風鈴

風が熱せられて、皮膚も苦しさを感じる暑さの中、私は自転車で通勤していた。

今日のタスクを頭に浮かべ、着いたらすぐ取り掛かれるように、頭を仕事モードに切り替えていく。


信号を渡ればもう職場という処で、ちりーんと、音がした。

思わず自転車を止め、音の出所を探すと、古びた居酒屋の軒先にそれはあった。


変わらずぬるい風が、涼やかな音を立てる。


ふと高校の時の教室が頭に浮かんだ。

三年の夏、暑いからと先生が教室につけていたんだっけ。


誰にも言ったことがなかったけれど、放課後に一度だけ、

その風鈴の下で泣いたことがある。


泣いていた理由が、恋人に別れを告げられたからなんて、

今では鼻で笑ってしまうけれど、

でもその時は寂しくて寂しくてしょうがなかったんだ。


寂しいとは、あるはずのものが欠けている状態、と辞書にはあるけれど、

あの時の心の空白は、とうに別の何かで埋まっている。

その何かがなんだったのか、今はもう思い出せない。


ちりーんと、もう一度音がする。

はっと我に返って時間を確認し、慌てて自転車をこぎだした。


少しだけ胸に空白を感じながら。

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羊が一匹 戸賀瀬羊 @togase

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