三十二話 別れ
ジャスティは暗所で目を覚ました。まだ命がある事に若干ながら驚き、どこか狭い、牢のような建物の中にいる事を見て取る。潰れたように腫れ上がり、少し動かせば血のあふれてくる目元だが、その程度の視野はかろうじて保てていた。
それから壁にもたれるようにしている己の身体を眺める。気休め程度に骨のつながっている右腕を除けば、後は感覚すらない。あれだけ痛めつけられたのだから、あばらや内臓器官も無惨な損傷を受けているだろうが――痛みさえとうに麻痺し、意識の外にあった。
動けない。だから鎖でつながれてすらいない。
――だからどうだというのだろう。
ジャスティのして来た事は無に帰した。正義とは幻であり、守り抜こうとした世界は目の前で崩れ去った。だからここで終わり。もうどこにも行く事はなく、その意味も意義も失われている。たとえ足が言う事を聞こうと、ジャスティが立ち上がる事はないだろう。
いや――ひょっとすると、ジャスティという人格そのものは八年前のあの日に終わっていたのかもしれない。ここにいるのは理想へ少しでも寄せようとした、その残骸。
今では抜け殻も同然。熱くたぎっていたはずの血液の代わりに虚無が、強く力を送り出してくれた心の臓の代わりに空虚が、今のジャスティが感じる全てだった。
ただ呼吸だけをして――それも無意味と、目を閉じようとする。
暗幕が視界に垂れ込め、意識が遠ざかろうとした時、ふと自分を呼ぶ声がした。
「ジャスティ……ジャスティ……っ」
うっすらと、遠のきかけた暗い景色が戻って来る。
聞き覚えのある声だった。右腕を杖代わりに壁へすがり、身を起こすと勝手に腹から駆け上がった鮮血が口の端からこぼれる。
「ユーシュ……リカ……?」
牢の窓に四角く切り取られた窓越しに、ユーシュリカがいた。外にある路地の様子も見られるようだが、ここがどこだかは判別がつかない。視覚の情報から分かるのはせいぜい、ただでさえ狭い視界を阻もうと凝る闇――今が夜だという程度だけだ。
「ジャスティ……なんて、傷だらけに……ああ、ひどい……」
「ユーシュリカ……無事だったんだね」
かすれた声でなんとか絞り出すとユーシュリカの表情が悲哀を帯び、直視できないというように逸らされる。
「どうして……どうして私なんかの心配をするのですか!? 私はあなたを裏切った……いいえ、事の始まりから裏切っていたというのに……約束も全部破って、のうのうと今も生きているというのに……」
「それでも……安心した」
腫れた顔が痛みを主張するのも気にせず、ジャスティが笑いかけると、ユーシュリカは唇を引き結んでうつむいてしまう。
「だから早く、逃げた方がいいよ……どこか、安全な場所へ」
「そんなもの、もう世界のどこにもありません……っ。何もかも、終わってしまったんです……私のせいで。私が、デイライズなどを生み出してしまったせいで……!」
それだけど、とジャスティはかすかに残っていた疑問を、ユーシュリカにぶつける。
「一体……何があったの? 俺さ……ユーシュリカが、望んでデイライズなんかを生み出してしまうようには、やっぱり見えないんだ。……八年前、だよね?」
ぴくり、とユーシュリカの肩が震え、垂れてきた前髪が目線を隠す。
「……八年前。私はサン・ルミナスの神官達とともに……試練の山へ挑んでいました」
――大司教ローデルタと、選び抜かれた精鋭達。その中には当時、十歳ほどだったユーシュリカも随従していたのだ。
幼くして司教にも劣らぬセーフティ、そして優秀な魔法の才能を持ち得ていたユーシュリカは、正剣の勇者候補筆頭とされていた。
ゆえにローデルタによって選ばれるのは必然であり、彼女自身もまた、勇者になるべく厳しい稽古を積み重ね、試練の山を大きな決意とともに歩みを進めていたのだった。
だが、試練は彼女の予想を根底から覆す程に
足を踏み入れた時には百名いたはずの仲間達は、気がつけばローデルタと自分を含め数える程しかいない。日を追う毎に絶望はその色を強め、いつ己にも死という終焉が降りかかるか分からない――それは意志力を根こそぎとするには充分すぎる環境だった。
仲間を一人ずつむごたらしく屠る醜怪な生物達の前で、限界を迎えたユーシュリカはあろう事か役目を放り出して駆け出し、道を外れてさらに山の深い所まで迷い込んでしまう。
「助けて……誰でもいいから助けて! 私をここから出してよ、お願い、誰かぁ……っ!」
喉が潰れるほどに意味のなさない声を張り上げて、足も腕も疲れ果てて逃げ込んだ場所。
そこには一つの祠があり、無機質に閉じた古びた扉があった。ユーシュリカはよろめきながら扉を叩き、中にいる――いなくてもいい、とにかく心中より湧き上がる恐怖を叩きつけるように叫んでいた。
「助けて! ねえ! 誰かいるんでしょう、ここを開けて! もう嫌なの、ここは嫌ッ!」
瞬間、頭の中に声が響いた。冷静であればすぐにそれと分かる神聖な、女性の声。
――正義にすがってはなりません。あなたの本当の強さを、どうか見せて下さい――
「うるさい! 正義なんてどうでもいい、いいから早くここを開けてよッ! 開けろッ! 奴らが来てる……私はまだ死にたくない、死にたくないの! 私だけは助けて、お願いだから早く、早く早く! ――うぅ……あああぁぁぁあああっ!」
金切り声を上げ、手の皮が裂けるのも構わず扉を叩き続けると――祠の中から目もくらむ程の光が発された。
仰天して尻餅をつき、呆然と見上げた先には――黒ずくめの麗人。
正義と悪がないまぜになったような金色の目。
ユーシュリカはその瞬間、かの者こそが待ち望んでいた、忌まわしい神そのものなのだと、打ちのめされるような実感とともに魂から理解した。
「……いいだろう。そのエゴ、私が聞き入れよう」
その者――デイライズは追っ手の怪物達を腕の一振りから発せられた黒の風で薙ぎ払うと、おもむろに中天へ黒き太陽を作り出し、アンクトゥワを世に知らしめた。
「サンティーネになどすがろうとする愚者どもめ……ここよりはるか下の地上にも集まっているな。まとめてアンクトゥワと化すがいい。――だが、うん? ……一人だけ生き残った者がいるぞ。なるほど、これは楽しめそうだ……」
それからデイライズはユーシュリカを見下ろし、嘲弄するような笑みを唇へ張り付ける。
「そしてお前には私のしもべとなり命を捧げてもらうぞ……それが願いを叶えた対価だ」
「わ、私はそんな、あなたのような邪悪の言う事なんて……っ」
「はは、これは傑作だ! 喉元過ぎれば、というやつか? よくのたまえたものだ……」
デイライズは片膝を突いてかがみ込み、ユーシュリカの顎を指ですくい上げた。
「だがあいにく、お前の内面には私などよりはるかに深い業の根が張られている。決して拭えぬエゴ……それがある限り、私の命令には逆らえない。――さあ、始めようじゃないか。世界を正しく導くための計画を……な」
「……その日から、私はデイライズの言う通りに動く事になりました。使命を果たせなかった事で破門されましたが、デイライズとの契約は押し隠して……その上で何食わぬ顔で教会を出て、数年後に現れる正剣の勇者――あなたを騙し、アンクトゥワを倒させて、機を見てデイライズの元へと連れて行く……」
ユーシュリカは顔を覆い、銀の髪を左右に振って涙ながらにしゃくり上げる。
「――分かったでしょう? あなたをそんな境遇に追い込んでしまったのはこの私! 大事な家族も、夢も、希望も、全て奪ったのは私なんです! あなたは私を憎んでいい……死ねというなら、この場で命を絶ちます。それがせめてもの、償いとなるのなら……っ」
「そんな事、言わないよ」
ジャスティが静かに答えると、ユーシュリカは涙で充血した目を見開いて見返してきた。
「なぜなんですか……!? 生きて償おうにも、もう世界は……!」
「世界は関係ないよ。ただ俺は、ユーシュリカが苦しむところを見たくないから。自分で死を選ぶなんてそんな事、おかしいよ……」
「……何の罰も受けずにこうして生きている事の方が、よほど私には辛いです……」
悲しみ。自己嫌悪。迷い。それらが渦を巻くように、ユーシュリカは歯の根も合わせず震えている。そこにジャスティは、ゆっくりと語りかけた。
「……確かに、ユーシュリカがデイライズを作り出してしまった事は、もう消せない。でもユーシュリカは、その事を後悔して、反省してるから……責めたりもしないし、償いを求めもしないよ」
「どうして……この期に及んでもあなたは、正義なんかを貫こうとしているのですか!?」
「というか、俺にはそれしかないんだ。他のものは、何もない……正義だけが物事を見る指針で、それがなくなるなんて考えもしなかった。今でも実感がない――身体の中が空っぽになったみたいでさ。五感も、感情も曖昧で……」
ジャスティは茫漠とした眼差しで手首から折れた左手を鼻先まで持ち上げた。液状化したようなイド・マテリアルは、ぐつぐつと煮込むかのように骨の髄まで侵食を続けている。
「ジャス、ティ……」
「だけどね。きみがとても辛い目に遭った事だけは分かったから。元気づけてあげたいと、俺は思ってる。……凄く苦しかったはずだよ、今まで」
あの時も。あの時も。
一つ一つ思い返せば、確かにユーシュリカの行動や言動には不審な点がいくつかあった。そのほとんどは恐らく、デイライズの思惑通りに事を運ばせるための布石だったのだろう。
けれど、ジャスティにはただユーシュリカが自分を騙していただけとは、どうしても思えないのだ。
それどころか逆にこうなる結末を見越して、思いとどまるよう幾度もジャスティをなだめていた節もある。――これは、ユーシュリカの中でも身を切るような葛藤があり、弱い自分を
そしてその度に拒絶され、ひたすらに正義へ突き進むジャスティを後ろで見守るしかなかった心境はいかばかりか。
「デイライズの命令に従うのにも、俺やみんなに嘘をつき続けるのにも、苦悩しない時はなかったはず。だって俺が同じ立場なら……そう思えるから」
ユーシュリカは何かに打たれたように硬直し、涙を流すのをやめて呼吸もせずにジャスティを見つめ――その一言一言を聞き逃すまいとしている風だった。
「俺は、許す。剣はなくなっちゃったけど、まだ正剣の勇者で、ユーシュリカは大切な……パートナーだから。約束も……まだ果たせてないからね」
「でも、私は……その約束を一方的に破ってしまいました」
「一方が破ったからって、もう一方も約束をご破算にする、って事はないと思う」
ジャスティは
「ユーシュリカが約束を大切なものだと考えてくれているなら……俺もがんばれる。もうちょっとだけ、正義でいられると思うんだ」
「ジャスティ……」
ユーシュリカはそっとまぶたを閉じた。そこから涙が一筋だけ流れて――止まる。
「……あなたの事は、忘れません。私も……生きてみます。何ができるかは分からないけれど、また一番大事な一瞬で間違えてしまうかも知れなくても……それでも、最後まで」
「うん……それでいいと思うよ。道は分かたれても、お互い、がんばろうね」
はい、とユーシュリカの頬にはぎこちなくも、それでもかすかな微笑みが浮かんで。
「……さようなら、ジャスティ」
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