三十三話 ユーシュリカ

 半日ほどが経過し、ジャスティは広場に引き出された。そこにはまだアンクトゥワ化していない人々が集まり、ジャスティを見るなり口々に野次を飛ばし、石を投げつける。


「最後の時だ、勇者様。あんたの死をもって古き正義の時代に終止符を打つ。その尊い生贄になるんだ」


 ジャスティは十字架の形に立てられた板切れにはりつけにされ、両手両足を縄できつく縛られる。

 ここは刑場だった。ジャスティという正剣の勇者を、終わらせるための。

 今は午後くらいだろうか――傾いている太陽が、閉じ込められていたジャスティの目には眩しく、風は生ぬるい。この斜陽が、今生に見る最後の太陽となるのだろう。

 もう数刻もすれば、星の裏側に回っていた明けの明星が、またこちら側に顔を出すはずで――どういうわけか、その下で死にたくはなかった。悪に屈したようだから。


「何か言い残す事はあるか?」


 処刑人が厳粛な面持ちで告げる。今さら語るべき案件も、残す言葉もない――とうなだれかけて、ジャスティは思い直した。

 約束したではないか。もう少しだけ頑張ると。自分が信じた正義であると。


「みんな……正気に戻ってくれ。セーフティを取り戻すんだ」


 潰れた喉からしゃがれ声を絞り出すと、群衆からは怒声と笑声が半分半分に発せられる。


「……悪なんかに負けてはダメだ! 守りたい人や、平和な頃を思い出して! アンクトゥワになっちゃいけない……正義はまだここにあるんだ!」

「黙れ、たわごとをぬかすな!」


 横合いから処刑人が血錆の浮いた斧で殴りつけてくる。人々は笑い転げている。だが。


「俺が死んでも、正義は死なない! 必ず新しい正義が芽吹いて、悪を倒す! だからそれまで、みんなも頑張るんだ! 耐えて耐えて、それでもダメなら勇者になって……誰か一人の、かけがえのない思いを守るんだ……!」


 気づけば、ジャスティは正義とは関係のない事を口走っていた。どうしてだろう。あれだけ頭の中を占めていた正義の代わりに、誰か――そうだ、銀髪の少女の姿が映っていて。


「ああ……そっか。俺も、最後の最後で、正義以外の、ものを……」


 涙が一筋、こぼれた。恐怖からではなく、どこか安心を覚えたからだ。

 なら、もういいか。奮い起こした気力が尽きる。勇者として処刑されるのなら、最低限正義としてじゅんじる事はできるだろう。後悔はない。

 正義にも悪にも拘泥こうでいするのは、ひどく疲れた。がんじがらめな生き方だったかも知れないが、ようやく解放されるのだ。

 傍らで、処刑人が斧を振り上げ、それをジャスティの首もとへ振り下ろす――。


「……ユーシュリカ……」


 その時だった。


 群衆の幾人かが空を指差し、あれはなんだと声を上げる。処刑人もあっけにとられたように寸前で手を止め、夕闇の迫る西の空を見上げていた。

 ほの暗き闇を背負うようにして宙に佇む、濃い赤で縁取られた銀白の羽根を持つ、人間に似た異形。

 裸体のような細い身体のラインを持ちながら、その肌は闇が形を取ったかのような漆黒で、首から足までが十字のような青い帯が走っている。けれど四肢の先端は白い手袋やブーツが装着され、顔には丸い曲線を描く雪をかぶったかのような白い仮面が張り付き、さらに頭部には湾曲してねじくれた赤黒い角が象徴のように二対、生え揃っていた。

 それは空中で静止し、翼を一つ、波打たせるようにはためかせる。


 その出で立ちは、さながら――。


 天使、と誰かが呟き、いや、と誰かが首を振って否定する。

 なるほど一見しては不純物のない、神を奉ずる名画の中から現れたかのような美しさすら感じ取れるだろう。

 だがあんな――白く神々しいパーツと妖しくどす黒い肢体が渾然一体と同居したような、名状しがたい災禍めいた容姿の天使がいてたまるものか。


「あれは、アンクトゥワか……? それにしちゃ妙な雰囲気だが……」

「へへっ。おおかた、勇者の処刑を一目見たいがために駆け付けて来たんだろう」


 緊張の解けた群衆が再びざわつこうとした、刹那。

 広げられたアンクトゥワの翼に、何点もの赤い球体が集束し始め――そこから無音で発射された赤い光線が、処刑場となっている広場へと雲霞うんかの如く降り注がれたのである。


「な、なんだ……こ、攻撃してきたぞ!」

「ひぃ……に、逃げろ! 殺されるぞ!」


 たちまち大混乱に陥る群衆。雨あられと降り続ける光線から逃れるように我先にと押し合いへし合い、地面に穿たれた無数の穴に足を取られながらもちりぢりに逃げ出していく。


「貴様ァ……神聖なる儀式を邪魔立てするとはどういう了見か!」


 距離を取って処刑を観覧していたアンクトゥワ達もおり、怒号を上げながら一斉に飛び立っては人型のアンクトゥワへ襲いかかる。

 しかし千は下らない数のアンクトゥワ達は、全方位へ放たれた網目状の赤い閃光に撃たれて瞬時に戦闘能力を殺され、ゴミのようにはらはらと地へ落下していった。


「た、助けてくれぇ!」


 逃げ惑う人々の真ん中へ、その人型のアンクトゥワは着地する。

 なおも光線は乱舞し、家屋を砕き、地面を斬り裂き、次第に夜のとばりに包まれるはずの村は真紅の極光にさらされ続けていた。

 ジャスティは自身の身体が十字架の柱より解き放たれている事に気がついた。すぐ側を通り過ぎた赤い光線が偶然縄を撃ち抜き、焼き切っていたのである。

 ともすれば闇へ沈みそうになる意識を叱咤しったし、唯一言う事を聞いてくれる右腕を支えに、顔を上げた。

 襲っている。アンクトゥワが、人々を襲っている。

 さっきまで腹をよじって笑い、ジャスティの死を楽しみに待っていた彼らが、あらん限りの恐怖を押し出してわめいている。


「どう……して……」


 どうしてこんなひどい事が許される。なぜ正義は悪を罰しない。

 ジャスティは近くを逃げていった兵士が取り落とした剣を目に留めると、それを右手で拾い上げ、膝に力を込めて立ち上がろうとした。

 たたらを踏みながらも一歩、前へ踏み出そうとして――足が止まる。


 ――待て。今お前は、何をしようとした?

 決まっている。襲われている人達を助けるのだ。

 ――奴らはお前を殺そうとした。狂熱にあてられた醜い顔を、声を、もう忘れたのか。

 だけど、戦えるのは自分だけだ。勇者ならば、なおのこと。

 ――お前はもはや勇者ではない。他人を助ける義務などないはずだ。

 義務ではない。勇者であろうがなかろうが、人としても当然の事じゃないのか。

 ――逃げろ。逃げてしまえ。今ならまだ間に合う。命は惜しいだろう。

 命は惜しい。間に合うと言われれば逃げてしまいたい。

 ――道義も道徳も殺された。何をしようと、連中に美徳の光が戻る事はない。

 何の見返りもないかも知れない。無意味かも知れない。……そんな事は理解している。

 ――絶望はもっともだ。だからお前はもう、自分のために生きるべきだ。

 自分のためだけに生きて、それでどうなる。何を得られる。……それで本当にいいのか。

 ――それがわずかな時間だとしても。それが今の正しい生き方だ。

 正しさとは、誰かが決めるものじゃない。

 神も、世界も、それを決めていい権利はない。

 信じても、祈っても、どこにも正義がないというのなら。

 ――指標は消えた。神は正義を捨て去った。

 それでも、それでもまだ。


 お前の心に、正義の炎は燃えているか。


「消せはしない……嘘はない……虚飾はない。ただそこにあるんだ……湧き上がって来る……この思いが! だから――だからっ!」


 ジャスティは剣を握って走り出した。正剣ではない。正魔法もない。相手は相当の強敵だろう。

 関係なかった。この手に剣がある限り、ジャスティは正義を振るうのだ。


「――うおぉぉぉぉぉぉっ!」


 倒れ込むようにしながら懐に構えた剣を握りしめ、ジャスティは一心にアンクトゥワへ突き出した。

 こちらの鈍い動きなど見えているはずなのに、どうしてかそのアンクトゥワは避けもせず、真正面からその切っ先を――急所と思われる、胸の中心へ受けていた。


「あ……?」


 がくり、とジャスティもバランスを崩し、半ばそのアンクトゥワへもたれかかるように二人して地面へ倒れ込む。

 銀白の羽根が何枚か、花びらのように散った。

 もう周囲には人の影も声もなく、静かな夜陰だけが人の歴史に幕を下ろそうとしている。

 そして、ジャスティは息のかかるような目前で、アンクトゥワの仮面が剥がれ落ちていき――浄化もできないのに、その姿が人のものを取り戻そうとしている事を認めて。


「え……」


 アンクトゥワの身体を背中まで貫いた剣の柄を凍り付いたように握ったまま、呆けたような声が出た。


「……さ、さすが、ですね……ジャスティ」


 その白い仮面の右半分が剥がれて――あらわになったのは、見覚えのある少女の顔。

 つい数刻前に話して、別れたはずの……はずの。


「あなたなら、きっと……こうしてくれると、信じていましたよ……」

「ユーシュ……リカ……?」


 はい、とその少女は――ユーシュリカは口元から血を垂らし、穏やかに微笑んだ。


「なんだ……え? なに……これ……!」


 全身の血流が動きを止め、意識が遠くなりかけ――反射的にジャスティは叫んでいた。


「何してるんだよ……ああ……剣が……刺さって……っ! くそ、この、引き抜かないと――なんで、なんで抜けない!」


 深々と貫通した剣にいくら力を込めても、金属でも流し込まれたみたいにびくともせず、代わりに元の神官服へと戻ったユーシュリカの胸元が、赤く黒く、染みを広げていく。


「これで……これで、いいんです。これで……」

「なんで……どこがいいんだよ! 早く、早く手当てを……治癒魔法を!」


 その時、ユーシュリカの身体が淡く、白い発光を始めた。いまだ出血は止まらず、刻一刻と死へ近づいているのにも関わらず――がたがたと震えるジャスティの両手を、温かい自らの手で覆う。


「ジャスティ、聞いて下さい……大事な話なんです」

「なんだよ、ユーシュリカを助ける事以上に大事な事なんて――!」

「正剣……正魔法には、隠された機能があるんです……ごほっ、ごほっ……うぅっ」


 ユーシュリカが苦しげに吐いた血糊が、瞳を危うげに揺らすジャスティの頬へ飛び散る。


「反動を除いて、使い手である勇者が生命の危機に瀕した時……正剣は周辺一帯の生命体からセーフティを吸収し……それでも足りなければ、生命力までをも吸い上げるのです」

「なに……なに、それ。俺、知らない……っ」

「放っておけばその範囲は星のどこまでも広がり、際限なく――だからこれまで勇者が負けた事は一度もないのです。その代わり無差別に、勇者の関係者であろうがなかろうが、効果範囲にいる者は例外なく……」


 どうなるか、散々反動に悩まされて来たジャスティに分からないわけがない。

 もしその能力が発動し、命の限界を超えて吸収が続いたら――その末路は言うまでもない。


「私の母は……勇者でした……血のつながりはなくても、愛していました。でも、母は娘を――私を守るために戦って、けれど、そのせいで近くにいた私の命まで吸い上げてしまう事に気がついて……敵ごと、自分を滅し……命を落としました」

「そん、な……」

「でも、それも微妙に間に合ってなくて、私の寿命も、十年程度にまで縮まっちゃっていたんですけど、ね……」


 ユーシュリカは血を流し続ける。けれどそれほどの昔から自らの終わりを悟っていたせいか、どこまでも落ち着いた物腰で語り続けた。


「ジャスティ……あなたは、死にかけています。でも、この力があれば……きっと、生き延びられる」

「死にかけてるのはユーシュリカの方だよ! それに、今さら正魔法なんて……っ」


 いえ、とユーシュリカは無理をしたように微笑みを作る。


「できるんです……デイライズから与えられた、宵の明星……あれは、あなたの力を抑制させ……私の中に封じ込めるための悪魔法。……でも、こうしてあなたが、半分だけアンクトゥワになった今なら、抑制されていた二回分の力を、そのまま返せます……!」


 ユーシュリカが激痛に耐えながら意識を集中すると、いつか二度だけ見た、あの青白い光が――剣を通して、ジャスティの方へ移っていく。ジャスティのセーフティではなく、アンクトゥワとなったエゴの部分をつなぎとする事で。

 明け渡された力は、ジャスティの内側で点火し、やがてほとばしる潮流となる。


「私の力も、命とともに受け渡しました……全盛とは、いかなくても……これで、多少は」


 多少どころではない。デイライズによって最初のアンクトゥワ――それも神魔法の使える特別なアンクトゥワにされたユーシュリカの、生命そのものがジャスティへと宿り、死にかけていた細胞の一片一片が息を吹き返していくのを感じる。


「ああ……これでいいのです。悔いは……ありません」


 無事に受け渡せた。これでやるべき事は全て終わった。

 背筋から四肢まで脱力するユーシュリカの脳裏で、過去の記憶が呼び起こされる。

 母が死んで、余命十年という宣告もなされ、ユーシュリカは心にどんな魔法でも癒えぬ傷を刻印された。

 その一方で母に憧れ、遺志を継ぎ勇者となるために脇目もふらず修行へ励み、誰よりも強くなろうとした。

 だが裏を返せばそれは、死への恐怖を押し隠し忘れようとしたに過ぎず、恵まれたセーフティと信念の一角を阻害する逃避に他ならない。

 結果として二年が経過しても、その無意識の部分は克服できないままで――ユーシュリカはしてはならない過ちを犯した。


「だからジャスティもどうか……最後まで……」


 これは、その償い。ユーシュリカが唯一、ジャスティにしてあげられる事。

 そう思ってまぶたを閉じようとした時――ぽたり、と重なった手の甲に、熱く冷たいものが落ちた。


「ジャス……ティ……?」


 うすぼんやりとした視界。そこに映り込むジャスティは――泣いていた。

 目尻からとめどなく大粒の涙を流し、その滴がぽたぽたと、剣の柄を糸のように伝っていく。


「ジャスティ……どうか、しましたか……? どこか、痛いのですか……?」

「もう……っ、分からないよ……! 正義って……なに? なん、なの……?」


 ジャスティ、とユーシュリカは虚ろになっていく意識とは裏腹に、優しげな笑顔を浮かべて、そっと重ねていた手をジャスティの頬へと伸ばし、触れる。


「私は……絶対なる正義を、探していました……」

「絶対なる、正義……?」


 怯えた子供のように繰り返すジャスティに、ユーシュリカは安心させるように微笑みを投げかけ続ける。


「私も一度……正義を見失って。でも、きっとどこかにある、って信じていて……それこそが勇者の資質なんだろう、って思ったから……ジャスティにそれを期待していました。何にも負けない、デイライズにだって負けない、一番強い、星のように輝く正義を……」

「一番強い、正義……」

「けれど……あなたとともに旅をする内に、気づかされたんです。私はそれまで、正義をずっと自分以外の、他者に求めていて……いつの間にか、自分の可能性を捨てていました。そんな事で……自分でも分からないのに、そんなものが見つかるわけがなくて。――ううん、始めからないと分かっていて、ずっと目を逸らしていたんですね……だから」


 後半は独白のようだったが、ジャスティは瞬きもせず、今にも命の灯火が消えかけるユーシュリカを見つめている。


「分からなくていいじゃないですか……それが、きっと普通なんですよ」


「ユーシュリカ……」

「醜くても……弱くても……あなたが良いと信じられるものならば。……それがあなただけの、ただ一つの正義……」


 もう温度も感じられないが、ユーシュリカはただ一滴だけ、右目から水なのか血なのかも分からない水滴を流して。


「だから私は……それでもあなたは負けないんだって……やっぱり頼っちゃうんです。ごめんなさい。……最後まで……こんな……わがままを言ってしまって……」


 ああ。かなうのなら、どうか。あと、一言だけ。




 ――どうか。弱い私を許して下さい――。




「ユーシュリカ……? ねえ、ユーシュリカ……っ?」


 腕が落ちた。ジャスティが何度呼び掛け、揺すっても、ユーシュリカは反応を返さずにただ銀の髪が左右に振られて――次いで、ユーシュリカの胸から剣がずるりと抜ける。

 ジャスティの腕の中からユーシュリカの重みが消えた。その身体は白い粒子となって夜気へ溶け――ぬくもりも残さず失われてしまう。


「あ……ああ……ぁあああああ……あああああああああぁ……っ!」


 慟哭が黄昏をはしり――そして夜がやってくる。


 星の大河が天を渡り、そのただ中でジャスティは血がにじむ程に拳を握り、少女の名を何度も叫び、泣きじゃくりながら呼び続けて……それでも応える声はなかった。

 するとジャスティの体内から何本もの刃が肉を裂いて顔を出し、いまだ握ったままの剣をめがけて腕を駆け抜ける。そうして剣へ重なり、融合するように溶け合って――。


 現れたのは、正剣とは似ても似つかぬ闇色の翼を模した剣。


 夜の名を冠する、神の剣。


 ――『夜剣ユーシュリカ』。

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