界が存在するはずあるまい」

 目玉が答え、少年は頷き――その、直後。少年とミコトと目玉の耳が、同時に足音を捉える。ゆっくりと階段を上がって近づいてくるその音に耳を澄ませ、全員が口を噤む。

 数秒後、開いたままだった扉をくぐって姿を見せたのは、ジョバンニだった。「思った通り、幽さん、あなたはここにいた。そして、カムパネルラくんも」

 そう言ってジョバンニはクスリ笑う。撫でるような風が吹き、緩んだジョバンニの口元に一筋の髪がかかる。ジョバンニがそれをそっと、手櫛で払う。彼女の微笑は現実感がないくらいにきれいだなと、少年はふと、場違いにそんな感想を抱く。

「幽さん。私は、あなたに訊きたいことがある」

「いいよ。でもその前に、〈猿の手〉さんと言い争った、あなたは誰?」

「私はジョバンニと呼ばれる者。そこにいる、カムパネルラと呼ばれる男の子と同じ場所に立つ存在。ねえ、カムパネルラくん。君も、魔法少女を救えと語る獣に導かれて、この世界にやって来たのでしょう?」

 ジョバンニの問いに少年は頷く。「ジョバンニさん。やっぱり、君も」

「ええ、そう。私と君は同じ、魔法少女を救う者。けれどもちろん、違う点もある。それは、私は女の子で、君は男の子ということ」

「まあ、そうだね。性別は違う。たいした問題じゃないと思うけど」

「たいした問題じゃない? 本当にそう思う?」

「……違うの?」

「さあ、知らない」

「なんだ。ジョバンニさんって、いわゆる不思議ちゃん?」

「君がそう感じたのなら、そうなのかもしれない。とにかく、私はカムパネルラくんと同じで、幽さんたちの半生を追体験した存在。これで、質問に答えたことになる?」

「うん。それでジョバンニさん、わたしに訊きたいことって?」

「集団自殺って、どこまで本気で言っている? もしかして、冗談のつもりだった?」

「それはオレの思い付きだ。信者たちへの説明も先ほどオレが済ませた。だからオレが質問に答えるが、冗談などではない、本気だ。これこそミコトの正しさを証明するための最善の方法で……」

「私は幽さんに訊いている。貴様は出しゃばるな。永遠に黙っていろ、自我さえ持たぬ愚物」

 饒舌に語り始めた目玉の言葉が冷たい声に遮られる。口調も声色も極端に変化させた、ジョバンニの声に。目玉の声がやむ。色の変わらない数十の瞳が、無感情にジョバンニを突き刺す。対照的に、ミコトの表情が穏やかなものから、敵意を剥き出しにした冷ややかなものへと、みるみるうちに変化していく。

「……わたしの友達を悪く言う人間に教えることなんて、なにもない」

「友達? それって、自分の願望を肯定してくれる、都合のいい自己承認欲求解消装置のこと?」

 ジョバンニが呟き、ニヤリと笑う。ミコトが派手に足音を立てながらジョバンニへ近づき、その頬をパンと張った。ジョバンニの頬がじんわりと赤に滲む。けれど、その表情から笑みは消えない。それどころか、より深い、おぞましいほどに口角を上げた笑みで、ミコトを凝視している。少年とミコトがその表情に怯える。触れてはならない、なにかを感じる。

「……帰ろう。こんな人、放っておいて」

 ミコトがぽつりと呟き、扉をくぐり、階段を降りていく。目玉もそれに続く。一人分の足音は、すぐに聞こえなくなる。辺りに静寂が戻り、直後に響くのは、クスクスと笑うジョバンニの声。

「魔法で私を殺すことだってできたはずなのに、幽さんはそうしなかった。彼女にとって、殺すことはなんの意味もない行為だから。本当に、心から、死者が生き返ると思っているみたい。面白い人」

 心底楽しそうな様子のジョバンニを、少年は唖然とした心地で見つめる。

「えっと……とりあえず、大丈夫? 口の中切ったりとかしてない?」

「平気。そもそも、ケガをしたところで自業自得。心配には及ばない」

「まあ、確かにそうかもしれないけど。というか、ああいう言い方はさすがに失礼じゃないかな」

「失礼? 本当にそう思ってる? カムパネルラくんだって、あれが実在するものだなんて思ってないでしょう?」

「言い方ってものがあるでしょうって話をしてるんだよ、僕は」

「私には私の考えがある。そんなことより――初めまして、カムパネルラくん」

 笑みを引っ込め、単調な声色でジョバンニが言った。少年は小さく嘆息してから、「初めまして。こうしてちゃんと言葉を交わすのは初めてだね」と、挨拶を返す。

「そう、初めて。昨日の朝の時点で、互いの存在を認識していたにもかかわらず。私はあの時点で君がカムパネルラと呼ばれる存在だと確信していたし、君もきっとそうでしょう?」

「まあ、あの瞬間ではないけど、たぶんそうだろうなって思った」

「これからよろしく、カムパネルラくん」

「よろしくできるとは限らないんじゃないかな?」

「どうして? 私は君と、仲良くしたいと思っている」

「僕もそうできれば理想的だと思ってるよ。だけど、君は本当に魔法少女を救いたいと思ってるの? さっきの幽さんへの接し方を見る限りじゃ、申し訳ないけど、君のことを信用できない」

「なるほど。確かに、私の言動はそう思われても仕方のないもの。けれど、信じてほしい。カムパネルラくんの願いと私の願いは、常に同じ」

「からかうのはやめてくれる?」

「からかっていない。私は大真面目」

 本当に? と訊ねようとジョバンニの顔を覗き込み、瞬間、思わず口を噤んだ。まっすぐと瞳の奥まで覗き込んでくる視線に、意識まで吸い込まれてしまいそうになったから。そして、その表情が、嘘をついている人間のそれとは思えなかったから。ジョバンニの口元は、強く固く結ばれていた。

 少年はその表情に束の間、見惚れる。しばしのあいだ見つめ合い、数秒後、ジョバンニが小さく吐息をこぼす。唇が小さく開かれる。

「カムパネルラくんに訊きたい。君は本当に、心から、魔法少女たちの救済を願っている?」

「もちろん。僕はそのために、この世界にやってきた」

「その言葉を聞くことができて私は嬉しい。さっきも言った通り、私の願いは君と同じ。つまり、魔法少女の救済」

「……信じて、いいのかな」

「信じてほしい」

「わかった、前言を撤回しよう。僕は、君を信じるよ」

「ありがとう。これで、私も君を、心から信じられる」

 少年は言葉通り、ジョバンニのことを信用すると心に誓う。それは、彼女が悪い人であってほしくない、一人でも多く仲間がほしい、という願望から生まれた脆い信用でしかない。けれど、それでいい、と少年は思う。なにもかもが偽りにしか見えないこの世界に、ひとつでも信じられる存在があるなら、それで御の字だ。

「ねえ、ジョバンニさん。僕たちはこの世界で、なにをするべきなのかな」

「わからない。それを見つけること自体が私たちの使命だと、獣はそう言った」

「なにか、わかったことはある?」

「仮説はある」

「仮説? それって、一体」

「まだ確かめたいことがある。だから、明日話す。今日はもう、帰るとよい」

「わかった。ジョバンニさんは?」

「もう少しこの校舎に残る」

「僕も残っていいかな?」

「いいえ。カムパネルラくんは帰るべき」

 少年は理由を訊ねようとして、けれど逡巡の末、口を閉じる。彼女には彼女の考えがあるのだろう。わかったと首肯し、また明日と告げ、屋上を去る。さようならと、ジョバンニも少年へ挨拶を返す。少年の姿が屋上から消える。足音が遠ざかる。ジョバンニはたった一人、屋上に残される。

 残されたジョバンニはニヤリと笑うと、金網フェンスに手をかけ、自らの体を引き上げた。そして、昨日と同じように、一切の躊躇なく飛び越える。肉体が宙を舞い、重力に従った速度で墜落し、地上と肉体の距離が瞬く間に迫り――

 翌朝になる。翌朝の、この世界における自室のベッドにて、ジョバンニの意識は覚醒する。私の方針は決まった。思考もまとまった。この世界のこともわかった。カムパネルラくんのことも、それなりに理解できたはずだ。そしてなにより、彼の意思を確認できた。だったら、放課後の無駄な時間なんて退屈なだけだ。退屈で怠惰で無駄な時間など、省くに限る。

 同じころ、少年もまた目覚める。イノリも、ミコトも、サクラも目覚める。四人の意識は時間を短縮などしていない。放課後から翌朝までのおおよそ十四、五時間をその身で体感する。見知らぬ部屋で寝起きをすることに疑問を感じなくなった自分に気づき、少年は苦笑する。人間というのは、何事にも慣れてしまうものなのだなと痛感する。朝食を取り、身支度を整え、家を出る。大通りに面した生徒の群れに合流すると、『ワタナベ』はやはり、軽薄な笑みを浮かべ少年に近づいてくる。彼と並んで登校し、教室に入り、奇妙に配置された机の並びを目にし、おやと思う。窓側に密集した机と廊下側に寄せられた机とで、席が二分されているのだ。どういうことだろうかと束の間逡巡し、すぐに気づく。ミコト信者と〈猿の手〉信者で、分けられているのだ。事実、窓側の最端には〈猿の手〉の、廊下の壁際にはミコトと目玉の姿がある。その中央には、いくつか残された数組の机と椅子のみ。それらは雄弁に、お前はどちらの人間なのかと、そう語りかけてくる。『ワタナベ』が軽薄な笑みを、まるで自分の役割に没入するかのように引っ込め、机と椅子を引き、〈猿の手〉側の集団に属する。少年はその背中を見送ってから、無造作に中央に置かれた椅子のひとつに、どちらへ属することもなくそのまま着席する。少年は机からの問いかけに答えない。

「おはよう、カムパネルラくん」

 問いかけに応じないもう一人の、先に座っていた少女が声をかけてくる。言うまでもなく、ジョバンニだ。少年は「おはよう」と、微笑を浮かべそれに応じる。数分が経ち、問いに答えない三人目の生徒が教室を訪れる。サクラだ。「おはよう」と、どこか気だるげな、けれど親しみを感じさせる口調で、少年へ挨拶を告げる。適当にどちらかへ移動するのだろうと少年が彼女を見つめていると、サクラはそのまま、少年の隣に腰かける。少年は動揺し、軽くサクラの肩を叩き、彼女の耳元へ口を寄せる。サクラがそれに応じ、少年は顔を寄せる。

「ねえ、こんな目立つところにいていいの? どっちかに紛れておいた方がいいと思うけど。僕とジョバンニさんは手遅れだけど、鬼鯉さんはまだ、目をつけられるようなことはなにもしてないから」

「いいの。もうあたしね、誰の役にも立てないみたいだから、どうだっていいの」

「えっと、どういうこと?」

「いいよ、気にしないで。それより、その、ジョバンニさんってどちらさん?」

「こんにちは、鬼鯉さん。私はカムパネルラくんと同じ、魔法少女を救済する者」

「ああ、そうなんだ。よろしくね」

 サクラはどこか気のない様子でジョバンニへ微笑みかける。少年がそれに首をひねっていると、予鈴が鳴る。こうして、敵対する二つの勢力が、目に見える形ではっきりと二分される。明確な溝が生まれる。イレギュラーの席を三つ残して。イノリは、心はどちらにも属さないもう一人の少女は、決して注目を浴びないために、ミコト側の席に身を寄せている。それが最善の策だと、ぞっとするほど美しい彼女の横顔を眺めながら、少年は思う。

 見慣れてしまった担任教師が現れ、ホームルームがあり、授業が始まる。誰一人教科書もノートも出さず、耳を傾けることのない授業だ。各々の信者たちは背筋をピンと正し、ピクリとも動かず、瞬きすらせず、黒板を見つめている。尤も、正面に黒板があるから結果としてそちらに視線を向けているだけのことであって、その内容に思考を傾けているわけではない。この状況で体育があったらどんな授業風景になるんだろうと、少年はくだらない想像に思考を傾ける。

 一時間目が終わり、二時間目、三時間目と授業は進んでいく。その間、なにも起きない。暴動はおろか、言い争いのひとつも起きない。尤も、それは決しておかしなことではない。ミコトの最終的な目標は〈猿の手〉との和解であるのだから、彼女たちとの溝を深めるようなまねをするはずない。信者たちにも、昨日のうちにそう強く言い聞かせている。〈猿の手〉にしても、ミコトと同様に昨日、魔法少女以外の人間を殺してはならないと強く信者たちに言い聞かせてある。ミコトが魔法少女であると確定できない現時点では、まだ行動を起こせない。真の魔法少女はいつか必ずボロを出すはずだと、〈猿の手〉はそう踏んでいるのだろう。両陣営にそういった思惑があるからこそ、沈黙が保たれているのだ。

 ――が、完璧に意志の統一された組織など、あるはずがない。複数の人間があり複数の意志が存在する以上、そこには必ず、乱れが生じる。意思の疎通に齟齬が生じる。ましてや、昨日に組織されたばかりの急ごしらえの集団だ。場の流れを読み切れない者、先走る者がいない方が不自然だ。

 チョークが黒板を叩く無機質な音ばかりが教室を満たす、そろそろ三時間目が終わるかという時刻――唐突に、椅子を強く引く音が周囲の鼓膜を揺らす。少年が、イノリが、サクラが、ジョバンニが、まどろみかけていた意識を覚醒させ、音の方向へ視線を向ける。

 それは〈猿の手〉側にいた生徒の一人が立ち上がり、駆け出した音だった。彼は廊下の方向――より正しく言うなら、前扉の横に座っていたミコト目がけて、一直線に進んでいく。彼の手には、鋭利なサバイバルナイフが握られている。

 ――幽ミコト、死ねぇぇぇぇぇぇェェェェェェェェェェェェっっっ!

 耳に痛いほどの嬌声が響く。信者たちがミコトと彼の間に立ち塞がる。その距離が一気に縮まり、ミコトの信者たちの肉体にサバイバルナイフの刃先が突き立てられる――直前、凶行に走った彼の肉体が、まるで見えない手に押しつぶされたかのように、床に叩きつけられた。少年とジョバンニと魔法少女たちは、なにが起きたのかすぐに理解する。目玉が魔法によって、彼を押さえつけたのだ。

 無だけが満ちていた教室に、唐突な殺気が訪れる。ミコトを囲んでいた生徒たちが立ち上がり、怒気と狂気を孕んだ双眸で〈猿の手〉たちを睨む。そのうちの数名は、手元にナイフやスタンガンを携えている。ミコトと目玉の言葉を、その本心を十全に理解していない者がいたのだ。つまり、敵意を〈猿の手〉たちに向けてはならないという本心を。彼らは万一に備えて武器を用意していた。

 無論、それはミコトの信者に限った話ではない。〈猿の手〉の信者の数名が同様に、武器を手に、ゆっくりとミコトたちへと詰め寄る。先走った者だけでなく、彼らも皆、隙あらばミコトの命を奪おうと画策していたのだ。

 対立する両者の狭間に座っていた少年たちが立ち上がる。少年はジョバンニとサクラの手を引き、教室の後列へと逃げる。魔法を使えない、武力でこの場を鎮圧できない自分の無力さに、少年は歯ぎしりする。息を呑んで、今にも殺し合いの起きかねない光景を見つめる。

「みんな、暴力はやめて!」「幽ミコトを狙うなと言ったはずだ、愚か者たちよ!」

 ミコトと〈猿の手〉が同時に叫び――直後、武器を手にした互いの信者たちが、一斉に床へと叩きつけられた。目玉の魔法だ。魔法の効力は一瞬だったようで、彼らはすぐに立ち上がる。が、彼らの双眸から殺気は失われている。蔓延する汚濁した色の空気が、徐々に気配を収縮させていく。崇拝する者の直接的な言葉に、信者たちが狂気を沈めていく。

「愚かなる君たちよ、幽ミコトは魔法少女ではないと、そう言ったはずだ。魔法を使っているのは、彼女の横にいるバケモノだ。そして、そいつは魔法少女ではない。少女と形容される存在ではない。今は、まだ、時を待て。待つんだ」

〈猿の手〉が厳かに、芝居がかった口調で、信者たちへそう告げた。

 ――時というの、一体、いつ訪れるのですかっ!

 足元にサバイバルナイフを横たわらせた、先走った信者が〈猿の手〉に問う。床に這いつくばり、四つん這いの姿勢で、崇拝する者を見上げ、問う。嗚咽混じりの嬌声は無様という他ない。〈猿の手〉は問いを投げかける信者を見下し、嘲笑の表情を浮かべ、答える。

「然るべき時がいつ訪れるか――それはボクにもわからない。しかし、必ず訪れる。それは間違いのないことだ。いくら狡猾でしたたかな魔法少女といえども、いつか必ずボロを出す。その醜悪さを、愚かさを露呈する。君たちはただ、目を見開いて、周りを観察していればいい。愚かな君たちですら見落とすことがないほど怪しい者が、愚者が、いつか必ず現れる。そのとき、その人物を拷問するのだ。無慈悲で残虐な拷問に耐えられなくなった魔法少女は、魔法を用いてボクたちに抵抗してくるだろう。その瞬間、魔法少女の死が確定する。ボクたちは拷問をやめ、そいつを凄惨に、殺す。繰り返される生の呪縛によって呪われたボクと違い、魔法少女は存在そのものが呪いだ。魔法少女が生き返ることは決してない。ゆえに、悪しき魔法少女の息の根を止めさえすれば、呪われたボクの命も朽ち果てる。すべての悪夢は終わる。そう、終わるのだ。終わりにするために、今はただ、その瞬間を待つのだ!」

〈猿の手〉が叫ぶ。そうだ、待て。待つのだ! と、彼女の叫びに、彼女を崇める者たちの声が続く。教室は歓喜に包まれる。ミコトの信者たちは、その狂乱を軽蔑と憎悪の眼差しで見つめている。が、その中心にいる少女、つまりミコトの双眸に携えられた感情は、信者のそれと違う。親愛と、母性と、少しの呆れだ。しょうがないな、と、幼い娘を見守るような心地で、ミコトは〈猿の手〉を見つめている。

〈猿の手〉はまだ、永遠の生がどれほど幸福なものか理解していないのだ。死から解放された原始の人間になったその戸惑いで、妙なことを口走っているだけなのだ。だけど、大丈夫。いつか必ずわかってくれるから。自分がどれほど幸福なのかをいつか理解し、今この瞬間の無知な言動に赤面するだろう。そのときは彼女の隣で、笑いながらからかってあげよう。親友として。

 笑みを口元に携えながら、ミコトはそう考える。いつかの未来に思いを馳せる。

 視線の先では変わらず、〈猿の手〉と信者たちが雄叫びをあげている。理由もなく、彼ら彼女らは叫び続けている。崇める者を囲み、我を忘れ、熱狂している。もはや彼らの叫ぶ言葉に意味などない。ただ、叫ぶという行為に酔いしれている。教室は騒がしい。とても、とても騒がしく、五月蠅い。耐えきれないほど、五月蠅い。あまりの五月蠅さに少年が頭痛を覚え始めた――そのとき。

 耳障りな嬌声が満ち満ちる教室に、その微かな忍び笑いが、どうしてか強く響いた。教室にいるすべての者の鼓膜を揺らした。

 喧騒がピタリとやみ、視線が一斉に声の主へ向けられる。つまり、ジョバンニへ。注目されていることに気づきながら、ジョバンニはいつまでもクスクスと、クスクスと笑い続ける。

「……なにが、おかしいのかな」

 数秒、あるいは数分が経ったころ、ぽつりと、〈猿の手〉がジョバンニへ問うた。その声には確かな怒気が孕まれている。ジョバンニの忍び笑いが収まる。けれど口元には変わらず微笑が湛えられている。

「たいしたことではない。ただ、〈猿の手〉さん。君の作戦がずいぶんと楽観的で場当たりで抽象的で意味のわからないものだったから、ついおかしくなってしまっただけ。君は本当に愚鈍で愚図で低能。そして、低能を妄信している君たちは、無能」

 束の間、沈黙が場を支配する。ジョバンニの言葉の意味を、それを耳にした者たちが脳内で咀嚼し、受け入れた後に響くのは――怒号。そして罵倒。ふざけるな、愚図は貴様だ、神の偉大さも理解できない阿婆擦れがなにを言っている、死ね、殺してやる、犯してやる、と、無数の雑言がジョバンニを包む。それらを耳にして、ジョバンニの笑みが深くなる。稚拙で陳腐な罵倒しか絞り出せないなんて本当にかわいそう、と思い、けれどそれを口には出さない。なぜなら信者を罵倒したところでたいして効果はないと、彼女は理解しているから。ジョバンニはより効果的に、的確に、世界を攻撃する。

「君たちの言う神というのはなに? ひょっとして、たまたま有象無象から選ばれた、少し口が上手なだけの、自分たちに都合のいい言葉を吐き出してくれる便利な概念のこと?」

 ジョバンニの言葉に、信者たちの怒りは頂点に達する。彼らの怒りはまさしく、狂気だ。少年は危機を察し、ジョバンニの腕を無理やり引っ張り教室の外へ逃げようとする。しかしそれより先に、ナイフを、スタンガンを手にした信者たちがジョバンニへ向けて駆け出している。その上、当のジョバンニが脚を踏み出さない。逃げようとしない。少年の焦りに応じない。瞬く間に殺意が迫ってくる。なすすべなしか――と、少年が絶望しかけた、その瞬間。

 迫ってくる信者たちの肉体が、一斉に吹き飛んだ。宙を舞った彼らの肉体が同時に黒板へ、壁へ、天井へ叩きつけられる。

 目玉に助けられたのだろうか? だけどどうして、と少年は考え、直後、事実はそうではないことに気づく。魔法を使ったのは、目玉ではないと悟る。なぜなら目の前に、信者たちへ向けて腕を、少年に捕まれていない方の左腕を突き出して微笑む少女がいるから。つまりジョバンニが。まるで、自ら魔法を駆使して、彼らの肉体を吹き飛ばしたかのように。いや、ように、などという形容は不要だ。誤りだ。魔法少女でないはずのジョバンニが、魔法を操り、彼らを吹き飛ばしたのだ。

 刹那、教室を包むのは、鼓動の音さえ聞こえてきそうなほどのしじま。直後に響くのは――先ほどまでとは比べようもないほどの怒号。狂人たちが叫ぶ。叫ぶ者たちの中心で、それ以上に大きな声で、〈猿の手〉が高らかに、告げる。

「時はあまりに早く訪れたぞ、君たちよ。そいつが、ジョバンニこそが魔法少女だ。殺せ、殺せ、殺せ! 残虐に無慈悲に凄惨に、その女を殺せ!」

〈猿の手〉の怒声に応じ、信者たちが鬨の声をあげる。嬌声と足音に校舎が揺れる。〈猿の手〉信者たちがジョバンニへと迫る。が、その距離がほんの十数センチとなった刹那、前触れもなくジョバンニと、彼女のそばに立つ少年とサクラの足元から炎が燃え上がった。炎は三人の周囲を囲み、肩の辺りまでを覆い、周囲との間に壁を作る。少年たちには、その炎の熱が伝わってこない。これもジョバンニの魔法により発生したものだと、少年はすぐに理解する。強行突破が不可能なほどに激しく、炎は燃え上がる。迫るのを諦めた信者たちが、ジョバンニ目がけて机や椅子、チョーク、定規、スマホ、ナイフ等、目についたあらゆるものを投げつけてくる。しかしそのすべてが炎の手前で制止し、投げた人物へとまっすぐ、倍の速度になって返されていく。それらにぶつかった信者たちが負傷していく。ジョバンニがたった一人で、信者たちを圧倒する。魔法の前に、彼ら彼女らはなすすべがない。〈猿の手〉がどうにかしろと怒気を孕んだ声をあげるが、彼女自身になにか案があるわけではない。愚かな神だと、彼女の滑稽な姿にジョバンニは微笑する。微笑し、そして、決定的な一言を口にする。

「愚図の君たちにいいことを教えてあげる。魔法少女、あるいは魔法少年は、私だけではない。合わせて四人いる。私と、神堵イノリさんと、鬼鯉サクラさんと、カムパネルラくん。その四人こそ、君たちが殺したくて仕方ないと思っている、憎き相手」

 ジョバンニの告げた真実が、信者たちを激高させる。なんだと! 敵はまだ他にいるというのか、殺せ、殺せ、殺しまくれ! と信者たちが叫ぶ。唐突に名を呼ばれた三人は驚きに目を見開く。場違いに微笑むジョバンニへ視線を向ける。なぜ言ってしまったのかと疑問の視線を向ける。けれど彼女はそれに答えない。

 少年とサクラはすでに炎の壁によってその身を守られている。しかしイノリは無防備だ。無防備にその身を曝け出している。信者たちの理性のない双眸がイノリへと向けられる。仕方ない、あの女からやるか、と、無数の目が雄弁に語っている。イノリは嘆息し、闘わなければならないと、覚悟を決める。瞳を閉じ、意識を集中させ、武器を具現化させるイメージを脳内に巡らせ――が、すぐに気づく。魔法を使えない、と。サクラと同様、イノリから魔法を扱う力が失われていた。

「その様子だと、思った通り、魔法が使えないみたいね、神堵さん」

 思いがけない事態に絶望しかけたイノリへジョバンニがそう告げ、イノリへ向けて左腕を向けた。直後、イノリの肉体を、炎が囲う。イノリに迫っていた信者たちが慌てて彼女から距離を取る。

「ねえ、鬼鯉さん。きっと、あなたも魔法を使えないのでしょう?」

 ジョバンニの意識と視線がイノリからサクラへと切り替わり、彼女は問う。問われたサクラは無言で首肯する。それを目にしたジョバンニは満足そうに頷くと、

「カムパネルラくんには、ここで訊ねるのは控えたいと思う。今は語るより、逃げるが先。神堵さん、鬼鯉さん、カムパネルラくん。私と一緒に行こう」

 三者へそう告げ、次の瞬間、すべての窓が一斉に、パリンと割れた。破片が飛び散り、その欠片を身に浴びた数名の信者たちの皮膚から血が吹き出る。そして四人の肉体が宙に浮く。ジョバンニが魔法によって浮かしている。まるで夢みたいだと、少年は陳腐な言い回しでその感覚を形容する。床と視線の距離になんとも言い難い違和感を覚える。

 直後、信者たちの怒声を背に、四人は飛んだ。窓をくぐり、空へと高く、高く飛んだ。

 時速数十キロ、数百キロとも思える速度で、四人は飛翔する。街並みを遥か下に見下ろす高さで浮遊し続ける。空気抵抗は感じない。それどころかあらゆる感覚さえ失われたように、少年は感じる。髪や制服が風に揺れることはなく、ただ自分たちの肉体が移動している。

「……これから、どこへ向かうの」

 数分飛翔を続けたころ、沈黙を破り、イノリがそう呟いた。独り言ともとれる口調で、けれどその問いははっきりと、ジョバンニへ向けられている。

「私にもまだ、わからない。校舎を離れたこの世界がどう構成されているか、私もまだ把握していないから」

「そう……まあ、いいわ。そんなこと、今はどうでもいい。それよりも、ジョバンニさんと言ったかしら? 私は、あなたに訊きたいことが山ほどある」

「どうぞ、好きに質問するといい」

「あなたは誰? そして、どうして私たちが魔法少女だと、そう言ってしまったの? そもそも、どうして私たちのことを知っているの?」

 ジョバンニはイノリの問いに小さく首肯すると、

「一つ目の質問に答える。私はジョバンニとこの世界で呼ばれる者。この世界に存在する理由は、そこにいるカムパネルラくんと全く同じ。君たちの半生をこの目で覗かせてもらったことも、彼と一緒。君たちのことを知っている理由は、この説明でわかってもらえたと思う。私は、君たちを救いたい」

「私たちを、救いたい? 嘘をつかないで。本当にそう思っているのなら、私や鬼鯉さんの名前を出す理由がない。さあ、二つ目の質問に答えて」

「君たちに、この世界と向き合う機会を与えたかったから。それだけ。与えた以上、私の為すべきことは終わったともいえる。あとは、君たちのこの世界での肉体を守るために魔法を使うことだけが、私の使命。だから君たちは、考えて。考え尽くして。この世界のことを。己が日常から切り離され、こんな奇妙な世界に紛れ込んでしまった理由を。それに、自分自身のことを」

「日常から切り離された理由、ね……日常なんて、魔法少女になった瞬間から失われたようなものだけれどね」

「魔法少女になった瞬間? ふうん……まあ、君がそう思うのなら、その通りなのかもしれない」

「なにが言いたいのかしら」

「言葉通りの意味。深読みはしないでほしい」

「……まあ、いいわ。ねえ、ジョバンニさん。どうしてあなたは、私たちにそんなことを望むのかしら。つまり、この世界について思考することを」

「決まっている。それが、君たちを救うために必要なことだから」

「……私と鬼鯉さんがなにもアクションを起こさず事態を静観していたことが、あなたには気に食わなかったってこと? 黙って座っているだけでは深く思考するに至らないと、あなたはそう考えているのね」

「その通り。さすが、神堵さんは理解が早い。君はとても聡明」

「幽さんがここにいないのは、彼女は自らの主張を明示し信者を集めることによって、すでにこの世界と深いかかわりを持っているから。つまり、あなたが出しゃばるまでもなく、思考を開始しているから」

「概ね、その通り。彼女に私は必要ない」

「そう。では、次の質問。私が魔法を使えず、あなたが使えるのはどうして? いいや、それ自体はいい。この世界が現実とは異なる場所で、常識が通じないことを考慮すればなにも不自然なことではない。けれど、それを踏まえても看過できない疑問がある。どうしてあなたは自分が魔法を使えると、知っていたの?」

「その答えは単純。私が、魔法を使いたいと思ったから」

「はぐらかさないでくれるかしら」

「はぐらかしてなんかいない。それが事実」

「私だって、自分の身を守るために魔法を使いたいと思った。けれど、無理だった」

「さっきも言った通り神堵さんは、自分の本心について思考を巡らせるべき。たったそれだけで、あらゆることが見えてくる。君と鬼鯉さんが魔法を使えない、その理由も含む、あらゆることが」

「……ところであなた、契約したの?」

「魔法少女になるための契約について訊いているのなら、その答えはノー」

「だったら、どうして」

「それも、単純に考えれば答えは見えてくるはず」

「さっきから、それしか言わない」

「だって、それが的確な答えだから。そもそも、神堵さん。君は私の言葉を信じているの?」

「半々といったところ。けれど、それでも私はあなたに、もうひとつ訊ねる」

「いくらでも質問するといい」

「あなたは、誰」

「先ほど説明した通り、私はジョバンニと呼ばれる者。君たちを救うためにこの世界に……」

「そうじゃない。私は、もっと本質的なことを訊いている。あなたは、なにを思ってここにいるの?」

「それを語ることに意味はない。強いていうなら、君たちと、そしてカムパネルラくんの願いによって、私の思考も変化する」

 イノリは嘆息し、口を噤む。彼女になにを訊ねても意味はないと、抽象的な言葉以外が返ってくることはないと悟る。イノリは自らの頭を掻きむしる。苛立たしげなイノリの横顔を、少年は痛ましい目つきで、サクラはどこか投げやりな視線で見つめる。少年と少女たちのあいだに再びの沈黙が降りる。そうしているあいだにも、四人はあらゆる街を、山を、河川を通り越して進んでいく。

「……どこまでいっても、代わり映えのしない風景。どうやら、これ以上進んでも意味はないみたい」

 十数分が経ったころ、ジョバンニがそう呟き、四人の肉体は急停止した。時速数百キロとも感じる速度からの停止にもかかわらず、衝撃や揺れを一切感じない。ただ流れゆく風景が制止しただけだ。制止し、今度はゆっくりと下降していく。真下に広がる、徐々に近づいていく風景を四人は見下ろす。地方都市といった風情の、高層ビルと生活感のある民家が同居した、どこか不思議な雰囲気を醸す街だ。四人はゆっくりと、人目のないビルの隙間へと降り立つ。隙間から這い出ると、大通りを行き交う無数の人間の姿を視界に捉える。

「さて。逃げたのはいいけどさ、これからどうする? 正直、僕には見当もつかないんだけど」

 重苦しい空気を改める意図で、少年はできるだけ軽い口調を意識しながら、少女たちに向けて問う。それに対し「てかさ、どうしてこんな遠いところまで来る必要あったの?」と、サクラが呟く。その視線は少年の横顔を見つめているが、投げやりな口調はジョバンニへと向けられている。

「私が、できるだけたくさんの風景を目にしたいと思ったから。それ以外の理由はない。結論を述べるなら、こんな場所まで逃げたことは徒労だった」

「じゃあ、帰ってもいいんじゃない? その、なんだっけ。あたしとイノリちゃんが世界について考えなくちゃいけないんなら、あの校舎にいた方がよさそうじゃん。ここにいてもなにもなさそうだし、考えるきっかけが見つからないよ。ジョバンニさんなら、あたしたちが襲われても助けてくれるでしょ?」

「君たちがあの校舎へ戻ることを望むなら、そうしても構わない。君たちを連れてあそこへ戻ってあげる。どちらにしても、決めるのは君たち」

「自分の都合でここまで来たのに、最終判断は人任せ? ジョバンニさんは自由な人だね」

「こんなときにまで冗談を言うなんて、カムパネルラくんはやっぱり面白い」

「冗談というより、どちらかといえば皮肉のつもりだったんだけど」

「この街に留まりましょう。わざわざ、殺意を向けてくる相手のいる場所へ戻る理由はない」

 少年とジョバンニの会話を打ち切るように、鋭い声でイノリが言った。口にした通りの理由もあったが、イノリの本心では、ジョバンニに頼りたくないという感情がなにより強かった。

 特に反対する理由もない三人はイノリの提案に首肯する。「留まるってことは、泊まる場所まで考えなきゃってことだね」

「あたしたち制服だけど、平日の昼間から高校生を怪しまずに泊めてくれるところなんてあるかな?」

 サクラの疑問に少年は苦笑しつつ答える。「あくまで僕の直感でしかないんだけど……この世界では、そんなこと問題にならないんじゃないかって、そんな気がする」

「……そうだね。たぶん、カムパネルラくんの言う通り。なんとなくわかるよ、それ」

 四人が適当な方向へ歩き、数分歩いた場所にビジネスホテルを見つける。受付に空室があるかと訊ねると、少年の予測通り、なんの疑問も持たれることなくツインの空席が二部屋あると、そう返される。

「お金は私が持っているから、君たちは気にしなくていい。財布を持ってきてはいないでしょう?」

「ありがと、ジョバンニさん。だけど、ツインが二部屋って……どうする?」

「魔法少女は魔法少女同士で泊まればいい。私とカムパネルラくんが同じ部屋で眠る」

 こともなげに言うジョバンニに、三人が目を丸くする。少年がそれはまずいという趣旨のことを伝えようと口を開くと、それより早くイノリが「あなたとカムパネルラくんが同じはダメ」と、強い口調でそう告げる。

「どうして? 神堵さん、カムパネルラくんと同じベッドで眠りたいの?」

 明らかに面白がっている口調でジョバンニに返され、イノリは言葉を失う。イノリはただ、信用できない相手であり手を組んでいる可能性もある二人を一緒にしたくないと考えただけだった。が、当の本人たちに向けてその真意を口にするわけにはいかない。あるいはこの、なにを考えているか想像もつかない彼女には自分の考えを見抜かれているかもしれないとイノリは予測し、頬から一筋の冷や汗を垂らす。自分が他者に気圧されるなんて久々のことだ。それこそまさしく、親友のスターと初めて顔を合わせたとき以来だ。

 イノリは逡巡の末、それでいいと答える。どうせジョバンニとカムパネルラを見張ったところで、魔法を使えない自分にできることなどたかが知れていると、そう考え直す。サクラもそれで問題ないと言う。少年だけは狼狽していたが、駄々をこねても仕方ないと諦め、その部屋割りでいいと、無言で首肯する。

 チェックインを済ませてから、四人は買い物へ出かける。手荷物すらない状態でここまで来てしまったので、最低限の着替えやアメニティーと食事を購入し、陽の沈み始めるころには部屋に戻る。それぞれ、部屋にこもる。やるべきことは思考することだけだと、少年とイノリはそう考えた。サクラは、ただ流されるままに行動していた。ジョバンニは、少年と話がしたいと思った。ゆえに、空虚な時間をホテルの室内で過ごすことは当然の流れとして、話し合うまでもなく決定した。

「先にシャワーを浴びてもいい?」

 買った荷物をまとめ終えたころ、ジョバンニが少年に問うた。下卑た笑みを浮かべるジョバンニの表情を見つめ、少年は嘆息する。

「ジョバンニさん、なんだかさっきから楽しんでない?」

「カムパネルラくんがなにを言いたいのかわからない」

「からかってるでしょ?」

「なにを根拠にそんなことを言うの?」

「だから、僕と同じ部屋に泊まるって言い出したこととか、さっきの、その……」

「さっきの?」

「……ごめん、なんでもない」

「男の子が先に浴びるのがセオリーだということは、ネットで見たことがあるから知っている」

「やっぱりからかってるじゃん」

 少年の苦笑交じりの言葉に答えず、ジョバンニは着替えを手に脱衣所へと入っていく。少年は呆れながらも、この世界にやってきて初めて誰かと軽口を叩き合えたことに心地よさを覚える。

 が、それも束の間のことで、すぐに居心地の悪さを強く感じることになる。なぜなら、薄い扉越しに衣擦れの音が響いてきたから。ちらと視線を向ける先にあるのは曇りガラスで、つまり服を脱いだジョバンニの肌がぼんやりと、その向こうに透けて見える。

 数秒後、曇りガラスの向こうの姿が消え、シャワーの音が響く。少年は無意識に想像してしまう。水をはじく柔肌を。頬に貼りつく乱れた髪を。湯の心地よい温かさにまどろむ表情を。控えめな胸のふくらみを。薄く生えた陰毛を。

 ジョバンニは客観的に見て、人目を引くほどの美貌を持つ少女だった。眠たげに垂れた瞳。病的なほどに白く、それなのに不健康さを感じさせない肌。慎み深いまでに小さな鼻と唇。あらゆる部位が彼女の神秘的なまでの美しさを形成していた。尤も、単純な客観性から見るならば、イノリの美しさの方が遥かに上だった。イノリの美はもはやひとつの完成系とさえ呼べるもので、言葉で言い表すのが無粋なほどであった。が、少年の、異性愛者である少年の嗜好は、あえて俗的な言い方をするなら好きな女子のタイプは、ジョバンニだった。少年はイノリよりも、当然サクラやミコトや〈猿の手〉よりも、ジョバンニに性的魅力を感じていた。性欲を抱く相手が壁一枚を隔てた先で全裸でいる現実は、少年を昂らせた。

「お待たせ」

 十数分後、ジョバンニが部屋に戻ってきたとき、少年はこれ以上ないほどに勃起していた。少年はそれに気づかれないように、彼女に背を向け、ベッドに腰かけている。少年はちらとジョバンニを見る。髪を微かに濡らし、頬を上気させる彼女の立ち姿はあまりに魅力的だった。肩からタオルを下げ、安物のハーフパンツに白のTシャツ姿というラフな姿に、少年の心臓は強く波打つ。

「ああ、うん。じゃあ、僕もシャワー浴びてくるね」

「シャワーを浴びるついでに、元気なものを落ち着かせてくればいいと思う」

「そういうのには気づかないふりをしてもらえると助かるかな」

「勃起を否定しないカムパネルラくんはとても誠実」

「そんなこと言ってると襲うよ」

「もしそれを実行に移したら、殺す。比喩ではなく、文字通り、息の根を止める」

「……冗談じゃなさそうだね」

「大丈夫。私は、カムパネルラくんがそんなことをしないと信じている。ああ、それと、頭の中でなら私になにをしても構わない」

 少年はそれに答えず脱衣所に逃げ込む。服を脱ぎ、熱い湯を全身に浴びながら、ペニスを握る。言葉に甘え、ジョバンニと性交している自分を思い描き、彼女の肌の感触を、快楽にあえぐ淫らな表情を想像しながらそれをこする。妄想の中の彼女は激しく少年を求めている。少年の名を、カムパネルラではなく現実での少年の名を、いとおしげに何度も繰り返している。少年の知る抑揚のない声色ではなく、猫の鳴くような官能的なかわいらしい声で、何度も繰り返している。背徳的な妄想は少年をより、興奮させる。そうせずにはいられない不便な肉体を呪いながら、けれどそれ以上に興奮し、右腕を往復させ、数分後、果てる。微かな罪悪感を押し殺しながら呼吸を整え、白濁液を湯で流し、体を手早く洗い、部屋に戻る。射精を終えた少年の思考は、すでに切り替わっている。ジョバンニが少年と言葉を交わしたいと願うのと同様、少年もジョバンニと話したいと、そう望んでいる。

 ジョバンニは備え付けのテーブルに肘をつき、どこか気だるげに虚空を見つめていた。初めて目にする種類のジョバンニの表情に、彼女も疲れているのだろうと少年は察する。冷蔵庫を開き、ペットボトルのミネラルウォーターを二本取り出し、片方を彼女に差し出す。ジョバンニは初めて彼の存在に気づいたかのような視線を向け、「ありがとう」と呟き、それを受け取る。少年は自分の分の蓋を開き、唇を湿らせてから、彼女の向かいの椅子に腰かける。

「私は君のことを知りたい」

 その刹那、おもむろに切り出される。ペットボトルを両手で握り、少年に無防備な横顔を見せながら、ジョバンニはぽつりと呟く。「具体的には、僕のなにを?」

「たとえば君の、この世界ではない私たちが現実と呼んでいる世界での名前とか、住んでいる場所とか、家族構成、生い立ち、友人関係、趣味嗜好、学力、健康状態、宗教観、夢――そういったものに、私はなんの興味も持っていない。私が知りたいのは、この世界での、カムパネルラである君のこと。他ならぬ、カムパネルラくんの思考」

「たぶん、ここじゃない世界での僕と今の僕が考えてることは、イコールだよ。だって同じ人格なんだから」

「わかっている。私が言いたいのは、君がこの世界にいるからこそ考える君の思考ということ。なぜ、君は魔法少女を救いたいと思ったの?」

「別に深い理由はないよ。ただ、彼女たちの半生を知って、同情して、どうにか彼女たちに幸せになってほしいと願って、だから僕にできることを成し遂げるために、この世界に来た。それだけだよ」

「それだけの理由で、君は命を懸けることにした」

「その通りだよ。だけど、それはジョバンニさんだって同じでしょ?」

「そう、同じ。ねえ、カムパネルラくん。君は獣の言葉を、獣が見せた世界を無条件に信じた?」

「まあ、疑う理由もなかったから」

「それが君の、獣を信じた理由?」

「そう、かな。ジョバンニさんは違うの?」

「私は違う。私は、信じたかったから」

「信じたかった?」

 ジョバンニは少年の鸚鵡返しの問いに首肯し、

「だって、獣の語ったことが真実ならとても面白いと思ったから。フィクションの中にしか存在しないと思っていた魔法という概念が実在するなら、それはとても面白いと、私は思った。なぜならそこにはきっと、私の理解できないものがあるから」

「理解できないことが嬉しいの?」

「私は幼いころからなんでも理解してしまったから。人の心まで、手に取るように察してしまうことができたから。だからなにもかもが退屈だった。けれど魔法は、超越的な存在まではきっと私は理解できないから、そう思って獣を信じて、魔法少女とかかわることにした。そして、この世界に来た。ねえ、カムパネルラくん。私がとてもワクワクしていることに、君は気づいていた?」

「まあ、そうだろうなとは察してたよ」

「私は生まれて初めて、とても高揚している。楽しいと感じている。君も神堵さんも幽さんも鬼鯉さんも、誰もが別の形で苦しんでいる中、私だけが心から、この世界を楽しんでいる。ねえ、カムパネルラくん。君は私を、軽蔑する?」

「しないよ。ジョバンニさんが誠実に僕と向き合ったうえで、今の話をしてくれたってわかるから。それに、結果として君が彼女たちを助けるために動いてくれるなら、その動機なんて問題じゃないと僕は思う」

「ありがとう。ねえ、カムパネルラくん。君がきっとそう言うだろうと予想した上で私は今の言葉を吐き出したのだけれど、それでも私を信じてくれる?」

「変わらないよ。僕は君を信じる。昨日だってそう言ったでしょ」

「やはり、君はとても誠実な人」

「ただ、信じるって言葉に偽りはないけど、僕も神堵さんと同じ疑問を持ってるよ。ジョバンニさん、君はどうして自分が魔法を使えるって知ってたの?」

「神堵さんに答えた通り。魔法を使いたいと願ったから。それだけ」

「じゃあ、神堵さんと鬼鯉さんが使えない理由は」

「魔法を使いたいと、本気で願っていないから」

「そうかな? 僕には、神堵さんの表情が真剣だったように見えたけど」

「カムパネルラくん。魔法少女の素質を持つ人間の特徴を思い出して」

「……大人になりたいと、願うこと」

「それがこの世界でどういう意味を指すか考えて」

 少年は言われた通り考える。が、文字通りの意味以外の発想が思い浮かばない。ジョバンニの意味ありげな言葉の真意を推察できない。だから代わりに少年は、話題を変える言葉を吐き出す。

「僕にも使えるかな?」

 ジョバンニはニヤリと笑った。なぜなら、少年がなにより訊きたかったことはそれだろうと察していたから。

「私も君も、この世界では同じ存在。私たちは運命共同体。とても近しい存在。だから、私にできないことが君にできることはないし、その逆もまた、然り。だけど、あまりお勧めしない」

「僕は魔法を使うべきじゃないってこと? 僕だって、この世界で万が一に巻き込まれたときのために、闘う力がほしいんだ」

「気持ちはわかる。けれど、その役目は私に任せるべき。君が魔法を使うべきは、今じゃない」

「……わかった。ジョバンニさんがそう言うなら、信じるよ。僕は、僕が魔法を使うべき瞬間を待つ」

「カムパネルラくんの理解の良さには本当に感謝している。お礼もできないことが心苦しい」

「いや、僕の方がお礼しなくちゃいけないくらいだよ。魔法で助けてもらってるし、ここのお金だって……ああ、もしもお礼がしたいっていうなら、触れてもいい?」

 口にしてから、言い方が悪かったと気づき少年は顔をしかめる。案の定、ジョバンニは眉をひそめ、

「申し訳ないけれど、私は君との性的接触を望んでいない」

「ゴメン、言い方がまずかった。そうじゃなくてさ……僕はこの世界に存在するものすべてを、信じられずにいるから。この世界そのものを疑って、本当は自我以外なにもないんじゃないかとか、そんなことを考えちゃうから。だからせめて、ジョバンニさん。君に触れて、君が間違いなくそこにいることを、確かめたい」

 カムパネルラの言葉にジョバンニは相好を崩す。そして立ち上がり、ダブルベッドの中央に座ると、少年に向けて両腕を広げた。

「そういうことなら、さあ」

「ああ、いや、その……そこまでは求めてなくてさ、ただ、手とかを握らせてもらえれば、それで十分なんだけど」

「遠慮することはない。さあ」

 どうやら真面目に言っているようだ。意地になっても無駄だろうと少年は察し、嘆息し、立ち上がる。遠慮がちにベッドの上に乗り、ジョバンニの正面に座り、彼女の肩を抱いた。

 同時に、ジョバンニの腕が少年の腰に回る。頬と頬が触れ合うほどに顔を寄せてくる。頬に触れる髪先がむずがゆい。微かに漂ってきたシャンプーの匂いが自分のそれと同じで、そのことに気づいた瞬間に顔が赤くなる。

 が、それだけだった。その瞬間が少年の鼓動の高鳴りの最高潮で、数秒後、彼の心は凪いでいた。性的な昂りはなく、腕の中の少女の体温に居心地の良さを感じていた。ジョバンニが信頼して自分に身を寄せてくれていることを理解し、そのことを幸福だと感じた。

 数分、あるいは十数分、二人は抱き合い、そしてどちらともなく離れた。それ以降、彼と彼女のあいだに言葉はほとんどなく、コンビニ弁当の夕食を済ませ、なにもしない空虚な時間を過ごした。「明日も忙しくなる」というジョバンニの言葉に従い、夜は早く眠った。ジョバンニはダブルベッドで。少年はソファーで。

 一方、壁一枚を隔てた隣室ではその夜、なにが為されたか。二人の魔法少女はどのような言葉を交わしたか。

「ねえ、イノリちゃんはいらないの? 夜にこんな食べたら太っちゃうからさ、一緒に片してよ」

 大袋のポテトチップスを齧りながら、呑気な口調でサクラがイノリへ言う。事実、サクラの感情は呑気そのものだった。彼女はこの状況に、緊張感の欠片も抱いていない。彼女の心情は例えるなら、修学旅行の宿泊先で高揚している気分のそれに近い。ただし、そう感じているのが自分だけであることも、サクラは自覚している。先ほどから何度もイノリへ声をかけているが、彼女はそれに答えず、窓の前に立ち、その向こうに広がる街の明かりを見下ろすばかりだ。まあ、こんなにくつろいでるあたしの方がおかしいんだけどね、とサクラは苦笑し、ポテトチップスを口に放り込む。舌に感じる塩味のリアルさ、ある種の生々しさを、サクラは心地よいと思う。サクラはパリパリと、ポテトチップスを齧り続ける。残りがわずかになり、袋に記載されたカロリーを覗いて顔をしかめたころ、唐突にイノリが振り返り、サクラを見つめた。

「あなたはいつもそう。おちゃらけるばかりで、目を向けるべきことから逃げ続けている」

「まあ、あたしはもう、どうだっていいって思ってるから。いま死んでも後悔はないもん。イノリちゃんもさ、生きたいって思ってるならもう少し気楽に考えたら? この状況が異常で大変だってことはもちろんわかってるけど、だからといってあんまり気を張っても疲れるだけだよ」

「あなたは考えなさすぎ。魔法獣と殺し合いをしているときだって、そうだった。あなたはすべてが投げやりだった。楽天家のフリをして、誰より後ろ向きな闘い方をしているのはあなただった」

「あはは、手厳しいね。うん、イノリちゃんの言う通りだと思う。あたし、何度も死にそうになったし。イノリちゃんにどれだけ命を救われたかわからないよね。ホント、ありがと」

「本当に感謝しているなら、あなたも私に協力して。隣の部屋の二人も、幽さんも信用できない。だから私とあなたで、この世界から抜け出す方法を考えるの」

 あたしのことだって信用してないくせに――と思うが、口には出さない。あるいは、他の三人に比べればまだ信用されているかもしれない。が、イノリの言葉に答える気はない。難しいことなんて考えたくないと、サクラはそう、真剣に願っている。ゆえに、話をそらす言葉を吐き出す。

「隣の部屋っていえばさ、今ごろあっちではなにやってるのかな? って、考えること自体が無粋か。カムパネルラくん、ジョバンニさんのこと何度もチラ見してたし、ジョバンニさんも絶対に気づいてるのにああして誘ったし。この世界ってもしかして、ゴムつけなくても平気なのかな?」

「くだらない話はいいから、鬼鯉さん、あなたも真剣になって」

「てか、イノリちゃんほどの美人がいるのに別の女の子が気になるって、カムパネルラくんも変わってるよね。テレビで見てたときもヤバいなって思ってたけどさ、イノリちゃんと初めて会ったときあたし、息が止まったもん。息を呑むって言葉の意味がそれまでよくわかってなかったんだけどさ、本当にびっくりすると呼吸って止まるんだなって理解したくらい、イノリちゃんってきれいだよね。いつまで見てても飽きない。まあ、誉め言葉なんて聞き飽きてるとは思うけど」

「私の話なんてどうでもいいの。いいから、口を閉じなさい」

「ねえ、カムパネルラくんって、ぶっちゃけカッコよくない? クール気取ってるカンジの男子ってけっこういるけどさ、そうじゃなくて、素で落ち着いてる雰囲気があって、こう、知的なカンジっていうのかな? 顔もいいし、アリだと思うんだよね。イノリちゃんはどう思う? ああ、でもあれか。イノリちゃんはカッコいい俳優さんとか見慣れてるもんね。ちょっと顔がいいくらいじゃなんとも思わないか。ねえ、ここだけの話、誘われたとかそういう話ってある? 有名な俳優の誰とエッチしたとか……」

「口を閉じなさいと言ってるでしょう!」

 心からの怒気と恐怖を孕んだ声で、イノリが咆哮をあげた。殺し合いの最中ですら見せたことのないおぞましいほどの殺気に、サクラは絶句し、困惑する。本人は気づいていないが、恐怖に手足が震えている。

 イノリが性的なものを嫌悪し、怯えていることを、サクラは知らなかった。なぜなら、イノリは決して自らのことを語らなかったから。激しい殺し合いの合間に、サクラはイノリとミコトへ自らのことを語った。弟と愛し合った自らの愚かさを、聞いて欲しいと願ったわけでもなく、ただ深い考えもないままに言葉にした。同時に、訊ねた。なぜここにいるのかと、イノリとミコトへ問いかけた。ミコトは請われるがまま語った。死に魅了され、正気を失っていたころのミコトは自慢げに、自らの過去を言葉にした。けれどイノリは、頑ななまでに口を閉ざしていた。誰にも心を開かないと、彼女は強く決意していたから。ゆえに馴れ合うようなことは、たとえば意味のない雑談を交わすようなことは一切しなかった。だから自らを語ることもしなかった。語らなかったせいで、こうして今、サクラはパンドラの匣に触れてしまった。イノリは男のことを思い出し、恐怖した。けれどサクラの目からはその表情に、憤怒の感情しか読み取れない。殺される、と、サクラは直感的に思った。そう感じるほどの怒気だった。

 が、数秒後。サクラの身にふりかかったのは拳でも鈍器でも刃物でもましてや魔法でもなく、溜め息だった。深く長い、濃い疲労をまとった溜め息だ。

「……大きな声を出して、ごめんなさい。忘れて」

 イノリはあまりに気高かった。恐怖のあまり正気を失いかける恥をなにより恐ろしいと感じるほどに、彼女の心には変わらず、気高さがあった。ゆえに恐怖を押し殺し、微笑さえ浮かべ、サクラへ囁きかける。

「ああ、いや……こっちこそゴメンね。ちょっとふざけすぎた」

 それに答えるサクラの声は震えている。あははと、乾いた笑いをこぼす。束の間、二人は不器用に笑い合う。が、数秒後にはイノリの表情が再び引き締まり、

「ええ、そう。あなたはふざけすぎ。さっきも言った通り、あなたは見るべきものから目を背け続けている」

「ああ……うん、そうだよね。その通り。あたしになにができるかなんてわからないけど、イノリちゃんやカムパネルラくんやジョバンニさんや、それにもちろんミコトちゃんのために、この世界でなにができるかを考えて……」

「そうじゃない。あなたが見るべきは、弟さんでしょ?」

 言葉にされた瞬間、サクラの心臓はどくんと、痛いほどに跳ねた。言われるまでもなく理解しているにもかかわらず、サクラの額を汗が濡らした。

 わかっている。わかっているのだ。あたしがこの世界に残りたいと願っていることも、死んでもいいと思っていることも、カムパネルラくんに惹かれたフリをしていることも、投げやりなことも、すべての理由は共通している。弟を忘れるためだ。それ以上でも以下でもない。

 真剣な表情のイノリを見つめ返し、彼女の瞳を覗き込んだ瞬間、ふと、サクラの脳にひとつの不吉な考えがよぎる。もし、この世界のことが現実に影響を与えるとしたら。死者が蘇り、生徒たちが凶行に走るこの世界の出来事がこの世界だけに留まらないとしたら、弟の身になにか起きてしまうのではないか、と。

 この世界がただ地理的に遠く離れた場所というわけではなく、自分たちのよく知る現実と全く別のものであることは、もはや明白だった。なぜなら買い物に出かけたとき周囲を観察してみたが、地名を示す言葉がどこにも見当たらなかった。コンビニや喫茶店などのチェーン店には一般的に、『○○店』というように地名や近くの駅名がどこかに掲示されるものだが、それがどこにも見当たらなかった。自分たちの宿泊しているビジネスホテルにしても、それは同様だった。だから、ここは現実のどこでもない。あたしたちが迷い込んだ、現実とは違う、あるいはもうひとつの現実と呼ぶべき世界線だ。いわば、仮想世界だ。

 サクラはポテトチップスの袋をまじまじと見つめる。それは幼いころからよく食べている、有名企業の看板商品だ。つまり、現実に存在するものだ。だったら、ここも現実と呼べるのか? けれど、あたしたちの立つこの大地は、現実と地続きではない。

 わからない。バカなあたしには、なにもわからない。サクラにわかっていることは、目の前のポテトチップスが弟の大好きな銘柄のものであることと、自分がそれを無意識に選んでいたことだけだ。弟と一緒に食べたいから、という理由で。


 ――その日の深夜。少年もジョバンニもイノリもサクラも熟睡している、夜遅く。とある動画サイトに、ひとつの動画が投稿される。現実世界にも存在する、世界的に有名な動画投稿サイトだ。投稿者は他ならない、〈猿の手〉だ。カメラの中央に置かれた椅子に彼女は座っている。背景から、そこが彼女たちの通う高校の教室であることがわかる。椅子もその教室にあったものだ。動画は、中央に腰かける〈猿の手〉がカメラに向かって話すだけのものだ。彼女は優雅とさえいえる微笑を浮かべながら、カメラの奥の大衆に向けて、語る。

「やあ、この映像を見つけてしまった愚かな諸君。唐突だけど、ボクは生き返った存在だ。一度目は、車に轢かれて。二度目はクラスメイトに刺されて、命を落とした。それなのに生きている。死に損ないの、呪われた肉体で、蘇ってしまった。そう。呪われているんだ、このボクは。あらゆる生物はいつか死ななければならないという世の中の摂理を、ボクは破りたくない。だからボクは死にたい。けれど、死ねない。なぜなら四人の魔法少女によって呪われているから。今からその四人の名を告げる。ジョバンニ、神堵イノリ、鬼鯉サクラ、カムパネルラ。以上の四名だ。この者たちを殺せ。殺すのだ。さもなければ、君たちもまた、呪われる。永遠に」

 そこで映像は切り替わり、四人の顔写真が表示される。静止画が数秒続いてから、動画は終わる。

 同じころ、もうひとつの動画が同じサイトに投稿される。その投稿者はミコトだ。場所は〈猿の手〉が動画を撮影したのとは別の空き教室だ。ミコトもまた、映像の中央に置かれた椅子に腰かけ、語る。

「人は死なないよ。死なんてものは存在しなくて、そんなものは思い込みにすぎなくて、これから人は、誰も死ななくなるよ。あなたは死なないよ。死なない。死なない、死なない、死なない死なない死なない死なない死なない死なない死なない死なない死なない――だから、神堵さんも、鬼鯉さんも、死ぬことはない。死なないで」

 ミコトの動画が再生数を増やすことはない。彼女の言葉は誰にも届かない。けれど対照的に、〈猿の手〉の動画は再生数を何百万、何千万と、一晩のうちに増やしていく。不自然に拡散していく。〈猿の手〉の信者が各地に発生する。呪われたくないと希う者たちが、〈猿の手〉を妄信し、彼女の言葉に従う。つまり、呪われし魔法少女を殺そうとする。

 斯くして、四人はすぐに見つかる。目撃情報から、彼女たちの潜伏先であるビジネスホテルが特定される。信者の集団が無数の足音と咆哮を響かせながら階段を駆け上がる。駆け上がり、四人の部屋の前に辿り着く。扉を激しく叩かれる音によって、陽が明けて間もない時刻に、少年たちは叩き起こされる。

「え、ちょっと待って、なにごと?」

 少年が困惑の声をあげながら飛び起きる。意識が覚めていく中で、その音に激しい怒号が紛れていることにも気づく。その数はきっと、十や二十じゃ足りない。記者に追いかけ回される芸能人はこんな気分なのだろうかと、少年はどこか能天気にそんなことを想像する。

「もしかしたら、神堵さんのファンが押し寄せてきたのかもしれない」

「ジョバンニさん、楽しい冗談を言ってる場合じゃない気がする」

「楽しい? それはよかった。私はよく、冗談がつまらないと言われるから」

「ジョバンニさんの笑いのセンスはどうでもいいから。理由はわかんないけど、絶対にこれって僕たち危なくて――」

 言葉の途中で、ガチャリと鍵が回され、血走った目の集団がなだれこんできた。先頭にいるのは、ホテルの制服に身を包んだ男性だ。ホテルの従業員にも〈猿の手〉の信者が発生してしまったために、合法的な手段で少年たちの部屋は破られた。この時点で動画の存在を知らない少年は狼狽する。が、あらゆる可能性を考慮していたジョバンニは落ち着き払っている。ジョバンニがおもむろに左腕を掲げると同時、信者たちの両脚から一斉に大量の鮮血が噴き出した。怒号が一瞬のうちに悲鳴に変わり、彼ら彼女らはバタバタと倒れていく。床がどす黒い赤に染まる。リアルな血の色と臭いに、少年は微かな吐き気を覚える。

 廊下からも悲鳴が響いてくる中、ジョバンニが今度は壁に腕を向ける。イノリとサクラの部屋とを隔てている壁だ。直後、その壁が激しい音を立てて崩れ落ちた。瓦礫の積み重なったその向こうに、無力な二人の少女に向けて群がる無数の醜い人間たちがいる。イノリとサクラは痛ましいまでの悲鳴をあげている。が、信者たちの手が少女たちを掴むよりわずかに早く、またもや彼らは血を噴き出した。ジョバンニの魔法の前に彼らはなすすべもなく倒れていく。が、少年は部屋の隅に、床に落ちた拳銃を握り、震える腕でイノリへ狙いを定める女の姿を見つけてしまった。少年は無意識のうちに駆け出し、血だまりを跳ね飛ばし、倒れる人間たちを踏みつけ、瓦礫を掻きわける。そして女の元へ近づき、拳銃を握る腕を蹴り飛ばした。転がった拳銃を拾い、窓の外に投げ捨ててから、怯える表情で己の肩を抱くイノリに駆け寄る。

「神堵さん、平気? ケガしてない? 鬼鯉さんも」

「え、ええ……平気。あり、がとう」

「あたしも、ギリギリでなんにもされなかった。ジョバンニさんもカムパネルラくんも、ホントにありがと」

「お礼は土壇場でカッコいいところを見せてくれたカムパネルラくんだけに向けられるべき」

「そんなことより、これ、どういうことなの?」

「私にもわからないことはある。仮説さえ立たない。確信を持って言えるのは、逃げるべきだということだけ」

 ジョバンニが語り、直後、四人の肉体が宙を浮く。少年たちの部屋の窓が割れ、そこをくぐり、信者たちの追いすがるような悲鳴を背中に浴びながらホテルを後にする。

 なにが起きたのかわからないし、襲ってくる相手がどこにいるのかわからないけれど、空にいる限りは安全だ――と思った少年とイノリとサクラの期待は、ほんの数秒後に脆くも崩れ去る。

「あれ、なにかしら?」

 飛翔先を指さしながらのイノリの言葉に、全員が視線を向ける。三人は同時に気づく。虚空に、黒々としたなにかが浮いている。自分たちの方からそれに近づきながら、あちらも、こちらに向かって宙を駆けている。

 肉眼で捉えられる距離まで迫ったそれは、楕円形の肉体に、タコのような関節のない脚を十数本持った、禍々しい物体だった。手足が不気味にのたうち回っていることから、少年はそれが生きていることを理解する。四人の肉体は宙に停止する。数メートル先で、それも移動を止める。鱗で輝くグロテスクな容貌に、少年とジョバンニは顔をしかめる。イノリとサクラは、全く別の理由から顔をしかめている。

「どうして、ここに魔法獣が……!」

 イノリが掠れる声をあげた直後、異形が脚を振り上げながら襲いかかってきた。が、ジョバンニの魔法によってその肉体は業火に包まれ、断末魔をあげながら灰と化す。

「へえ、今のが、魔法獣。拝める機会はないと思っていたから、会えて嬉しい。それに――どうやら、他にもいっぱいいるみたい」

 ジョバンニが呟いた刹那、四人の前後左右、そして上下を囲むようにぼんやりと、十数体の黒い影が現れた。それらは徐々に形を変化させ、無から有へと具現化し、数秒のうちに魔法獣へと変貌した。具現化した異形が一斉に襲いかかってくる。が、ジョバンニはそれらを返り討ちにする。少年たちに近づくことすら叶わず、魔法獣たちの肉体が次々と灰になる。文字通り、無駄死にする。ジョバンニは顔色ひとつ変えずにバケモノを葬り去っていく。積み重ねた死の数が瞬く間に増えていく。が、一個体が絶命するその瞬間にも新たな影が具現化し、魔法少女たちに迫りくる。際限なく、いつまでも。十数分、変化のない攻防が繰り返される。さすがのジョバンニの表情にも辟易した色が滲んでくる。少年とイノリは悔しさに顔をしかめる。僕が魔法を使えるようになればいいのに、本来の私ならこいつらなんて簡単に殺し尽くせるのに、と。

「……もしかして、これは」

 さらに数分が経過したころ、ジョバンニがなにかに気づいたかのように顔をはっとさせ、呟いた。少年がその横顔を見つめていると、次の瞬間、四人の体が魔法獣たちの隙間をくぐり抜けながら、真下へと落下した。重力による自由落下ではない。ジョバンニの意思によって、地上へと移動したのだ。唐突に流れていく景色に、ジョバンニ以外の三人は小さく悲鳴をあげる。魔法獣との距離が一気に広がる。すぐにその姿がまた迫ってくる、かと思いきや――消滅した。前触れも跡形もなく、視界の中の異形たちが一瞬のうちに消え去ったのだ。そして、新たな影が発生することもなくなった。

「えっと、これ、どういうこと?」少年の問いにジョバンニは小さく頬を緩め、

「あのコたちは、私たちが襲撃される対象であることを私たち自身に知らしめるための舞台装置でしかなかった。人間は空を飛ぶことができないから、その代替として。だから地上に降りてしまえば、あのコたちが消えるのは当然」

「つまり、わかりやすく言うと」

「この世界のあらゆる事象は私たちの、いや、魔法少女のためだけに存在しているということ」

 イノリとサクラはジョバンニの言葉に呆然と耳を傾ける。すべてが、私たちのため? 意味がわからない。彼女たちの代わりに尚も少年が問おうとすると、

「だからたぶん、地上でもまた同じことが起きる。今度はまた、人間の手によって」

「……魔法少女のために魔法少女が襲われるって、意味がわからないんだけど」

「もっとわかりやすくするなら、魔法少女を中心にこの世界が回っていると言い換えられる」

 少年とイノリとサクラは、ジョバンニの言葉を噛み締め、口を噤む。そうしている間に四人は地上に降り立つ。閑静な住宅街だ。国道を挟んだ向かいに海を見下ろせる。潮騒と仄かな潮の香りのあまりの生々しさに、少年は頭がクラクラする。潮騒がやたらと耳障りに感じる。なぜかと考え、不自然なほど人気がなく、あまりに静かだからだと気づく。が、まるで少年の思考を読んだかのように、次の瞬間、怒号が響いた。少年たちを囲む民家から次々と人が這い出てくる。ただの民間人らしい装いの老若男女が、殺気と共に迫ってくる。彼ら彼女らの目は同様に血走り、口は絶叫と共に大きく開かれ、手にはそれぞれ鈍器や刃物にスタンガンと、あらゆる凶器を抱えている。

「さっきから一体なんなの!?」

 サクラが悲鳴と共に少年の腕に抱き着く。ジョバンニに頼るしかない少年には、彼女の肩を抱くことしかできない。イノリは毅然とした表情を顔に貼りつけ、迫ってくる有象無象を睨む。ジョバンニは少年と魔法少女を一瞥してから、嘆息する。

「気は進まないけれど、仕方ない」

 そして呟き、左腕を天に掲げ、ゆっくりと、肘をピンと伸ばしたまま、集団に向けて振り下ろした。

 その瞬間、集団の先頭にいた数名の男女の腕が吹き飛んだ。切断面から鮮血が噴き出し、彼らはふらりと膝から崩れ落ち、地に伏す。未だ生暖かいであろう彼らの肩から先が辺りを転がる。グロテスクな光景に少年は思わず視線をそらす。戦闘で死体を見慣れたイノリとサクラは、ただ目を見開く。イノリはジョバンニの肩を強く掴んで引き寄せる。

「ちょっと、なにをしているの!? いくら襲われているといっても、限度があるでしょう!」

 ジョバンニはそれに答えず、イノリに掴まれていない方の腕を、今度は正拳突きの要領で前に突き出した。刹那、その腕に貫かれたかのように、集団の大半の胸から大量の血が零れ落ちる。彼らの胸に風穴が空く。崩れ落ちる彼らは、確認するまでもなく絶命していた。さすがのイノリも唖然とする。サクラは額を強く少年の肩に押し付ける。そのあいだにも、ジョバンニは殺戮を続ける。

 数秒のうちに、辺りは地獄絵図と化した。ほんの数分前で辺りに蔓延していたおぞましいほどの生の気配が、今は跡形もなく霧消している。残ったのは、潮の匂いを覆い隠すほどの血の匂いのみ。少年が恐々と死体の山へ目を向けると、数羽のカラスが死肉を貪っていた。少年は吐き気をこらえる。死体を見慣れているわけでもないのにこらえられたことを、自分で不思議に思う。肩には、小さく震えるサクラの額が乗っている。少年が彼女の手を握ると、ぎゅっと強く握り返される。

「……ジョバンニさん、あなた、自分がなにをやったかわかっているの」

 数秒、あるいは数分経ったころ。震える声で、ぽつりとイノリがこぼした。イノリの表情は憤怒に染まっている。ジョバンニはイノリの顔を見つめ返し、小首をかしげる。

「襲ってくるから、殺した。ただそれだけ」

「それだけって、あなた……なにも、殺さなくたっていいじゃない。あなたなら動きを封じるだけのことだってできたでしょう? さっき、ホテルだってそうしたじゃない。どうしてあの人たちが襲ってくるのかだってわかってないのに、事情もお構いなしでこんなことするなんて、あなた、人の心がないんじゃないの?」

「私にも心はある。私だって人が死ぬのは悲しいことだと思う」

「どの口がそんなことを……」

「私には神堵さんがなにを怒っているのかわからない。だって、君だって気づいているんでしょう? この世界が偽りのものでしかないって」

 イノリは息を呑む。ジョバンニの指摘の意味を、脳内で整理する。

 無論、勘づいてはいた。自分たちのいる場所がよく知る現実とは異なる世界だということは、諸々の状況から確信していた。そしてここは、少年とジョバンニの言葉を信じるなら、自分たちを救うために連れてこられた世界。つまり先ほどのジョバンニの言葉を借りるなら、魔法少女のための世界。それが創られたものであって、現実ではない、偽りのものでしかないという仮説は決して突飛なものではない。イノリはそう理解する。理解するが、それでも簡単に納得はできない。言い返さずにはいられない。

「……ジョバンニさん。あなたは、この世界が偽りのものでしかないから、彼らも命のある存在ではないと、そう言いたいのね?」

「神堵さんは理解が早くてとても助かる」

「たとえ偽りであろうと、この世界はとても精巧に創られている。ここに存在する彼らが生命を持たないと、意識も自我もないと決めつけるのは、早計じゃないかしら」

「なるほど。では、この世界ではあらゆる物質に自我の宿っている可能性もあるから、なにも壊してはならない。食べるものにも自我があるかもしれないから、絶食しよう。私たちの踏んでいるアスファルトにも痛覚があるから、かわいそうだから早くここを離れよう」

「こんなときでさえ、あなたには茶化すことしかできないのかしら」

「茶化しているつもりは全くない。意識や自我を語るには、そこまで言及しければならないと私は思う」

「だったら、詭弁ね」

「そうかもしれない。けれど私は、人が詭弁と呼ぶものにこそ、誠実に向き合いたいと思っている」

 イノリはジョバンニの言葉を噛み締める。噛み締め、目の前の小柄な少女を見つめ返す。彼女の顔に、人を小馬鹿にするようないつもの微笑はない。真剣な眼差しで、自分を見つめ返している。

 イノリは小さく嘆息してから、死体の山に向けて合掌した。イノリが顔を上げると同時、ジョバンニが「浜辺に行こう」と呟き、歩き出す。三人は彼女の背に無言で着いていく。サクラはすでに少年の肩から離れ、顔を前へ向けている。

 不自然なまでに車の往来がない国道沿いを歩く。国道に伸びる四人の影を通過する存在は、この世界になにひとつない。葉のひとひらさえ、彼らの周囲をたゆたうことはない。しばらく歩いた先に見つけた狭い下り坂を進んでいくと、数分のうちに浜辺へと辿り着いた。そこにも、やはり、人の姿はない。海沿いの遥か先にカラスがいる。感じ取れる命の気配はそれだけだ。少年は周囲を見渡す。視界を遮るものは寂れた海の家程度で、人の隠れられそうな場所はない。襲われる心配はなさそうだ。

「神堵さん、鬼鯉さん、カムパネルラくん。来て」

 ジョバンニの呼びかけに応じ、小さく寄せては返す波へと、三人が近づく。三人が見ている前で、ジョバンニはそっと、爪先を水に浸した。そしてゆっくり、ゆっくりと歩を進め、膝まで水に浸かる。

「冷たくない?」

 少年の問いに、ジョバンニは首を横に振る。「その問いはナンセンス。だってこの世界は、常に適温。天気、あるいは季節という概念があるのかさえ不確か。少なくとも私はそう感じている。カムパネルラくん、君は?」

「まあ、概ね同意かな」

「みんなも入るといい」

 ジョバンニの言葉にイノリは拒絶の表情を浮かべる。が、その横のサクラはスウェットの裾をまくると、躊躇う様子も見せず、海へと入った。そして、衣服が濡れるのも構わず、ジョバンニへ水を浴びせかける。ジョバンニの白いTシャツが透け、少年はドキリとする。ジョバンニは刹那、驚きに目を開く。が、すぐに表情を崩し、ニヤリと笑った。サクラも、どこか戸惑う様子を見せながら、不器用に笑みを浮かべている。

「さすが鬼鯉さん。ノリがいい」

「あんな光景見せられた後だから、あんまり気は進まないけど……たまには遊ぶのもいいよね」

「そう。遊ぶのはとても楽しい」

 ジョバンニとサクラがそう言い合うと、水をかけ合い、まるで古くからの親友同士のようにはしゃぎ始めた。イノリは深々と嘆息してから、諦めたように水際に、膝を抱えて座る。寄せてくる波が、彼女の爪先を微かに濡らす。少年は一メートルほどの距離を空け、イノリの隣にあぐらをかく。近づくことをためらったわけではない。腰かけようとした場所に、数センチ程度の小さなカニがいたからだ。少年がそれを見つめていると、気づいたイノリも視線を向ける。二人に見つめられながら、小さな生命は海へと懸命に歩き、海の中へと消えた。

「あの教室にいたクラスメイトたちより、さっきの人たちより、このカニの方がずっと、なんていうか、生きてるって思わせてくれる気がする」

 少年が誰にともなく呟く。ジョバンニとサクラのはしゃぎ声に、あるいは波の音に紛れて消えてしまっても構わないと思いながらの小さな声で。が、それはイノリに届く。彼女の鼓膜を震わせる。間違いなく少年の目の前に座り、心臓を震わせているイノリの鼓膜を、だ。

「あなたの言っていること、わかる気がする」

 ゆえにイノリは答える。己がそこにいることの証明として、少年の言葉に答える。風が吹き、イノリの長い黒髪が流される。彼女はそっと、流れた髪を耳にかける。あらわになった彼女の横顔を、うなじを、髪に触れる指先を、朝焼けを映す瞳を、少年は美しいと思う。テレビや雑誌で目にするどんなに華やかな彼女の姿よりも、目の前の今に見惚れる。

「舞台の上で踊る神堵さんを、見てみたいな」

 思わず、少年はぽつりとこぼした。イノリが眉をひそめ、少年を見つめ返してくる。なぜ、この瞬間にそんなことを口にするのかと、その瞳は無言で問うている。

「僕は、神堵さんが生きているって知ることができたから。自分の脚で立つ、僕と同じ人間だって知ることができたから。だから、これからの君が舞台に立つ姿を見ることができたら、僕はきっと、それを心から美しいと思う」

「あなた、今まで私のことを、ロボットだとでも思っていたわけ?」

「そうじゃないよ。ただ、この世界に来て、世の中には信用できないものが溢れてるって思い知ったから。だけどこんな世界でも、現実でも、神堵さんが考え、苦しんで、悩んで、生きているってことを僕は知っている。少なくともそう思っている。君を心から信じている。だから、どうしようもない世界で輝く君を、掛け値なしに美しいって思えるんだ」

「……あなたといい、ジョバンニさんといい、抽象的な話しかしないのね」

「たぶん、僕も彼女も、口が下手なんだよ」

「いいえ。あなたは話すのがとても上手よ」

「お世辞はいらないよ」

「お世辞なんかじゃない。だって、まるで私のことを理解したかのような今のあなたの言葉に、私は苛立たなかった。私が苦しんでいるだなんて、そんなの、人から指摘されるだけでプライドの高い私はイラついてしまうのに、今は全然、そんなことはないもの」

「……それって、僕の言い方がどうとかって話じゃなくて、神堵さんが自分を認められるようになったってことじゃないの?」

 少年の言葉をイノリは鼻で笑った。私が、自分を認められるようになった? 冗談じゃない。私は今も昔も、自分のことをこれ以上ないほどに認めている。私は人の上に立つべき存在だと、優れた存在だと理解して……そこまで考え、彼女の思考は停止する。方向を見失う。あれ? 本当に、そうなのか。そうなのかしら? 私は、自分に、自信を持っている? 違う。いや、違うことはない。私は選ばれた人間だ。それは自信を持って断言できる。私を取り巻く人間は誰だって私を慕った。完璧な私を崇めた。けれど、それは違う。私は選ばれた人間ではあるが、完璧ではない。挫折を知らなかった私は、それを認められなかった。自分が立ち止まっていることを受け入れられなかった。けれど、今は。親友と仲直りをする方法さえ知らず、不審者から身を守るすべも知らず、迷惑をかけた人への謝罪の仕方もわからず、家族との接し方もわからず、この仮想世界ではなんの役にも立たない自分を、無力な自分を自分だと、認められる。いつの間にか、認めている。イノリはふと、こんな状況だというのに、夢想してしまう。どん底から這い上がった私がもう一度舞台に立ち、ファンに感動を与えられるならそれはどれほど素晴らしいだろうか、と。そう、ファンだ。見下すべき有象無象でも承認欲求を満たすための衆愚でもなく、この私を魅力的だと思ってくれる、あまたのファンだ。

「……なるほど、そうね。ありがとう、カムパネルラくん」

「ありがとうって、なにが?」

 お礼を言われた理由がわからず、少年は首をかしげる。イノリが「なんでもない」と呟くと同時、二人の正面で水の弾ける音がする。

「座ってないで、イノリちゃんとカムパネルラくんも遊ぼうよ」

 跳ねるような声でサクラが言った。続けて、ジョバンニが彼女の隣に立つ。濡れた衣服が貼りついた二人の体を目の当たりにし、少年はどぎまぎする。

「二人は、なにをお喋りしていたの?」

 ジョバンニが問う。少年は彼女の体のラインから顔を背け、たいしたことじゃないと呟く。少年の心情を手に取るように察しているジョバンニは微笑する。が、少年をからかうことはしない。今、語るべき言葉はそれじゃないから。

「神堵さん、鬼鯉さん。あなたたちは生きている? あなたたちが、私の殺した人たちと違う存在だと、胸を張って言うことができる?」

 イノリは迷わず首肯する。直後、なぜそう言い切れるのかと考え、少年にそう言われたばかりだからだと、気づいてしまう。少年の言葉があるから、私の存在を肯定してくれる人が目の前にいるから胸を張れるのだと、そう認めざるを得ないことに気づいてしまう。自信を失ったままの私だったら、以前の私だったらきっと、私自身が衆愚の妄想だと、ジョバンニの問いを卑屈に捉えていた。過剰な被害妄想に束縛され、部屋の隅で膝を抱えることしかできなかった。けれど、今の私は心が澄んでいる。魔法獣との闘いを終えてから初めて、己の気持ちが凪いでいることに気づく。それにしても、不思議だ。私はまだ、ジョバンニに屠られた彼らがどういった存在なのか、わからずにいる。彼らに自我がなかったなんて、無条件に信じられるはずがない。しかも、その問いの答えは永遠に葬られてしまった。それなのに私は彼と彼女を、少年とジョバンニさんを、信じられる。信じていると、気づいてしまった。二人が自分の味方だと確信したわけではない。けれど、仮に二人の目的が自分を殺すことだったとしても、彼と彼女は真摯だ。真摯に、自らの為すべきことへ向かっている。彼らは己に対して真摯だ。それだけは確信を持って言える。ならば、私は彼らと共に在ろう。なぜなら、己に対して誠実で誇り高い彼らは、斯くあるべき私の姿だから。私はなにがあろうと、自らに対しては誠実でいたつもりだ。少なくとも、そう在りたいと願ってきた。だから、私は彼と彼女に誓って、この首肯を自らの存在証明としよう。

 一方のサクラは、その問いに即答できない。だって、ほんの数分前に見た死体の山は、血の匂いは、薬莢みたいに散らばる腕は、あまりに生々しかったから。あらゆることがどうでもいいと思っているからこうしてはしゃいでいられるだけで、本来なら、ジョバンニの問いを耳にしただけで頭がおかしくなっていたかもしれない。だって、この世界ではなにもかもがメチャクチャだから。そう、メチャクチャだ。死んだ少女が生き返り、それを魔法少女のせいだと生き返った少女は語り、生徒たちは発狂し、襲われ、殺されそうになり、殺そうとしてきた人たちを一緒にいる女の子が殺し返し……ワケが、わからない。ジョバンニが指摘した通り、まさしく、この世界が自分たちのために存在しているとしか思えない。そうじゃなければ、魔法獣が前触れもなく現れたことも、まるで自分たちの居場所を知っているかのように人々が襲撃してきたことも、理由がつかない。サクラは思考している。この世界に来て初めて、真剣に思考し、仮想世界と向き合っている。なぜなら昨晩、イノリから指摘された言葉が頭を駆け巡っているから。あたしが向き合うべきは、弟。忘れたいのに、忘れられない。生きている限り、あたしの心臓を激しく打ち鳴らしているのは他ならぬ彼だと心臓自体があたしに語りかけてくるのだ。この、あたしの心臓に、彼が住んでいるのだ。

 弟に会いたいと、祈ってはいけないとわかっていながら、サクラの心は彼に染められてしまう。弟に一目会いたい、彼を今度こそ守りたい、と。だったら、あたしはなにをするべきなのか。世界と向き合う。それはわかる。どんな形で? あたしは、世界を見つめるべきなのか。あたしはどんな風景を、この瞳に映すべきなのか。

「鬼鯉さん、すぐに答える必要はない。考えること。それはとても重要だから。人は考える葦である。それは、とても素敵な言葉。だから鬼鯉さん。あなたにもうひとつ、考えるべきテーマを提供する――着替えは、どうしよう」

「え……あ! そうだよね、ゴメン! なにも持たずに飛び出しちゃったもんね、それなのに水かけちゃって、ホント、どうしよう……」

「ふふっ。冗談だから、焦らなくていい。たぶん、さっきの場所に戻れば、宿を使い放題。その辺りの住民は一人残らず、息絶えているだろうから」

 ジョバンニの言葉に三人は首肯し、浜辺を離れ、来た道を戻っていく。目的の場所に辿り着くが、そこに死体の山はない。しかしもはや、その程度のことで驚く人間は四人の中にいない。「きっと、彼らはすでにこの世界での役目を終えた存在だから、不要だから、消滅した」とジョバンニは呟き、その仮説は概ね正しいのだろうと、少年は密かに同意する。ちょうど近くに見つけた真新しい外装の一軒家を見つけ、警戒しながら四人は近づく。ジョバンニが先頭に立ち扉を引く。鍵はかかっておらず、ギギギと音を立ててそれは開く。足元を見下ろすと、靴はない。始めから魔法少女のために存在する家なのだろうと少年とジョバンニは納得し、安堵して中に脚を踏み入れる。リビングに侵入し、棚を物色し、着替えとタオルを失敬し、少女たちは少年を部屋から追い出し、着替える。数分後、入ってよいと扉越しに告げられ、Tシャツにジーンズのラフな格好に着替えたジョバンニとサクラと、ホテルと同じスウェットに身を包んだイノリのいるリビングに戻る。

「それで、これからどうするの?」

 イノリが誰にともなく問う。「僕たちが襲われた理由を調べる方法はないかな?」と、少年が答える。

「そもそも、納得のいくような理由があるのかしら」

「納得いくかはわからないけど、なんの脈絡も理由もないってことはないんじゃないかな。もちろん、ジョバンニさんの、この仮想世界が魔法少女のために存在するって仮説を根拠にするなら、だけど。そう考えれば、今まで僕たちの身に起きたことにも、ある程度の筋は通っているから」

 二人が話しているあいだに、ジョバンニは家の中から探してきたノートパソコンをコンセントに接続し、電源を入れる。三人は背後から画面を覗きこむ。ネットに接続し、自分たちに関係のありそうなニュースが表示されていないことを確認してから、有名な動画サイトに繋ぐ。そして、〈猿の手〉の動画を見つける。再生数が数億と表示されているそれをクリックし、〈猿の手〉の語る言葉に耳を傾け、四人は命を狙われるに至った経緯を知る。

「思った通り、〈猿の手〉さんが仕向けてきた刺客だった。魔法少女を殺せと語る彼女の言葉が世界に氾濫し、だから私たちは襲われた」

「フツー、どこの誰かもわかんない女の子が喋ってるだけの動画がこんなに拡散する?」

「もちろん、しない。けれど、出来事の経緯として筋が通っている。重要なのはそれだけ」

 サクラの疑問に、マウスを操作しながらジョバンニが答える。そっか、とサクラは呟く。三人は画面から目を離し、それぞれ、これからどうするべきなのかと自らの思考に没入し始める。ジョバンニは単純な知的好奇心から、色々な動画のサムネイルに目を向ける。画面をスクロールさせ、下へ下へと進んでいき、そして、見つける。関連動画の片隅に、知っている少女の顔がある。言うまでもない、ミコトだ。ジョバンニはミコトが投稿した動画をクリックする。リビングにミコトの語る言葉が響く。すぐにミコトの声だと気づいた三人が近寄り、映像の中央に座る少女の姿に釘付けになる。彼女の語る言葉の一言一句に耳を傾ける。死なない、と病的なまでに繰り返すミコトの瞳はどこか虚ろだ。少年とイノリとサクラは、忸怩たる思いで画面の中の彼女を見つめる。そして、ミコトは言葉にする。他でもない、共に戦った二人の魔法少女の名を。死なないで、と語りかけられた二人は困惑する。明らかに冷静ではない、なにかに恐怖している彼女が自分を呼びかけてきたことを不審に思う。なにか、理由があるのか。それとも、脈絡もなく頭に浮かんだ言葉が漏れてしまっただけなのか。イノリにもサクラにも、その答えは想像もつかない。考え、黙り込む。

「幽さんの投稿した動画がもうひとつある。どうやら、ついさっき投稿されたばかりみたい」

 ジョバンニの言葉に魔法少女たちは顔を上げる。が、映像の中にいるのはミコトではない。投稿者は『幽ミコト』となっているが、画面の中央に座るのは、否、漂うのは、目玉だ。

「ごきげんよう、お前たち。オレは、あるいはオレたちは、何者でもない存在だ。ただの目玉だ。そして、生き返った存在だ。尤も、オレは呪われてなんかいない。ただ、一度死んで蘇ったという事実があるだけだ。それ以上でも以下でもない。しかしどうやら、死者の復活を呪いだとか吹聴している愚者がいるようだ。その上に悲しい哉、愚者の言葉を鵜呑みにする、愚者以下のどうしようもない、蛆虫に劣った連中まで世界には跋扈しているらしい。下らない。死者の復活を恐れるのは前例がないから。それ以外の理由などない。ゆえにオレは、オレたちは、死ぬことにした。自らの意思で死に、そして生き返る。永遠の生こそ救済だと世に知らしめる。この動画が投稿された二日後、それを決行する。つまり自殺を、だ。幽ミコトとその信者たちが、校舎の屋上から飛び降りる。生き返るために命を落とした始原の人間になる。この映像を目にしているお前も、飛び降りろ。オレたちと共に、希望となるのだ」

 そこで、動画は終了する。最後まで、映像の中にミコトが姿を見せることはなかった。

「……このままだと、幽さんが飛び降り自殺しちゃうってことだよね?」

 少年の困惑の声に、ジョバンニが「それは問題ない」と答える。

「問題ないって、なにが」

「この世界に来て、私は二度、あの校舎の屋上から飛び降りた。けれど、ご覧の通り、私は死んでいない」

 ジョバンニは自らの行動を三人に向けて語る。行動の理由は、この世界が魔法少女ありきのものであるとする自らの仮説を立証するためだ。魔法少女を救うために仮想世界に誘われた自らが命を落とすのは、魔法少女にとってあまりに都合が悪い。ゆえに、自分の死はリセットされるのではないかと、ジョバンニはそう仮説を立てた。そしてそれは的中していた。この肉体とアスファルトが激突することはなく、時間は、意識は早送りされ、翌朝を迎えた。体には傷一つなかった。だから、ミコトが飛び降りたところで十中八九、同じことが起きるだけだ。彼女が死ぬことはない――と、ジョバンニは語った。少年は納得する。きっと、ミコトと目玉とジョバンニと話したあのとき、別れてから彼女は飛び降りたのだろうと、少年は察する。イノリもジョバンニの言葉に首肯する。ジョバンニが言うのなら真実なのだろうと、無意識のうちに受け入れている。

 ――が、サクラは違った。サクラだけは、ジョバンニの言葉に理解を示さなかった。それどころか、憤りさえ感じた。

「それ、希望的観測に過ぎないよね?」

 底冷えするサクラの言葉に、三人が彼女の顔へ視線を向けた。仮想世界に迷い込んでから軽薄な笑みと言葉だけを剥き出しにしてきたサクラが、今、本気で怒っている。三人が口を噤む中、サクラは続ける。

「確かに、ジョバンニさんは死ななかったかもしれない。だけど、ジョバンニさんとカムパネルラくんはあたしたちを救うための存在で、あたしたちは魔法少女。立場が違えば、運命だって変わる。少なくとも、この世界で人が死ぬのは事実でしょ? ジョバンニさんが殺した人たちは十中八九、生き返ってない。生き返ってたら、またあたしたちを襲ってるはずだから。だから、あたしたちだって死ぬかもしれない。あたしたちは魔法獣との闘いが終わってから、疲弊しきって、半分死んだような存在だった。あたしたちが死ぬかもしれないから、ジョバンニさんたちはこの世界にやってきたんでしょ? それほどまでに危うい、誰かに助けてもらわなくちゃいけないくらいに弱っているあたしたちが、この世界では死なないなんて保証、あるわけない」

 サクラがほとんど息継ぎもせず、一息にまくし立てた。サクラの言葉に少年は、その通りかもしれない、と思い直す。ジョバンニの言葉も筋は通っている。しかし、サクラの方が、説得力がある。「それにね」と、サクラは続ける。

「それに、仮にミコトちゃんが死ななかったとしても、信者たちは死ぬでしょ? たぶん、おかしいのは何度も生き返る〈猿の手〉の方だから。この仮想世界だって、人は死ぬから」

「その通りだとしても、彼らはしょせん、自我を持たない存在。私がこの仮説を変更することはない」

「そうだとしても――ミコトちゃんには、関係ないでしょ。ミコトちゃんがたくさんの生徒を死なせたって事実は、残っちゃうでしょ。ミコトちゃんは優しいから、絶対に、後になって自分を責める。だって、ミコトちゃんがジョバンニさんの言葉を信じるかどうかなんてわかんないし、それを証明する方法だってないんだから。だから、放っておくなんてできない」

「――つまり、鬼鯉さんはどうするの?」

 ジョバンニの囁くような声の問いに、少年とイノリは同時に察する。ジョバンニは、サクラを焚きつけているのだと。けれど、サクラ本人は気づかない。心からの怒りと焦りのせいでジョバンニの真意に気づかない。気づかないまま、感情の詰まった言葉を吐き出す。

「助けに行くよ。お願い、ジョバンニさん。あたしに力を貸して」

 告げながら、どこか冷静な部分を残したサクラの脳は思考する。ジョバンニを観察できるほどの冷静さはないが、自らの感情を客観的に分析することはできる――もう、全く。あたしはいつから、イノリちゃんとミコトちゃんに親愛の情を抱いてしまったんだろう。イノリちゃんもミコトちゃんも出会ったばかりの他人なんて信じてなくて、自分のために魔法少女になったって、あたしはそのことを察してたのに。あたしだけはバカみたいに、彼女たちのことを好きになってた。なってしまった。たぶん、きっと、あたしは人を好きになりやすい性格なんだ。どうしようもなく、情を抱いてしまうんだ。本当はずっと前から、弟以外にも、大切な人はずっとこの心臓にいてくれていたんだ。もっと早く気づくべきだった。こんなあたしを好きだと言ってくれた女の子がいる時点で、気づくべきだった。それなのにあたしったら、自分のことばかりで周囲に目を向けられなくて、少しだって思いやってあげることができなかった。助けられなかった。こんなあたしでも、まだ、間に合うのかな。絶望の中にいる弟に、あたしのせいで虐げられて苦しんでる友達に、救いの手を差し伸べてあげることができるかな?

 弟を助けたい。それに、友達を助けたい。友達っていうのはあたしを好きになってくれたあのコのことだけじゃない。もう一人。ミコトちゃんだ。あたしは、ミコトちゃんを助けたい。

「――もちろん、手を貸す。私はそのために、この仮想世界にやってきた」

 ジョバンニの真摯な言葉に、サクラはありがとうと、そう告げる。怒鳴ってゴメンねと、頭を下げる。ジョバンニは気にしなくていいと囁き、サクラの肩にそっと、手を置く。

 そのとき、少年は薄々と察している。同時に、ジョバンニは確信している――僕が、私が、鬼鯉サクラにしてあげられることはもう、なにひとつないのだと。


 一方、そのころ。ミコトは校舎の最上階の片隅にある、普段は使用されていない埃まみれの空き教室にいる。手で埃を払っただけの錆びた椅子に座り、窓の向こうの街並みを見下ろしている。校庭にも、その奥の国道沿いの歩道にも、人の姿はひとつも見えない。車の往来もない。扉の向こうには見張りを任せている信者たちがいるはずだが、どうしてかその気配を感じない。微かな呼吸や、咳払い、衣擦れさえも響いてこない。外界を遮断したかのようになにも伝えないミコトの五感が、彼女の感情を外部から遠ざける。本当に、この世界には自分以外誰もいないのではないかと、ミコトを不安にさせる。

 少年たちが校舎を去ってから、ミコトは一人になった。精神的にも物理的にも孤立した。〈猿の手〉はいつの間にか、その信者たちと共に姿を消した。それだけでなく、己の信者たちを残して、気づいたら世界から人が消えていた。生徒も教師もどこにも見当たらない。ゆえに授業は行われない。街を出歩いても、誰ともすれ違うことはない。この世界に来てから寝起きをしていた家に帰っても、新しい家族はいない。紛れもなく、信者たちを残して、誰もが消えた。扉の向こうの彼らが今この瞬間も本当に存在しているのかと、ミコトは疑心暗鬼になる。実際、ミコトは十数分に一度の割合で扉を開き、彼らの存在を確かめている。彼らは微動だにせず、そこに立ち尽くしている。信者たちの存在に安堵するのも束の間、感情の読み取れない、決して無表情を崩さない彼らの横顔に、ミコトは微かな恐怖を覚える。震える腕で勢いよく扉を閉め、再び椅子に深々と座る。そして溜め息をこぼす。自分は、ここでなにをしているのかと自問する。自答はできない。自答する権利のあるわたしなど本当に存在するのかと自らを疑う。意味のない行為であると理解しながら、それでも疑わずにいられない。

 パン、とミコトは自らの頬を叩く。乾いた音が響く。自問に対して自答するわたしがいない? そんなことあるはずないじゃないかと、脳裏をよぎった思考を頭から追い出す。周囲が静かなばかりに、時間を持て余しているばかりに、ミコトは察してしまっている。自我を持つ人間なんてこの世界にはわたししかいなくて、消失した人々は、扉の向こうのわたしを慕ってくれるあの人たちは、誰もが生きていないのではないかと。幻想でしかないのではないかと、ジョバンニと同じ結論に、ミコトは行き着いている。その結論を頭の中で弄り回した結果、思考をこじらせ、わたしなんていないんじゃないかと、極論を脳内に住まわせてしまった。わたしが思考していること自体が錯覚なのではないか、わたし自体が他者の妄想の産物なのではないか、と。その考えに支配されそうになり――けれど、それを頭から追い出した。ありったけの気概と心意気で、自らに潜む邪気を何度でも打ち消す。考えるべきはそれではないと、ミコトは自らへ強く語りかける。わたしが考えるべきは、〈猿の手〉が発した言葉だ。「魔法少女が生き返ることはない」と、まだイノリやサクラが教室にいたころ、喧騒の教室で彼女は確かにそう言った。そのときは一笑に付した。人は生き返るのだ。魔法少女だから云々なんて話は世迷言に過ぎない。が、永遠にも似た二十四時間が、長い思考の時間が、ミコトを正気へと引き戻した。魔法少女とかそうじゃないとか関係なく、人は死ぬよね? 死んじゃうのはヤダけど、でも、そうなんだよね? と、答える者のいない問いをぐるぐると脳内に走らせ続けた。

 繰り返される思考の中で、ミコトはあるとき、導かれるようにそれを見つける。使い慣れないスマートフォンを操作し、初めて目にする動画サイトを立ち上げ、その先頭に〈猿の手〉の姿を見つける。クリックせずにはいられなかった。そこで彼女が語ったのは恐ろしい言葉だ。魔法少女を殺せと、彼女は全世界へ向けて発信していた。神堵イノリと鬼鯉サクラとジョバンニとカムパネルラを殺せと、〈猿の手〉が高々と叫んでいた。彼女の言葉が数億という人間の耳に触れたことを、画面上に並ぶ数字が残酷に告げていた。だからミコトは理解する。数億という人間が、彼女たちの命を狙っていることに。ねえ、それって、人は生き返らないんだから神堵さんや鬼鯉さんだって殺されちゃったらコロサレチャッタママナンデショ? わかっていたつもりだ。そんなこと、幼いころからずっと死に怯えながらも、同時に理解していたつもりだ。理解しているからこそ怯えていたつもりだった。それが、魔法少女になり、魔法獣を殺して殺して殺しまくり、死に倒錯し、死と生の区別さえわからなくなり、そしてこのワケのわからないおかしな日常にやってきて、生き返る少女に出会った。そこで、決定的に、わたしはおかしくなってしまった。生は永遠だと、生まれて初めて、本気で信じてしまった。だけど、冷静になって、わたしは再び理解する。〈猿の手〉の存在こそ、わたしの願望だ。妄想だ。わたしがすがりたかった、求めてやまなかった、永遠の生だ。けれど、愚にもつかない妄想に取り憑かれては、引き戻せない場所まで堕ちてしまう。だから、辛いけど、苦しいけど、認めよう。

 人は死ぬ。死んだら、死ぬ。永遠にそのまま。

 当然のことだ。わたしがずっと逃げ続けてきた、当然の真理だ。だから、わたしは今、本当の意味で理解する。神堵さんや鬼鯉さんは、今、命の危機に瀕している。文字通り、死にそうになっている。彼女たちは強い魔法少女だから大丈夫なはずだけど、それでも、殺されようとしていることは、事実なのだ。きっと、〈猿の手〉の言葉を真に受けて魔法少女を殺そうとする人間が山のようにいるのだ。

 ゆえに、気づいてしまったミコトは動画を投稿した。信者を呼び出し、方法を訊ね、自らを映した動画を撮影し、投稿した。拙い言葉に、誰も死なないでほしいとありったけの願いを込め、掠れる声で、死なない、と、そう繰り返し、そして最後にその名を呼んだ。魔法少女として共に闘った、二人の少女の名を。

 撮影を止めてから、ミコトは嘆息する。嘆息と共に、自らの頭を抱える。頭をかきむしる。そして気づく。自分が、彼女たちを大切だと思っていることに。自分でも狂っているとわかっている。だけどわたしは、わたしの言葉に耳を傾けてくれたあの二人といた時間を、魔法獣と闘った時間を、幸福だったと思ってしまっている。きっと同調なんてしてくれていない。同情さえされていないだろう。だけど彼女たちは、苦しんでいるわたしを嗤わなかった。醜いわたしを否定しなかった。わたしとは別の形で、彼女たちも醜かった。そして同時に、美しかった。気高かった。醜い自分を捨て去ろうと、強くなろうと躍起になっていた。わたしたちは誰もが倒錯していたかもしれない。目指す方向を間違えていたかもしれない。世間から嫌悪される醜悪さを抱えていたかもしれない。

 けれど汚いなりに真摯であろうとしたから、大人になろうとしたから、わたしたちは魔法少女になった。きっとそうだ。

 たぶんわたしの思考は、どうしようもない自分の現状を美談に仕立て上げようとしているだけの惨めな行為だ。けれど、それでもいい。わたしは、わたしなりに、世界と向き合う。そのために、まず、彼女たちを救いたい。そのために、動画を投稿するため、スマホの画面をクリックする。クリックし、投稿が確認された、その直後。

「――なにをしているんだ、ミコト」

 人の気配を微かにも感じていなかったにもかかわらず、唐突に耳元で声がした。ミコトは恐怖に振り返る。が、そこに漂う姿を見て安堵する。目玉だ。目玉がいつも通りの声色で、わたしに語りかけてくる。が、ミコトは不思議に思う。どうして、彼は彼女は彼らは彼女らはずっとわたしのそばにいてくれたはずなのに、その存在を忘れていたのだろう。どうして、わたしの心と頭からその存在が追い出されていたのだろう。

「……ねえ。人って、生き返るよね?」

 ぽつりと、無意識のうちにミコトの口から言葉がこぼれていた。それはわずかな祈りにすがったゆえの言葉だった。すでにミコトは永遠の生を微塵も信じていなかった。けれど、それは現実の話だ。自分のいる場所が現実とは異なる仮想世界であることに、ミコトもまた思い至っていた。ゆえに、この世界では永遠の生もありうるかもしれない。実際、〈猿の手〉は死から復活したではないか。

「なにを急に言い出す。それをこれから、お前が証明するのだろう? なにか不安に感じることでもあったか」

 目玉の問いに、ミコトは束の間逡巡してから、己の不安の一部分を言葉にする。魔法少女は生き返らないと、そう断言した〈猿の手〉の自信に満ちた表情が忘れられないのだと、目玉に向けて訴えかける。

「なんだ、そんなことか。自信を持て、ミコト。ただ初めに生き返ったというそれだけの理由で威張り散らすあの女に、そんなことがわかるはずないじゃないか。魔法少女など関係ない。ただ、人は生き返る。それだけだ」

 力強く言い切った目玉の言葉にミコトは安堵する。己の思考を肯定してくれる存在に感謝する。

「……あり、がと」

「例には及ばん。ふん、そうだな……ミコトは少し疲れているようだからな。残りの為すべきことは、オレが為そう」

 なにを為すのかと問う間もなく、目玉は扉の向こうから信者を呼び出し、動画撮影の準備を始めさせた。そして数十秒後には、スマホのカメラに向けて演説する目玉の姿がある。見る者に投身自殺を呼びかける、あの動画だ。撮影を終え、その動画の投稿が済んだのを確認した目玉は、満足そうに「ふん」と呟く。

「……本当に、飛び降りるの?」

「無論だ。お前が先陣を切るんだ、ミコト」

 ミコトは首肯する。そうだ。この世界では、人は死なない。そう、自らに言い聞かせる。〈猿の手〉という前例もある。だから飛び降りることなんて怖くない。わたしも、神堵さんも、鬼鯉さんも、誰も死なない。

 ――本当にそうなのか? ギリギリのところで、ミコトは、願望にすがっただけの自らの結論を翻した。願望を捨て、自らの頭で考え直す。状況を分析する。この世界のすべてが偽りで、目の前のこの人たちが存在しないと、そう断言できるならいい。わたしの仮説が正しいならいい。が、もし、そうでなかったら? 目の前の彼らが、一人残らず、わたしのせいでその命を散らしてしまうということ?

「ねえ、みんな、来て」

 ミコトは震える声で扉の向こうへ呼びかける。控えていた二十数人の生徒たちが扉を開き、不気味なほどに洗練された足並み揃った動きでミコトの前に整列する。自分はこの中の誰一人名前を憶えていないのに、彼らは自分を崇拝している。その事実をただただ、不気味だと思う。名前も知らない人たちが自分の言葉ひとつで命を落とす事実を、おぞましいと思う。だから、運命を変えるため、ミコトは彼らに語りかける。

「飛び降りなんて、屋上から落ちて死ぬなんて、やめようよ。そりゃあ、〈猿の手〉さんみたいに生き返ることができればいいけど、そう断言できるわけじゃないから。どうせいつかは寿命が尽きるんだから。死んでから、生き返るかどうかなんてわかるんだから、今わざわざ死ぬ必要なんてないよ。だから、やめよう。ね?」

 たどたどしい言葉で、ミコトは語る。そこには、クラスメイト達を目の前に堂々と演説した彼女の姿はない。気を違える一歩前の、恐怖心がマヒした幽ミコトはもうどこにもいない。彼女は、世界とのかかわりに怯えながらも他者に、そして自らに誠実であろうとする、一人の清廉な少女だ。この瞬間、幽ミコトは神堵イノリよりも鬼鯉サクラよりも気高かった――だが。

「ナニヲイッテイルンダ」

 ぽつりと漏れ聞こえた言葉の意味を理解するのに、ミコトは、数秒の時間を要する。ナニヲイッテイルンダ、ナニヲイッテイルンダ、ナニヲイッテイルンダ――なにを、言っているんだ?

 他でもない、ミコトただ一人へと向けられたその一言をこぼしたのは、もちろんミコト自身の口でなければ、目玉でもない。信者だ。信者の一人がミコトに向けて、疑問の言葉を呈している。彼らの口が初めて、ミコトの言葉に異を唱える。それだけならなにも問題はない。なぜならミコトは彼らに、忠誠を誓うことなど求めていないのだから。それどころか過剰に敬われることを重荷に思っていたくらいだ。だから口答えや異論を歓迎しているといっても過言ではない。だが、疑義を呈してきた彼の顔へ視線を向け、ミコトは怯えた。心からの恐怖を感じた。なぜなら彼、いや、彼ら彼女らの双眸は、一目でそれとわかるほどの憎悪に染まっていたから。隠そうともしない殺意を込め、ミコトを睨んでいたから。血走った瞳が、強く噛まれた唇が、あるいは剥き出しにされた歯が、小刻みに震える四肢が、荒れる呼吸の音が、ミコトに語りかけていた。キサマハ、イマ、ナニヲイッタ? キサマハイッテハナラナイコトヲイッタ、と。

 ミコトが一歩、後ずさる。同時に信者、否、ほんの数秒前まで信者だった者たちがミコトへ詰め寄る。ミコトと信者たちの距離は縮まらず、そして離れない。本能的な恐怖に落ち着きを失ったミコトは、彼らに背を向け走り出そうとする――が、彼らに背を向けた瞬間、死角から吹き飛んできた椅子が、彼女の顔の真横を通過した。それは激しい音を立てて壁にぶつかり、背もたれをひしゃげ、落下する。ミコトは恐怖のままに振り返り、息を呑む。十数の目玉のすべてが、今まで見せたことのない目つきで、ミコトを睨んでいた。目玉が初めて、己の肉体そのものである眼を、細めていた。ミコトは理解する。今の椅子は、目玉が魔法で吹き飛ばしたものなのだと。いわば、ミコトへ向けた警告であると。

「今なら、なかったことにしてやる。発言を撤回しろ、ミコト」

「撤回って……一体、なにを」

「生は永遠だ。生は繰り返される。それはこの世界の真理であり、揺らぐことのない真実だ。人々は真理を受け入れ、肯定しなければならない。そのためにミコト、お前がいるのだ。お前は死者の復活を肯定し続けなければならない。なにがあろうと、それを否定する言葉を口にしてはならない。お前の先ほどの発言は、真理のすべてを否定する最低最悪の、妄言だ。決して許されるものではない。しかし、オレとお前の仲だ。一度だけなら、目をつぶってやる。聞かなかったことにしてやる。だから、ミコト。生は永遠だと、その口で言葉にしろ。再び、ここに立つ生の信奉者たちへその一言を告げろ。それが、それだけがお前の進む道だ。さあ。今度こそ、過つな」

 目玉は迷いのない言葉を、まっすぐとミコトへ告げてくる。その間も、信者たちはミコトを舐めまわすように睨みつけている。荒れる呼吸は、精神のマトモな人間のそれではない。飢えた肉食獣のような吐息が教室に充満している。ミコトの言葉次第ではいつでも彼女に襲いかかろうと、彼らはミコトを見つめている。

 ――が。最後の選択を強いる目玉の言葉は、却ってミコトの心から恐怖心を消し去っていた。いくつもの憎悪のこもった瞳を目の前にしながら、ミコトの心は落ち着いていた。なぜなら、目玉の言葉によって理解したから。最初から、わたしには信者なんていなかった。わたしを慕っている人なんて一人だっていなかった。彼らはみんな、生に執着していただけだ。生を信じたくて、自分にとって都合のいい、耳障りのいい言葉にすがっていただけの人たちだ。つまり、彼らはわたしだ。目玉にすがった、かつてのわたしの姿が、彼らだ。

 ようやく、わたしは理解した。理解することができた。今、わたしが目の前にしている目玉は、わたしの友達なんかじゃない。わたしの願望が形になったものが、目の前のバケモノだ。蘇り、目玉だけの姿になってまで生きながらえる生命が存在するはずない。そんなこと、少し考えれば誰にだってわかることだ。だけどわたしにはわからなかった。現実から目を背けるあまり、今の今まで真実に気づかなかった。目玉こそ、〈猿の手〉よりも先に、わたしが最初に創り出してしまった醜い願望だ。だから、つまり――目玉との決別は、かつての弱いわたしとの、決別だ。

「それが、お前の答えか」

 ああ、やっぱり、とミコトは思う。なぜならミコトはなにひとつ、言葉にしていないから。口に出していないから。けれど目玉はミコトの心情を理解する。目玉はミコトの一部だから。目玉はミコトそのものなのだから、ミコトの考えが読めるのは当然のことだ。それをミコト自身が理解する。

「さよなら、わたし」

 それが、ミコトの口にした、目玉へ向ける最後の言葉だった。それを放った直後、ミコトの体が宙に浮いた。目玉の魔法によって、ミコトの肉体は宙に浮かされた。ああ、きっと、わたしはこの後、壁か床に思い切り叩きつけられるのだろう。わたしの内臓は破裂するのだろう。この肉体が死ねば、現実のわたしも命を落としてしまうのだろうか。それともこの世界が現実とは異なる場所だという仮説自体が間違っているのか。まるで他人事のようにミコトは考える。遠くなっていく床を見下ろす。見下ろしているうちに、再び、恐怖がこみ上げてくる。死にたくない、と、生に執着する感情が湧いてくる。ヤダ、死にたくない。わたしはまだ生きていたい。それに、死なないでほしい。お願いだから、わたしも、誰も、死なないで。死なないで、死なないで、死なないで――助けて。

 パン、と破裂する音が響き、ミコトの思考は中断される。音の方向へ首を向けると、ほんの数秒前にはそこにいたはずの目玉がいなかった。と、床に白い皮膚のようなものが散らばっていることに気づく。破裂した目玉の残骸であることは明らかだった。それから、自分の視点がゆっくりと床へ近づいていることにも気づく。つまり、肉体がゆっくりと元いた場所へ戻っていることを。ミコトは床に舞い下りる。両脚で立つ。目の前には、さっきまでそこにいなかった三人の少女と、少年がいる。

「助けにきたよ。ジョバンニさんが瞬間移動もできるっていうから、遠路遥々、だよ」

 目の前に立つ少女が――サクラが、満面の笑みを浮かべ、ミコトに言った。

「……鬼鯉、さん?」

「うん、鬼鯉だよ」

 ミコトは思わず、彼女の頬に触れる。大切な人だと、わたしの初めての友達だと気づいたばかりの相手が、目の前にいる。と、横から肩を叩かれ、イノリの存在にも気づく。肩に置かれたイノリの手に、そっと自らの手のひらを合わせる。右手はサクラの頬へ。左手はイノリの手の甲へ。両手が大切な人に触れている。ゆえに、彼女の頬を濡らす涙をぬぐう手はない。いや、ある。サクラがそれを、そっと拭う。泣いてもいいと、その笑顔が無言で、ミコトへ告げている。泣いている理由もわからないまま、ミコトは泣く。

「感傷に浸っているところ申し訳ないけれど、今はそんなことをしている場合ではない」

 無感動な声に、つまりジョバンニの声に、三人の魔法少女は顔を向ける。と、同時に教室を咆哮が満たす。指導者を、つまり目玉を失い呆然としていた信者たちが怒気を取り戻したのだ。怒号をあげながら、信者たちがミコトたちへ向けて一斉に迫ってくる。が、数歩を踏み出しただけで、彼らの体が宙に浮き、壁に、窓に、天井に叩きつけられる。

「仲間割れということは、幽さん、君は生への過剰な執着から解き放たれたということ? 自らの意思で恐怖を追い払った君を、私は心から賞賛する」

「あ、ありがと……あの、この前、叩いたりしてゴメンね。わたしが間違ってた。許してくれないと思うけど、本当にゴメン。それに、あんなことしたのに、助けてくれてありがと」

「許すもなにも、私は君に怒っていない。それより、彼らをどうにかするべき。逃げるか、殺すか。幽さん。君はどうしたい?」

「こ、殺しちゃダメだよ。だって、この人たちだって生きているから」

「けれど、君だってこの世界が偽りのものであることに、そろそろ気づいているのでしょう?」

「その……たぶん、そうだろうなって思ったけど、それとその人たちの存在を否定するのは、別だと思う」

「なるほど。君は、私と同じ結論に行き着きながら、異なる答えを選択した。けれど私は君を尊重する。なぜならこの世界は君たちのために存在するものだから。そういうわけで、鬼鯉さん。あとは任せた」

 ジョバンニが小さく笑い、サクラに告げる。サクラは首肯し、腕を高々と掲げる。

 直後、起き上がる信者たちの両脚が縄で縛られた。縄などどこにもなかったのに、サクラが、無から有を生成した。大切な人のために強く在りたいと希う想いを取り戻したサクラは、微力ながら魔力を取り戻したのだ。

「行こうか、みんな」

 サクラが囁き、二人の魔法少女が首肯する。初めにイノリが。続いてサクラと、彼女と手を繋いだミコトが教室を出る。ジョバンニと教室の隅で推移を見守っていた少年が、確かに全員の脚に縄が縛られていることを確認してから、魔法少女たちを追う。教室に残された信者たちは、のたうち回りながら嬌声をあげる。

 が、少年と少女たちが校舎の外に出たころ、彼らの姿は消える。ジョバンニの積み上げた死体の山が消えたのと同じように、跡形もなく、だ。尚、この仮想世界からはすでに〈猿の手〉の存在も消滅している。なぜなら、彼女はすでにその役目を終えているから。


 その後、少年と少女たちは校舎周辺を歩いて回った。人が消えた、というミコトの言葉に誤りはないか確認するためだ。陽が沈むまでの時間、敷地内と周辺の民家を調査し、この世界の、少なくとも自分たちの目の届く範囲から人が消失したことは間違いないと、五人は結論を出した。

 夜。この仮想世界で為すべきことはもうほとんど残されていないと、五人は共通にそう考えている。ゆえに行動を起こそうと提案する者はない。校舎の真横の民家に侵入し、居間に集まり、各々が自由に、それぞれの時間を過ごしている。

 ミコトとサクラは、仮想世界で感じたこと、決めたことを語り合っている。イノリは決して口を挟まず、それに耳を傾けている。イノリは自らを語りたいと思っていない。それを察しているサクラとミコトは、彼女に話を振らない。ただ、相槌を打つたびに微かに揺れる彼女の長いまつ毛を美しいと思う。時折漏らす嘆息の甘美な色気に心を揺らす。部屋の隅で、ペーパーバックを読むふりをしながらその光景を眺めている少年は、幸せだな、と思う。なぜなら魔法少女の三人が揃って安らかなひとときを過ごすのは、これが初めてだから。少年が追体験したのは魔法少女になる以前の彼女たちの日々のみで、契約してからの時間についてはほとんど知らない。けれど、魔法少女になってから初めて互いの存在を知り、以降は魔法獣との闘いに明け暮れるだけの日々を送った彼女たちが、共に幸福な時間を過ごすことなどなかっただろうことは容易に予測できる。殺すためだけに邂逅した彼女たちが、今は同じテーブルを囲み、微笑を浮かべている。たとえここが仮想世界だとしても、彼女たちの幸福は本物だ。少年は初めて、この仮想世界にも意義があるのだと、そう感じた。

「談笑中に申し訳ないけれど、幽さんとカムパネルラくんは、私と一緒に来てほしい」

 リビングに響いた単調な声に、四人は同時に顔を向ける。扉の前に、ほんの先ほどまで不在だったジョバンニの姿がある。

「なにかあったの?」

「たいしたことではない。ただ、幽さんにも魔力が戻っているはずだから、広い場所で少しだけリハビリをしてもらいたいと思っただけ。万が一のこともあるから、魔法を使えるようにしておくに越したことはない」

 ミコトは目を丸くし、サクラとイノリのあいだで視線をさまよわせる。二人の魔法少女は同時に首肯し、ミコトの背中を押す。ミコトは不器用に微笑み、ジョバンニに続いてリビングを後にした。少年も二人の背中に続き、三人は家を出る。訓練は校舎のグラウンドで行うと、ジョバンニは二人へそう告げる。

 ジョバンニが口を出すまでもなく、ものの数分で、ミコトは魔力を取り戻した。虚空から武器を出現させ、物体を宙に浮かせ、炎を、風を、雷を自在に発生させ、操った。本人が言うには本調子に程遠いということだが、魔法獣相手にも十分に闘えるだろう規模の魔法だった。少なくともジョバンニの魔法に全く見劣りしなかった。

「お疲れさま。もう、幽さんは戻っていい」

「えっと、カムパネルラくんは?」

「彼にはまだ話がある」

 ミコトはジョバンニに何度も感謝の言葉を告げ、イノリとサクラの待つ家へと戻っていく。

「それで、僕に話すことってなに?」

「私たちのいる、この世界の真実」

 思いがけないジョバンニの言葉に、少年は眉をひそめる。「真実って……ここは、魔法少女たちを救うために、僕とジョバンニさんに魔法少女の存在を教えた獣か、あるいはその仲間が創り出した仮想世界。現実とは異なる場所。魔法少女のために創られたものだから、彼女たちを中心に世界が回る。これが、僕たちの行き着いた真相じゃないの?」

「ここが偽りの現実である点を除いて、私の仮説は、それと大きく異なる」

「じゃあ、この世界って、一体」

 掠れる声で問う少年に、ジョバンニはニヤリと笑みを向ける。そして、この世界のすべてを包もうとするかのように、両腕を大きく広げる。

「まずは、魔法獣とはなにか、というところから説明を始めなければならない」

「魔法獣、とは……僕たちの住む世界とは別の次元に存在する悪しき存在、みたいなものだったよね」

「その通り。カムパネルラくん、君はその目で魔法獣を見たことがある?」

「もちろん。ジョバンニさんの魔法でホテルから逃げる最中、空中で遭遇したから。もちろん、君も一緒に見たよね」

「その通り。私も忌々しいあの姿を目にした。それで、他は?」

「そのとき以外に魔法獣を見たかってこと? その答えはノーだよ」

「残念、不正解。カムパネルラくんが気づかなかっただけで、君は他の場面でも魔法獣を目撃している」

「本当? それって、具体的にはいつのこと」

「この世界で目覚めてから、大半の時間」

「……どういうこと?」

「三人の魔法少女と、私とカムパネルラくんの合わせて五人を除き、この世界に存在するすべての生命の正体は魔法獣」

「すべて……? クラスメイトたちとか、通行人とか、〈猿の手〉さんとか目玉とか、すべて?」

「そう、すべて」

「だけど、彼らは僕たちを襲ってこなかった」

「それは当然のこと。なぜなら、この世界における彼らの存在理由は、それじゃないから」

「……その仮説に根拠ってあるの?」少年はジョバンニの言葉に動揺し、まくしたてるように問う。問われたジョバンニは、変わらず、落ち着き払っている。

「根拠を提示しろと言われてしまうと、それは難しいと言わざるを得ない。私の言葉を根拠に代えてもらう他ない」

「言ったでしょ。僕は君を信じるよ」

「ありがとう。でも、私が説明するまでもなく、カムパネルラくんだって本当は気づいているのでしょう? 私たちを取り巻いていた生徒たちと、空中で邂逅した魔法獣が、酷似した不快な空気を発していたことに」

 ジョバンニの言う通りだった。少年はこの世界に来てから、他者に対して言いようのない嫌悪感を覚えていた。最初のうちは、見知らぬ人間が自分のことを知っている違和感から発生するものだと気に留めていなかったが、この奇妙な状況に慣れてからも、その感覚が薄れることはなかった。いつしか、嫌悪感の存在が当然のものとなってしまい、考えることすらやめてしまっていた。

「その表情は、どうやら、私の説明に納得してくれたみたい」

「まあ、そうなるかな……それで、ジョバンニさんの考える魔法獣の正体って、一体なに? この世界を形成しているのが魔法獣ってことはわかったよ。奴らはどうして存在して、なぜ、僕たちの住む世界によく似た、こんな場所にいるのか。それで結局のところ、この仮想世界とは、一体なんなの?」

「とてもいい質問。カムパネルラくんが提示してくれた二つの問いは、ほぼ同義。だから私はそれに続けて答える――魔法生物の正体は、魔法少女、あるいは少年の才能を持つ若者の魂の弱い部分が集合し、仮想世界に流出し、形を得たもの。中途半端に人間の感情を残した魂たちは、導かれ合い、集合し、私たちの住む現実に酷似したもうひとつの世界を創った。それが、私たちのいる、ここ。つまり、魔法獣とは、人間の若者の魂から生まれたもの」

「……どうしてジョバンニさんが、そんなことを知ってるの?」

「私たちの邂逅した魔法獣と生徒たちの放つ瘴気が同じだったから。考えたきっかけはそれだけ。だから確証はない。あくまで仮説。魂の弱い部分、というのは、絶望した部分、と言い換えることもできる。原始のものは、ただ現実に絶望しただけの、思春期の少年少女の魂の集合に過ぎなかった。けれどそれが現実世界に流出し、流出したそれらは魔法獣と呼ばれた。現実世界で殺戮を繰り広げる魔法獣を殲滅するため、異形に対抗することを目的とした『組織』と呼ばれる集団が形成された。彼らが対抗措置として選んだのは、魔法を扱う能力に長けた若者たちを、対魔法獣専用の人間兵器にすることだった。彼ら彼女らを闘いに繰り出すため、『組織』は才ある者を絶望させた。絶望させ、世の中がままなららないのは自らが弱いからだと錯覚させ、強くなりたい、大人になりたいと、そう願わせた。そして、判断力の欠如した彼ら彼女らを、契約させた。こうして、魔法少女たちと魔法獣の殺し合いの歴史が始まった」

「本来は、現実世界で発生した苦悩だけが魔法獣と化していた。けれど『組織』が若者たちを絶望させたことが原因で、より多くの魂が仮想世界へ流れ込んだ。そうして、魔法獣は力を増した。少女たちが殺し合いに身を投じ、闘いの中で生まれた絶望がさらに奴らを加速させた……そう、歴史は続いていくのかな?」

「さすがカムパネルラくん、理解が早い。さらに補足するなら、若者たちの魂の多くは向こう見ずで、好戦的。そういった面が、人間を襲おうとする本能を魔法獣に与えたのだと思う」

 ジョバンニは呟き、そっと髪を掻き上げる。すでに辺りは薄暗く、ほんの一メートルほど先のジョバンニの表情を遠くに感じる。

「つまり……僕らと共にいる彼女たちが救われても、魔法獣との闘いは終わらない」

「その通り。だから私は、この世界にヒビを入れることにした」

「ヒビ?」

「私は魔法少女に、そして君に、この世界がどれほど狂っているか繰り返し語った。〈猿の手〉さんへ向けても、あなたたちは実在しないと間接的に伝えた。自身が魂の欠片にしか過ぎない存在だと気づくように促した。きっと、愚かな魔法獣たちにも、私の言葉の真意が伝わっている。今、この仮想世界はかつてないほどに脆くなっているはず。あとは、最後の一撃を加えれば、きっとこの世界は消滅する」

「最後の、一撃……」

「そのときは、もう目の前に迫っている」

 それなら安心だ、と少年は呟く。「それで、話はおしまい?」と、少年は問う。「これでおしまい」とジョバンニが答え、二人は同時に歩き出す。

「ありがと、ジョバンニさん」

「君にお礼を言われるようなことを、私はなにひとつ為していない」

「そんなことないよ。だって、僕はこの世界で、なんの役にも立てなかった。なにもかも、君に頼りっぱなしだった。だから、せめて、カムパネルラとしての僕が為すべきことは、きちんとやらないと」

 少年の一言に、ジョバンニは今までにないほど真剣な表情で、頷き返す。その首肯に、真意が伝わったことを少年は理解する。彼女にだけ伝わればそれでいい、自らの真意を。

「君は、『銀河鉄道の夜』を読んだことがある?」

 もう、二人のあいだに重ねるべき言葉はない。ゆえにジョバンニが少年にそう問うたのは、単なる彼女自身の興味からだ。少年はそれを理解した上で、「あるよ」とただ一言、そう答える。

「ジョバンニとカムパネルラの二人は、共に銀河鉄道に乗り、幻想的な世界を旅する。あんな風にロマンチックなものとは程遠いけど、僕たちも確かに、共に不思議な世界を旅した」

「カムパネルラくんは、ロマンチックと思わなかった? 過去のあらゆるしがらみから解放され、生まれ変わった自分として新たな生を生きる――なんて話、憧れる人は多くいると思うけれど」

「そうかもね。だけど僕は、平凡な日常に戻りたいと思っているよ。ジョバンニさんは、違うの?」

「私は、運命に沿って生きるだけ。自らの運命に逆らう気は毛頭ない。ただ、時の流れに身を任せ、私は生きていく」

「それにしては、この世界でずいぶん積極的に動いたよね」

「それは、私の行動が私自身に影響を与えないから。私に関係ないことだから、私は動いた。カムパネルラくんの見た私は、あくまでこの世界での私。私の見たカムパネルラくんだって、そう言える部分はあるでしょう?」

「そうだね。ちょっと肩に力を入れ過ぎた数日間だったと思う」

「それに、本当は怯えていたのに、澄ましたフリをしていた」

「あはは。やっぱりバレちゃうか。カッコ悪くて、頼りない男でゴメンね」

「そんなことはない。君のそういった部分が垣間見えたからこそ、私は君を信頼した――ねえ、カムパネルラくん。私はこの世界における、ピエロだった。ただの道化者だった。尤も、道化者といってもその正体は人間。この仮想世界に存在する人間のフリをした有象無象とは異なる存在。だから私は、他とは違い、この物語において語られるべき存在。演者の一人。けれど決して、渦の中心にはならない。道化者は決して狂言回しにならない。単なる、ひとつの視点。けれど、カムパネルラくん。君は違う。君は狂言回しになり得る存在。君の選択ひとつで、君は渦の中心になる。どうしてだかわかる?」

「カムパネルラは――『銀河鉄道の夜』で語られる彼は、ヒーローだから」

「ご名答。友の命を救い、代わりに自らの生に幕を閉じた彼はヒーロー。英雄。けれど、殉じた者は果たして、本当に英雄と呼べるのか。誰かがそう問うたとしたら、私は否と、そう答える。でも、カムパネルラくん。君というカムパネルラは、大丈夫。君がこの物語の中で命を落とすことはない。君は、銀河鉄道に乗って遠くへ行ってしまったカムパネルラとは違う」

「なぜなら、僕はカムパネルラではないから。僕は、僕だから。僕にとってのカムパネルラは、単なるひとつの象徴でしかない」

「カムパネルラくん……いいえ。少年よ。君は、カムパネルラと似て非なる、新たな英雄。君は死なず、生きてヒーローになる。少なくとも、私はそう信じている」

「ありがとう。君がそう言ってくれるだけで、勇気が湧いてくる」

 会話の終わりと同時に、二人は扉の前に辿り着く。少年がその扉を引き、二人は家の明かりの中へと吸い込まれる。

 夜は何事もなく過ぎていき、五人は誰からともなく、リビングで雑魚寝し、夢の中へ落ちていく。食事を取ろうとする者はいなかった。なぜなら誰一人、空腹を感じなかったから。終幕は近い、と、まどろみながら少年は思う。


 そして目覚める。カーテンの隙間から漏れる早朝の日差しが部屋を照らす。少年は体を起こし、部屋を見渡す。ソファーを独占しているジョバンニが安らかな寝息を立て、ミコトとサクラはひとつの毛布にくるまり、テーブルの横で寄り添い合って眠っている。が、イノリの姿がどこにもない。お手洗いだろうか、と、デリカシーがない行動だと自覚しながら少年はトイレに向かう。しかし彼女の姿はない。家を飛び出し、昨晩と同じくグラウンドへ向かう。

 その中心に、空を見上げ瞳を閉じる、イノリの姿があった。彼女の周囲には視界を遮るものがなにもない。遥か遠く、グラウンドを囲むネットの向こうには小さな家々が建ち並ぶ。足元には白い砂が広がる。風は凪いでいる。神々しいまでに美しい姿だけが、少年の瞳に映る。少年の視線と心を釘付けにする。しばし、少年は息を呑み、その姿に見惚れる。彼女の美しさを形容する言い回しなど、どれほど名の知られた詩人でも編み出せないだろうと確信する。彼女に触れられる距離まで近づくことは、幻想的な光景にヒビを入れる冒涜的な行為なのではないかと、少年は躊躇する。しかし躊躇いを殺し、一歩を踏み出す。すべての終わりの、否、始まりのために、少年はイノリへ歩み寄る。

 そして、彼女の肩に、そっと手を置く。イノリは反応しない。ピクリとも動かない。僕に見られていることをイノリはたぶんわかっていたのだと、少年はそう理解する。理解し、彼女の華奢で、多くのものを背負ってきた肩に手を置き続ける。

「幽さんと鬼鯉さんは魔力を取り戻した。それは、彼女たちが自らの意思で、強くなりたいと願う清廉な心を取り戻したから。けれど、私だけは未だ、無力なまま」

 数分、あるいは十数分の沈黙の後、イノリは言葉を紡ぐ。少年はそれに答えない。答えず、ただ静かに、彼女の言葉に耳を傾ける。

「私は、魔法少女としての私は、彼女たちに明らかな遅れを取っている。私自身が無力であることを認めなければならない立場にいる。それなのに、どうしてかしら。私は絶望していない。悔しさや不甲斐なさこそ感じているけれど、私はその惨めさを認め、こうして、自分の脚で立っている」

「……神にさえなろうとした神堵イノリが、自らの無力を認める」

「ええ、その通り。私はプライドの塊だった。自らが劣っていることを、なにがなんでも認めなかった。認めざるを得ないときは、吐いてしまうほどに苦しんだ。けれど、私はやっと気づいた。己の弱さを認めないことが、なにより私の醜い部分だったと」

「それに気づいた神堵さんの表情は、本当に気高くて、そしてきれいだよ」

「ありがとう。私は、それが当然と受け止めるでも、己の承認欲求の支えにするでもなく、ただあなたにそう思ってもらえることに感謝して、お礼を言う」

「僕は、他でもない神堵さんにそう言ってもらえることに、心から感謝する」

「ねえ、カムパネルラと呼ばれるあなた。私は、私を神聖視する者のいないこの世界で、自らの汚さを見つめ、あなたたちに助けられ、そして気づいた。私が傲慢だったことに。私を真の意味で私足らしめるものは、私自身の心を置いて他にないことに。この世界で目にした、すがりたいものに妄執する彼らは私の生き写しだった。だって、私は大衆の視線という偶像に、支配され続けてきた。私は大衆を魅了しているつもりでいた。けれど本当は、私が世間の目に束縛されていた。私は他人の目だけを意識して生きる、愚かなマリオネットに過ぎなかった。そして同時にあの信者たちは、現実で私を愚弄する人たちそのものだった。ネットや伝聞ばかりを鵜呑みにする彼らもまた、自らの頭で考えることを放棄した、見たいものだけを見る、取るに足らない連中だから。彼らは皆、バケモノ。周囲に合わせ踊り、揺れるだけの醜いバケモノ。けれど、もう大丈夫。バケモノごときに、私の心を汚すことなどできはしない。私の――神堵イノリの誇りを、存在意義を他者からの評価に求める、そのこと自体が間違っていた。他者からの評価で私の価値が定まると思っている時点で、私は他者に拘泥している。私の価値を、誇りを高められるのは他者じゃない。私自身だ。私自身が気高く、神堵イノリはこの大地に脚を踏みしめ立っていると私自身が認識することのみが、私の自意識、否――心意気を肯定し、証明するただ一つの方法だ!

 私を汚すことのできるのが私自身のみであるように、私を奮い立たせるものも、私自身のみだ! 私は生きている! そして、私が立つべき大地は、ここではない。ねえ、あなた。私は、この世界を抜け出す方法がわかった」

 イノリは叫んだ。感情的になり、高揚したあまりに叫んだわけではない。これが私の宣言だ、ケジメだと、確固たる意志を胸に秘め、叫んだ。

「僕に、教えてくれるかな?」

 問いを紡ぐ少年の心は凪いでいた。同時に、高揚していた。相反する二つの感情が少年の心に渦巻いていた。清廉で気高いイノリの弁は、立ち姿は、あまりに存在感に溢れ、味わったことのない形容しがたい感情を少年の中に引き起こしていた。

 ――と、そのとき。世界が歪んだ。風景がグニャリと、出来の悪いCGのように揺れる。揺れる風景の中で、ぼんやりと無数の黒い影が浮かび上がり、それらのすべてが、魔法獣と化した。少年とイノリの周囲を何百、否、何千にもなろうという数の魔法獣が隙間もなく囲っている。少年は動揺する――が、すぐに、怯える理由なんてないことに思い至る。なぜなら、僕の隣には神堵さんがいるから。史上最強の魔法少女である、神堵イノリが。

 イノリの左手が、肩に置かれた少年の掌を握る。右腕は掲げる。

 掲げた直後、すべての魔法獣が、跡形もなく、爆発した。完全復活を果たしたイノリの前では、幾千の魔法獣が集まろうと無意味だった。周囲に新たな魔法獣が現れる。が、それらにちらとも視線を向けず、イノリは口を開く。

「私たちはこの仮想世界について、多くを考えた。私やあなたやジョバンニさんが、多くの考察を語った。けれど、私は気づいた。それらはすべて、無意味な行為であったと。だって、この世界は存在そのものが嘘。偽り。虚構に意味なんてない。大切なのは私たちの生きるあの世界に帰りたいと願う心、己の生きる場所は己の意思で決めるという決意、己は生きているのだと己自身に向けて誓うこと、そして、この仮想世界なんてすべてまやかしで一片の価値もないものだということ。だから、こんな世界、滅茶苦茶に壊してあげる。偽りの否定こそ、私の存在証明だ!」

 言葉を紡いでいるあいだも、無限に出現する魔法獣たちが次々と爆破されていく。破裂音が空気を揺らす。と、イノリはおもむろに地へ膝をつくと、そっと手のひらを地に当てた。

 直後、世界が激しく、足元すらおぼつかないほどに揺れ始めた。そして虚空に亀裂が走る。魔法獣たちの体が裂け、消滅する。

「イノリちゃん! カムパネルラくん!」

 断末魔が響き渡る中に、サクラの悲鳴が響いた。声に視線を向けると、揺れる大地の中で、必死の形相を浮かべたサクラとミコトが駆け寄ってきている。ふらつくように歩を進めながらも、彼女たちはどうにか少年とイノリの正面に辿り着く。立ち止まり、肩で息をする。

「この揺れ、イノリちゃん?」

 呼吸を整えたサクラが問う。「ええ。この世界が崩壊すれば、すべて終わるから。あなたたちなら、わかってくれるでしょう?」

「もちろんだよ。ね、ミコトちゃん」

「うん。なにもかも、壊せばいいんだよね?」

「ところで、ジョバンニさんは?」

「なんか、もうやることはないとか言って、家に残った。あ、そうそう、カムパネルラくんに伝言。『あとは君の思うままに』って言ってたけど、これで通じる?」

 少年は微笑を浮かべ首肯する。サクラがそれに笑みを返し、両腕を広げた。

 刹那、視界の中の校舎や、木々や、あらゆる建物が凍った。氷漬けにされたそれらが傾き、ゆっくりと崩壊していく。続いてミコトが片腕を上げる。周囲に無数の雷が落ち、遠くで炎が燃え上がった。もはや少年には、どの現象が誰の魔法によるものなのか、全く判別がつかなかった。ただ、世界が崩壊していた。新たな魔法獣はもう現れない。はるか上空から、なにかの瓦礫が四人を取り囲むように落ちていく。大地にヒビが入り、足元が不安定になっていく。

 ゴゴゴと激しい音を立て、少年たちの足元にも亀裂が入り、割れる。少年とイノリ、サクラとミコトという組み合わせで裂けられる。

「ねえ、鬼鯉さん……わたしたち、また、会えるかな?」

「会えるよ、ゼッタイに。だって、もう、あたしたちは友達だから」

「ありがと、わたしの初めての、ホントの友達――弟さんと、大切な人を、救ってあげてね」

「うん。なにもかもやり直してみせるから、だからミコトちゃんも、前を向いて、強く生きて。あたしと、ミコトちゃんと、二人が幸せになれたとき――また、会おうね」

「うん……うん……」

 崩壊していく世界の中で、二人は最後の言葉を交わす。少年とイノリにはその会話は聞こえていない。瓦礫に阻まれ、彼女たちの姿も視界から消えている。ゆえに、彼女たちの肉体が仮想世界から消滅したことにも、気づかない。

 少年とイノリは周囲数メートルを囲まれ、瓦礫に閉じ込められている。二人の頭上を避けるように、瓦礫は高く積み上げられている。仮想世界を去るまでの時間があとわずかであることを、彼と彼女は悟っている。

「あなたにはなんてお礼を言ったらいいのか……本当に、ありがとう」

 瓦礫に背を預け、けれど瞳は真摯に少年の顔に向け、イノリが礼を告げる。「お礼を言われるようなことはなにもしてないよ」と、少年はかぶりを振る。「むしろ、僕がお礼をしたいくらいだよ。僕も君たちのおかげで、成長できた気がする」

「あなたがそう感じている以上に、私たちは大切なものを取り戻した。あなたが私たちを見下さず、憐れみもせず、一人の人間として向き合ってくれたから、私たちは心を保てた。自らの存在を信じ続けることができた。さっきは偉そうなことを言ってしまったけど、これが本心。あなたは心の支えだった。だから感謝している。なにか、お礼ができたらいいのだけれど」

「お礼? じゃあ残り時間で、エッチなことでもしてもらおうかな」

 それはほんの軽口だった。あまりに非現実的な光景に高揚した感情が、少年の口を滑らせた。言ってから、さすがに調子に乗りすぎたかもしれないと後悔した。

 が、目の前のイノリは至って真剣な顔で、「わかった」と、そう答えた。

 次の瞬間、イノリが少年の肩を抱き、唇を唇へ、押し当てた。

 少年は自らの身に起きたことを理解するのに、数秒の時間を要する。そして、我が身にとんでもないことが起きているのに気づく。興奮や喜びより先に、戸惑いが少年の感情を支配した。少年はイノリの肩を押し、彼女を遠ざけようとする。しかしイノリは離れず、少年の口の中に舌を押し込む。舌と舌、歯と歯がぶつかり合う。イノリの唾液が少年の口内に侵入する。ロマンチシズムの欠片もない、貪るようなキスだった。少年は無意識に抵抗をやめる。イノリの肩を抱き、あまりに魅惑的な快楽に身を預ける。

 二人の唇が離れる。そのあいだに垂れる唾液を、少年は呆然とした心地で見つめる。目の前には、ニヤリと笑みを浮かべ唇を拭うイノリがいる。「えっと、あの……神堵さん。一体、どうして」

「あなたがお願いしたから、私がキスをしたわけじゃない。私が私の意思で、キスしてあげたの。あなたを支配するために」

 自信に満ちた彼女の双眸を見つめ、少年は気づく。イノリは、露悪的な性的感情を向けられることを強く嫌悪していた。けれど、今は違うと、彼女はそう言っているのだ。これしきのことで私は汚されない。卑しい他者の視線が私を支配することなどありえない、と。

 もう、なにもかも、大丈夫だ。そう安堵した少年の体から、ふと、力が抜ける。脚から感覚が消え、膝が地に着き、ゆっくりと前に倒れる。

 そして、仮想世界から、意識と肉体が消滅する。

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