幽ミコト

 幽(かすか)ミコトは死を恐れている。生きとし生けるものへ等しく訪れる生の終焉を、生涯における最大の不幸と考え、恐れ慄いている。

 死を恐れる――それは無論、ミコトに限った話ではなく、大多数の生命にとって共通の価値観だ。が、彼女の怯え方は他者のそれとは一線を画している。

 ミコトの生は常に死と共にある。ミコトの行動、思考の中心には、必ず死がある。ミコトは死に支配されている。ミコトは常に、目覚めている限り、死を意識している。怯えている。異常なまでに。

 ずっと。ずっと。ずっと。心休まる瞬間などあるはずもなく、震え続けている。

 死という概念が存在することを知った幼きころから、今日(こんにち)まで。

 おそらくは、これからも。この先も。

 無論、この瞬間も。どうしようもなく、みっともなく、情けなく震えている。

 ミコトは大病に侵されているわけではない。現代の医学では死を免れることの不可能な病を患い、目前に迫った死を想像し、現実に打ち震えているわけではない。少なくとも現在のミコトは五体満足の健康優良児である。アレルギーすらない。病や怪我に伏した経験もない。

 身に迫る危険があるわけではない。ミコトが暮らしているのは、無慈悲な殺戮が日常と化した戦場でなければ、殺人や強奪、強姦の多発するスラム街でもない。ミコトが生まれ、十八になる現在まで育った街は日本の――世界でも有数の治安を誇るアジアの島国の、至って平穏な地方都市である。不注意で事故に巻き込まれることがあるかもしれない。これから大病を患う、あるいはすでに体内では病の進行が進んでいることだってありうる。確率としては非常に低いだろうが、凶悪な犯罪事件に巻き込まれる可能性だってゼロではない。しかし、そのいずれにしても、ミコトがその予兆を感じる、不安に思う要素は、彼女を取り巻く日常の中において皆無といえるだろう。

 しかし、それでも。それらを踏まえて、尚。ミコトは死を恐れていた。どうしようもないほどに恐れていた。

 死という概念を理解したとき――それがいつのことなのか、ミコトの年が幾つを数えるときであったかなどという話はどうだっていいことだ――ミコトは愕然とした。言葉を失った。呼吸すら忘れ、全身から力が抜け、膝から崩れ落ちた。寒気が彼女の体中を覆った。自然と手足が震えた。歯がカタカタと鳴った。みるみる顔が青ざめた。滂沱の涙が流れた。止まることのない涙を流しながら、ミコトは声をあげることすらなかった。嗚咽すら漏らさなかった。己が泣いていることにすら気づかず、ただ泣いていた。泣いて、泣いて、泣いて、絶望していた。そのとき、ミコトは一人だったのか。あるいは近くに誰かが、彼女を支える家族や友人や、あるいは見ず知らずの他人がいたのか。そんなことはどうでもいいことだ。他者がミコトの肩を支えたところで、ミコトの背中を撫でたところで、ミコトを抱きしめたところで、彼女はそれに気づくことさえなかっただろう。自らに向けられた温情に、優しさに気づくことはなかっただろう。なぜか。己の身になにが起きたところで気づかぬほど、ミコトが絶望していたからだ。

 ――あるいは、その瞬間、ふっと意識が途切れるように、静かに命を引き取ることができたなら、それはミコトにとって最上の喜びであったかもしれない。尤も、そんな話はつまらぬ仮定でしかないのだが。

 話を戻そう。とにもかくにも、語られるべきことはミコトが死を恐れているという、その一点に過ぎない。死が総ての生命に――無論、自らも例外でなく――訪れるという、その一点に、だ。

 死後の世界があると解釈する考えもある。輪廻転生という概念もある。が、ミコトにとって死とは、意識が途絶え、自我を失い、決して目覚めることのない暗闇へ永久に押し込まれることであるという解釈以外にあり得なかった。さらに厳密にいえば、その可能性が存在することそのものが彼女にとって重要であった。

 死ぬと生物はどうなるか――その答えは、死ななければわからない。わからない以上、ミコトが解釈した通りの答えも十二分にありうる。ゆえにミコトは震える。その可能性の、なんと恐ろしいことか!

 自らの意識を感じるのは。自らが生きていると、確かに自我を持っていると知覚できるのは己だけである。その自分が、たった一人の自分の意識が、数十年後には途絶え、失われ、失った光が取り戻されることはほんの一瞬たりともありえない。万に一つも、微かにも、ありえないのだ。一縷の希望もなく、絶望を感じることさえなく、いつまでも、いつまでも、閉じ込められるのだ。

 恐ろしい。あまりに理不尽で、無惨で、恐ろしい。〈生きている〉。このことが自己にとって全てであるのに、それは誰にとっても例外のないことであるはずなのに、救いもなく、それが失われる。その事実に、ミコトは震え、恐れる。今も、これからも、絶えず恐れる。

 ミコトの恐怖は、死そのもの以外にも向けられる。周囲の人々だ。平気な顔をしてこの狂った世界を生きる人間たちだ。

 なぜ彼ら彼女らは、自らがいつか死ぬ身であると知りながら、怯える様子も嘆く様子も露ほども見せずに日々を生きていくことができるのだろうか。ミコトには不思議でならなかった。平気であるはずないのに。死が刻一刻と迫っていることを知りながら、平気でいられるわけがないのに。

 ゆえに、ミコトは死ばかりでなく、周囲の人間を恐れた。例外なく、恐れた。彼ら彼女らは自分とはあまりに程遠い存在だと。彼ら彼女らがなにを考え、なにを思い生きているのかなんて想像もつかず恐ろしいと。

 幼いころからそう思考し、怯え続けたミコトが、引っ込み思案の、口数の少ない陰気な少女に育ったのは当然のことだ。親しい友人もなく、家族からさえなにを考えているのかわからないと不気味に思われ、疎んじられ、ミコトは育ってきた。あらゆることに怯え、周囲の視線に敏感であるミコトが、己に対する周囲の評価に気づかないはずがなかった。しかしミコトは気にしなかった。なぜなら対等だから。誰もが自分を理解できないと感じるのと同時に、ミコト自身も、周囲を理解できないと、理解できるわけがないと感じていたから。だからお互い様だ、とミコトは考えていた。そもそも、ミコトにとってそれはたいした問題ではなかった。彼女にとって、他者からの評価など些事だった。あるいは、気にする余裕などなかった、と言い換えることもできるかもしれない。死という恐怖をどう乗り越えるか。否定するか。どう逃げるか。それが、ミコトの人生にとってたった一つの、そして最重要の課題だからだ。

 ミコトがこの世に存在するあらゆる死から逃げるために取った行動は、実に単純だ。情報を遮断したのだ。ミコトはテレビを一切見なかった。新聞を読まなかった。ネットをやらず、スマートフォンを持たなかった。書物という書物から距離を置いた。なぜならあらゆる文字列、情報の中に、いかなる形で死が紛れ込んでいるかわからなかったからだ。死の気配は思わぬ場所に、思わぬ形で顔を覗かせている。寿命、病、事故、災害、殺人、自殺――あらゆる形で、死は日常を支配する。何気なく目にしていたニュース番組が、唐突に凶悪犯罪について報じる。穏やかな日常を描く小説にもかかわらず、作中の人物が前触れもなく死に至る。そんな例はいくらでもあるとミコトは知っていた。悲しいほどに知っていた。ミコトは、『死』という文字を目にしただけでも呼吸が止まりそうになるほどに怯えた。現実の誰かの死はもちろんのこと、フィクション内の死でさえミコトには耐えがたいことだった。それどころか、創作の中において死が語られるということは即ち死を娯楽としているということであり、そのようなものを喜々として読む人間がいるという事実が、吐き気を催すほどにミコトを震え上がらせた。ゆえに、小説や映画を好む人間を、ミコトはなにより忌み嫌った。彼ら彼女らのことを、気が狂っているに違いないと確信していた。

 ミコトは、死を日常の一部としか見ない人種を嫌悪していた。紛争や自然災害について平気な顔で語る人間が信じられなかった。

 要は、ミコトは周囲のあらゆるものを自身から遠ざけていたということだ。他者と関われば、何気ない会話の一端から死の臭いを感じ取ってしまう。それどころか、最悪の場合、近しい人間の死に遭遇してしまうかもしれない。人だけでなく、あらゆる情報源を絶たなければ死に触れてしまう。ゆえにミコトは目をつぶり、耳を塞ぎ、可能な限りなにもせず、息を潜めて日々を生きた。


 けれどそれにも限度がある。家族からの介入まで遮断するすべを、若く無力なミコトは持っていなかった。

 ――この辺りで不審者が出るそうだから、気をつけなさい。犬が何匹も殺されているそうよ。

 高校三年生に進級したある日の朝、ミコトは母親からそう告げられた。唐突な、あまりに残虐で無慈悲な言葉に、ミコトの心臓は激しく高鳴った。朝食のみそ汁を吐き出しそうになった(余談だが、ミコトは動物性の食物を一切口にしなかった。なぜなら、食卓に上がるあらゆる肉や魚は、ミコトにとってはグロテスクな動物の死骸以外の何物でもなかったからだ)。ミコトにとってあまりに無神経な母親が、前触れもなく死に関する話題を口にすることは稀にあった。ゆえに、ミコトにもわずかばかりの耐性はあった。が、さすがにこの日の話題はミコトにとってあまりに耐えがたいものだった。テレビドラマやワイドショーで語られる殺人の話なら、ミコトの精神状態によっては、他人事であるとどうにか受け入れることもできた。胸がキリキリと痛み、母親に対して隠しきれない嫌悪感を抱くことまでは止められなかったが、苦痛のあまりその場に崩れ落ちるような事態にまで陥ることはまずなかった。が、この日、ミコトは倒れた。意識を失った。ミコトが倒れるのは母親にとっては慣れたもので、ミコトは自室へ運ばれ、ベッドに寝かされ、学校には休むと連絡が入れられた。ミコトが目を覚ましたのは昼も近くなるころだった。両親は仕事に出かけ、一人っ子のミコトは家にたった一人だった。上半身を起こし、自身が意識を失ったことと、その原因を思い出し、激しい頭痛に襲われた。顔をしかめ、直後に全身を駆け巡った悪寒に、自らの肩を抱いた。胸にも痛みが走る。深々と溜め息をつき、どうにか心を落ち着かせようとする。が、それは無駄な足掻きだ。ミコトの心臓は、ミコト自身を食い殺さんとばかりに激しく暴れ続ける。

 今朝方、母はなんと言ったか。犬が何匹も殺されていると、あろうことかこの近辺で殺されていると、そう言ったか。他人事であると思っていた、否、他人事であると自らに信じ込ますことのできた、他者の命を奪う残虐非道な行いが、自分のいる現実から手の届く場所で起きているとでもいうのだろうか。

 そう。起きているのだ。ミコトの住む街で、何者かの手によって、何頭もの犬が殺されているのだ。

 ミコトは愕然とする。恐れ慄く。深呼吸をし、心を落ち着かせ、頭を冷静にし、まだ希望はある、と思い直す。母親はそそっかしい人間だ。どこかで耳にした根も葉もないデマを真に受けたのかもしれない。早とちりしたのかもしれない。あるいは、単なる自分の聞き間違いという可能性もある。絶望するにはまだ早い――と自分に言い聞かせ、しかし、その希望が楽観的に過ぎるものであったことを、翌日の教室で知る。犬が殺される事件が学校の周辺で多発していると、クラスメイト達が噂しているのを耳にしてしまう。登下校の際は注意するようにと担任教師がホームルームで告げるのを聞いてしまう。ミコトは叫び出したい衝動に襲われた。なぜ。なぜ、よりによってわたしの目の届く範囲で、耳に入ってしまう範囲で、そのようなことが起きてしまうのか。死を恐れないどころか自ら地獄への扉をこじ開ける鬼畜が存在してしまうのか。死が、わたしの間近で生成されている。地獄が迫っている。

 ――実は、見ちゃったんだよね。死体。犬の。ウチの家の近くで。脚がもげてて、腹が切り裂かれてて、内臓が飛び出て、超グロかった。

 休み時間に、そう語るクラスメイトの言葉をミコトはつい、耳にしてしまう。それを聞いた他の生徒たちは、なにそれー、こわーい、と能天気な嬌声で騒ぎ立てる。その声は怯えているどころかはやし立てているように、ミコトの耳には聞こえる。ミコトは慌てて立ち上がる。トイレに駆け込み、個室に飛び込み、嘔吐する。吐瀉物が犬の内臓を連想させ、さらに嘔吐する。口内に残る酸味が、すえた悪臭が死体の腐乱臭を連想させさらに嘔吐する。予鈴が鳴り、授業が始まったことを知っても、ミコトはトイレに居残り嘔吐感と格闘する。絶望と闘う。死が、こんなにも身近にある。死という単語がふとよぎるだけで、ミコトの脳内は犬の死骸で満たされる。頭部と四肢が胴体から離れ、目玉がほじくり出され、はらわたが飛び出し、辺りが赤黒い血で染まった、見るに堪えないおぞましい光景。かつてそれに生命があったと想起させる気配は、名残は、匂いは、微塵も存在しない。それは、完膚なきまでに、ただ横たわるだけの生ごみだ。悪臭を放つそれに、塵芥ほどの価値もありはしない。

 そう思い至った瞬間、ミコトの全身に痒みを覚えるほどの鳥肌が走る。自分も、いずれ、そうなるかもしれない。否、なる。なるのだ。火にくべられるのを待つだけの、ただの、ゴミに。この肉体が。今は一人の人間として世の秩序や法や倫理から尊重され守られる、この肉体が。顔も知らぬどこかの誰かにグサリと一突き、刃物で刺されるだけで廃棄物と化すのだ。それは明日かもしれない。否、今日かもしれない。数時間後かもしれない!

 ミコトは震えた。放課後を迎えるまで、トイレの個室にこもりきり、震え続ける。ミコトが授業を抜け出すことはそれ以前にも時折あった。そのせいで、ミコトの姿を探す者は一人としていなかった。

 誰にも行方を追われず、気にされることもないまま放課後になる。ミコトは個室の扉越しの気配と予鈴からそのことを知る。が、帰りたくないと強く思う。正確に言うなら、自宅に到着するまでの帰路が恐ろしいと思う。なぜなら、犬を殺した残虐非道な鬼畜生がどこにいるかわからないから。犬を殺した者が人間を殺さないと言い切れる根拠などどこにもないから。仮に人間には手を出すことがないと断言できたとしても、その現場を目撃するかもしれないと、かつて犬だったものの無惨な姿を目にしてしまうかもしれないと想像するだけで全身を悪寒が包む。手足が震える。このまま膝を抱えていたい、と心から思う。が、現実は無慈悲だ。時は流れる。生徒たちは帰宅し、周囲から人の気配はなくなり、徐々に辺りは暗闇に包まれる。暗闇。それはこの世において死の次に恐ろしいものだ。なぜなら闇は死を連想させるから。死を迎えたその先には終わりのない闇があるから。現実的な点に理由を置いても、良からぬことを企む人間はほぼ例外なく、闇夜に乗じて企みを実行へと移すものだ。つまり、時刻が夜へと近づけば近づくほど、犬を殺す者が現れる可能性は高くなる。ミコトは意を決し立ち上がる。時刻はすでに十八時。グラウンドに集まる運動部員たちが片づけをしている脇を通り、帰路へと着く。校舎から徒歩で数分の距離にある電車に乗り、自宅の最寄り駅で降りる。ミコトの自宅は、そこからさらに十分ほどの場所にある。そこまでの道を、ミコトは一人で歩く。人通りの少ない、虫の死骸さえ見当たらない細道を普段のミコトは好ましい場所だと思っている。が、今日ばかりは恐ろしくて仕方ない。犬を殺す者がどこに住み、どこまでを活動範囲とするのか、ミコトは露ほども知らない。が、どうしてか胸中には、他人事と思ってはならないと強く訴えるあまりに不快な予感が駆け巡っている。

 そして、歩き出してほんの数分で、その予感が的中したと、ミコトは確信してしまう。

 微かな、けれど顔をしかめるほどの腐臭が、前方から漂ってきたのだ。ミコトの全身からさあっと生気が奪われる。本当に恐ろしいとき人は冷静になるのだと、まるで他人事のようにミコトは自らの心象を分析する。冷静な心地のまま、ふらふらとミコトは歩き出す。近づいてはならないと、心が甲高い嬌声をあげミコト自身に危険を知らせている。けれどどうしてかミコトは、まるでそうするのが当然といわんばかりに予感を無視する。数メートル先の、古びた民家に挟まれた、幅が一メートルもない小道へふらふらと引き寄せられる。腐臭が徐々に強くなる。一歩一歩と近づくたびに、酸味を帯びた臭いが鼻腔を刺激してくる。それはあまりに良くないものだと考えながら、ミコトは小道を覗き込む。

 頭の中で思い描いた通りのものが、そこにはあった。

 犬の死骸だ。かつて犬であったものだ。頭部が転がり、目玉が飛び出し、舌と耳まで千切られ、四肢が一緒くたに端に捨てられ、胃の中のものがぶち撒けられ、腸が飛び出し、心臓や肝臓やあらゆる内臓がテラテラと輝いている。薄暗い闇夜だというのに。赤黒いそれらを照らす光などどこにもないのに、どうしてか内臓は輝いていた。

 数秒、あるいは数分のあいだ、ミコトは呆然とその光景を眺める。どうしてかミコトの心は凪いでいる――否、凪いでいるのではない。ただ、あらゆる感情がマヒしているだけだ。心があらゆる刺激を拒絶しているだけだ。

 が、脆弱な魂の現実逃避的抵抗など、たかが知れている。しばしの後、ミコトの感情は正気を取り戻してしまう。目の前の光景を瞼に、脳裏にしっかりと焼き付けてしまう。そして、目の前の光景が異常であることに気づいてしまう。犬が惨殺されていることを指して異常というわけではなく、それを踏まえても尚、目の前の光景が異常だと気づいてしまう。

 輝く内臓の脇で、胃袋からぶち撒けられたものが無数に横たわっている。が――それらの丸いものは、一体、なんなのだ。それらは動物の目玉だ。無数の、何十もの目玉が、咀嚼され潰れることも、消化され原型を失うこともなく、球体のままコロコロと転がっている。血や胃液で濡れることもなく、コロコロ、コロコロと転がっている。いや、それだけならまだいい。ミコトの知識では追いつかないだけで、なんらかの、言葉で説明できる理由があるのかもしれない。問題はそんなことではない。目玉は、ぱちくりと瞬きをしているのだ。それぞれが独立した意思を持つかのように、各々のタイミングで瞬きをし、瞳孔が揺れ、視線を走らせ、目玉自体もコロコロ転がり、そして――一斉に、ミコトを見た。

 その瞬間だけは、まるですべてが合わさって一つの生物であるかのように、一斉に、間違いなく、意志の宿った瞳でミコトを見た。ミコトを見据えた。ミコトを睨んだ。ミコトを見下した。

 次の瞬間、ミコトは走り出していた。脇目もふらず、脚がちぎれるほどの速度で闇雲に、がむしゃらに自宅への道を駆け抜けた。

 ものの数分でミコトは自宅へ辿り着く。震える手で自宅の鍵を開け、靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がり、自室のベッドに飛び込む。全身を汗で濡らし、激しくあえぎ、肩で息をするミコトの双眸は見開かれている。まるで無数の目玉の魂が宿ったかのような、ギラギラとした目つきで宙を睨んでいる。ミコトは考える。今のはなんだ。たった今、目にした光景は一体なんなのだ。あれはなんだ。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖

 ――どうして逃げるんだよ。

 絶望に打ちひしがれていたそのとき、耳元で囁かれたミコトは勢いよく振り返る。

 目の前に、目玉がいた。ほんの数分前に自分を睨んできた数十の目玉が、ゆらゆらと宙に浮き、その全てがやはり、自分を見つめていた。

 ミコトは絶叫する。喉が割れんばかりに叫び、体は無意識のうちに、目玉から距離を置こうとあとずさっている。ミコトの体はベッドの上に飛び乗り、壁が背中に激突する。が、その判断は誤りだったとすぐに気づく。ミコトが逃げた方向は扉とは反対であり、つまり自ら逃げ道から距離を置いてしまったのだ。そして、目の前には変わらず、無数の目玉。血走った目玉があれば、美しく澄んだ目玉もある。人間のもののように思えるものもあれば、獣のそれもある。瞳の色は漆黒から、灰色、藍色、濃淡が種々の茶色と、色とりどりだ。尤も、ミコトにはそんな細かい点へ注意を向ける余裕などあるはずない。逃げ場を失ったミコトは、ただ絶望していた。顔中を涙と鼻水と唾液で濡らし、慟哭していた。ミコトは己がどれほど浅はかであったかを悟り、心の底から後悔していた。今まで自分の抱えてきた恐怖はあまりに生ぬるいものであった。自分が死の恐ろしさを誰より理解していると過去のミコトは確信していた。が、それはあまりに傲慢だった。死とはなんなのか、微塵も理解していなかった。死は、美しいほどに恐ろしい。ミコトははっきりと形の持った真の恐怖を目の当たりにし、強く、今までになく強くそれを意識した――死ぬ。目の前にはバケモノがいて、バケモノはわたしを、わたしだけを見つめている。わたしを殺そうとしている。逃げ場はない。自分は、恐ろしいバケモノに襲われ、取り憑かれ、一片の救いもなく、無様に死ぬ。死ぬのだ。鮮明に脳に焼き付いた犬の死体と自分の姿が重なる。わたしは、悪臭を放つ肉塊となるためだけにこの十八年間を生きていたのか。だったら、わたしはなんのために生まれてきたのだろうか。わたしはただ死ぬだけではない。死によって、わたしの存在そのものすべてが否定される。わたしの生のすべてが生ごみ同然の価値しか持たないことが証明される。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない! しかし目玉はゆっくりと、無慈悲に、ミコトへと迫ってくる。もう、後はない。わたしの命は、あと数秒で、永遠に尽きる。そう。永遠に。ワタシハ、モウ、イナクナル――そう悟った、そのとき。まるでミコトの心を読んだかのように、

 ――なにを怯えているんだ? オレは別にお前をどうにかしようなんて思っちゃいない。オレはただ、生きて、ここにいるだけだ。そうだ。オレは生きている。

 そう、場違いに陽気な男の声が、前方から聞こえてきた。

 まるで耳元で囁かれたかのようなその声を聞き、ミコトの絶叫はピタリと止まる。どうしてかミコトは理解する。口も喉も歯も舌も持たぬ目の前のバケモノが、今の言葉を発したのだと。

 目玉の言葉に、ミコトは不自然なほどに冷静さを取り戻す。ほんの数秒前まで己を支配していた絶望が跡形もなく消え去る。危害を加えるつもりはないという言葉を、なぜか信じられる。そして、ミコトの意識は目玉が発した一言に深く吸い込まれる。

 生きていると。オレは生きていると、確かに、目玉は言った。

 たった一言がミコトを心から安堵させ、ミコトから恐怖という感情を奪っていく。今しがた感じた、自らの危機に対する恐怖だけではない。今まで己を支配してきた、死に対する恐怖という感情が、だ。ミコトは思い至る。目の前に浮遊する目玉を初めて目にした場所はどこか。

 ほんの数分前の出来事を忘れるはずがない。犬の死骸の真横だ。さらに具体的にいうなら、死骸から吹き出た血の海に混じり、その中心で艶めかしく輝く胃袋の真横だ。消化しきれなかった臭い食物の中で、それは、否、彼らはうごめいていた。つまり、目玉は。

 目玉は、彼で、彼女で、彼ら彼女らだ。三人称でそれを指し示すことができるというのはつまり、そう。生きているということだ。彼ら自身がそう語ったように。死者が言葉を発するわけがない。死者が自ら体を動かすわけがない。死者が瞳孔を揺らすわけがない。

 ――あなたは、生きているの?

 ミコトの口から自然と問いがこぼれる。ミコトの問いに目玉は嘆息する。まるで呼吸をするための口があるかのように、ごく自然に溜め息をこぼす。それ以前に耳も持たないのだからミコトの言葉を聞き取れるはずがないのに、疑いようもなくはっきりと、ミコトの問いに目玉は答える。

 ――オレには意識がある。オレはオレだという自覚がある。ゆえに、生きていると言えるんじゃないか? デカルトとかっていう哲学者が言っていたのと同じことだ。お前はどう思う? お前にとって、オレは生きているのか?

 目玉の問いにミコトは力強く首肯する。そして、あなたは犬の横でなにをしていたのか、と問う。死という言葉を口にしたくがないゆえに、犬の死骸の横、ではなく犬の横と、そう問う。

 このときにはすでに、目玉に対する視覚的な嫌悪感はミコトの心から完全に消え去っていた。目玉が宙に浮く非現実的でグロテスクな光景を微塵も恐ろしいと思わなかった。それどころか、目の前の異形へまっすぐと、敬虔とさえ呼べる真摯な眼差しを向けていた。その眼差しには、ミコトの脳に浮かんだある一つの可能性が――希望が込められていた。それに気づいてか否か、目玉はミコトの問いに答える。

 ――なにをしていたのかと訊かれても、ただ横たわっていたと答える他にはないな。だが、なぜあそこにいたのかと問われるなら、オレは饒舌に答えることができる。食われていたのだ。無論、犬に、だ。何者かの手によって無様に殺されたあの犬だ。

 ――あなたは、犬に、食べられた。

 ――そうだ。咥えられ、口に含まれ、咀嚼され、噛み潰され、嚥下された。噛み潰されたはずなのに目玉の姿を保った、あるいは得たオレは犬の食道を通過した。胃袋にぶち込まれた。オレはあのとき死んでいた。疑いようもなく死んでいた。意識や肉体の有無など関係ない。オレが死んでいたことだけが、疑いようのない事実だ。だって食われたんだからな。そうだろう? が、死して尚、オレはまだ終わっていなかった。どこかの誰かが犬を、オレを取り囲む犬を殺したんだ。殺してから、腹を掻っ捌いた。あるいは掻っ捌いたことによって殺した。もしオレが生きているといえるのなら、犬の死はオレにとって出口だった。物理的な意味でも、概念的な意味でも。犬の死によってオレは犬の外側に這い出し、同時に死から這い出した。ゆえに再びこうして、生まれた。生まれたということはつまり、オレは生きている。生き返った。

 生まれた。生きている。生き返った――目玉の語る言葉を、ミコトは脳内で復唱する。復唱し、反芻し、理解する。その意味を、噛み砕いて己の中へ受け入れる。

 受け入れた瞬間、ミコトの心臓はガツンと揺れた。全身が、閃光に撃たれたように痺れた。

 ――あなたは、生き返ったの?

 ミコトが訊ねると、目玉はクスリと笑う。クスリと笑い、口を開く。無論、実際には開いていないどころか目玉に口はないのだが、ミコトはそう感じる。

 ――オレは間違いなく、食われ、死んだ。死んだということをはっきりと認識した。死とはなんなのか、死にながらオレは理解したのだ。しかしこうして今、生きている。オレは死のすべてを理解した。けれど生きるということがどういう状態であるのか理解したとは言い難い。何度も言うが、オレには確かに意識はあるが、だからといってそれが生きていることだと断言することはできない。オレに意識があることそれ自体が勘違いかもしれない。かつて犬に食われたオレと今こうして言葉を話すオレが同じであると証明する方法もない。しかしそういった諸々の疑惑から目を背けるなら――オレは間違いなく、生き返ったといえるだろう。

 小難しく気取っただけの目玉の言い回しを、ミコトは半分も理解していなかった。ミコトにとって大事なのは、ただ目玉が生きている、生き返ったという、そのことだけだった。目玉の話を聞き、言葉を聞き、声を聞き――ミコトの世界は、ぱあっと明るくなった。ほんの数分前まで目にした風景と、今のそれはあまりに違った。目に映るものすべてが輝いて見えた。

 そして、ミコトは笑った。生まれて初めて、心からの笑みを、満面の笑みを顔面に湛えた。笑いながら、泣いた。ほんの数分前まで流していた涙とは全く別種のものだった。嬉しくて泣くことがあるのだとミコトは知った。

 世界はこんなにも美しいのだと、ミコトは初めて知った。

 ――ありがとう!

 ミコトは叫んだ。心からの叫びだった。心からの感謝だった。それはミコトにとって初めての感情だった。ミコトにとってあらゆる他者とは絶望を、あるいは恐怖を運んでくる可能性を秘めた疫病神でしかなく、希望を告げる救世主の存在を、ミコトは初めて知ったのだ。だから、ミコトは心からの感謝を、無意識のうちに言葉にして、目玉へ向けて投げかけていた。

 ――なぜ、オレに礼を言うんだ?

 目玉は訊ねる。目玉の問いに、ミコトは勢いよく回答をまくしたてる。自らが抱えてきた怯えを、苦悩をぶちまける。わたしは今まで、死を恐れて生きてきた。死は己からすべてを奪う恐怖そのものの存在でありながら、すべての生命に対し平等に訪れる。あまりに理不尽なその現実が心から恐ろしかった。その怯えからひとときさえ逃れられずにいた。死そのものだけでなく、それを恐れないすべての人間の異常さが怖かった。平気な顔で生きているすべての人間が怖かった。死の存在するこの世界が怖くて仕方なかった――内心に抱え込んでいたあまりに多くの感情を、ミコトは無我夢中で目玉へぶつけた。ミコトの話は拙かった。内容は要領を得ず、順序も滅茶苦茶で、嗚咽混じりの声はとてもでないが聞きやすいと言い難かった。けれど目玉は耳を傾けた。存在しない耳を、いつまでもミコトの声に傾け続けた。

 そして、時計の針が一周するころ、ミコトはこう語る。

 ――わたしは怖くて仕方なかった。この世界に、生そのものに希望なんてないと思ってた。だけど、あなたは教えてくれた。死はすべての終わりじゃないと。死のその先に、まだ続きはあると。生が、死の先に存在すると。わたしが死を恐れたのはその先が無だと思っていたから。だけど、そうじゃないと、あなたは教えてくれた。あなたの存在が教えてくれた。わたしは今日、初めて、この世界に希望があるんだって知った。世界は美しいって知った。すべてあなたのおかげ。だから、ありがとう!

 ミコトの告げた礼に、目玉はフンと鼻を鳴らす。しつこいようだが、ない鼻を。

 ――さっきも言ったが、オレが本当に生き返ったという保証はない。証拠はない。仮にそうだったとしたところで、単にオレがおかしいだけだと考える方が普通じゃないか? つまり、多くの死は生命の完全なる停止であって、生き返ったオレがイレギュラーだということだ。

 目玉に指摘されるまでもなく、ミコトはその可能性に思い至っていた。が、ミコトにとってそれは些末な指摘だった。ミコトにとって重要なのは、死が生にとって例外なくすべての終わりではないと、その可能性が提示されたことだ。ミコトが怯えていたのは、一度息絶えた生命が命を吹き返したという話など、どんな形でも、一度たりとも耳にしたことがなかったからだ。あらゆる情報に触れることを怯え続けたミコトだが、ほんの一時期だけ、地元の図書館を回り、それらしい情報の記載された文献を読み漁っていたことがある。それでも、己を納得させてくれるだけの記述が記載されている書籍は一冊たりとも見つからなかった。その出来事はミコトをさらに深く絶望の中へと誘った。そういったこともあったために、ミコトは心から、深く、深く目玉の存在に歓喜したのだ。あれほど求めた生き返りの例が、あろうことか目の前に、実例として提示されたのだ。これが喜ばずにいられるか!

 ミコトの瞳に無数の目玉が映る。人間のものらしいとわかる目玉があれば、種族の見当もつかないものもある。落ち着きなくキョロキョロと瞳孔を揺らすものがあれば、ミコトだけをじっと見つめるものもある。その光景は相変わらずグロテスクだ。けれど、ミコトはそれを露ほども恐ろしいと思わなかった。それどころか、彼は、彼女は、彼らは、彼女らは、ミコトにとって希望そのものだった。ミコトは目玉の全てを心から愛しいと思った。抱きしめたいと思った。けれどあまりに繊細な、強く握れば潰れてしまいそうなか弱い剥き出しの眼球を抱きしめることができるはずなかった。触れることすら叶わないのだろうと、ミコトは悟った。

 ――あなたの、名前はなに?

 けれど、せめて、愛しいものの名前を知りたい。目玉のことを、なんでもいいから知りたい。初恋に酔う乙女のような心地で、すがるように、ミコトは訊ねる。

 ――名前、か。そんなものは忘れた。そもそも、そんなものが本当にあるのかもオレにはわからない。

 ――あなたはこれから、どこへ行くの?

 ――さあな。ただ、この姿かたちが人間の目に晒されるわけにはいかない。自分の名前すら知らないオレでも、そのくらいのことはわかる。だから、人間のいない、どこか遠くへ向かうとしよう。

 ――ここに住まない? わたしと友達になってよ。

 ミコトの提案に、全ての眼球がピタリと停止した。停止したそれぞれの瞳は、まっすぐとミコトの顔へ向けられる。

 ――オレの姿を恐れず、オレの存在を受け入れこうして言葉を交わすだけでも異常だというのに、お前はもしかして、気を違えているのか?

 ――わたしがおかしいとか、おかしくないとかそんなことはどうだっていい。あなたが嫌じゃなかったら、この部屋で、わたしと一緒に暮らそうよ。家族に見つからなければ、なにも問題はないでしょう? 必要なものは、わたしがなんでも用意してあげるから。だから、お願い。

 ミコトの荒唐無稽な提案に、目玉はしばし黙り込む。じっと考え込む。そして、数分が経過したころ。

 ――いいだろう。話し相手がいた方が、退屈もしないかもわからないからな。

 こうして、ミコトとバケモノの奇妙な共同生活が始まった。


 目玉は決してミコトの部屋から出ることなく、たった五畳の空間で静かに時を過ごした。目玉はミコトと言葉を交わす以外、なにもしなかった。ただ、そこにいた。食べることも、眠ることすらもしなかった。けれど目玉は飢えることも、眠気に襲われることもなかった。なんの問題もなく、生命を維持した。ミコトの部屋にはパソコンもテレビも本もゲームもない。あらゆる娯楽品がない。けれど目玉は決して退屈しなかった。目玉はなにも求めず、ただ、生きていた。

 始めのうちこそ、ミコトは目玉の態度に不満を覚えた。目玉が求めるものはなんでも用意し、どんな願いでも叶えてあげたいと思っていたからだ。が、すぐにその願望が、単なるわがままであることに思い至る。生きている。その事実だけで、他になにを求めることがあるというのだろうか。目玉は大切なことを知っているのだ。つまり、生きていることの尊さを。だからなにも求めないのだと。それに気づいてからは、ミコトは目玉に対し、今まで以上に深い敬意を持つようになった。それは盲目的な敬意であり、敬虔とさえ呼べるほどの感情だった。が、ミコトはその事実に気づけるほど、自身を客観的に分析する聡明さを持ち合わせていなかった。

 目玉と出会ってからというもの、ミコトは毎日の授業が終わるのを心から待ちわびるようになった。放課後を迎えた瞬間に校舎を飛び出し、可能な限り最も早い時間の電車に飛び乗り、駅から自宅までの道を全力で駆けた。自宅に辿り着き、着替えや手洗いを手短に済ませ、部屋に飛び込む。そして、心ゆくまで目玉と言葉を交わす。なぜならその時間は、ミコトにとってあまりに幸福だったから。ミコトは今までの人生を、なんの希望も楽しみもなく過ごしてきた。その分も取り返すかのように、目玉との時間に深い幸福を感じた。目玉の言葉は、どんな些細なものでもミコトを感動させた。目玉は博学だった。己の名すら知らぬ存在が、文学、化学、政治、経済、歴史、哲学、宗教、工学。あらゆる学問に精通していた。あらゆる情報を遮断し、授業も真面目に受けていなかったミコトは無学だった。が、彼女自身も全く気付いていないことだったが、ミコトは頭の回転が早かった。理解力と記憶力に優れていた。ゆえに、目玉の話す言葉の内容を驚くほどスムーズに理解した。脳内で咀嚼し、分解し、己自身の知識とした。見える世界の広がっていく感覚は、恍惚とさえいえるほどに、ミコトにとって快感だった。ミコトは目玉と過ごす時間に、より深く魅了されていった。

 休日は当然、部屋から一歩も出ずに目玉との会話に興じる。元から休日に外出などしたことがなかったために、家族はミコトの行動になにも不審感を抱かない。それどころか、微かなミコトの変化をとても好ましいものだと思った。なぜならミコトの母親は、一人娘の表情がどこか柔らかくなっていることに気づいたからだ。友達ができたのかもしれないと、娘の幸福を喜んだ。無論、娘の初めての友人は人間ではないかもしれないと、そんな想像は頭をよぎることすらない。娘の部屋に近づくこともない母親は、中から漏れる話し声に気づくことがない。ゆえに、目玉の存在に勘付かれることはなかった。

 ――ミコト。お前は、オレという存在は果たしてなんなのか、考えたことはないのか?

 目玉がミコトの部屋に住み着いて半月が経ったころ。目玉はミコトに訊ねた。ミコトは目玉の問いの意味がわからず、眉をひそめ、無言で説明を求める。

 ――オレは見ての通り、目玉だけを肉体の全てとする存在だ。眼球以外のあらゆる器官を持たない。なあ、ミコト。果たして、本当にそんな生物が存在すると思うか? 少なくとも、オレは知らない。似たような種族だって、聞いたこともない。それなのに、生きている。もしかしたら、かつては全く異なる外見だったのかもしれない。つまり、犬に食われる前は、という意味だ。しかし、今のオレはこの姿だ。現在の、現時点で自我を得ているオレは、目玉だ。グロテスクで、醜悪な姿かたちだ。なあ、ミコト。果たして、オレは一体、なんなのだ? こうなる前のオレはどんな姿かたちをして、どうやって生きていたんだ? そして、なぜ生き返った?

 ――あなたは今、こうして、生きている。それだけが大切だから、そんなことはどうでもいいと思うよ。

 ――オレが生き返った理由も、おぞましい姿をしていることも、どうでもいいと言うのか?

 ――わたしは、そんなこと気にしないよ。あなたが生き返ってくれて嬉しいから。それに、確かにあなたの姿を、最初は恐ろしいと思った。だけど、見慣れてなければ気味が悪いのなんて、人間だって同じでしょ? そう考えれば、あなたはちっともグロテスクなんかじゃないよ。ああ、違うか。そうじゃなくて、グロテスクじゃない生き物がこの世界に存在しないのか。

 ――やはり、ミコト。貴様は狂っている。

 ――そうかな。もしかして、わたしのこと、嫌いになった?

 ――いいや。お前は実に面白い。

 ――ならいいや。あなたに嫌われなければ、わたしは、狂っててもいい。

 ――そうか。

 ――だけど、一つだけ、知りたいことがあるの。

 ――言ってみろ。

 ――どうしてあなたはそんなにたくさんの目を持ってるの。つまり、どうして一つとか二つじゃないのかってことなんだけど。

 ――オレはオレであると同時に、オレたちであるからだ。

 ――どういうこと?

 ――なあ、ミコト。生きているとは、一体、なんなのだ? 意識があることか? 自我を持つことか? 呼吸をすることか? あるいは、存在すること、そのものか。なあ、ミコト。お前に質問だが、この世界は生きているのか?

 ――言ってる意味が、わからないよ。

 ――生きているとはなにか。そのあまりに漠然とした問いの答えがわからぬ限り、個と全の区別などないに等しい。なぜなら、生の定義が曖昧である以上は、お前の意識がお前だけのものであると言い切ることなどできないからだ。お前とオレの区別がどこにある? オレの存在がお前の妄想の産物であると言い切れない限りは、オレとお前の意識が別だと言い切れはしまい。逆に、お前の存在がオレの妄想だって可能性もある。そう考えると、その可能性から考えを広げると、あらゆる存在が何者かの妄想であるかもしれないと仮定せざるを得ないとオレは気づいた。お前の目に映るすべての他者が、お前の妄想だという可能性を考慮せざるを得ないのだ。無論、その逆もありうる。なあ、ミコト。お前は本当に思考しているか? 他者と自身の区別は、果たしてどこにあるのか。その問いに答えられないのなら、お前と世界の区別だってわかるはずがない。世界と、個と、その関係にはなんと名がつけられるべきか。わからぬ。オレにもわからぬ。ただ、仮説をあげることはできる。同一だ。個と、つまりミコト、お前と世界は同一だ。世界がお前の一部か、あるいはお前が世界の一部か。お前が、世界という命が目にした幻覚に過ぎないと仮定するなら、お前の自我は空虚な妄想だ。世界そのものの妄想だ。つまり、お前がお前である証拠など、意識の有無で決められるわけがないということだ。だってお前はミコトではなく世界なのだから。意識の有無などあらゆる生にとって些事だ。ゆえにオレは。オレたちは数十の目玉を持つのだ。オレがオレであり、同時にオレたちであることの証明として、個が持ちえない数の目玉を持つのだ。オレはオレでありオレたちなのだ。オレが世界と同じで、個であり全であると語るために。生と死。意識の有無。あらゆる境界が、曖昧だと語るために。

 目玉は饒舌に、息継ぎすらほとんどないままに朗々と語る。ミコトは目玉の話をほとんど理解できなかった。言葉を追うのがやっとだった。目玉の言葉を理解しかねたのは初めてのことで、ミコトは狼狽した。が、理解できていないと悟られるのが恐ろしく、そうなんだ、とごまかすように相槌を打った。けれど目玉は、ミコトが己の言葉の意味を理解していないと見抜いていた。しかしそのことに、なんの感傷も感慨も失望も抱かなかった。抱くわけがなかった。


 時は流れる。ミコトと目玉が邂逅し、ひとつきあまりの日にちが経過する。

 その日。なんの変哲もない日曜日。ミコトと目玉は連れ立って外出した。目玉が初めて、ミコトの部屋から這い出し、その身を外界にさらけ出した。数十の目玉たちは、その身をペット用のキャリーバッグの中に収めている。通気性に優れ、けれど外側から中を透けて見ることのできないものだ。ミコトが初めて、目玉のために購入したものだった。ミコトが目玉と共に出かけたいと、強く主張したのだ。目玉はしばし迷う素振りを見せたが、

 ――たまには外の世界を目にするのも悪くないな。

 そう呟き、ミコトの提案に首肯した。ミコトは喜々としてバッグをぶら下げ、家を出る。目玉の肉体に重さがあるはずもなく、空っぽ同然の質量のバッグは、小柄なミコトの腕でも楽に持ち歩ける。

 電車に一時間ほど揺られ、都市部へと辿り着く。駅前にあらゆる商業施設や娯楽施設、その他の様々なビル群が立ち並ぶ。その光景にミコトは圧倒される。田園風景の広がる地方に生まれ育ったミコトは、都市の光景をマトモに目にしたことがなかったのだ。遠出もせず、あらゆるメディア、媒体にさえ触れてこなかったために、生活圏に存在しないすべてのものは、ミコトにとって未知だった。ゆえに、人が溢れ、ビルが続くだけの平凡な光景さえ、ミコトにとっては非日常だった。かつてのミコトにとっては、どこで死の香りに触れてしまうか想像さえつかない、ただ恐ろしいだけの光景だったであろう。が、今のミコトのそばには、目玉がいる。その上、ミコトには知的欲求がある。ミコトは目玉に促され、目の前のショッピングモールへと脚を踏み入れる。

 ミコトと、バッグの中に身をひそめる目玉は、様々な店へと出向いた。縁がないと思い込んでいた華やかな衣服を見て回った。書店を歩き回り、世の中には様々な書籍があるのだと今さらながらに知った。CDショップを訪れ、ジャケットを眺め、奏でられる音色を想像し恍惚とした気持ちを抱いた。ゲームセンターに脚を踏み入れ、UFOキャッチャーに挑戦した。スポーツショップの店内で、自分が運動部に入るとしたらなにがいいだろうかと思い描いた。ハンバーガーショップで昼食を取り、初めて口にするジャンクフードの味に舌鼓を打った。多くの他者にとって当然だった知識を学び、経験を堪能した。ミコトは興奮し、喋り続けた。目玉に。バッグの中の、目玉に向けて。目玉は小さな声で相槌を打つばかりで、ミコト以外の耳にその声は届かない。周囲を歩く人間たちには、ミコトがたった一人ではしゃいでいるように見える。彼ら彼女らは一様に、ミコトを奇異の目で見る。近づいてはならない相手だと悟る。ミコトは周囲からの視線に気づかない。気づいていたところで、露ほども気に留めないだろう。なぜなら、気にする理由がないから。友達と会話を楽しみ、一緒に歩くことのなにがいけないのだろうか? ミコトはそう考えるだろう。

 はしゃぎすぎたミコトは、昼時を過ぎたころにはすっかり疲れ果て、そのまま帰路に着いた。電車の中でも、ミコトは目玉と会話する。もうちょっと遊びたかったでしょ? ごめんね、と目玉に謝る。また来ればいいだけの話だ、気にするなと、目玉はミコトに告げる。目玉が、次の機会もあると言ってくれる。その事実がミコトを慰め、心から幸福な気持ちにする。

 ――ちょっとだけ、歩いてもいい?

 見慣れた自宅の最寄り駅に辿り着き、ミコトは目玉に訊ねる。構わない、という返答を聞き、ミコトはゆっくりと、自宅と反対の方向へと歩き出す。

 十分ほど歩き、ミコトと目玉は河川敷へと辿り着く。人気はなく、ただ川の流れる音と、時折脇の道路を通過する車の走行音だけが、ミコトの鼓膜を震わせる。いくら無知のミコトといえども、自宅付近の地理はある程度理解していた。なぜなら幼いころ。家族に抗うすべを一切持たなかったころ、両親に連れられて出かけなければならない機会があったからだ。両親に腕を引かれ、この河川敷を訪れた記憶がミコトの脳の片隅に横たわっていた。なぜ訪れたのか、訪れてなにをしたのかは、全く覚えていない。楽しい思い出でなかったことだけは断言できる。が、どうしてかミコトは、目玉と共にここを訪れたいと、ふと、まるで導かれるように思いついたのだ。

 川を目の前にして、ミコトはそっと膝を抱え、原っぱの上に座り込む。周囲を見回してから、誰も見ていないから、と呟きカバンを開く。数秒後、ゆっくりと中から目玉が姿を現し、ミコトの視線の数センチ横に漂った。

 ――ありがと。

 ミコトは呟く。目玉が一斉にぐるりと回転し、瞳をミコトへと向ける。なぜ礼を言うのかと、その目は問うている。

 ――わたしは、あなたに救われた。あなたがいなかったら、わたしは今も、絶望の中にいた。

 感謝の言葉は、出会ったとき、すでに伝えてあった。けれどミコトは、幸福をこれ以上ないほど実感した今、もう一度その気持ちを伝えたいと思った。自分がどれほど目玉に救われたか、わかってもらいたいと思った。

 ミコトはゆっくりと、噛み締めるように気持ちを言葉にしていく。それを聞く目玉の瞳から、感情は読み取れない。思えば、いつだってそうだと、ミコトは思う。目玉がなにかしらの感情を露わにしたことは、一度だってない。けれど、ミコトはそれで構わないと思う。生きているという事実の前では、感情さえ些末な問題だから。ただ、生きていればそれで幸福だから、

 ――だったら、お前が今、楽しいと感じているその感情の意味とはなんだ?

 唐突な目玉の言葉に、ミコトの思考は遮られる。ミコトの口は噤まれる。どうしてか、目玉の言葉の意味を、ミコトは微塵も理解できない。ただ、己の心を読み取られたことだけはわかった。ミコトは目玉の言葉の意味を考えようとする。真意を読み取ろうとする。が、不思議と心臓が痛いほどに鼓動を早める。息苦しささえ感じる。痛みに気を取られ、思考が全くまとまらず、目玉がなんと言ったのかさえ忘れそうになる。ただ、なにか決定的な言葉を放たれたことだけは、本能が理解する。

 そして、そのとき。目玉を挟んで真横から、突然、バウバウと耳障りな鳴き声が響いてきた。

 鳴き声の方向へ顔を向ける。その瞬間、音の出所が想像以上に間近であることに気づき思わずのけぞる。

 体長が一メートルはあろう、全身が黒づくめの体毛で覆われた犬が、ミコトと目玉を向

 て吠えていた。バウバウ、バウバウと、敵意を露わにして、犬は吠える。ミコトはふと、その犬が首輪をつけていないことに気づく。野犬だろうか、と反射的に考え、考えるべきはそんなことではないとすぐに思い至る。

 犬がこちらを睨み、一歩ずつゆっくりと、威嚇するように唸りながら、自分たちに近づいてくるのだ。唸っているかと思えば、バウバウと激しく吠え、けれどその間も歩みのペースはゆっくりと一定で、一瞬の隙も見せず、今にも自分たちへ飛びかかろうと身構えている。バウバウと鳴き、ウー、と唸る。生理的で本能的な恐怖を覚える。なぜ、これほどまでに巨大な脅威が差し迫っていることに今の今まで気づかなかったのだろうかと不思議に思う。己を愚かと思う。近くに飼い主がいるかもしれない希望にすがり、周囲に視線を走らせる。が、人の気配などどこにも見当たらない。今、この瞬間にも飛びかかってくるかもしれない。逃げたいが、腰が抜け、脚が震え、立ち上がることもままならない。怖い。恐ろしい。牙を剥き出しにした漆黒の獣がおぞましい――そう思うと同時、どうにかなるだろうと安心しきる楽観的な思いも、ミコトの心の片隅にはあった。なぜなら、自分には目玉がいる。目玉がどうにかしてくれるに違いない。無根拠に、そう思った。

 当の目玉は、自分と犬に挟まれている。その瞳は、今はまっすぐ犬へと向けられ、ミコトの視界には十数のただ白い球体が映っている。きっと、今この瞬間もその瞳は無感情で冷静なままだろうと思うと、ミコトの安堵が大きくなっていく。ミコトは安堵し、油断する。

 その瞬間、犬がひときわ烈しい雄叫びをあげ、飛びかかってきた。ミコトは悲鳴をあげる。本能的に頭を抱え、迫りくる脅威から我が身を守ろうと丸くなる――が、来るはずの衝撃が、痛みが訪れない。ミコトはそっと顔を上げ、その理由を知る。犬が飛びかかったのは、己の身に対してではなかった。

 目玉に、だ。犬は、ミコトの存在など露ほども気にかけていないかのように彼女には目もくれず、目玉にのみ飛びかかり、その小さな肉体に噛り付いた。

 鮮血が飛び散る。数体の目玉が一瞬のうちに、犬に噛まれ、潰れる。その肉体を失う。

 続いて数体、同じように犬は噛り付き、牙を赤く染める。飛び散った赤がミコトの頬を染める。夕焼けで微かに赤く染まった頬を、より生々しく、赤に染める。

 目玉は、目玉たちは逃げるどころかピクリとも動かず、為されるがままに噛み潰されていく。すべてが潰されるまでに、ほんの数十秒の時間しか要さなかった。その間、不思議とミコトの心は澄み切っていた。まるで他人事のように、親友が潰れていく光景を静かに眺めていた。

 殺戮を、食事を終えた犬は小さく唸り、やはりミコトには気も留めず尻を向けると、ゆっくりとした足取りで去って行った。ぼんやりとしていたミコトは、いつの間にか視界から犬が消え去っていることに気づかない。ずいぶんと長い時間、ミコトは呆然としている。そっと頬に触れると、リアルな赤が指を濡らした。その赤に、今しがたの光景が現実のものであったことを思い知る。目の前に目玉のひとつもない光景によって、現実を思い知る。

 思い知ったミコトは、クスリと笑った。

 あーあ、死んじゃった、と、ミコトは微笑む。気を違えたわけではない。絶望のあまりに却って笑みがこぼれたわけではない。無論、内心では目玉を忌み嫌っていたわけでもない。冷静に、真っ当な理由から、ミコトは笑みをこぼす。まったく、あのコはしょうがないなと、幼い我が子の無邪気なイタズラに呆れるような気持ちで笑みをこぼす。ついうっかりして、犬から逃げ切れなくて、犬に食い殺されちゃった。彼は、彼女は、彼らは、彼女らは、意外と鈍臭くておっちょこちょいなところがあるらしい。犬に食い殺されるのは一度目じゃないんだから、今度は気をつけてねと、生き返ったときにきちんと言ってあげよう。

 そう。ミコトは親友が、目玉が生き返って己の元に帰ってくることに、なんの疑問も抱いていなかった。かつて犬の胃袋から飛び出し、自分と邂逅した目玉が再び会いに来てくれることを、確信してやまなかった。

 ゆえにミコトは、次に会ったときにはなにを話そうかと、どんな風に失態をからかってあげようかと、愉快な思いで友の帰還を待った。もしかしたら犬が嫌いなのかもしれないと思い至り、犬除けの薬品を購入し、自宅周辺に散布した。今か今かと、再会する瞬間を思い描いた。

 一週間が経っても、半月が経過しても、ひとつきが流れても、目玉は戻ってこなかった。

 ミコトが心から楽観的でいられたのはほんの数日だった。自宅の外に出ることなどなかった目玉が、道に迷っているのかもしれないと考えた。十日ほどが経ち、不安に満たされたミコトは新たな可能性に思い至った。どこかの悪い人間に捕まって、拉致されているのかもしれない。助けに行った方がいいのだろうか。だけど、なにも手がかりはない。それに、頭のいい目玉のことだから、どうにか隙をついて逃げるに違いない。そうだ、大丈夫だ。安心して待とう。どうにか自分を励まし、そして、ひとつきが経つ。ミコトの心は絶望に沈んでいた。最悪の可能性を認めなければならないと、ミコトはようやく理解した。そうだ。自分は、嫌われてしまったのだ。だから、いつまで経っても、目玉は帰ってこないのだ。もう二度と、この家で友と言葉を交わす幸福な時間は帰ってこないのだ。その事実と向き合い、絶望に打ちひしがれ、ミコトは憔悴した。ある日の学校からの帰り道、人気のない一本道をとぼとぼと歩くミコトの頬を、一筋の涙が伝った。どうしてわたしは嫌われてしまったのだろう。謝りたい。謝って、また、一緒に暮らしたい。だから、どうにかして目玉に会いたい。なにか方法はないだろうか。目玉の居場所を知るために、なにか方法は、


「やあ、グレゴール・ザムザ。あのバケモノなら今ごろ地獄だよ。本当はわかってるクセに、どうして当然の現実すら受け入れられないんだい?」


 唐突に背後から響いてきたしゃがれた声に、ミコトの思考は遮られる。涙を拭く余裕すらなく、驚きのままに声を振り返る。

 視線の先に立っていたのは、見知らぬ老婆だった。神堵イノリを魔法少女へと導いたのと同じ、あの老婆だ。が、このときのミコトは当然、そんなことを知らない。老婆がどこの誰なのかと、どうして自分のことや友達のことを知っているのかと、気にする余裕さえない。ミコトは、老婆の言葉に意識のすべてを吸い寄せられている。

「アンタが友人だと信じ切ってるあのバケモノはね、死んだんだよ。犬に食われれば、そりゃあ死ぬに決まっているよ。当然だ。それでね、アンタ。全ての生命は死んだらそれまでだ。幼子ですら知っている、自明のことだ。それを未だに理解せず、現実に目を向けようとしないアンタはどうしようもない愚か者だ」

 その言葉を耳にした瞬間、ミコトは悲鳴をあげた。なぜなら、無意識下ではわかっていたから。いくら愚かなミコトといえども、その可能性に思い至っていたから。けれどミコトの心はあまりに器用に、その現実から逃げていた。目を背けていた。が、老婆から現実を突きつけられ、ミコトの心は瓦解した。彼女の希望は完全に断たれた。死は恐ろしくないと信じることのできた日々は、この瞬間、終わりを告げた。ミコトの心は壊れ、道の真ん中で無様に這いつくばり、手足を暴れさせ、泣き叫んだ。それでも無慈悲に、老婆は言葉を重ねる。どうしてか、耳元で囁かれているかのように、悲鳴をかきわけ、老婆の言葉ははっきりとミコトの耳へと届く。

「なあ、幽ミコト。そもそも、アンタの恐れる死ってヤツは一体何なんだい? 生命活動を終えてさえいなければ、まるで廃人のような生活でもアンタは幸福なのかい? いいや、廃人ならまだマシだろう。アンタと一緒にいたあの目玉なんて、人ですらない、ただのバケモノじゃないか。バケモノは、人目につくことすら許されず、ただひっそりと生きるしかない。そう、アンタのようななんの面白みもない小娘の部屋に押し込まれるようにね。そんな生は、死にながら生きているも同然だ。その程度の生に執着せずにいられないなんて、本当にアンタは哀れだよ。なあ、アンタは『変身』という小説を知っているかい? カフカだ。フランツ・カフカの小説だ。ある男の体が、突然に巨大なバケモノに変身してしまうお話だよ。お話の最後で、あの男は、グレゴール・ザムザは家族からも見放されて死に至るけれどね、果たしてザムザの本当に死んだ瞬間というのはいつだったのかね? 答えは簡単だ。バケモノになった瞬間だよ。あのとき、男はすでに死んでいたのさ。絶望しかない生など、死も同然だ。さて、さて、アンタのような愚鈍な娘でもね、アタシの言いたいことがそろそろわかったはずだよ――アンタは、とっくの昔に死んでいるんだよ。死に絡み取られ絶望にまみれたアンタは、生きながら死んでいる。だから、アンタはグレゴール・ザムザだ。アンタの友人のバケモノ以上に、アンタはグレゴール・ザムザなんだよ」

 いくら泣き叫ぼうが、耳をふさごうが、老婆の言葉がミコトの鼓膜と心を揺らす。老婆の言葉は、ミコトが逃げてきた可能性を、現実を嫌というほど突いていた。ゆえにミコトは絶望する。これ以上ないほどに心が壊れ、あれほどまでに恐れた死の世界へと自ら飛び込みたいと思うほどにミコトは絶望し、

「――助けてやろうか」と、続いて告げられた一言に、ミコトの悲鳴は止まる。どうしてか、不快な言葉ばかりを紡ぐ老婆の言葉に、ミコトは微かな希望を見出した。肩で息をし、激しくむせながら、涙と鼻水でグショグショに濡れた顔で老婆を見上げる。老婆はニヤリと邪悪な笑みを浮かべ、ミコトを見下ろし、

「死を日常のものとしてしまえばいい。死があらゆる場所に横たわる、この世界にありふれたものであると認めればいい。そうすれば、アンタは死を恐れなくなる。そのための方法がある。魔法少女になることだ。魔法少女になり、世界を破滅へ導くバケモノと闘え。バケモノを殺せ。殺して、殺して、殺し尽くせ――アンタの日常において、殺戮が、死が当然のものとなれば、アンタは二度と死を恐れずに済む。死を飼い慣らすんだ。幸い、アンタには魔法少女としての類まれなる才能がある。バケモノを圧倒するほどの素質がある。なぜならアンタは、死を恐れず日々を生きる大人のようになりたいと願っているんだから。バケモノを殺せ、殺せ、殺せ――殺すのだ。そして世界を救え。ついでに、愚かで、醜く、脆弱な己の心を救うがいい」

 魔法少女とはなにか。バケモノとはなにか。ミコトは老婆の言葉の意味を全く理解できなかった。が、勢いよく首肯した。魔法少女になると即決した。この絶望から逃れられるならば、なんでもよかった。


 先述の通り、魔法少女としての能力と才は、神堵イノリが圧倒的に勝っていた。誰より自由に魔法を扱い、より力のある魔法獣を屠ることができたのはイノリだった。が、最も多くの魔法獣を殺したのはミコトだった。イノリよりも、後述する三人目の魔法少女よりもはるかに多くの魔法獣を、ミコトは殺した。

 なぜなら、ミコトの目的とは殺すことそのものだったから。ひたすらに殺して、死が世の中に蔓延る現実だと、死は怖くないと悟ることこそ、ミコトの悲願だったから。

 始めのうちこそ、ミコトは怯えた。襲い来る異形たちを相手に泣き叫び、いくら怪物が相手といえども殺すことを躊躇わない、周囲の魔法少女に対してさえも恐怖を覚えた。周囲のすべてが怖かった。が、自らの命を守るため、間近まで迫ってきた魔法獣を返り討ちにし、その生を途絶えさせた瞬間、ミコトは変わった。血しぶきを浴び、生温かい赤が目玉の死を想起させ、彼女の中の決定的なものが弾けた。それまでのミコトは死を恐れるあまりに死に触れなかった。しかしおのずから死に触れたことによって無意識に、しかし決定的に、変わった。

 ミコトは喉が掻き切れんばかりに叫び、ひたすらに魔法獣に襲いかかった。そして残虐非道に、執拗に、殺した。自らの身が傷つくことも構わず、反撃に決してひるまず、異形の首を掻き切り、はらわたを引きずり出し、目玉を潰し、四肢をもぎ取り、凄惨に殺した。ミコトはまさしく、修羅だった。鬼気迫るその気迫に仲間の魔法少女さえ怯えた。殺気という点に関していえば、ミコトはイノリさえも遥かに凌駕していた。いつしかミコトは、殺すことに快感を覚えるようになった。死が積み重ねられるたびに、救われた心地になった。ちょっと斬りつけただけで、生き物は簡単に死ぬ。死はすごく呆気ない。なんでこれだけのことに、わたしはあんなに怯えていたのだろう! ミコトは哄笑をあげ続けた。殺しながら、返り血を浴びながら高々と笑った。むせかえるほどの死臭の只中で笑った。死こそ救済だと、ミコトは悟った。死を微塵も恐れないどころかそれに魅了されるミコトこそ、真のバケモノだった。ミコトが魔法獣を屠る姿を目の当たりにした誰もが、きっと、同じ気持ちを抱くだろう。『どちらが悪魔かわからない』と。


 斯くして、幽ミコトは世界を救った。己の正気を犠牲にして。

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