2章

神堵イノリ

 神堵(かみかき)イノリは祈らない。その名前に反して。本名で『祈』と記す名を持ちながら、他者にも、自分自身にも、そして神にも、決して祈らない。祈りを捧げはしない。イノリは知っている。それが意味のない行為であると。ただ目を瞑り、手を組み、頭(こうべ)を垂れるだけの行為に意義があるはずなどない。己の中に巡るだけの願望をいくら熟成させ、強固にしたところでそれが形さえ持たぬ曖昧で手前勝手な概念であるならば、それが自らの外である現実に影響を及ぼすはずがない。しょせん、己は己。現世に実在する有象無象の中の、ひとつの、個。裡なるものは行動で、あるいは言葉で外に示さねば、いずれ腐り、消えゆくのみ。ゆえにイノリは、現実主義者である彼女は、『世界』と『個』の区別を知っている少女は、祈らない。

 祈らぬばかりではない。イノリはその名に『神』の一字を宿しながら、その実在を露ほども信じない。存在証明の不可能な概念など初めから無に等しいと、妄想の成れの果てでしかないと、論じることさえ馬鹿げていると、そう考えている。宗教など、自己陶酔、自己憐憫、現実逃避、承認欲求、自己愛――肥大化した感情を、欲求をこじらせた、目前に屹立する苦悩に対処しようという気概すら持たぬ弱者がすがるためだけの荒唐無稽ではた迷惑な妄想であると、そう考えている。

 イノリは決してすがらず、迷わず、ためらわず、祈らない。イノリは立ち向かい、闘い、抗い、そして動く。

 ――何物に対して、か。

 現実に、だ。ままならない現実から、イノリは決して視線をそらさない。

 イノリは理不尽と闘う勇気を生まれながらに裡に秘めている。他者との衝突を恐れない気概を宿している。過ちを見抜く聡明さを持っている。高い壁を乗り越えんとする根気を身に着けている。

 ――それらはときに蛮勇だ。向こう見ずな若気の至りだ。が、それは今、このときに指摘されるべきではない。ゆえに話を進める。

 イノリが生まれながらに勇敢であったのは、彼女があらゆる才に恵まれたからであるといえるだろう。学校という、幼子たちによる相互の監視によって発生する一種のパノプティコン下において必要なスキル――学業の成績。脚の速さ。社交性。大人の顔色を窺う技能。リーダーシップ。男子生徒の幼稚な悪戯に立ち向かい、傷ついた同性を適した言葉と態度で慰め庇う清廉さ。全てを備えたイノリは当然の如く慕われた。異性は反抗するポーズを持ちながら、イノリのことをブスだとナマイキだと口では罵りながら、彼女の態度や言動へ逐一注意を向ける。同性はイノリを尊敬し、彼女のようになりたいと願う。教師でさえ、倍以上も年の離れたオトナでさえイノリの顔色を窺う。多くの才を持ち、慕われ、自らが他者に比べ秀でていると自覚した人間が自信を手にするのは当然のこと。なぜ人と人の間に格差が生じるのか。神堵イノリという一人の人間が、その理由を自らモデルケースとして目の前の数十人のクラスメイトに見せつけたのだ。自らが選ばれた側の人間であると、周囲の人間に知らしめたのだ。ある意味で無自覚に。実際には、自覚的に。

 が、神堵イノリのなにより恵まれた点はそのいずれでもない。頭脳でも、身体能力でも、人間性でも、気概でもない。

 容姿だ。完璧に配置された顔のパーツと、長く細い手足と、瑞々しい肌と透き通るようなその白と、流れる黒髪と、凛と背筋の伸びた佇まいと、成長するにつれて膨らみを増していく胸部と、その全てが、まるで呪われているかの如く、彼女は美しかった。圧倒的に、耽美的に美しかった。イノリを取り巻く男児は、否、男児ばかりでなく大人の、成熟した男たちまでもが、彼女の振り撒く妖艶な香りに心を奪われた。性的な視線を彼女へ向けた。女たちは憧れ、陶酔し、崇めた。ごく一部の愚かな人間は――イノリが選ばれた人間であることに気づかないか、自らがイノリと同じ場所に立つべき人間だと思い込んだか、そのどちらかである愚者は、嫉妬した。愚者の嫉妬に塵芥ほどの価値もないということに愚者当人が気づくはずもなく、彼ら彼女らはただ蔑まされ、疎まれ、そのことにさえも気づかぬまま、哀れにイノリへ嫉妬した。嫉妬することで己の心がイノリに束縛されていることにも気づかず、いつまでも。

 イノリは、自らに向けられるあらゆる感情の存在を知っていた。聡い彼女が、自らに向けられる視線や自己の立ち位置に鈍感であるはずがないのだ。自分に性的な魅力があることを自覚し、他者の心を惑わすほどの美貌を備えていることを十二分に自覚していたのだ。

 それになによりイノリは、聡明で、気高く、優しく。

 ――同時に、異様に誇り高かった。

 言い換えるなら、プライドが高かった。恵まれた人間であるがゆえに、自信があるがゆえに、プライドを持っていた。異常なまでの自意識を抱えていた。

 そう。異常なまでに。

 幼きころからイノリは、自分が特別な存在でありたいと、強く希っていた。どれほど恵まれ、周囲から崇められようと、自分がちっぽけな一人の人間であり七十億のうちのひとつに過ぎないと理解していた。しかし、あるいはだからこそ、自らが他の七十億と違う存在だと証明したかった。そうだと信じたかった。今の自分は、学校という狭いコミュニティでたまたま最も美しいだけの存在であると、いくら敬われようと身近なアイドル程度の存在であると、自分が中心であるがゆえに、自意識を苦しいほど募らせていたゆえに、イノリは自覚していた。確かにこの教室で、この学校で誰より美しく、人を惹きつける魅力を持っているのは自分かもしれない。が、その程度のことが自らの特別性を証明する根拠になりうるはずがない。複数の人間が存在すれば、二人だろうと、百だろうと千だろうと一億だろうと、その中で順序は着く。優劣は着く。自分は、数十というコミュニティでたまたま頂点に立っただけの井の中の蛙に過ぎない。仮に、神堵イノリという人間がこの世界に、この学校に実在しなかったとしよう。自分がいないことで、この世界のなにかが変わるのか。答えは明白だ。否、である。自分の次に美しいあの少女が、崇拝対象として祭り上げられるだけである。私が、神堵イノリという人間が、私個人の力のみによって崇められるに至ったわけではない。有象無象が神を求めたのだ。崇拝すべきものを。象徴を。

 神が信者を生んだのではなく、信者が神を生んだのだ。崇拝されるものではなく、するものが先に存在したのだ。私の嫌いな、妄想の産物に過ぎぬ、神と同じだ。神は、しょせん、人間が創り出したものなのだから。

 それではダメだ。ダメなのだ。私は、もっと尊く、唯一でなければならない。

 求められたゆえに生まれるのではダメだ。私という個人が、神堵イノリがいて、神堵イノリのみが人々から求められなくてはならない。

 イノリは。誰からも愛され、聡明で、品行方正な少女は。自らも人々を愛しながら、心中では葛藤していた。荒ぶる自尊心を抑え込んでいた。

 そう、抑えた。抑え込んでいたのだ。イノリの聡明な点は――長い目で見れば愚かな点は、それを巧妙にひた隠しにしていたことだ。自らの感情が驕りであることを、傲慢であることを彼女は自覚していた。それが武器になることもあるだろう。傲慢ゆえに、暴虐ゆえに人を惹きつけることもあるだろう。けれどその程度の陳腐な方法によって手中に収めた崇拝は例外なく刹那的なものであると、イノリは本能的に悟っていた。それはイノリが手に入れたいと願ったものとはほど遠かった。

 小学生の時分から、イノリは真剣に考え始めた。己と向き合い始めた。己の中でくすぶる欲求を抑える方法とは、なにか。なんらかのスポーツに、本気で取り組むか。自分の身体能力をもってすれば、もしかしたら全国の、否、世界のトップを狙えるかもしれない。けれど、どんな競技であれ、何年と頂点を維持するのは極めて困難だ。それになにより、そこで手に入れた頂点は、用意された舞台上のものでしかない。私が頂点を手にしたところで、その座を今度こそ己が射止めようと気迫を、敵意を向けてくる人間がぞろぞろと現れるだけだ。それは一種の尊敬であり崇拝であろう。けれど、私が求めているものとそれは断じて違う。私は、ただひとつの存在として、自らが作り出した舞台に、ただ一人、君臨したいのだ。

 熟慮の末、中学に進級したばかりのイノリはひとつの結論を下す。そして行動する。オーディションに応募したのだ。

 他でもない、アイドル歌手の新人発掘オーディションだ。

 端から見れば滑稽な選択に思えるかもしれない。けれど、イノリは真剣だった。展望もあった。イノリにははっきりと将来のビジョンが見えていた。

 確かに、アイドルになることは用意された舞台の上に登るだけの行為に等しい。芸能の舞台に立つことを選ぶ人間はあまりに多い。大衆にとって彼らは消費物であり、代替の利く娯楽商品でしかない。つまらないと思われれば躊躇なく見捨てられる。見放された先にあるのは、己に価値がないとこれ以上ない方法で突きつけられる、最悪の地獄だけだ。無論、イノリもその程度のことは承知していた。

 けれど、イノリにはとてつもない野心と自信があった。エンターテイメントの世界にはっきりと定められた頂点は存在しない。しかしそれは言い換えるなら、頂点を自ら創造できるということだ。つまり、登りつめ、極限まで他者を見下ろせる場所まで這い上がり、そして宣言すればいい。私こそが頂点だと。そしてなにより、他分野と違い、この世界で成功を収めたときに求められるのは私自身だ。功績でも、地位でも、名誉でも、作り出した発明でも発見した物質でもなく、私自身が求められる。私こそが、自らこの世に生を受けた本物の神となるのだ。誰もが私を崇め、奉る場所まで、私は登りつめるのだ。

 デビューが叶ったとして、始めこそ、見知らぬオトナたちから都合よく金づるにされる舞台装置のひとつでしかないだろう。衆愚から性的に見られるだけの、娯楽商品のひとつでしかないだろう。けれど、いずれ私は力を得る。自分自身で、自分を高みへと押し上げる地位と能力を手に入れる。そして、公に認められた信仰対象となる。

 イノリにとって舞台に立つまでの道のりはあまりに平坦だった。まずは応募書類を芸能事務所に送付する。派手にメイクを施したのでなければ、奇抜な髪型にセットしたわけでもない、着慣れてすらいない中学の制服に身を包んだだけの陳腐な写真を添付した。ただ、陳腐なのはあくまでその装いであり、彼女のまとう美貌と覇気は写真越しに容易に、それを見る者に伝わった。イノリが被写体として意識したことはただひとつ。まっすぐと、レンズを見つめること。いや、睨みつけること。お前は私を選ぶ側の人間ではないと、私に吸い込まれる人間だとわからせるための視線をカメラの向こうに立つ者へ向けた。その者がどこの誰かなど、イノリにはどうでもよかった。イノリにとってその誰かとは有象無象の一人にすぎない存在だからだ。けれどイノリは違う。彼らにとってイノリはたった一人だ。それだけがイノリにとって重要なことだった。

 そして大衆は――カメラの向こうから己を見据えるイノリの写真を目にした者たちは――心を奪われた。魅了された。よほどの凡夫でもない限り、イノリが特別であると理解した。無論、なにより彼らを惑わせたのは美貌だ。が、それだけではない。理屈ではない。感情ですらない。ただ、神堵イノリを放っておくことなど彼らにはできない。イノリは当然のように書類審査を通過し、オーディション会場へ招待される。そこには美しい少女たちが大勢ひしめく。誰もが華やぐ舞台を夢に見、己に向けられる歓声を夢想する。彼女らは皆、その夢想が決して夢物語ではないと言えるほどに、例外なく美しい。自らが美しいことを自覚し、そのことに自信を持ち、他者から賞賛されることに、羨望の眼差しを向けられることに慣れている。人前に立つ素質を十分に持っている。それを実現させる道筋を選べるほどの聡明さを持っている。が、その聡明さこそが彼女たちの悲劇だった。なぜなら、そこにはイノリがいたから。彼女たちはイノリに惹かれながら、イノリに幻惑される己の心を殺しながら、絶望と恍惚の狭間に揺れながら、審査する者たちの前で様々な芸を披露した。ある者は達者な外国語を披露し、ある者は体の柔軟さを見せつけ、またある者はコントを演じてみせた。誰もが、自らは他者と決定的に異なると、己の全てを懸けて証明してみせた。が、それらは無様に失敗した。なぜならイノリがいたから。果たしてイノリは、審査する者たちの、否、自らが審査すると思い込んでいる者たちの前でなにをしたのか。

 話したのだ。ただ、言葉を紡いだ。夢中で耳を傾けてしまう荒唐無稽で愉快な笑い話でもなければ、思わず心を躍らせる美しいお伽話でもない。美辞麗句を並べた、宗教家まがいのペテン話でもない。イノリは、ただ、自らのことを話した。生い立ち。家族のこと。友人のこと。趣味のこと。読んだ本のこと。観た映画のこと。己が抱える欲望をひた隠しにしたまま、それ以外の己のことを、ただ話した。そして唄った。独唱した。イノリは歌唱力にさえ、圧倒的に恵まれていた。イノリの歌声に、そこにいた者はほぼ例外なく、魂を震わせた。イノリの崇高さに気づかないのは一部の愚者のみであった。もはやそこはオーディションの会場などではなかった。神堵イノリが踏み出したアイドルとしての第一歩を、幸運な衆愚に披露するためのコンサートホールだった。つまり、イノリの初めてのライブであった。イノリが数々の伝説を創るきっかけとなった、最初のステージだった。

 無論、イノリはこの審査を通過する。この後にはダンスと歌を披露する最終オーディションが控えていたが、イノリにとってそれは消化試合も同然だった。こうして、イノリは芸能事務所と契約を交わすことになる。

 初の仕事は他のアイドルのバックダンサーだった。同期の少女たちが未だレッスンに明け暮れる中、異例の早さでイノリは舞台の上に立つ。しかも、一世を風靡する若きトップスターの舞台だ。が、脇役としての日常さえ、ほんの一日で終わりを告げることになる。そのコンサートで、舞台の中心に立つ件のスターに見初められたのだ。スターは自らのプロデューサーに対し、彼女が、神堵イノリがスポットライトの当たらない場所にいるのは損失だと強く訴えた。イノリを食事に連れて行き、著名な音楽プロデューサーたちと直々に話をさせた。イノリを様々な人間と引き合わせ、イノリに世界の広さを見せつけ、また同時にイノリの存在を広めて回った。それだけでなく、自らもイノリに対し、歌唱やダンスや演技に関して、教えられることは全て教えた。けれど、スターはすぐに、イノリは己が指導できる程度の器ではないと悟る。事実、イノリはすぐに、スターから教示されたことを瞬く間に吸収した。それどころか、己に必要なアドバイスとそうでないものを取捨選択さえした。スターはイノリの才能だけでなく、その知性と人間性にも惚れ込み、二人はすぐに親しい間柄になった。周囲から姉妹のようだと呼ばれるほどの関係になった。イノリは生まれて初めて、心の底から他者に尊敬の念を抱いた。美貌も、人を惹きつける魅力も、歌唱力も身体能力も頭脳も全て自分の方が上だ。けれど、表面的な優劣などとは別に、私は心のどこかで彼女のようになりたいと願っている。彼女のことを、心から信頼している。イノリがそのことを自覚したとき、言いようのない幸福な気持ちで彼女の心は満たされた。

 後に思い返したとき、イノリは、このころが己の半生で最も幸福な時期だったと思い知ることになる。


 ――時は流れ、イノリがオーディションに合格し、五年の月日が流れた。高校三年生に進級したイノリの野望は、着実に、恐ろしいほど順調に、目指す位置へと近づいていた。

 イノリは二つの分野で、芸能界のトップとして君臨していた。一つ目は、デビューから数年が経ったころに開始した俳優業。演者としての初めての作品は、著名な監督によるサスペンス映画だった。イノリは十代の連続殺人犯という非常に難しい役で迫真の演技を披露し、各方面から絶賛を受けた。同作は海外の映画賞にも出品され、イノリの演技は世界でも賞賛された。イノリは女優賞を獲得し、一躍日本のスターとなった。この映画がきっかけで、海外の有名監督がイノリを知り、彼女を激賞し、自分の作品に出てほしいと直々にオファーした。イノリは全編英語のセリフを難なくこなし、この作品でも有名な賞を受賞した。三作目となった同じ海外監督の作品でも、同様に主演で賞を獲得した。イノリの出演した作品は、どれもが歴史的な興行収入を記録した。このころにはもはや、イノリの快挙を快挙と思う人間は存在しなかった。なにかを為しえることが当然と思われる位置まで、イノリは駆け上がっていたのだ。

 イノリが輝く二つ目の舞台は、言うまでもない。むしろイノリはこちらの方が本職だと思っていた。デビュー当時と同じ、アイドルだ。イノリは件のスターと、心から信頼する年の離れた親友と、二人でユニットを結成していた。The girl next doorと、そう命名されたユニットだった。直訳するなら、『隣の少女』。常にファンの身近にいたい、というコンセプトから命名されたものだった。二人は社会現象を巻き起こすほどの人気を誇っていた。イノリの相棒であるスターは、五年が経ち、年齢が二十の半ばに差し掛かった現在でも変わらずスターだった。それどころか、かつての人気を凌駕するほどのファンを抱えていた。栄華を極めた理由には、彼女自身の努力と魅力によるものも多分にあっただろう。けれど一番の理由は、間違いなく、イノリの存在だった。イノリは、前述の通りの俳優業としての成功もあり、相棒のスターを超える人気を誇っていた。イノリの隣に立ち、イノリに認められた彼女が大衆から認められるのは当然だった。そう、当然なのだ。イノリが認めるものは、すべて、例外なく、他者からも認められるのだ。

 例えば、服装。例えば、髪型。例えば、メイク。例えば、習慣。例えば、思想。あらゆるものだ。イノリのまとう、あらゆるものをファンは模倣した。イノリのようになりたいと誰もが願った。イノリが愛用しているブランド商品はどれもが飛ぶように売れた。イノリが毎日口にしている栄養食品やお茶が品薄になった。イノリが影響を受けた小説を誰もが読みふけった。退屈な文字列に目を走らせ、イノリがなにを感じたのか読み取ろうと必死になった。あるいは、文字列の向こうに立つイノリそのものを読もうとした。イノリの全てを知ろうとした。ある者はイノリになりたいと願い、またある者はイノリをわかりたいと切望したのだ。尤も、どちらも、イノリに心を奪われたという意味では大差ない。ファンの心の動きを手に取るように理解していたイノリは、それでいい、と満足した。大衆の生活に影響を与え、彼ら彼女らの生活のそこかしこに己の気配を存在させる。それはつまり、神格化の前触れだ。真に崇め奉られるものは、特別な位置になど存在しない。人々の生活に紛れるのだ。聖書の言葉が、そうと知らず日常に引用されるのと同じことだ。

 これほどに信奉されるまでの過程で、果たしてイノリはなにをしたのだろうか。率直に言えば、特別なことなどなにひとつしていない。少なくとも、イノリ本人は当たり前のことをしただけだと思っている。ただ、テレビに出演し、雑誌のインタビューに答え、舞台に立ち、人前で話し、愛想を振る舞い、唄い、踊り、演技をしただけだ。なぜなら、奇抜なパフォーマンスで、人とは違った振る舞いで得た人気など一過性のものに過ぎないから。人と同じことをやって、その上で圧倒的な差を見せつける。人を魅了する。そうでなければ意味がないとイノリは考えた。他に頂へ進む道はないとイノリは考えた。それを実現させる確信もあり、事実、彼女はそれを現実のものとした。美貌や歌唱力、滲み出るオーラが他者を圧倒していたのは言うまでもない。それだけでなく、イノリの言葉には力があった。イノリの言葉はどこか甘美で、哲学的だった。イノリはThe girl next doorの楽曲の全ての歌詞を担当した。

 イノリはまさしく、自らの理想、神へと確実に近づいていた。イノリは決して神を信じず、忌み嫌いながら、同時に強く意識していた。神になりたいと希っていた。聡明なイノリといえども、この点ばかりは己の内面に対して正当な自己評価を下していなかった。信じないはずの神が己の心を強く束縛していることに、イノリは露ほども気づいていなかった。

 そして――イノリが高校三年生の、夏。あらゆる転機となったあの出来事が起きる。

 数百万の人間を動員する国外の大規模な音楽イベントに、The girl next doorが招待されたのだ。日本からの、それどころかアジアから出演者が選出されることは極めて異例だった。異例でありながら、けれどThe girl next doorなら当然だと、誰もが思った。イノリと相棒は海を渡った。期待と興奮で胸を膨らませる相棒の隣で、イノリは冷静に考えた。計画を次のステップに移すべきではないかと、真剣に思案し――決断を下した。一人で。今までずっとそうしてきたように、誰にも相談せず。

 今回のイベントを以て、あらゆる芸能活動をセーブする。仕事を極限まで減らすのだ。

 引退するわけではない。決してアイドルはやめない。ステージに立つ機会は、年に一度もあれば十分だろう。誰もが自分を求めてやまないこの時期に、世界最大級の舞台で最高のパフォーマンスを披露し、自らの人気を絶頂にまで押し上げる。人々は陶酔する。中毒的に、私という存在、神堵イノリを求める。けれど求めてやまない存在は、イノリは、目の前に決して現れてくれない。イノリをいつまでも見ていたいのに。少しでも近づきたいのに! そう、人々は狂おしいまでに自分を求めるはずだ。心が壊れるほどに、求めるはずだ。求めて、求めて、求めて、失意するか、あるいは一時的にファンの心が離れていくかもしれない。それでいい、とイノリは思う。ギリギリまで人々を待たせたタイミングで、イノリは再び舞台に立つのだ。そして、衰えるどころかより魅惑的になった歌とダンスを披露する。新曲も惜しみなく披露する。人々は歓喜する。世間の話題は自分で埋め尽くされる。が、すぐに表舞台から再び姿を消し――機の熟したころ、人々の前に舞い降りる。いつまでも、自分は人々を魅了する。歓喜させる。そして、いつしか、現人神にさえ等しい存在になるのだ。イノリは、自らの成功を確信していた。

 果たして、件の音楽イベントはこれ以上ないほどの成功で幕を下ろした。イノリとその親友は圧倒的な歌唱力と、踊りと、演出と、美貌で世界を魅了した。The girl next doorの名を全世界に轟かした。イベントの直後に彼女たちは、The girl next doorは、歌詞が全編英語のアルバムをリリースし、全米で驚異的な売り上げを記録した。それどころか、日本語版の、すでにリリースされていたアルバムまでもが世界各国で販売され、過去に例を見ないほどのヒットを記録した。これ以上ないほどの快挙だった。イノリの予想さえ超えるほどの成果だった。最高のタイミングだと確信した。仕事をしばらく休みたいと、プロデューサーと親友に伝えた。


 この瞬間、イノリは愚かだった。こうなることを微塵も予測できなかった点では、神堵イノリはあまりに愚かだったという他ない。


 イノリの提案は猛反対された。考え直せと、今が頑張るところじゃないかと必死の形相で説得された。思わぬ言葉にイノリは呆然とした。

 たとえば、今までそうしてきたように巧妙な嘘でごまかすことができれば、イノリの運命は変わっていたかもしれない。仕事続きで疲れた、あまりの人気が恐ろしい、勉強がしたい等々、言い訳はいくらでもあった。けれどイノリは説明できなかった。自らの意思を、感情を伝えることができなかった。伝えたいメッセージを言葉にできないことなど、イノリにとっては初めてのことだった。常に自信に満ち溢れ、求められ続けてきたイノリが、初めて己の言動に不安を感じた。イノリは不明瞭な、自分でも要領を得ないとわかっているしどろもどろな言葉を不器用に吐き出した。親友とプロデューサーは困惑した。二人にとっても、そんなイノリの姿を見るのは初めてだったから。言いたいことがまとまったらまた話をしよう、と親友が告げ、その場は解散となった。けれど、またの機会はいつまで経っても訪れなかった。どうしてかイノリの頭には、この危機を乗り越えるための策が、言葉が、ちっとも湧いてこなかった。都合の悪い話を避けようとするイノリの挙動に、親友は困惑した。困惑し、つい苛立ち、イノリに厳しい言葉を吐いた。イノリは言い返した。二人は初めて、激しい言い争いをした。周囲の大人たちが仲裁に入り、一応は矛を収めた二人だったが仲は険悪となった。世間がThe girl next doorに熱狂する中、熱狂の渦の中心だけが空虚だった。イノリと親友の心だけが空っぽだった。

 話を聞いてほしい、とイノリは思った。誰かに本心を打ち明けたいと思った。けれどイノリにとっての『誰か』は、存在しなかった。イノリが心を許した人間は親友だけだった。そもそもイノリは、自分がなにに悩んでいるのかさえわからなくなっていた。計画が頓挫していることか。あるいは親友とわかり合えないことか。考えてもわからなかった。イノリは己の心があまりに脆弱であることに気づいていなかったのだ。イノリは自らの望んだことは、どんな些細なことでも必ず現実にしてきた。他者から与えられてきたわけではない。己の能力と才覚に努力が合わさり、自らの力でほしいものを手にしてきたのだ。ゆえに、ままならない現実への向き合い方を知らなかった。それどころか、ままならない現実の存在を忘れていた。人は誰しも、少なからず未知のものに恐怖を覚える。ゆえにイノリは現実を恐ろしいと思った。目指す場所への道のりが険しくなったことでも、親友との心の距離が離れたことでもなく、思い通りにならないこと自体に恐怖を覚えた。不安定に揺れるイノリの心は、おもちゃがほしいと泣きわめくわがままな幼子のように脆かった。けれどイノリは舞台に立ち続ける。大衆に笑顔と歌声を与え続ける。決意や意地があったからではない。ただ、そうすることしかイノリは知らなかったから、イノリは歩みを止めなかった。前に進むのをやめたら死んでしまうと本気で信じていたから、イノリは仕事を続けた。尤も、イノリは己の内心などろくに分析できずにいた。仮に第三者から「なぜ前に進むのか」と問われても、イノリは答えられなかったはずだ。イノリは、己がなぜ呼吸をしているのかもわからないほどに、混乱しきっていた。


 ――あなたのファンです。


 唐突に、前触れもなく声をかけられたところで、イノリは自分があまりにぼんやりしていたことに気づく。考え事にふけっていたために、自分がどこにいるのかを思い出すのにさえ時間がかかる。

 微かに乱れる呼吸を整え、思考を整理する。自分は数十分前まで、久々に登校した高校で授業を受けていた。すでに卒業までの授業範囲を予習していたイノリにとってはあまりに平易な内容だった。そもそも、イノリの精神状態は授業に集中できるようなものではなかった。放課後を迎えたイノリはすぐに教室を去り、校門前に停車するマネージャーの車に乗り込んだ。そこまで思い返し、イノリはようやく自分の置かれている状況を理解する。今日は、来月から始まる全国コンサートのリハーサルがある。そのためにマネージャーの車に乗り、事務所にやってきたのだ、と。イノリは事務所の玄関正面で車を降り、マネージャーは今、車を駐車場に移動させている。そして、目の前には、ファンだと告げる不審な男がいる。奇妙だ、とイノリは思う。事務所の敷地内には警備員が常駐しているはずだ。監視カメラも仕掛けられている。関係者以外の人間がこんなところにいられるはずがない。イノリは周囲を見渡す。門の前にいるはずの警備員がいない。自分と男以外、視界の中に誰もいない。明らかにおかしい。歩道へ視線を向けても、通行人の一人も見当たらない。マネージャーも、なぜ不審な人間がいるというのに見咎めなかったのだろうか。運転中に気づかなかったはずがない。なにもかもが、異常だ。

 ――あなたのファンです。

 目の前の男が、イノリに向かって再び語りかける。イノリは男の顔をまじまじと見つめる。二十代後半か、あるいは三十代前半といったところだろうか。身長は、百六十五センチのイノリより少し目線が高い程度の、中肉中背。白地のTシャツにジーンズという、なんの特徴もない服装。顔立ちにもなんら特徴はない。目を離した数秒後には忘れてしまいそうな、凡庸な顔立ち。加えて、感情を読み取れない無表情。憧れのアイドルを目の前にしていると思えない全くの無表情が、イノリをじっと見つめている。

 ――ありがとうございます。だけど、ここは関係者以外立ち入り禁止ですので、申し訳ありませんがお引き取りください。

 イノリは笑みを顔に貼りつけ男に告げる。すると、男はニヤリと笑った。ニヤニヤと、よからぬことを企んでいるかのような、下卑た笑みをイノリに向けた。頬は意地汚く緩んでいる。が、目は微かにさえ笑っていない。変わらず、イノリの瞳をまっすぐ覗き込んでいる。その表情を見たイノリはぞっとする。言いようのない薄気味悪さを感じる。思わず表情を崩し、感情を露わにした目つきで男を睨む。けれど男はイノリを見つめ返したまま、ただニヤニヤ、ニヤニヤと笑い続ける。普通の人ではない、関わらない方がいい、とイノリは悟る。小さく会釈をし、自動ドアをくぐって事務所の中へと逃げ込んだ。自動ドア正面の受付に見慣れたスタッフの顔を見つけ、安堵の溜め息をこぼす。遅れてマネージャーが入ってくる。イノリは、不審な人がいたから警備員に報告してほしいとマネージャーに伝える。マネージャーがどこで見たのかと問い、すぐそこに、とイノリは答え、自動ドアの向こうを指さす。そして眉をひそめる。そこにはすでに男の姿はなかった。マネージャーは不思議に思いながら、イノリの言葉を警備員に伝える。そして、誰も怪しい男を見ていないし、監視カメラにもそれらしき人物は映っていないことが明らかになる。警備員も、常時一人は門の前にいたことがわかる。イノリの心が疲弊していることはスタッフたちの目にも明らかだったため、イノリの勘違いだということで関係者は誰もが納得した。ファンだという不気味な人間を見た、話もしたというイノリの言葉を信じる者はいない。無論、親友も含めて。始めのうちは奇怪な出来事に怯えていたイノリだったが、時が経つにつれ、やはりあれはなにかの勘違いだったのではないかと考え直すようになった。自分の精神状態が普段通りでない程度の自覚はあった。夢と現実と混同したのだと、自分を納得させることにした。

 が、ひと月後。イノリは再びその男を目撃する。全国コンサートの初日。まだ一曲目の途中だというのに、満員の観客の最前列に見つけてしまったのだ。観客は何万といるにも関らず、その中のたった一人に過ぎない、呆然と立ち尽くす、件の男を。

 誰もが熱狂し、叫び、跳ね、サイリウムを振り回す中、男はただ一人、無表情で、舞台上で踊るイノリを見つめていた。相棒には目もくれず、イノリだけを見つめていた。少なくともイノリはそう感じた。背中を冷たいものが這った。イノリは必死に男から視線をそらした。意識を男から背けた。ライブに集中しなければならないと、無我夢中で唄い、踊り、笑った。けれど、ライブの後半で思わず男へ視線を向けてしまう。男はニヤニヤと笑っていた。あの、下卑た笑みだ。ニヤニヤ、ニヤニヤと、見下すようにイノリを見つめていた。ライブが終わった直後、仲違いしていることも忘れイノリは親友に問うた。客席の最前列に、じっと立っているだけの気味の悪い男がいたでしょう? と。けれど親友はただ、怪訝な表情を浮かべ首を横に振る。それから、ぼそりと呟く。

 ――本当に辛いなら、やめてもいいんだよ。

 それは親友の、精一杯の優しさだった。元の関係に戻りたいと願った親友が、どうにか振り絞った一言だった。けれどイノリにその言葉は届かない。ただ、親友が男の存在に気づいていなかったことに、イノリは恐れ慄く。

 それからの日々、イノリは必死になって己に暗示をかけた。客席に見たあの男は、自分のただの勘違いだと。事務所の前で遭遇したあの男に怯えすぎるあまり見間違えたのだと。客席の男はきっと、他人の空似だ。なにも恐れることはない。何度も自分自身に言い聞かせた結果、いつしか、本当にその通りだと思えるようになってきた。まだ、あの男を思い出すと不快な感情に襲われる。胸に痛みが走り、額から嫌な汗が流れる。けれど、男を思い出す時間は短くなった。加えて、イノリは全国コンサートの最中で、余計なことを考える暇などろくになかった。慌ただしい日々はイノリの頭から恐怖を少しずつ追い出していった。そもそも、イノリにはほかに考えるべきことがあるのだ。今後のことだ。やはり、もう少しアイドルとしての活動を続けてもいいのではないかと、イノリは考え直していた。自分の評判にわずかでも影を落としかねない不安があるなら、その種は事前に刈り取るべきだ。つまり、スタッフや親友とは円満な関係を取り戻しておきたい。どこかから噂が洩れ、万一にでも不仲説が流れるのは避けたい。ここは一旦自分の考えを収め、ゆっくりと、時間をかけて今後の方針を決めればいい。イノリの心には、そう考える余裕さえ戻っていた。そして、コンサートの全公演が無事終了する。イノリの、The girl next doorの地位はより不動のものとなる。イノリは結果に満足する。これからだ、と決意を新たにする。マネージャーに自宅マンションへと送られ、車が走り去るのを見送ってから自動ドアへ歩き出す。

 歩き出すイノリの横には、当然のように男がいる。

 ――私はいつも、あなたの痴態を思いながらオナニーをしています。

 男の存在に露ほども気づいていなかったイノリは悲鳴をあげて男から離れる。数メートルの距離を取り、その顔を見て、夢にまで現れ自分を苦しめた相手が目の前にいることを知り、この上ない恐怖を感じる。全身が鳥肌に包まれる。イノリのファンが見たら卒倒しかねない、情けない表情を浮かべ男を見つめている。男の下劣極まりない発言もイノリの思考を乱す。イノリの目には涙が浮かび、視界が滲み――けれど、ふと視線を下げたとき、彼女は見てしまう。男の、外灯の光の下で露わになった下半身を。男は腰から下になにも身に着けていなかった。そして、その男性器は勃起していた。醜悪に、汚らわしく、猛々しく勃起していた。イノリは悲鳴をあげた。悲鳴をあげ、無我夢中でマンションの中へ逃げ込み、ちょうどのタイミングで降りてきたエレベーターに飛び乗った。が、イノリは再び悲鳴をあげる。そこには男がいた。男に背を向けるより早く扉が閉まり、イノリは男と二人きりで密室に閉じ込められる。醜い男性器を露出した男はイノリに手を出さない。泣きわめき、床に這いつくばり無我夢中に手足を振り回す彼女を見下ろす。見下し、呟く。

 ――私はあなたでオナニーをしています。あなたが私に犯されている姿や見知らぬ男性に犯されている姿や自らの股間をまさぐっている姿や男性器を舐めまわしている姿を想像し、オナニーをしています。何度もオナニーをしています。何度も何度も何度も何度もオナニーをしています。そして、あなたもオナニーをしています。

 イノリは叫び、両耳を強く手で押さえていた。それなのに、男の声が、まるで耳元で囁かれているかのように鮮明に鼓膜を揺らした。男の言葉の全てがイノリの脳に刻まれた。永遠にも似た時間、イノリは男と二人きりで密室に閉じ込められ、ようやく扉が開く。イノリは全力でエレベーターを飛び出し、震える手で鍵を開け、自宅に逃げ込んだ。出迎えた母親に何事かと訊ねられても、それを無視して自室に飛び込んだ。カバンからスマートフォンを取り出し、マネージャーに電話をかけた。繋がった瞬間、あの男はあなたの差し金でしょう! と叫んだ。思えば、男と初めて遭遇したときも、マネージャーの車から降りた直後だった。そして、今回も。偶然ではありえない、男とマネージャーは共謀して自分を陥れようと画策しているのだ、とイノリは確信した。けれどマネージャーはイノリの言葉に困惑する。なぜなら、マネージャーにとっては全く身に覚えのない濡れ衣だったから。なんの話かと問いかけるマネージャーに、イノリはただただ罵倒の言葉を繰り返した。イノリが汚い言葉を吐き出すことなど想像さえしたことのなかったマネージャーは、ここ最近の彼女の奇妙な言動のことを思い、しばらく休むようイノリに告げた。仕事のことは自分や事務所の人間と、彼女の相棒がどうにかするから、と。

 斯くして、イノリは唐突に空虚な日々を手にする。神堵イノリが体調不良により活動を一時休止する、というニュースは全国に衝撃を与える。けれど、イノリにはそんなことを気にする余裕さえなかった。カウンセリングを受けたらどうか、という家族やマネージャーの提案をイノリは強く拒絶した。イノリはただ、ネット上で己について書かれた様々な文字列を探し続けた。真っ先に見つかるのは自分の楽曲や出演した映画についてのネット記事で、他に目につくのは各種媒体から取材を受けた際のインタビュー記事だった。SNSや掲示板の書き込みに目を向けると、そのほとんどが自分に好意的なものだった。が、見るだけで吐き気を催す汚らわしい文字列や画像が、哀しい哉、その中には一定数含まれていた。

 男が口にしたのと酷似した、イノリを性的に犯したいという旨を呟く文字が至るところに氾濫していた。いや、それだけならまだいい。その程度はイノリにとっても予測の範疇で、どうにかこらえることができた。が、口に出すのさえおぞましい、イノリの尊厳など塵ほども尊重しない、イノリを性具としてしか見ていないかのような過激で醜い、愚にもつかない卑猥な言葉を垂れ流す人間が、この世界にはあまりに多くいた。イノリとの生々しい性行為の描写を妄想し、小説紛いの文字の羅列として垂れ流す愚者がいた。イノリは枕営業をしている、ただれた夜の生活を送っていると無責任な噂話を垂れ流す有象無象がいた。イノリの名を騙り他人を陥れようとする悪人がいた。イノリの顔写真にAV女優の裸体を合成した画像を喜々として掲示板に貼りつける俗物がいた。

 イノリは彼らの玩具だった。イノリはいいように汚され、犯され、虐げられていた。

 イノリはそれらに視線を走らせるたび、強い吐き気に襲われた。事実、イノリは何度か嘔吐した。便器に白く濁った吐瀉物を吐き出した。食事などろくに取っていなかったにも関らず、イノリは吐き続けた。それでもネットの海から視線を外すことができなかった。狂ったように、イノリはいつまでも愚かな自傷行為を繰り返した。自分がおかしなことをやっていると、イノリは強く自覚していた。けれど、自分が大衆にとっての穢れた性具なんかではないと、イノリは証明したかった。どんな文字列を目にしたところで証明できるはずなどないのに、イノリは安心したい一心でネットに噛り付いた。まともに眠ることもなくパソコンにしがみつき、そうする時間が長くなるにつれ自己嫌悪が肥大していく。有象無象の気まぐれな言葉に惑わされる自分はどうしようもなく惨めだと自覚してしまう。そしてなにより、こんな些細な出来事で精神を乱してしまうほど自分の心が弱いという事実に、愕然とした。自分の身に起きた出来事といえば、親友との確執と、例の男の件だけだ。自分の地位を脅かすような出来事は、なにひとつ起きていない。それなのに、自分はこうして怠惰に、惨めな時間を過ごしている。私には、立ち止まっている時間などあるはずないのに。弱い私は立ち上がる方法を知らない。前に進む方法を知らない。私には怯えることしかできない。もはや、生まれ持って抱えた尊大な承認欲求だけが、イノリの心の唯一の支えだった。ギリギリの場所で踏みとどまった彼女の精神が、神堵イノリは選ばれた人間だと、血反吐を吐きながら喚き散らしていた。

 そして――イノリが部屋に引きこもり、一週間が経ったころ。イノリのスマートフォンに一件のメッセージが入る。事務所の関係者や親友からの着信は本文に目を通すことすらせず、全て無視していた。が、新たなメッセージの送り主は思わぬ人物だった。知人の、同世代の男性俳優だった。かつてThe girl next doorの楽曲が彼の主演ドラマの主題歌に使用されたことがきっかけで、交流があったのだ。連絡先を交換し、共通の知人と何度か食事に行ったことはあったが、特別に親しい間柄とは呼べない関係の相手だ。深く思考する気力を失っていたイノリは、惰性でそのメッセージを開き本文に目を通す。イノリの心身を気遣う内容だった。イノリはただ一言、大丈夫、と返す。すぐに既読の文字がつき、数分後に送られてきたメッセージにイノリの心は微かに揺れる。俳優は、イノリの親友から話を聞いた、自分はイノリの言葉を全面的に信じる、一度直接話がしたい――と、そう語っていたのだ。

 イノリの頬を、一筋の涙が伝った。初めて、自分の言葉を信じてくれる人間が現れた。その事実がイノリの心を照らした。私もあなたと話がしたい、と、そう伝えると、車で迎えに行くと、俳優は答えた。イノリが自分の住むマンションの住所を告げると、数十分後にインターホンが鳴った。扉を開くと、そこには件の俳優がいた。イノリは俳優に促されるまま彼の車に乗り込む。二人を乗せた車は夜の街を滑走し、高級飲食店に到着する。個室に通された二人はそこで言葉を交わす。いや、イノリが一方的にまくしたてる。イノリがこの数ヶ月の間に遭遇した不可解な現象を、次々と俳優に向けてまくし立てる。俳優はイノリを煙たがることも、疎ましく思うこともなく、ただ相槌を打ち続けた。そうなんだ、辛かったねと、イノリの欲しがっている言葉を狙いすましたように紡いだ。イノリは俳優の言葉と存在に安堵しきっていた。そして自信を取り戻した。そうだ、自分は他ならぬ、神堵イノリだ。見返りも求めず自分のために動く人間なんていくらでもいるのだ。自分を求めてやまない人間がいるのだと思い出した。否、勘違いした。イノリの顔に自然と笑みがこぼれた。二人のあいだに穏やかな時間が流れ、気づかないうちに数時間の時が流れていた。帰ろうか、と俳優が告げ、イノリは頷き、二人は再び車に乗り込む。車の振動と、車内に流れるタバコ混じりの匂いをイノリは心地よいと思う。ずっとこうしていられたらいいのに、と甘美な陶酔混じりの思いに絡み取られ――そのとき。ハンドルを握る俳優の片手が、そっと、イノリの腿に乗せられた。そして、撫でられた。イノリはハッとする。目を見開く。直後、車がゆっくりと減速し、停車する。イノリが窓の外へ視線を向けると、目の前には無数のビルが立ち並んでいた。色とりどりのネオンを、イノリは気味が悪いと、反射的にそう思った。気味が悪く、騒がしく下品な光景に十八歳のイノリは、目の前の建物がなんなのか、気づいてしまった。

 ラブホテルだ。俳優はイノリへ微笑を向け、入ろうか、と、そう告げた。この一言が、イノリの心に最後の亀裂を走らせた。

 考えるよりも早く、反射的に、イノリは俳優を突き飛ばし、奇声を撒き散らしながら車の外に飛び出した。俳優の目的が自分を抱くことだと今さらながらに気づいて、絶望と恐怖に正気を失っていた。

 結局、俳優も自分をただの性具としてしか見ていなかった。有象無象と同じだった。それなのに、自分はそのことすら全く気づけなかった。心を許してしまった。私はあまりに愚かだ。衆愚とそれ以外の区別さえつかない自分が特別な、選ばれた存在であるわけない。自分もまた、衆愚の一人だ。

 絶望のままにそう考え、泣き叫び、無我夢中で走り、気づいたら見知らぬ駅のホームにいた。息を整え、周囲を見回す。が、なぜか周囲には通行人の一人もいない。その事実に気づいた瞬間、嫌な予感を覚え、勢いよく後ろを振り向いた。

 目の前に、あの男がいた。男は、ニヤニヤ笑い、イノリへこう告げる。

 ――オナニーは、気持ち良かったですか? それともあなたにとっては強姦のつもりだったのですか?

 次の瞬間、イノリは自分の部屋にいる。全身を汗でビショ濡れにしていたはずなのに、それも乾き、部屋着の状態で、見慣れた部屋のベッドに腰かけている。理解の追いつかないことが立て続けに起きて、イノリの心はパニックになる。頭を抱え、うずくまり――喉が切り裂けるほどに、叫んだ。

 なにもかもが私の思い通りにならない。誰も私のことを理解しない。誰もが私を汚らわしい目で見てくる。私はお前たちのような俗物とは違うはずなのに。私は選ばれた人間のはずなのに。私は人の上に立つべき人間のはずなのに!

 イノリの中に様々な不安や、恐怖や、欲望が溢れる。今までにないほどの絶望の只中にいるにも関らず、イノリは自分がアイドルになった理由を強く意識する。私は、特別になりたい。私をこんなところで燻ぶらせるな! 私にはもっとふさわしい居場所がある! 私は華やかなステージから大衆を見下ろさなければならない! 私は、私は、私は、私は、私は……


「やあ、ミーガン・ロクリン。アンタの向かおうとしている場所はどうしようもなく腐りきっていると、どうしてわからないんだい?」


 絶望に打ちひしがれていたそのとき、頭上から声がした。聞き覚えのないしゃがれた声だ。

 イノリは涙で濡れた顔を上げる。そこには、一人の老婆が立っていた。目つきが鋭く、鼻は高い。全身を黒服に包み、頭にはフードをかぶった、まるでお伽噺の世界から飛び出してきたかのような装いの老婆だ。老婆が、当然のような顔をしてイノリの部屋にいる。イノリはどうしてか、老婆が部屋にいるそのこと自体には全く驚かない。疑問にさえ思わない。イノリの思考は老婆の放った言葉に引っ張られ、他のことなど考えられなくなっていた。イノリは掠れる声で、私の向かっている場所とはどこか、と老婆に訊ねる。

「呆れたねえ。そんなことも人から言われなきゃわかんないのかい。アンタは誰をも見下せる場所に立ちたいと願っている。けれどそれはどうしようもなく醜い場所だ。尤も、アンタにとっては、という意味だけれどね。アンタがいやに怯えているあの男だってそう言っていただろ? 全く、人の言葉に耳を貸そうとしないから、周りのことがなにも見えずにいるんだよ。ああ、やだ、やだ。卑しいガキだ」

 そう言って老婆は呆れたように首を横に振る。どうしてこの老婆は、自分がアイドルになった理由を知っているのだろうか。自分につきまとうあの男のことを知っているのだろうか――やはりイノリは、そんな些細な疑問に思い至らない。イノリは、あの男は誰なのかと老婆に訊ねる。

「あの男? そんなこと、どうだっていいんだよ。アイツがアンタのストーカーだろうが単なる異常者だろうが幻覚だろうが、そんなことはどうだっていいんだ。アタシが話したいのはね、さっきから言ってる通り、アンタが向かおうとしてる場所のことだ。いいかい、神堵イノリ。アンタは、自分が選ばれた人間ではないんじゃないかと、少し前まで悩んでいたね。そこらの連中にとって自分が取り換えの利く玩具でしかないんじゃないかと考えていたね――その通りだよ。アンタの思っている通り、神堵イノリはお手軽な性具だ」

 イノリは老婆の言葉に目を見開いた。が、老婆はニヤリと笑い、無慈悲に言葉を続ける。

「アンタがどんな高みへ到達しようが、女である限り、女であることを武器にしようとする限り、アンタは性具だ。性的アピールを振り撒いて人前に立つっていうのはね、そういうことなんだよ。男だってそうかもしれないけどね、女はとりわけそうなんだよ。だけどね、愚かなのはアンタだけだ。神堵イノリ、アンタだけだよ。そんなことはね、つまり自分が性具だってことはね、アンタの周りで、アンタと同じところを目指している娘たちは誰だって知っているんだよ。意識的にせよ、無意識的にせよ。それを理解して、それで尚、己の美貌を曝け出しているんだ。だから彼女たちは人の目を惹くんだ。大衆を魅了するんだ。だけどね、神堵イノリ。アンタは違う。アンタは自分が特別だと錯覚してる。性具としての自覚をこれっぽっちも持っていやしない。呆れるくらいに無知で愚かで生意気なガキだよ。それからね、もう一つ教えてあげよう。アンタが有象無象にとって性具であるのと変わらず、同じように、アンタは衆愚を使って自慰をしている。オナニーをしている。アンタが有象無象とバカにしてる連中はね、アンタにとっての性具なんだよ。アンタはあいつらとセックスをしているのさ。なぜならアンタの言う愚者がいなければアンタは満足できないんだから。アンタは大衆を馬鹿にしながら、同時に依存しているんだ。アンタは奴らがいなければオーガズムも味わえないのさ。ああ、ああ。アンタはとんだ破廉恥娘だよ。アンタほど股の緩い、誰とでも寝る女をアタシは知らないよ。アンタはひたすらセックスをしている。しかも所かまわず。それどころか、大衆の前をわざわざ選んで。世界へ向けて。みっともない! アンタはどうしようもない阿婆擦れだ。淫乱だ。売女だ。そうそう。アンタはThe girl next doorの意味を知っているかい? なるほど、隣の少女、という訳も間違ってはいないだろうね。けれど、別の意味もある。小説の名だ。アメリカの有名な小説に、『隣の家の少女』って話があるんだ。実話を元にした話だよ。一人の娘がひたすらに暴力を受ける話さ。とんでもない、人の所業とは思えない虐待を受けるんだよ。殴られ、蹴られ、刃物で傷つけられ、タバコの火で体を焼かれ、犬の糞を食わされ、レイプされ、性器を焼かれ、そして最後には、死ぬ。だけどね、娘は抵抗の一つもできないんだ。娘はね、とんだ弱虫なんだよ。まるでアンタじゃないか。自分が強者と思い込み、その実、ほんの些細なことでこんな無様な姿を曝け出すどうしようもない弱虫なんだよ。The girl next doorか。本当に、本当にアンタにピッタリな言葉だねえ。アハハ。アハハ。アハハ、アハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハ」

 ――もうやめて!

 イノリは叫んだ。老婆の言葉が耐えきれず、耳を塞ぎ、泣き、わめいた。心がズタボロに切り裂かれた。なぜなら、老婆の語る言葉がどれも正論だと思ったから。聡明なイノリは、老婆の言うことが間違っていないと気づいてしまったから。そうだ。自分は、どうしようもない弱者なのだ。たまたま美しいだけで、少しばかり他者より優れている点が多いだけで自分を特別だと思い込んだとびきりの愚者なのだ。特別どころか、自分はあまりに愚鈍だった。愚鈍な自分が、人々から求められるはずがない。虐げられこそすれ、崇められるわけがない。どうして私はそんなことに今まで気づかなかったのだろう。どうして私は見たくないものから目を背け続けてきたのだろう。私は、私は、私は――どうして、これほどまでに未熟で幼稚なのだろう。大人になりたい。

「だったら魔法少女になればいい」

 イノリが願うと同時、あまりに場違いに聞こえる滑稽な言葉を老婆が吐き出した。イノリは泣きはらした目を老婆に向け、無言でその意味を問う。

「そのままの意味だよ。アンタは大人になりたいと願った。その欲求は魔法そのものなんだよ。大人になりたいと強く願うアンタには魔法少女の素質がある。アタシと契約すれば、とてつもない魔法少女になれるだろうね」

 魔法とはなにか、魔法少女とはなにか、魔法少女が闘うべきはなんなのか……そういった諸々の話を、老婆はイノリに説明した。あまりに摩訶不思議で荒唐無稽な話が、どうしてかイノリの頭にストンと入り込んだ。老婆の話は全て真実なのだとイノリは悟った。けれど、イノリにはわからないことがある。たとえ自分にその素質があったところで、命を懸けて世界のために闘う理由なんて、私にはない。

「そんなことはないんじゃないかい? 世界を救った英雄になれば、アンタはアンタの望む場所に辿りつけるはずだよ」

 イノリはハッとした。確かに、今の私はどうしようもないほど無様で惨めな弱者でしかない。自分を神だと思い込んだ凡夫だ。今までは。ゆえに、愚昧な私から脱却するため、神になる。比喩でもなんでもなく、正真正銘、この世界を救った神になればいいのだ。あまりに単純で、わかりやすい話だ。

 こうしてイノリは契約を交わし、魔法少女になった。


 後述する二人の魔法少女は恐ろしいまでに力を持っていた。他の魔法少女たちが数人がかりでようやく撃退する力の魔法獣を、たった一人で、しかもほんの数瞬で消滅させるほどの力だった。控えめにいっても、異常だった。が、神堵イノリはその二人ですら足元に及ばないほど異常だった。魔法を扱う能力において、イノリは間違いなく神と同格だった。

 自身の魔法であっけなく死滅していく魔法獣たちを他人事のように眺めながら、イノリは自嘲的に、こいつらは自分の性具だ、と思った。かつて熱狂と歓声を浴びたアイドルのステージなど比較にならないほど、美しく輝く場所へ私を押し上げるための、醜いこいつらは性具だ。魔法は、魔法獣は私のために存在する性具だと、イノリは確信した。あまりに脆い魔法獣を相手にすることを、イノリは心から退屈だと思った。イノリにとって魔法獣を蹂躙することは、空腹を感じたから食事をする、程度のことだった。なんの困難ですらなかった。けれど、蹂躙の先に自分の求めたものがあると確信していたから、イノリは魔法獣を殺し続けた。殺して、殺して、殺して、殺した。魔法を使えば使うほど精神が摩耗すると、露ほども気づかないまま。イノリは最後まで、自分の心身が疲弊していることに気づかなかったのだ。


 斯くして、神堵イノリは世界を救った。地上で最も惨めな神となった。

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