三十五話 夜禍
残照は立ち消え日が没し、人の声も、風の音もないしんしんとした静寂が落ちても、ジャスティはその場に座り込んでいた。
だらりと下がった右手には引っかかるようにして剣の柄が触れ、けれどそれ以上微動だにしない。
いつしかジャスティは叫びもしなくなり、空虚な眼差しで虚空へ視線を漂わせていた。瞳には何の光も映し出されず、数刻前にはあったはずの心気の行方はようとして知れない。
しかしそれもつかの間、ジャスティの元に近寄る無数の影があった。
一度は駆逐されたはずの、異形の群れ。黎明の軍に所属していた、精強なるアンクトゥワ達。
「いやに静かな村だと思って立ち寄ってみれば――いやはや、こんなところで勇者がまだ生きていたとは驚きアルよ。寄り道はしてみるものアルね」
その先頭にいたのは、キツネのような細面の男――ギャンボリックである。
デイライズに救われてからというもの黎明の軍の指揮を任されていた彼は、順調に各地を制圧している最中だった。
「ま、デイライズ様にけちょんけちょんにされて意気消沈、という風情みたいなアルが――ちょうどいい。お前のせいで王都を追われたこの雪辱、今ここで晴らしてやるアル!」
にやり、といやらしい笑みを浮かべたギャンボリックが詠唱すると、その肉体はみるみる奇怪な不定形へと変成していく。
「前回と同じと思われては困るアルよ! デイライズ様に強化の魔法を施していただいたこの身は不死身にして不滅!」
肥大化した巨躯は小山ほどもあり、触肢や触腕の数はゆうに数百を超える。おまけに周囲には率いてきたアンクトゥワ達――後はギャンボリックの号令を待つのみだった。
「おっと、そういえばあの小憎らしい娘はいないアルね! ついでに始末してやろうと思ったアルが……」
ギャンボリックがそう言った途端、
「お前のその様子を見るに、どこぞでくたばったアルか? どうせバカらしい自己犠牲やらで無駄死にでもしたアルね。何の価値もなくゴミのように死んで、いい気味アル!」
つられて、他のアンクトゥワ達からも嘲笑が上がる。
――その瞬間。かちりと何かが切り替わるように、周囲の空気が変化した。
冷たい凪にも似た異様な重圧が張り詰め、ジャスティの周りの闇が黒く瞬き、深みを増していくような。
それは
「な、何アルか? この嫌な悪寒は――か、かかれお前達! 勇者を挽肉にしてやるアル!」
同時に、虚脱した風だったジャスティが立ち上がり、ゆらりと剣を上方へ突き上げて。
「答えを導くアンクトゥワ……昼夜を分かたず正と邪を。
瞬間。黒き剣より青白い光芒が発せられ、その光輪は一つ息をつくよりも早く周辺を、村を、王都を、国を――大陸を、そして世界まで。
星そのものを駆け巡る。
「な、なっ……何アルか、今のは――あ、ああぁぁぁッ!?」
突如としてアンクトゥワ達は動きを止め、強烈な重力か何かにでも潰されたような声を上げて這いつくばり、身もだえするように苦しみ始めていた。
しかもその身からは彼らをアンクトゥワたらしめるためのイド・マテリアルが間断なく噴き上がり、一様にして、ジャスティのかざす剣へと集束するように黒い流れを作り出していたのである。
「こ、これは、勇者の浄化……!? い、いや、ワタシ達のエゴは無傷なのに、なぜイド・マテリアルが吸われ――か、身体が……力が抜けて、が……あぁ……」
ギャンボリック達は数秒も経たずして、タガが外れたように全てのイド・マテリアルを吸い尽くされあっさりと人間の姿を取り戻すと、昏倒してしまっていたのである。
だがしかし、今のジャスティの手で行われているのは浄化とはほど遠い、恐るべき行為。
――ユーシュリカの語っていた、正剣が周囲の者からセーフティや生命を吸い上げる魔法が、ごく限定的な条件下で発動される、というのは真実だ。
だがジャスティ自身が半アンクトゥワともいうべき様態となり、その特異な精神状態ゆえにセーフティとエゴを自在に調節できるようになったのに加え、原初にして最強のアンクトゥワであるユーシュリカの至大に等しい力と生命を受け取った今では、半死半生とならずとも、その意志一つで行使を可能としていた。
すなわち、ここに勇者とアンクトゥワ、二つの力が練り合わされて融合され、放たれた正魔法であり悪魔法――宵の明星は世界全土、隅々くまなく照らし抜く。
アンクトゥワ達はイド・マテリアルを捧げる格好となり、振り上げられた剣はどこまでも終わる事なく吸収を続け、星の表面は黒々とした霧に覆い込まれたようになっていく。
暴れていた者も、抵抗していた者も、逃げ続けていた者も、怯えていた者も例外なく、人間全員からイド・マテリアルを奪い去り、地上から人の声は本当に絶えた。
「……ユーシュリカを……殺した」
ありとあらゆる、何十億もの全人類が持つイド・マテリアルを底の底までかき集め、その力を一身に宿していくジャスティは、伏せていた目を幽鬼のように上げる。
「正義も……悪も……もうどうでもいい」
びしり、と亀裂が走るような音とともに、左半身でとどまっていたアンクトゥワの肉体がジャスティの背中へと侵食を再開――否、自らの意志で操作し、鎧として纏っていく。
流れ尽くした。枯れるまで。悲嘆も、絶望も。
そして残ったのは。
「――デイ……ライズ……!」
その銀の瞳からは、澄み切ってすら見える黒き光が燃え上がり――ジャスティは夜を仰いで咆哮を上げた。
激情も、喪失感も、たった今感じている何もかもを、夜空の果てまで。天へと還った少女にまで届けるかのように。
背中からは黒い片翼が伸び、剣からはあふれんばかりの黒の奔流をたたえて飛び立つ。
雲を切り裂き、向かうは先の先にある峰。奥にそびえる、美しき紫結晶の城へと。
――そして星が巡り、また昇る。常闇を千々に引き裂く、太陽よりもなお熱く眩しい、金色の星が。
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