鬼鯉サクラ

 鬼鯉(おにごい)サクラは恋をしている。狂おしいまでに。その身を焼かれるほど、強く、焦がれるように。

 物心がつくころにはすでに自覚していた思慕だった。厳密に言うなら、その感情の名を幼いサクラは知らなかった。それどころか十八になる現在でも、サクラ本人は感情の分類など些末な問題であると考えている。

 愛している。誰より大切に想っている。誰より大切に想われたい。生涯を共にしたい。なにがあっても、たとえ世界が滅んでもそばにいたい――。

 陳腐で、熱烈で、尊い感情。サクラにとって大切なのは、その人が愛おしく、幸せになってほしいと、願わくば己も共に幸せになりたいと祈る気持ちであった。

 尤も。それは客観的に見て、恋以外のなにものでもないのだが。なぜならサクラはその感情に支配されているから。その想いは己を苦しめているから。サクラ本人もそのことを自覚していながら、その苦しみに幸福を感じているから。それらはまさしく、絶望的なまでに恋をする若者の抱える感情であったから。

 なにより、サクラは件の相手に、はっきりと性欲を感じている。抱きしめたい。抱きしめられたいと願っている。セックスをしたいと、心から望んでいる。

 誰に対して、か。つまり、サクラは誰に恋をしているというのか。

 一つ年下の弟に、である。

 サクラは血の繋がった――同じ母を持ち同じ父を持つ、正真正銘、実の弟に、恋をしている。


 サクラの思慕について語るより、その両親について説明する方が先だろう。サクラとその弟の実母は夫を――つまり、二人の父を。実父を愛していた。夫として。家族として。男として、愛していた。好き合って結ばれた二人であるのだから、そのあいだに今も変わらず愛があること、それ自体はなにもおかしくない。だが、その愛は狂気だった。妻が夫へ向ける愛情は常軌を逸していた。盲目的で狂信者的な愛であり、あるいは依存だった。誰の目にも明らかに、妻は狂っていた。

 夫はその生活のすべてを監視されていた。妻は、夫の行く場所すべてに着いて回った。毎朝、夫の職場へと共に出向いた。夫の職場まで運転するのは妻の仕事だった。夫をオフィスのあるビルの前で降ろしてから、すぐ脇の駐車場に車を停める。そして妻は単独、行動を開始する。妻はできることなら、常に夫の半径一メートル以内に留まり、彼の一挙手一投足に目を向けていたいと思っていた。夫の愛らしい仕草、息遣い、体温を感じ、同時に不貞を働かないかと逐一チェックしたかった。自分以外の女に、いや、女だけでなくすべての人間に無駄な好意を抱かないよう見張っていたかった。が、それが現実的なやり方でないと、さすがの妻もわかっている。ゆえに彼女は、夫の働くオフィスの向かいに建つマンションに部屋を借りた。夫を監視するためだ。高性能の双眼鏡を通し、夫の動向を見つめ続けた。それだけではない。夫の背広には、盗聴器が仕掛けられている。話し声だけでなく、足音や微かな呼吸の音、そしてあらゆる生活音を盗聴器は拾った。そして夫は盗聴されていることを知っている。夫は、オフィスの外に出る際は必ず向かう先を呟いた。妻が着いて来られるようにするためだ。夫が出かければ妻もそれに付き従って行動する。夫が電車に乗れば妻も同じ車両に乗り込み、徒歩で歩ける距離なら夫の数メートル後ろを妻も歩き、夫が社用車に乗り込めば妻もマイカーに乗り込み追跡する。妻はなにがあろうと夫を視界の中に収め、どうしてもそれが叶わない場所――たとえば関係者以外立ち入り禁止の会議室や、トイレなどだ――に行かれた場合には、できるだけ近くに待機し、夫の息遣いに耳を澄ませる。放尿の音にさえ注意を払う。妻の肉体は、目は、耳は、まさしく夫のためだけに存在した。五感をひたすら、夫のためだけに研ぎ澄ましていた。そして夫の仕事が終わればすぐに合流し、人目も気にせずキスを交わしてから、安全運転で家路に着く。妻は、生活のすべてを、夫に捧げていた。夫の不貞を決して許さないことを、最大の使命と己に課していた。妻はそのことに幸福を覚えこそすれ、異常だと思うことは微塵もなかった。ダッテアイシアウカゾクナンダカラコノクライトウゼンデショウ?

 夫は、妻の異常な行動に対して決して反発しなかった。嫌な顔ひとつしなかった。確かに他の家庭とは少し違うところがある。妻の行動には少しばかり極端なところはある。そのことは理解していたが、変えなければならないとは露ほども考えなかった。静観することが愛であると、夫は考えていた。夫は、妻から向けられる愛とは別の形で、妻のことを愛していた。

 では、我が子に対してはどうか。異常な愛を向け合う夫婦は、我が子をどう思っているのか。

 結論から言えば、愛している。かわいいと思い、きちんと育ててあげなければと思っている。愛する人とのあいだにできた子供なのだから、立派に育て上げることが義務だと、夫婦は思っている。そう。義務だ。確かに夫婦は我が子のことを愛していたが、そこには義務感に似た感情が多分に含まれていた。夫婦にとって育児とは、義務の範疇に収まる行為でしかなかった。未熟な夫婦は、子とは愛し合った末に生まれるものという以上の認識を持たなかったのだ。夫婦は、籍を入れたら子をつくらねばならぬと、それが義務であると、無思考に信じ込んでいた。脅迫観念的に、信じ込んでいた。ゆえに、避妊をせずセックスをして、妻が妊娠したために、産んだ。それだけのものだった。つまり、夫婦がサクラとその弟に向ける愛は、多くの親にとってのそれに比べて希薄だった。

 そういった奇妙な家庭環境が、サクラが弟を愛するようになる理由の一端を生んだのかもしれない。が、サクラが弟に向ける愛の形は、両親のそれと異なる。サクラは弟を信じた。幼いころから、現在に至るまで、信じ尽くした。弟は誰より心の優しい人間で、意味もなく他人を傷つけ、裏切るようなことをするはずがないと、彼の人間性に一片の疑いも持っていなかった。なぜなら、弟を愛していたから。

 この点こそ、サクラと両親の大きな違いだ。サクラは弟を信じた。母親は夫を信じなかった。選んだ結論は異なるが、そこに至る発端は同じだ。愛しているから。ただ、その一言に尽きる。尤も、サクラの愛は母と別の意味であまりに盲目だったのだが。

 妻から夫へ向ける愛情。夫から妻へ向ける愛情。姉から弟へ向ける愛情――そのすべてが、それぞれあらゆる意味で異なっていた。そもそも、それらが『愛情』と呼べるものなのかさえ甚だ疑問だった。

 まとめると、この家族には大別して二つの歪な点がある。ひとつは、家族同士の意思疎通が欠如していたこと。二つ目は、親から子への愛情が希薄だったことだ。


 サクラは幼いころからそれを本能的に見抜いていた。つまり、己を守るべき対象であるはずのオトナたちにとって、自分たちが決して尊重されるべき存在でないということを。

 多くの幼子にとってそうであるように、サクラにとってもまた、家庭とは世界のすべてとほぼ同義である、自らを取り巻く絶対的な領域だった。その世界の支配者が、つまりオトナである両親が、自分と弟は優遇されるべきでない存在だと、言葉にこそしないが態度で告げてくる。さらに視野を広げた世界、つまり現代日本の倫理観においてそれが自然ではないことを、未就学児のサクラはまだ知らない。ゆえにサクラは自らの環境を理不尽だとも過酷だとも思わなかった。これが当然だと思った。ただ、冷酷だと思った。レイコク、という言葉こそ知らなかったが、感覚的にそう悟った。コノセカイハヒエキッテイル。

 最低限、生きていくために必要なものは姉弟に与えられた。いつだって食事は用意されていた。室内は冷暖房の設備が整えられ、衛生状態もきちんと保たれていた。が、姉弟は徹底的に放っておかれた。両親は毎日のように姉弟を置いて出かけた。最低限の責任は果たしたといわんばかりに、当然の顔をして、幼い我が子たちに行き先を告げることすらなく消えていった。それは夫が仕事に出かけるために妻も付き添っているからであり、休みの日にでも、夫婦はデートと称して必ず外に出かけた。いつだって帰宅は深夜になった。外泊することも珍しくなかった。姉弟は家で、出かけることもなく、たった二人きりで遊び、食事を取った。サクラは食器を洗い、弟の歯を磨いてやり、一緒にお風呂に入り、洗濯物を干し、姉弟で手を繋いで寝た。サクラは異常なまでに成熟していた。三歳のころにはすでに、料理以外の大抵の家事をこなした。そのせいで、両親はより、姉弟を省みなくなる。姉弟も両親の不在をより当然だと思い込むようになる。無論、両親の帰りを待ち詫びるようなこともない。

 姉弟は両親から抱きしめられたことがなかった。愛していると言われたことがなかった。優しい言葉のひとつさえ、かけられたことがなかった。

 けれど、暴行や罵倒されたことも、一度だってなかった。そういった意味においては、姉弟は幸福だった。心に傷が刻まれることはなかったから。が、姉弟の心には傷だけでなく、なにもなかった。二人は愛の存在を知らなかった。最も身近な人間であるオトナたちから、それを与えられなかったから。だから知らなかった。

 知らなかった、はずなのだ。それなのに、サクラは弟を愛する。心から、どうしようもないほどに、運命的に、理由さえなく、弟を愛する。のちに成長したサクラは、愛を知らなかったはずの自分が弟を愛おしく思ったのだから、これが真実の、世界でたったひとつの本物の愛だと確信することになる。

 尤も、それはサクラが高校生になる、ずっと先の話だ。先に語られるべきはそれではなく、愛とは対極に位置する感情の存在を、サクラが知った日のことだ。

 それはサクラが小学二年生。弟が一年生に進級したばかりの春の、日曜日。当然のように、その日も両親は不在だった。いつも通りの一日であるはずなのに、どうしてかサクラはその日、二人きりの自宅を異様なほどに静かだと思った。仄暗いと思った。

 ――お姉ちゃん。

 そう語りかけてくる弟の声が、物寂しく聞こえた。

 どうしたのかと、サクラは問い返す。弟はそれに答えず、お姉ちゃん、と再び呼びかけてくる。そして、サクラの手のひらをぎゅっと握る。とても小さい手だ。サクラは精神だけでなく肉体も比較的、発育がよかった。逆に弟の発育は同世代と比べてもかなり遅い方だった。だから、サクラにしがみついた指先は彼女のそれに比べとても細く、サクラはそれを頼りないと思う。頼りなく、けれど愛おしい。

 出かけよう、と、深い考えもないままに、サクラは言った。弟の手を握り返し、その手を優しく引っ張り、玄関に向かう。弟に靴を履かせてやってから、再び手を握り、歩き出す。鍵はかけない。なぜならそんなものは持っていなかったから。両親は、二人の我が子が言いつけを破って外出すると夢にも思っていなかったから。

 国道沿いの、普段は通学路として利用する歩道を並んで歩く。いつもと違い薄暗い風景を、まるで別世界のように感じる。そう、薄暗い。時刻はすでに十七時を回っている。日没の時間も近い。陽が沈む前に帰らなければ、とサクラは思う。けれど、帰る心配をする前に、一体あたしたちはどこに向かおうとしているのだろう。どこに?

 ――お姉ちゃん、遊ぼう。

 と、弟がピタリと立ち止まり、道路を挟んで反対の歩道を指さす。そこに見えるのは、小さな公園だった。毎日のように通る道の途中にあるものだから、当然、サクラも弟もその公園の存在を知っていた。が、中に脚を踏み入れたことはない。

 ――もしかして、前からここで遊びたいと思ってた?

 サクラが訊ねると、弟はブンブンと首を横に振り、なんなく、と答える。なんとなく、と言いたかったのだろうとサクラは理解し、いいよ、遊ぼうと、微笑しながら弟に答える。

 横断歩道を渡り、二人は初めて、その公園の中に脚を踏み入れた。

 外灯からこぼれる白の頼りない光がすべり台を、ブランコを、砂場を照らしている。錆びた鉄網で四方を囲まれた空間に、それ以外の遊具はない。見晴らしの良さを、空虚だ、とサクラは思う。弟がサクラから手を離し、すべり台へと駆けていく。塗料の剥げた台に腰かけ、期待に満ちた目でサクラを見つめてくる。背中を押してほしいと訴えてくる表情に、サクラは微笑を返し、ゆっくりと彼に近づく。背中に回り、手のひらを小さな背中に添える。いっせーの、せ。サクラが弟の耳元で囁き、力強く、押す。弟の背中が遠ざかり、またすぐに迫ってくる。それをサクラは再び、押す。キーコ。キーコ。キーーーーーー、コ。金属のこすれる嫌な音を、弟の楽しそうにはしゃぐ声が掻き消す。サクラの心は、温かなもので満たされる。と、十数回とそれを繰り返したころ、笑い声がやみ、弟がなにかを囁いた。なにか言った? と声量を上げてサクラは訊き返す。

 ――ぼくも、お姉ちゃんを押してあげる。

 あたしはいいよ、という一言を呑み込み、いいの? と問う。いいよ、と答える声がして、じゃあお願い、と告げる。迫ってきた背中を優しく抑え、勢いを殺し、弟と場所を取り替える。お姉ちゃん、いくよ、と快活な声が響き、サクラは押し出される。が、非力な弟は満足にサクラの体を揺らせない。押された瞬間にそれを察したサクラは、弟の腕に合わせて地を強く蹴った。サクラの体が宙を舞う。押されるたびに、蹴るたびにサクラの体は地上からより離れた場所へ舞い上がる。お姉ちゃん、楽しい? という問いに、楽しい! と答える。事実、サクラは意外にも楽しいと思った。想像以上にスリルがあり、高揚感を覚える、未知の経験だった。こんな単純な構造の遊具に身を預けて揺られるだけの行為がどうしてこんなに楽しいのだろうかと、不安になるほどに心が躍った。家で留守番なんてしていないで、休みの日は今度から、弟の手を引いてこの公園まで遊びに来よう。きっと、昼間だってこんな寂れた場所に来る人は多くない。運がよければ二人占めだ。いいや。それ以前に、この公園以外にも、楽しい遊び場が他にあるかもしれない。通学以外で、こうして二人で出かけるのは今日が初めてだ。だから、あたしたちはこの世の中を知らなすぎる。世の中には、もっと面白いものがあるに違いない。幼いながらにサクラは、そう直感した。確信した。だから今度から、二人で手を繋いでいろんなところへ出かけよう。遊び道具もない薄暗い家の中にいたって面白くなんかない。留守番しなければならない理由なんてない。あんな人達の言いつけを守って留守番なんて――

 刹那。サクラの心はすっと冷めてしまった。不快な現実が、楽しいひとときを侵食してしまった。高々と舞い上がった肉体の、顔が頭上を仰ぎ、空を見つめ、この空の下に自分と弟を放って遊び歩くクズがいるのだと思い出してしまった。

 このころのサクラは、自分の家庭がどこかおかしいらしいと気づいてしまっていた。クラスメイトは、休みの日に家族と食事に出かけたと、遊園地に出かけたと楽しそうに話している。両親と一緒に遊んだと周囲へ語り聞かせている。サクラには、彼ら彼女らがなにを言っているのか全く理解できなかった。なんの話をしているのか、それ自体がわからなかった。が、ある日。テレビのニュースで、行楽地が家族連れで賑わっているとアナウンサーが話しているのを耳にする。笑顔ではしゃぐ同世代の映像から、コウラクチという言葉が楽しい場所のことを指しているらしいとサクラは察する。が、カゾクヅレを家族連れと脳内で変換するのには、かなりの時間を要した。家族が連れる。連れられる。夫婦でなく。たぶん、家族という言葉の中には、あの両親にとってはあたしと弟も含まれる。だけど、あたしたちはどこへも連れていかれないし、あたしたちもあの二人をどこへも連れて行かない。そう思考し、あたしたちという言葉に両親が含まれていないことに気づいたサクラは苦笑した。小学一年生のとき、サクラは初めて苦笑した。六歳児らしからぬ表情を浮かべた。

 そして悲劇はこれではない。つまり、サクラが己の家庭の異常性に気づいたことではない。自分と同じく小学校へと進級し、成長した弟が自らと同じ現実に気づいてしまったことだ。つまり、自分は両親から愛されていないということに。

 サクラは悲しいほどに達観していた。クズの元に生まれてしまった自分が不運だっただけだと、そう現実を受け入れた。それにサクラは、弟がいてくれればそれでいいと思っていた。けれど弟は違った。現実を、悲しいと思った。辛いと思った。だから彼は、笑うことが少なくなった。弟が笑うことは少なくなり、ぼんやりとどこか遠くを見つめる時間が長くなっていることに、当然、サクラは気づく。サクラは辛いと思う。やるせないと思う。弟にそんな表情をさせる原因がわかっていて、けれどそれをどうにもできない非力な自分がいることを。そしてなにより、世の中がそうやって理不尽にできていることを。弟を悲しませるものが存在する不条理に対して、心から苛立ちを覚えた。サクラは怒った。

 ブランコに揺られ、冷たい風を全身に浴びたサクラの思考は澄み切っている。澄み切った、冷静な頭で、サクラは静かに激怒する。そして思う。こんな世界、滅んじゃえばいいのに。

 ――死んじゃえばいいのに。

 それはポツリと呟いただけの一言だった。ブランコの揺れる音にさえ掻き消される微かな声だった。

 けれど弟は気づいてしまう。彼の耳に、声は触れてしまう。弟は姉の背中を押さない。受け止める。強く、姉の腰に抱き着く。サクラの体が制止し、その耳元で弟は訊ねる。だれが?

 ――お母さんと、お父さん。

 聞かれていたことに動揺したサクラは思わず、正直に答える。それを聞いた弟は小さく首をかしげる。

 ――お姉ちゃんは、お母さん達のことが嫌いなの?

 ――うん。大嫌い。

 ――だけど、あの二人がいなかったら、ぼくとお姉ちゃんは一緒にいられないかもしれない。

 弟の言葉にサクラは首肯する。あの二人が死ねば、自分たちの住む場所も別のところになる。そのとき、弟と一緒にいられるとは限らない。弟が自分と一緒にいたいと思っている事実を場違いに幸福と感じながら、サクラはそう思う。けれどやはり、サクラは怒る。ままならないことに。理不尽に対しサクラは怒り、そして憎む。心から。心の底から。

 そのときだった。複雑な表情を浮かべるサクラの横顔から、聡明な弟は多くのことを悟った。そう。聡明な弟だ。サクラの弟は、悲しいまでに聡かった。弟が冷静な表情で自分を観察していることに、サクラは遅れて気づく。サクラが、自分の想像以上に弟が賢いと気づいたのはこの瞬間だった。

 ――いい方法があるよ。

 ――いい方法?

 ――うん。

 ワケもわからないままにサクラは問い返し、弟は力強く首肯する。と、弟は周囲をキョロキョロと見回してから、背後に向けて駆け出した。サクラはブランコから立ち上がり、弟の背中を追う。

 公道と公園のあいだにそびえる金網の前で弟は立ち止まり、そっとかがむ。そこは部分的に、数センチの長さの雑草で覆われ、地面が隠れている。追い着いたサクラが弟の背後から彼の手元を覗き込む。と、弟は草の中に手を突っ込み、なにかを手に取った。

 カマキリだった。双眸でぎょろりと見上げてくる、グロテスクな昆虫。サクラが静止する隙もなく、弟はそれの首をなんのためらいもなくちぎった。

 胴体と首がバラバラになったそれを、弟は足元に置く。唖然としている姉になど気づかず、草の中からもう一匹のカマキリを見つけ出し、捕まえる。そしてやはり、同じように、ちぎる。ブチリと、生々しい音が聴こえるようだった。

 弟はその胴体だけを横たえると、先に殺した方の胴体を持ち上げ、首と胴体をくっつけた。切断面が見た目には塞がり、まるで生きているよう。が、無論、それは死に絶えている。無慈悲に、凄惨に、死んでいる。

 弟は繋がったそれを、草の中に手を突っ込み横たえる。死体が視界から消え去る。そして余ったパーツ同士をくっつけて、同じようにする。それからサクラを振り返り、ニコリと笑う。その笑顔に、サクラはぞっとする。

 ――からだを交換してあげれば、ずっと一緒にいられるから、寂しくもないよ。

 意味がわからなかった。弟がなにを言っているのかわからなくて、サクラはそれを恐ろしいと思った。恐ろしい弟のことを、心から愛おしいと思った。

 この日を境に、サクラは弟をより注意深く見守るようになる。そして世の中を、両親をより一層憎むようになる。優しい弟にこんな残酷なことをさせる世界なんて腐っている。腐敗した世界と弟を触れ合わせてはいけない。だから、自分が盾にならなければならない。


 強い決意を胸に秘め、サクラは自らに課した使命を頑なに全うする。全うし、十年の歳月が流れる。サクラは高校三年生。弟は同じ高校の二年生となっている。大きな事件に巻き込まれることも、引き起こすこともなく、二人はそれまでの日々を過ごし、成長している。その日常が壊れる発端は、ある四月。放課後の教室で、サクラの身に降りかかる。

 ――鬼鯉さん、大好きです。初めて出会った日から、わたしは、あなたに、恋をしています。

 手紙で呼び出されたサクラは、クラスメイトの女子生徒からそう告げられる。そう、女子生徒に。つまりは、同性に。

 十八歳になったサクラは美しく成長していた。中世的な顔立ちは凛として、百七十センチをわずかに上回る身長と細く伸びた四肢は、性別を問わず多くの他者の目を引いた。容姿だけでなく、学業の成績も身体能力も優れていた。社交性があり、リーダーシップも持ち合わせていた。サクラはいわゆるクラスの中心人物で、人気者だった。ゆえに、男子生徒から交際の申し出を受けたことは何度もある。が、同性は初めてだった。

 顔を真っ赤にし、けれど真剣な表情で自分を見上げてくるクラスメイトを、サクラは見下ろす。控えめな性格の、クラス内ではあまり目立つことのない少女だ。サクラとの仲は、特別に良いわけではないが、決して悪くもない。サクラは彼女のことを深くは知らない。が、こういった類いの冗談を言う人間ではないと推察できる程度には、理解している。サクラは動揺している。聡明なサクラは周囲からの評判を、己が他者からどう思われているかをわかっていた。が、特別親しい相手以外の、しかも個々から評価についてまでは理解していない。ゆえに、少女の想いに露ほども気づいていなかった。高校に入学してからの数年、熱のこもった視線を向けられ続けていたというのに、だ。なぜならサクラは、他者の視線を感じ取る聡明さを持ってはいたが、他者の評価それ自体にはたいして興味を持っていなかったからだ。サクラが視線を気にする相手は、弟ただ一人だったから。弟以外からの評価など、サクラにとって些事だったから。

 が、そのサクラでも、今ばかりは真剣に応えなければと思う。真剣な面持ちで、少女を見つめ返す。彼女が同性にしか恋をできない人間なのか、あるいはたまたま自分に恋をしてしまったのか、サクラは知らない。知ろうとも思わない。それは重要なことではないから。けれど、彼女が並々ならぬ決意を持って本心を打ち明けてきたことはわかる。だから、自分もそれに、誠意で応えなければならない。

 ――ごめんなさい。他に好きな人がいるから、あなたの気持ちには応えられない。

 サクラは告げる。頭は下げない。ただ、少女をまっすぐ見つめる。サクラの言葉を聞いた少女は、大きく息を吐いてから、頬を緩めた。きっと、答えはわかっていたのだろう。わかっていたけれど、秘めたままにすることは耐え難かったのだろうと、サクラは推測する。

 ――そっか、ありがと。それに、ごめんね、鬼鯉さん。気持ち悪いこと言って。わたしは女なのに、鬼鯉さんを、そんな目で見て。

 ――気持ち悪くなんてないよ。あなたの想いが気持ち悪いはずなんて、ない。無神経かもしれないけど、あなたに想ってもらえて、あたしは嬉しい。それに、あなたが気持ち悪いというなら、あたしは、もっと。

 そこでサクラは言葉を止める。言い過ぎたかもしれない、と気づいて。けれどサクラは、この少女になら罪深い本心を知られてもいいと、直感で思う。きっと、彼女はあたしの秘密を言いふらすような人間じゃない。それに、もし彼女が知りたいと望むなら、答えるのがきっと、己の義務だ。

 ――鬼鯉さんの好きな人って、だれなのか訊いてもいいの?

 ――弟だよ。一つ下の学年にいる、血の繋がった、実の弟。

 ――やっぱり、そうなんだ。そんな気はした。

 ――軽蔑しないの?

 ――するわけないよ。だって、鬼鯉さんだって、わたしを許してくれた。

 ――優しいんだね。

 ――鬼鯉さんこそ。じゃあ、わたしは、弟さんに勝てるよう、これからもがんばるね。

 何度も感謝の言葉を繰り返し、少女は教室を去って行く。サクラは一人残された教室で小さく溜め息をつく。弟への思慕を他者に打ち明けたのは初めてだ。けれど不思議と、サクラの心は凪いでいる。打ち明けたいと望む思いが自分の中にあったのかもしれないと、サクラは自己を分析する。そして、もう一度溜め息をこぼす。こぼしてから、スマートフォンを取り出し、電話をかける。相手はすぐに出る。用事は終わったから帰ろうと、通話の相手に告げる。

 相手は、無論、弟だ。

 サクラに想いを告げた少女がサクラの想い人を知っていたことは、決して不自然なことではない。なぜなら、サクラと弟の仲については、鬼鯉の姉弟を知る者にとっては常識だったから。つまり、姉弟の仲が異常に良いということについては。

 姉弟は毎日、必ず二人で登下校した。どちらかが放課後に用事があるときは、もう片方が必ず待った。昼食は毎日、空き教室で、二人きりで食べた。思春期の、異性の姉弟がそれほど親密であることを、周囲の生徒たちは異常だと思った。けれどそれを指摘する者はいなかった。家族間のことに立ち入るのはあまりに無神経だという常識がそうさせたというのもあるだろう。が、理由は他にもある。まず、鬼鯉家にはなにやら複雑な事情があるらしいという噂が、校内には流布していたから。サクラの高校以前からの友人たちは、サクラが決して家族の話をしないことに気づいていた。授業参観でも、校内行事でも、一度としてサクラの両親が姿を見せたことはないと気づいていた。それに、サクラだけでなく、弟も容姿に恵まれた利発な少年に成長していた。つまり姉と同様、周囲から慕われる存在だった。要は、繊細な話題に触れ、二人から悪く思われることを避けたかったという話だ。尤も、姉弟はそうやって周囲から気を遣われていることに、当然のように気づいている。

 それから、弟はもうひとつ、重要なことに気づいている。姉の気持ちだ。弟は、姉の本心に気づいていながら、態度を決めかねている。

 サクラがクラスメイトから告白されたこの日も、二人は連れ立って帰路に着く。電車で十数分の、自宅の最寄り駅へと到着し、手が触れ合うほどの距離で並んで歩き、サクラは弟に訊ねる。今日はどうするの、と。弟は答える。寄ってく、と。弟の言葉に首肯し、二人は公園へと入っていく。そう。例の寂れた公園だ。十年の歳月が経った現在でも、変わらずその公園は存在する。奇妙なほどに、変わっていない。錆びた遊具は錆びたままそこにそびえ、砂場には十数センチの山が何年にも渡って原型を留めている。そして、雑草も、変わらず繁茂している。

 姉弟は並んで雑草の前で腰をかがめ、同時にその中に腕を突っ込む。右側に座る弟は左腕を。左側に座るサクラは右腕を。すると、指先に植物とは違う、なにかの動く気配を感じる。姉弟はその動作を何百、何千と繰り返してきた。だから、その正体を触感のみから見抜き、正確な指の動きで掴むことができる。掴んだそれを草むらの中から引っ張り出し、その姿を陽の下に晒す。

 今日は、コオロギだ。この雑草の中には、どうしてかいつだってなんらかの生物がいる。適当に手を突っ込んだその先に、必ず小さな生命が呼吸をしている。真夜中だろうと、真冬だろうと、必ず、いる。サクラと弟は同時に、ためらいなく、その肉体をちぎる。ぷつりと音がして、コオロギは二つにわかれる。息絶える。人間の指では虫の体温も感じ取れないから、殺した感覚があまりないと、サクラはそう思う。サクラと弟はそれぞれ、手にした胴体部分を相手に渡し合う。そして入れ替えた胴体と顔の部分を、グチャリと、結合させる。ジリジリとねじる。そうすれば本当に二つがくっつき、命を吹き返すかのように強く押し付け合う。無論、それは錯覚でしかない。コオロギは生き返らない。サクラと弟の指先は微かに、虫の体液で濡れている。生き返らないことを確認した二人は、やはり同時に、雑草の中へポイとコオロギを放る。その肉体を目にすることは二度とない。

 公園に立ち寄りなんらかの生物を殺すことは、二人きりの秘密の儀式になっていた。雑草に手を突っ込み、触れた二体の生物――それはときにカマキリで、ときにコオロギで、ときにバッタで、稀にヤモリやカエルやトカゲのこともあった――を殺し、パーツを交換する。そうすれば、好きな人といつまでも一緒にいられる。なんら筋の通っていない、荒唐無稽で奇怪で悪趣味でグロテスクな儀式だ。やめさせなければ、とサクラは思った。初めて弟の行為を目にしたとき、お姉ちゃんは平気だからこんなことはやめよう、と強く弟に訴えた。けれど弟は、首を横に振った。こうすれば安心だから、と。その表情に、この儀式が必要なのは自分ではなく弟の方なのだと、幼いサクラは悟った。だから、苦肉の策として、その行為を黙認した。静観することにした。止めなければならないという気持ちよりも、それで弟の心が休まるなら安いものだと思う気持ちが勝った。ゆえにサクラはこうして、弟と共に生命を潰す。引きちぎる。そして、一緒にしてやる。せめて、殺した二体の生命がつがいであればいいと、小さく祈りながら。虫を殺し、しばらくその場で佇み、それから二人はどちらともなく立ち上がる。また、並んで家への道を歩き出す。帰りを待つ者のいない家へと。このごろでは、娘たちが成長したのをいいことに、両親の帰りは毎日のように深夜になっていた。年を重ねた両親は未だ、異常なほどに依存し合い、愛し合っていた。ここ数年、姉弟が両親と顔を合わせることさえ、ほとんどない。サクラは二人だけのために料理を作り、弟は部屋や風呂を掃除し、食卓で向かい合って、夕飯をとる。新婚の夫婦みたいだと、その毎日をサクラは心から幸福と思う。生命を屠った直後の手で、食べるものをこしらえる。以前はその行為を残酷だと思ったものだが、最近のサクラは、なにも感じない。弟と同じように、感じない。

 だから、あの凄惨な事件は愚鈍に成り果てた自分への罰だったのだと、後にサクラは思うことになる。

 なにが起きたのかというと、犬と猫が殺された。翌朝。二人の通う校門の前で、二体の惨殺死体が並べられているのを、早朝に散歩していた近所の老人が発見した。実にグロテスクで、異常に凄惨な死体だ。その死体の特筆すべき点は、犬の胴体に猫の頭部が、猫の胴体に犬の頭部が無理やりねじこまれていたことだ。頭部と胴体のサイズがそれぞれほぼ一致していたために、発見者はその異常さに気づくのがわずかに遅れた。束の間、微かな違和感の正体を探り、そして気づく。瞬間、嘔吐した。吐瀉物が朝日にきらきらと輝いた。事件の話はすぐに出回り、警察が校舎を訪れ、臨時の全校集会では不審者を警戒するよう呼びかけられた。近隣住民は怯えた。とても怖い。そんなことをするなんて人間じゃない、と人々は語った。生徒たちのあいだでも、その事件にまつわる噂で話題は持ちきりだった。誰もが事件の真相や犯人について憶測や伝聞を語った。語り続けた。

 語られたゆえに、サクラは震えた。自らが語られたわけではないのに。けれど、サクラはそれと全く同じ行為を何度も繰り返しているから。つまり人間らしからぬ、ヒトデナシの行為を繰り返しているから、怯えた。

 尤も、今回の犬と猫の件が自分の仕業でないとサクラは知っている。弟でないことも断言できる。なぜならかなり長い時間を弟と共にしているから、彼にそんなことをする隙はないと確信している。だからこそ、サクラは怯える。あの儀式は自分と弟だけのものであるはずなのに。二人だけの秘密であるはずなのに、どうして模倣されたのか。そもそも、なぜ、あの儀式を知っている人間が存在するのか。

 偶然だ、とサクラは推測する。たまたま、犬と猫を殺した異常者と自分たちの儀式が類似しただけだと仮説を立てる。否。厳密にいうなら、そうであってほしいと願う。希望的な観測にすがる。だって、弟と二人きりのあの時間を誰かに見られたことがあるはずない。あの寂れた公園には、自分たちの他に寄りつく人間なんていない。だから、ただの偶然だ。怯えている自分は自意識が過剰だ。そう思い込もうとする。けれどその願望があまりに空虚であるとサクラは思い知る。事件から数日が経過したころ、二人だけの秘密だと信じ込んでいた儀式を知る人物が、サクラの前に現れる。

 よく見知った、小学生の時分からの同級生だ。小・中・高とサクラと同じ高校に通う、古くからの友人だ。彼女の自宅は、鬼鯉の家と比較的近い場所にある。具体的にいえば、彼女の家と最寄り駅の直線上にサクラと弟の自宅はある。つまり、彼女も件の公園の前を毎日通る。

 彼女は、公園に立ち寄る姉弟の姿を何度か目撃している。小学生のころは、仲がいいな、と思いながら眺めていただけだ。サクラ本人になにをしているのかと問うても、サクラは遊んでると答えるだけだった。けれど中学生に上がり、彼女の思春期的な他者への関心が首をもたげる。サクラと弟が歪な笑みを浮かべているように思えてならず、二人が出てきた直後の公園に脚を踏み入れる。そして、雑草の中から、儀式の生贄を見つける。根気よく調査を続け、悪趣味な死体が見つかるのは姉弟が公園に寄った日だけだとすぐに気づく。こうして、彼女は姉弟の秘密を知る唯一の第三者となる。

 彼女が今回の件を、サクラと弟の共犯、あるいはどちらか一人の仕業かもしれないと疑うのは当然のことだ。それどころか、確信していたといってもいい。事件以降、サクラがどこか虚ろな様子であることも確信を強めた。ゆえに、彼女はサクラを呼び出した。人気のない教室に呼び出し、罪を認めて贖罪しよう、とサクラに告げた。彼女はサクラを糾弾するつもりは毛頭なかった。それどころか、サクラの力になりたいと心から願っていた。サクラと家の近い彼女は、噂話で、鬼鯉の両親の異常性を耳にしていた。だから、姉弟の親密さや異常な行動も、それに起因しているものであると考えた。だから仕方ないと、二人はかわいそうな人間だからと、儀式を己の胸の裡に留めておくことを決めた。けれど、自分が黙っていたせいで、こんな悲惨な事件を起こしてしまった。自分がサクラの相談に乗っていれば、なんらかの形で力になってあげていれば、今回のことは防げたかもしれない。彼女はそう考え、己を責め、目の前の問題から逃げていた自分を恥じた。だから彼女は、サクラに儀式を知っていたことを、黙っていたことを謝った。心から謝罪した。彼女の知るサクラは、誰にでも優しい、品行方正な、清く正しい少女だった。だから話せばわかると、サクラとわかり合えると信じて疑わなかった。サクラが立ち直ることを確信していた。

 けれど、サクラは彼女を罵った。弟との秘密を盗み見たことを激しく責めた。自分を犯人だと決めつける言い草を糾弾した。自分は犬も猫も殺していない! と金切り声で叫んだ。

 サクラの友人の彼女は激しく動揺した。彼女は、サクラの感情的でヒステリックな言動を初めて目にする。他人を悪く言っている場面を、憎悪を向けるところを初めて目の当たりにする。しかも、その憎悪はまっすぐと、自分だけに向けられている。

 自分が責められていることはまだいい。非があるのは確かなのだから。けれど、サクラが犯行を否定することまでは全く予想できなかった。彼女は呆然とする。呆然とする彼女に、サクラは容赦なく罵声を浴びせる。最低、悪魔、ヒトデナシ、あなたの方こそ犯人なんじゃないか、とまくし立てる。彼女は失望のあまり、涙を流し、ごめん、と呟き、その場を走り去る。サクラの罵声の数々は、涙を流して走り去る友人の姿は、別の用事でたまたま残っていたクラスメイトに目撃される。目撃したクラスメイトは、己が目にしたものを余すところなく友人たちに話す。鬼鯉姉弟こそが犯人だと、それが決定事項として全校に話が行き渡るのに時間はかからなかった。

 こうして、サクラと弟は全校生徒から忌み嫌われることになる。腫物扱いされるようになる。二人の評判は、たった一日にして地に堕ちた。

 時間が経過し、冷静になったころ、サクラは友人を罵った自らの言動を強く後悔する。儀式を知られていたという思いがけない事実に動揺し、恐怖のあまり、罵倒する言葉を吐き出してしまった。怯え、冷静じゃなかったとはいえ、決して許されることではない。サクラは放課後、友人に電話をかけ誠心誠意の謝罪の言葉を口にする。友人はサクラの謝罪を受け入れ、同時にサクラが犯人だと決めつけた自分の言動を謝罪する。二人は和解する。が、修復不可能な段階まで、噂は広まってしまっている。噂はもはや、噂でなく事実と化している。誰もが露骨にサクラを避ける。話しかけても、愛想笑いを返され、静かに逃げられる。自分が教室に入っただけで空気がさあっと暗くなる。周囲が静かになる。静かになり、けれどどこかからヒソヒソと声が聞こえる。気のせいかもしれない。自意識過剰かもしれない。けれど、少なくともサクラ自身はそう感じる。サクラは憔悴する。自分だけが悪く思われるのなら構わない。けれど、自分の浅はかな言動のせいで、弟にまで辛い思いを強いている。弟を傷つけている愚かな自分が、サクラは到底許せなかった。

 唯一の救いは、直接的な暴力や罵倒を向けられる機会がなかったことだ。元の評判があるからどこか遠慮しているのか、異常者に手を出して報復されるのを恐れているか、どちらかだろうとサクラは推測する。が、いつまでも自分が抵抗もせず大人しくしていれば、いつかひどい目に遭うかもしれない。そう考え、サクラは校内でもできる限り、弟と行動を共にすることに決めた。なぜなら弟を守りたいから。

 授業が終わるたびに、弟の顔を見に彼の教室へと赴いた。すぐに弟もそれに合わせ、二人の教室の中間にあたる階段の踊り場で落ち合うようになる。そこで、休み時間は黙って手を繋ぎ、予鈴が鳴るまでの時間を二人で過ごす。病的とさえいえる光景に生徒たちは怯え、その階段を使用する者はいなくなった。その階段は動物の腐乱臭がすると噂されるようになった。二人はさらに孤立していった。孤立し、引き換えに姉弟の絆はより強固になった。より強く、互いに依存し合うようになった。ただ、儀式は行わなくなった。授業が終わればすぐに帰宅し、夜は同じベッドの上で、抱き合って横になった。あまりに愛おしい体温を腕の中に感じながら、毎晩、サクラは思考する。果たして、犬と猫を殺したのは誰なのか、と。未だ犯人が捕まったという話は耳にしない。サクラは考える。けれどわからない。心当たりもない。犯人が誰かなんてこれっぽっちも重要じゃないのではないかと、どうしてかそんなことが頭をよぎる。それより考えるべきは、語られるべきは自分の、あたしの異常性ではないかと、サクラは考える。つまり、犬と猫を殺した犯人が異常者であることを疑う者はいないのだから、虫で同じことをやっていた自分たちは、いくら犬と猫を殺していないといっても十分に異常者であると。それこそ、疑いようのないはっきりした真実であると。異常者である自分は、たとえ犬や猫を殺していなくても罰を受けるべき人間ではないかとサクラは思う。いやそれ以前に、無意識のうちに昆虫の命が犬以下であると決めつけているその点がなにより狂っているのではないか。あたしが大量の命を奪ったのは事実なのだから。あたしは、本当に、罪深い。それだけのことを考え、思考した上で、己の最大の罪はそんなことではないとサクラは悟る。弟を守れずにいることだ。それが、最低最悪の、あたしの罪だ。

 事件以降、弟の口数が異様に少なくなった。表情が、瞳が虚ろになった。あたしの精神も不安定だけど、それを自覚してるあたし自身よりもずっと、弟は傷ついている。精神の疲弊しているサクラは、弟を励ます言葉のひとつも頭に湧いてこない。弟を慰めるすべを知らない。ただそばにいて、抱きしめることしかできない。弟の頭を両腕で包み、己の胸に引き寄せる。体温をより、近くに感じる。いつまでもこうしていたいと願う気持ちが沸き上がり、陳腐なメロドラマのような己の思考に内心、苦笑する。と、弟がボソリとなにかを呟き、どうしたの? とサクラが問う。問いに、弟は言葉を繰り返す。

 ――僕が、殺してしまったのかもしれない。

 腕の中で静かに、けれど確かに紡がれた一言に、サクラの思考がピタリと停止する。一秒。二秒。三秒。時計の針が進み、サクラの、弟の鼓動がそれに合わせて揺れる。数秒後には、サクラのそれだけがドクドクとテンポを速め、弟の脈の揺れを追い越していく。サクラの思考が再び、回転していく。弟の言葉の意味が、サクラにはわからなかった。弟が、ころした。コロシタ。殺した? なにを? 答えを求めるまでもない。当然、あの犬と猫だ。

 どういうこと? とサクラは問う。その問いの中には、あなたがそんなことをするわけがないという確信が込められている。あたしはあなたを信じている。死体の見つかった前日だってずっと一緒にいたと断言できる。そもそも、かもしれない、なんて。そんなことをしておいて記憶がないはずないじゃないかと、そう訴える思いが問いに込められている。姉の言わんとすることを正確に理解した弟は、答える。灰色の瞳に涙を貯めながら、語る。

 ――僕は、狂っているから。お姉ちゃんをあんな狂った儀式に巻き込んで、十年以上もその行為に疑問を抱かないで、おかしなことをやってると気づかないで、今までを生きてきた人間だから。狂ってるくせに善良なフリをして生きてきたどうしようもない人間だから。僕はそんな奴だから、呼吸をするように動物を殺したっておかしくない。残虐に殺しておいて、それを翌日にはきれいさっぱり忘れたって、ちっともおかしくない。

 弟の言葉に、サクラはより強く、弟の頭を抱きしめる。そして、あなたは疲れてる、と告げる。そんなはずないでしょう、事件のことで疲れてるから、そんなおかしなことを考えるのよ、と優しく囁く。けれど弟はかぶりを振る。

 ――僕が言ってることは、ちっともおかしくないよ。だって僕は今まで、儀式で殺した虫の種類なんて、用の済んだ直後には忘れてたよ。

 弟が自嘲するように笑う。サクラの腕を優しくほどき、疲労の滲んだ笑みを姉に向ける。虚ろな笑みに、サクラの心はさあっと冷たくなる。刹那、生きた心地がしなくなる。直後、今度は狼狽する。弟が極限まで追い詰められていることをサクラは悟る。今の今までそのことに気づかなかった己の不甲斐なさを悔いながら、弟を癒すための言葉を次から次へ吐き出していく。

 ――あなたは狂ってなんかいない。頭のおかしい両親のせいで、ちょっとだけ、周囲のことが見えてなかっただけ。悪いのは優しいあなたをこんなになるまで傷つけたあのバカでイカレタ両親。それに、あたし。お姉ちゃんはあなたのやってることをダメだって、悪いことだって導いてあげるべきだったのに、それがお姉ちゃんの役目だったのに、一緒になってあんなことをした。虫を殺した。そしていつの間にか、その毎日にすっかり慣れてしまった。自分を制御できなくなった。それだけじゃない。お姉ちゃんが、儀式のことをちゃんと隠し通せば学校で無視されることだってなかった。こうなったのは全部、お姉ちゃんのせい。お姉ちゃんの責任。あなたはちっとも悪くない。だから、あなたはそんな顔をしないで、自分を責めないで、

 ――お姉ちゃんは、いつもそうだ!

 弟の悲鳴が空気を切り裂いた。サクラの必死の謝罪を、悔恨の言を、咆哮が掻き消す。サクラは口を噤む。二の句が継げずにいるうちに、弟は再び口を開き、

 ――お姉ちゃんはいつもいつも、なにがあっても僕を責めない。僕を庇おうとしかしない。なにかあったら自分のせいにしようとする。僕を守ろうとするばかりで、自分のことなんてちっとも考えてない。こうなったのは、僕のせいだ。儀式が始まったのは僕のワガママのせいだ。それはどう考えたって事実なんだから、僕に罪を認めさせてよ!

 弟が喚く。まくし立てる。サクラは半ば呆然としながら、それに耳を傾ける。弟の怒鳴り声を、サクラは初めて耳にした。弟をこうさせたのは誰か。考えるまでもない、あたしだ。サクラは謝罪の言葉を口にする。ゴメンね。あなたの気持ちを考えてあげられなくてゴメン、と。弟は答える。ほら、また謝って、自分が悪いんだって言おうとする。僕がほしいのはそんな言葉じゃないのに。

 サクラを責め、さらにまくしたてようとする弟をサクラが制する。だけどね、と呟く。

 ――あたしは、お姉ちゃんのあたしは、あなたを守ることがなによりの幸福なの。それだけがお姉ちゃんの存在価値なの。だから、お願いだから、あたしに守られてよ! 弟を、あなたを、あたしに守らせてよ!

 ――じゃあ、僕の気持ちはどうなるの! お姉ちゃんの自己満足に、僕は付き合わなくちゃいけないの!

 ――あなたがあたしを頼ってくれないと、あたしの気持ちだってどこにも行けなくなっちゃうの!

 姉弟は怒りを、本心からの言葉をぶつけ合った。二人は初めて、衝突し合った。互いの紡ぐ言葉は支離滅裂で、手前勝手なものばかりだった。自分の気持ちばかりを主張するものだった。けれど、声を荒げながらどこか冷静なサクラの心は、これでいい、と感じていた。なぜなら自分たちは二人とも、相手のことばかりを考えて生きてきたから。本心を自分でも気づかないうちに隠して生きてきたから。だから、これは、必要なことなのだと確信した。

 数十分後。喉が涸れ、倦怠感と疲労から全身を汗で濡らし、二人は静かに向き合っていた。けれど、互いの体を変わらず抱きしめ合ったままだった。怒鳴り合っているあいだですら、姉弟は互いを抱擁していた。

 ――お姉ちゃんの気持ちはわかった。だけど、僕はまだもうひとつ、怒ってることがある。

 掠れる声で、弟が囁く。言ってよ、とサクラが答える。

 ――まだ、僕に伝えてないことがあるでしょ。一番、大切なこと。

 弟が言わんとしていることを、サクラはすぐに悟った。サクラは、己の気持ちに弟が気づいているとは微塵も思っていなかった。それなのに、弟の言葉の真意を理解し、そして動揺しなかった。だからサクラは答える。うん、あるよ。あのね、あたしはね、と語り始めたところで弟が制止する。その先は言わなくていい、と弟は言う。

 ――僕も、世界の誰よりお姉ちゃんのことが大切だから。だからお姉ちゃんが望むなら僕はずっと弟でいるよ。もしも、お姉ちゃんが守られたいって思うときが来たら、そのときは兄や父や親友の代わりにだってなる。それに――男にだって、なる。

 弟の言葉は震えていた。それは、彼の人生最大の決意だった。サクラはそれに、応える。己の欲望に忠実になることを決める形で、応える。

 こうして、この日、二人は一線を越えた。互いの体を貪り合い、弟は自らの性器を、サクラのそれに挿入した。果てるまで、激しく腰を振り続けた。


 翌朝。二人は手を繋いで登校する。電車に乗り、校舎の最寄り駅へ着いても、人目をはばからず、その手を離さない。

 サクラの心は幸福で満たされていた。禁忌を犯した罪悪感など微塵もない。目に映るすべてが美しく、輝いて見えた。自らの身に降りかかるあらゆる不幸など些事に思えた。

 廊下で弟と別れ、真摯な気持ちで授業に取り組む。時折、昨晩の情事を思い出し、頬を緩めることもあったが、基本は授業に集中していた。この数週間は授業に集中できる精神状態ではなかったため、久々の感覚だった。たかだかセックス程度で日常を取り戻すなんて、自分は思った以上に単純だと、サクラは苦笑する。

 昼休みも、いつも通りに弟と空き教室で昼食を共にする。ただ、二人のあいだには久々の、笑顔があった。心地よい談笑の時間があった。自分たちを取り巻く環境はなにも変わっていないけれど、大切な人の笑顔があればそれでいいと、その確信を新たにする。新たにし、教室へ戻る前に女子トイレの中に歩を進める。目の前で個室が開く。中から出てきた相手と、目が合う。

 それは、かつて自分に好きだと言ってくれたクラスメイトだった。彼女の全身は、まるで制服のまま水に浸かったかのように、ビショビショに濡れていた。

 ――どう、したの。

 サクラの内面から、さあっと幸福の感情が剥がれ落ちる。呆然とクラスメイトを見つめ、ぽつりと、無意識に問いをこぼす。クラスメイトはまっすぐとサクラの顔を覗き込む。生気のない目で、覗く。アハハと、乾いた笑い声をこぼす。

 ――閉じ込められて、上から何度も何度も、バケツで、水を、こう、ビシャーってかけられちゃった。今日のは、さすがにちょっと、堪えたかな。

 クラスメイトが答え、己の肩を抱く。寒そうに体を震わす。髪から滴り落ちる水滴を、サクラは痛々しいと思う。こんな格好じゃ授業なんて受けられないから、保健室に行くね、と彼女が告げ、去って行く。トイレを出て、廊下を濡らしながら歩く彼女を、汚い、キモイ、サイアク、死ね、と罵る声が取り囲む。生徒の一人が彼女の背中を蹴る。彼女がたたらを踏む。それを見た周囲の人間たちが笑う。彼女はそれに反応することなくゆっくりと、ゆっくりと階段を降りていく。サクラはその背を見送ってから、遅れて、トイレの床がびしょ濡れであることに気づく。

 放課後、サクラは通話アプリで連絡を取り、友人を空き教室へ呼び出す。以前、感情のままに罵る言葉をぶつけてしまった、例の友人だ。件のクラスメイトの名を出し、彼女の身になにが起きているのかと問う。友人曰く。事件の直後のある日の昼休み、姉弟の悪口で盛り上がる数人の生徒がいた。下品で低俗な語彙を用いて、口汚く罵っていた。多くの生徒がそれに同意し、笑った。けれど、一人だけ、それに異を唱える生徒がいた。鬼鯉さんはそんなことをする人じゃないと、動物を殺すような人じゃないと声をあげる生徒がいた。それが、件のクラスメイトだった。中心で悪口を言っていた生徒たちは、気弱で大人しい彼女のことを、以前からノロマで根暗だと感じていた。ゆえに、この出来事がきっかけで彼女に対し嫌がらせをするようになり、それは日に日にエスカレートしていった――というのが、友人の視点から見た顛末だった。語り終えた友人が、サクラちゃん、と呟く。弱々しい瞳で見返してくるサクラに、どうして今まで気づかなかったの? と問う。

 ――あんなにひどいいじめを受けてたのに、どうして気づいてすらいなかったの? 彼女は、サクラちゃんのせいでいじめられてるんだよ? わたしにはなにを言っても構わないけど、それはさすがに、かわいそうだよ。

 そう言って友人はサクラに背を向け、教室を後にする。自分もいじめを見て見ぬフリする人間の一人でありながら、まるでサクラにすべての非があるかのような言葉を残す。けれど、動揺しきっているサクラはそのような指摘を思い浮かべることすらできない。告げられた通り、己を強く責めてしまう。あたしは。あたしは自分のことばかりで、自分を守ろうとしてくれた友達を見捨てた。見捨てた事実にすら、気づいていなかった。余裕がないあまり、周囲をなにも見ていなかった。弟を守れないように、友人のことも、守ることができずにいた。その事実にサクラは愕然とする。セックスをした途端、心に余裕ができるなんて、あたしはなんて浅ましいのだろう。己の浅ましさに絶望し、頼りない足取りで階段を降り、玄関で弟と合流する。一目で姉の異変に気づいた弟は、どうしたの? と問う。なんでもない、と答え、体調が悪いのかと尚も問う弟に、いいから、家に帰ろう、と言い張る。納得しない表情を浮かべながらも、弟はサクラの手を引き、歩き出す。サクラには、弟の手のぬくもりを感じる余裕さえない。サクラの脳裏は、全身がずぶ濡れになったクラスメイトの姿で埋め尽くされている。自分が彼女をああさせてしまったという事実がサクラを圧迫する。耐えきれなくなったサクラは、やっぱり、なにがあったのか、家に着いたら聞いてくれる? と弟に問う。弟は安心したように微笑し、もちろんだよ、と答える。サクラの心がわずかに落ち着き、二人は帰宅する。けれど、二人の安堵はそこで終わった。鍵を差した瞬間、サクラは違和感に気づく。家の鍵が開いている? 閉め忘れて出かけてしまったのだろうかと扉を開け、ありえない光景に愕然とする。見慣れない靴がある。慌てて家の中に駆け込み、リビングに飛び込み、息を呑む。両親が、そこにいた。同じ家に暮らす両親の顔を、二人は久々に目にする。けれど、姉弟の視線はもっと、別の場所へ向けられる。リビングの中心に置かれたテーブルだ。その上に直で放置されているのは、使用済みのコンドームだった。昨晩、自分たちが使い、確かに捨てたはずのものだと、姉弟は確信する。

 刹那、サクラの全身を寒気が覆う。けれど、自分たちはなにも悪いことをしていないのだから、責められる謂れはないと、すぐに気づく。自分たちは愛し合っているのだ。愛し合った末に結ばれたことのなにが悪い。両親が姉弟を睨む。姉弟が睨み返し、テーブルを挟んで両親の正面に座る。そして、母が口を開く。

 ――私の娘と息子と、愛も知らないくせにセックスをしたのは、一体どっちなんだい!

 束の間、サクラの思考が止まる。弟との性行為を見抜かれ、それを糾弾されるのかと思い込んでいた。けれど、違った。あたしたちのセックスに愛がないと、卑しいこの女は、どうして断言するのだ?

 母がヒステリックに喚き立てる。お前たちはガキなのだから、ガキのくせに、ガキが真実の愛など知るはずない。愛も知らぬくせに、性欲に支配されて快楽のためだけにどこぞの野蛮人と性器をこすりつけ合った。淫らに、だらしなく、みっともなく腰を振った。なんて汚らわしい! 卑しい! セックスっていうのはね、私とこの人のように、本当に愛し合ってる者同士のための行為なんだよ。そんなことも知らないガキがね、私とこの人の大切な家に穢れた性欲を持ち込むな! 恥を知れ!

 あまりに手前勝手な物言いに、サクラは激怒する。激怒して、言い返す。それは、あたしと弟が使った避妊具だと。あたしたちは心から愛し合っていると。

 サクラの言葉に母は束の間、息を呑み、そして激高する。あらん限りの言葉で、姉弟を罵倒する。お前たちなんか私たちの子じゃない、人ですらない、と怒鳴り、愛する夫の手を引き、家を去る。乱暴に扉が閉められ、エンジン音が遠ざかっていく。

 しばしの沈黙の後、ゴメンね、とサクラが呟く。弟は静かにかぶりを振る。そして微笑する。何事もなかったかのように、姉弟は笑い合う。いつものように夕飯の用意を始め、向かい合って食事を取り、共に湯船に浸かり、夜はまた、セックスをした。昨晩は快楽でしかなかったセックスを、サクラはこの日、痛いと感じた。弟の動きが昨晩より乱暴であることに、その表情が苦しげに歪んでいることに、サクラは気づかなかった。サクラの心は不幸のどん底から幸福の絶頂へと一晩で達し、そして再び、絶望に沈みきっていた。

 翌日。昼休みに、サクラはいつもの空き教室へ、弁当を片手に向かう。扉を開くが、まだ弟の姿はない。椅子に座り、待つ。待ちながら、虐げられるクラスメイトのことを考える。改めて彼女を見つめ、目元には濃いくまが浮かび、肌が荒れ、瞳にはやはり生気がないことを確認した。なにも解決していない、とサクラは思い知る。友人が傷つき、愚かな両親から罵倒され、誰もあたしたちを救ってはくれない。いくらあたしたちが愛し合っても、世界はあたしたちを愛さない。あたしは。あたしたちは、どうして……。

 と、十数分考え込んで、はっと気づく。これだけ待っても、なぜ弟は来ないのか。急激に、とてつもない不安に襲われ、サクラは駆け出した。生徒たちと肩をぶつけながら廊下を全力で走り、弟の教室に駆け込む。近くにいた生徒を捕まえ弟の所在を訊ねると、授業が終わってすぐに出ていったと、そう告げられる。礼も言わず、サクラは再び駆け出す。サクラはなぜか確信する。取り返しのつかないことが起きているに違いない、と。

 勘の告げるままに玄関を飛び出し、校舎の裏に向かう。体育館の脇を通り、息を切らし、全力で脚を動かす。その先に弟はいると、サクラは確信している。

 果たして、その確信は当たる。体育館の陰に、弟の姿はある。

 弟の手が、大量の血で赤黒く染まっていた。それを目にした瞬間、それが弟の血だと思ったサクラは気を失いそうになった。けれど、彼がその手に持つものを見て、そうじゃないと気づいた。気づいてしまった。

 弟がその手に、子犬を抱えていた。尤も、その胴体は地べたに横たわり、弟が抱えているのは頭部のみなのだが。

 胴体の横には、刃先のきらりと光る包丁が置かれている。サクラはそれを知っている。家にあるはずの、柳刃包丁だ。

 サクラは呆然と、弟を見つめる。弟がゆっくりとサクラに首を向け、そして、笑う。不器用に、歯を見せて、笑う。

 ――こうすれば、お姉ちゃんが苦しんでることとか、両親のこととか、全部が丸く収まると思ったんだ。

 弟の言葉を聞いた瞬間、サクラは彼に背を向け走り出した。サクラの心には恐怖の感情しかなかった。犬も猫も殺していない弟が、本当に、殺してしまった。一線を越えてしまった。最悪の事態が起きてしまった。濡れ衣が、真実になってしまった。

 もうダメだ、とサクラは思う。弟は間違いなく、自分を責める。冷静になってから、自らを最低な人間だと罵る。そうなったら、あたしがなにを言ってもダメだ。優しい弟は、決して己を許さない。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。どこで、誰が、なにを間違えたというのだろうか。両親がどうしようもなくバカだから? 儀式を見られてしまったから? クラスメイト達が嫌がらせをするから? あたしなんかを好きになる娘がいるから?

 違う。きっとそれらも原因ではあるのだけれど、そうでなく、本当に語られるべきは、責められるべきは、


「やあ、山賊。アンタの周囲の人間が不幸になるのは、もちろん、アンタが原因だよ。すべてアンタが悪いんだよ。どうしてさっさとそれを認めないんだい?」


 唐突な声に、サクラは脚を止める。周囲を見回し、無我夢中で走っているうちにいつの間にか、見知らぬ土地に辿り着いていたことに気づく。寂れた数件の民家と畑に囲まれた、見晴らしの良い土地だ。けれど周囲に見える人の姿は、目の前の、怪しい衣服に身を包んだ老婆、ただ一人。言うまでもない。少女たちを魔法少女へ導く、例の老婆だ。サクラが呆然と老婆を見つめると、老婆はニヤリと笑い、

「いいや、違ったね。アンタは自分の罪を認めてるんだったね。血の繋がった弟に恋をし、かつて犯した己の過ちを、アンタは認めてるんだ。そういった意味じゃ、アンタは立派だよ。アンタより馬鹿なガキなんていくらでもいるよ。だけどね、鬼鯉サクラ。アンタはどうして己の過ちに気づきながら、行動を起こさないんだい? 悲劇のヒロインを気取って、ただ膝を抱えて一切をやり過ごしているんだい? 最悪の加害者は他ならぬ自分自身だっていうのに」

 そんなことはない、とサクラは答えようとする。あたしが現状を変えるためになにもしていないなんて、そんなことはないと言い返そうとし――口ごもる。あれ? あたしは一体、ナニヲシタ? あたしの行いは、実の弟に恋をし、弟の過ちを見過ごし、友人を罵倒し、クラスメイトを見捨て、両親との仲に決定的な亀裂をつくり、……どれも、わかっていたことだ。自覚していた罪だ。自覚、していた? 本当に?

「その通りだよ、鬼鯉サクラ。アンタは自覚してるだけなんだよ。己の罪の存在をこれ以上ないほどに確信し、けれどそれを心の底ではちっとも悪いと思っちゃいないんだ。だからアンタは山賊なんだよ。『桜の森の満開の下』という小説を知っているかい? 坂口安吾の小説だよ。極悪人の山賊が、あるとき出会った美しい女を捕らえ、けれど捕らえたはずの女の下僕に成り果て、女に命じられるがまま人を殺め続ける話だよ。山賊はね、己を極悪人だなんてこれっぽっちも思っていないのさ。あるいは自覚はあるのかもしれないけれどね、あるだけさ。それ以上でも以下でもない。つまりはね、アンタと同じなんだよ。アンタは山賊であり、同時に、関わる人間をたぶらかし、不幸にする魔性の女なんだよ。山賊を呪った、存在するだけで誰をも不幸にする、恐ろしい女なんだよ」

 老婆の無慈悲な言葉に、サクラは膝をつく。全身が痙攣し、己の愚かさに絶望する。あたしは、いるだけで、周囲の人間を不幸にする。あたしは、呪われている。いいや。呪われてなんかいない。ただあたしが愚鈍なだけだ。あたしが愚鈍だから、友達を――弟を、傷つけた。あたしは、最低だ。最低で最低で最低で最低で、最悪だ。

 過去は消えない。けれど、せめて、償いたい。償い、守れるようになりたい。守れるほどの人間になりたい。大人になりたい。

 サクラが強く祈った瞬間、老婆はニヤリと底冷えのするような笑みを浮かべる。

「アンタにひとつ、提案がある。贖罪のため、魔法少女になればいい。今、この世界は滅亡の危機に瀕している。アンタが魔法少女になって、この世界を救うんだよ。世界を救うっていうのはね、つまりね、アンタの大好きな弟の命も救うってことだよ」

 老婆の言葉に、サクラは震えを止める。おもむろに顔を上げる。詳しい話を聞かせてほしいと、視線で老婆に訴える。老婆の話を聞いたサクラは、魔法少女になることを即断する。弟を守れるのならあたしはなんにでもなる、と。


 神堵イノリや幽ミコトと同様、サクラは恐ろしいまでの才を持っていた。その能力を駆使し、魔法獣を殺し尽くした。が、彼女ほど幾度も死にかけた魔法少女は、長い闘いの歴史の中でも皆無だった。なぜならサクラは、守れるならなんでもいいと思っていたから。自分の命がどうなろうと構わないと、半ば自暴自棄になっていたから。イノリやミコトと違い、冷静に老婆の話に耳を傾け、その上で魔法少女になったにもかかわらず、だ。なぜなら、自分こそ諸悪の根源だと、思い込んでいたから。そう思い込みながら、心の根っこの部分では死にたくないと願っている自分が浅ましいと思っていたから。だから、闘いの中で死ねればそれが素晴らしいことではないかと、サクラはそう考えていた。しかし死ななかった。あまりに強かったゆえに。


 斯くして、鬼鯉サクラは世界を救った。なにも救えない己に失望しながら。

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