三十一話 逢魔が時
「ああ……ああああああ……! うああああああ……っ!」
「ふふ……壊れてしまいそうか?
「やめろ……やめてくれ……ああ……俺、俺は……!」
デイライズを振り払うようにして立ち上がったジャスティは、ふと思い出した。こういう時真っ先に駆け付けてくれて、そして側で共に悪へ立ち向かってくれた存在を。
「ユーシュリカ……ユーシュリカは、どこ? 探さなきゃ、ああ……!」
「ユーシュリカ……? ああ、彼女ならさっきからずっといるぞ。ほら、そこに」
デイライズが振り返り、ぱちんと指を鳴らすと、路地裏の角からうつむきがちに、ユーシュリカが歩み出て来ていた。
暗く淀みきった目をしたジャスティは、それでも表情を軽くして、弱々しく呼び掛ける。
「ユーシュリカ……!」
「ああ、いやしかし、無念な事か、今の彼女はお前には近づきたくないだろう……」
「な……なに? どういう事だ……ゆ、ユーシュリカ……?」
いくら呼んでも、ユーシュリカは答えず――少し距離を取ったデイライズの隣まで、ふらつく足取りで近づいて行く。
その光景はジャスティにはおよそ理解しがたいものだった。
「ユーシュリカ……何、してるの……? そいつは――そいつは敵なんだぞ……!」
「シャイな子だ……代わりに私が紹介してあげよう。ここにいるユーシュリカは私の忠実なるしもべ……お前をここまで導いて来た、裏切り者だ」
ぐら、と視界が斜めに傾いた。頭が痛い。吐き気がひどい。めまいがする。
普通ならすぐにありえないと斬って捨てられるセリフなのに、弱らされた今となっては、冗談とも本気ともつかないような一言にこうも容易に揺さぶられてしまう――。
だが、違う。違うに決まっている。ユーシュリカが、そんな。
ほら、今もこうやって脳裏を、二人の旅路が、走馬燈のように駆け巡って――。
「……ごめんなさい、ジャスティ」
なぜ。どうして謝る。意味が分からない。話が通じない。デイライズか。デイライズがユーシュリカに何かしたのか。そうに決まってる。ジャスティのように、卑劣なやり方で心を縛って、壊そうとして――。
「彼女こそ、私をサンティーネからデイライズへ変化させた張本人。そして私に忠誠を誓ったのだ……正剣の勇者に復活のためのエネルギーを溜めさせ、ここまで案内するように」
「嘘、嘘だ、嘘……嘘だよね、ユーシュリカ……なんで何も言わないの……?」
その時、デイライズがやにわに腕を伸ばして、ユーシュリカを抱くようにコートの中へ誘い込む。それだけ密着させられても、なすがままに抵抗の身じろぎ一つしない。
「……ユーシュ……リカ……」
「私はユーシュリカに力を与えた。それは万が一のため、勇者の正魔法を封じるための魔法――宵の明星という代物だ。状況に応じてアンクトゥワと戦わせ、私の正体を察知しないよう気を逸らして誘導し、必要に迫れば
この村での出会い、アーネスト市の戦い、王都での戦い、そして教会においての戦い――これらは仕組まれていたものだった。
他でもないユーシュリカによって、効率よく巨大なエネルギーを吸収できるよう、
思えば、王都でデイライズと遭遇した時――あれすらも、茶番に過ぎなかったのだろう。
ジャスティにしてみれば三対一でデイライズを追い詰めていたはずが、その実はまったくの逆。サンティーネは幻影であるから言わずもがな、ユーシュリカもまたデイライズに被害が及ばないよううまく戦いの調整を行っていた。あの時点ではどうあっても、ジャスティがデイライズを討つ事はおろか、その目的を妨害する事すらかなわなかったのだ。
「これで分かってもらえたかな? ユーシュリカはお前のパートナーでもなんでもない。言ってみれば、滅びへの引き金を引いた――」
デイライズのセリフを遮るようにして突然ユーシュリカがうめき声を上げ、その身体を押しのけるようにして身を翻し、通りの向こうへと走り去って行ってしまう。
「おやおや、私もずいぶんと嫌われてしまったようだ……」
「ユーシュリカ、待って……話を、聞かせてよ……」
伸びた手は、力なく垂れる。ジャスティは力尽きたように膝を突き、その瞳はもう何も映し出さない。
――ほどなくして、その肉体は変容を始めていた。
「俺は……一体……なんだったんだ……何のために……ここまで……」
ごぼり、と異音。
見れば胸からは血糊の代わりに、黒い液体のような泡が漏れ出し、ごぼごぼと溜まりのように広がっていく。
手で触れると、その指先にも付着して、同じように手のひらから手首にまで侵食を始めていた。
「最後の堤防はあえなく決壊し……すでにしてお前のセーフティは無防備も同然。八年前から止まっていた時が動き出すように、その身をイド・マテリアルが食らい――後は堕ちるのみ」
液体に覆い込まれていくジャスティを、とろけるような喜悦の笑みを浮かべたデイライズがねめ回す。液体はジャスティの左半身に固着し、その肉体を人間以外のもの――アンクトゥワへと作り替え続けていた。
「残りかすのようなセーフティなど打ち捨て、甘い絶望に――砕けて溶けろ」
舌なめずりするようにデイライズが言った直後、そこかしこの通りから千鳥足の村人達が現れる。皆身体からイド・マテリアルを噴き上がらせて、意識も
「なんだ、あれは……勇者様が――あ、アンクトゥワに……?」
「ち、違うんだ……これは……」
振り返り、弁明しようとするジャスティだが、それ以上言葉が続かない。
「もう、おしまいだ……みんなアンクトゥワになって、世界は滅ぶんだ……!」
「ちくしょう、何が正義だ……! 結局、クソの役にも立たなかったじゃないか!」
「俺は知ってたんだ……いくら正義正義と息巻いても、現実は何も変わらないって。みんなもそうなんだろう……? 本当は心の底で、正義なんかこれっぽちも信じてなかったんだろう……?」
ジャスティは弾かれたように立とうとするが、左半身が言う事を聞かずに崩れ落ちる。
「ああ……そうなんだろうな。神も勇者もクソくらえだ、こんな事なら最初からアンクトゥワになっちまえば、苦しまずに済んだはずなんだ!」
「正義なんてのを標榜したところで、そいつを大義名分に、今度は勇者や教会が俺達を苦しめるようになる。なら支配者がデイライズだろうが誰だろうが変わりはしないじゃないか……」
「みんな見てくれ! 俺はたった今アンクトゥワになった! とてもいい気分だぞ!」
一人がアンクトゥワ化したのを皮切りに、薄ら寒い笑い声が上がり始め、次々と触発されるようにアンクトゥワが生まれ始める。
「正義なんてのはろくでもない! 俺達を弾圧し、見下すだけの代物だ! 俺達は弱い人間に過ぎないから……だったらもう、悪でいいじゃないか! 悪こそが力をくれる! 悪さえあれば、俺達一人一人が前へ進み、上を目指せるんだ!」
「我慢して、抑え込むだけの日々がこれからも続くんなら……アンクトゥワになって一発当てるのも面白いかもな! アンクトゥワは平等に素晴らしい力をくれる、才能をくれる! 誰も彼も、馬鹿馬鹿しい正義に囚われる事はないんだ!」
「セーフティなんてクソったれ! 俺達は新しく生まれ変わるんだ!」
周囲にはまともな人間はおらず、全員がアンクトゥワで、別の道から姿を見せるのもアンクトゥワ、アンクトゥワ、アンクトゥワ――ジャスティの中で、八年前の惨劇がフラッシュバックする。
「ああ……ああああ……あああああ……ッ!」
「素敵な情景だ……そうは思わないか? 私はこのタイミングを待っていたのだ……これまでに黎明の軍を率いて各地を襲撃していたのも、比例するようにお前の名を轟かさせていったのも、全ては潜在的に、人々に正義と悪が行き渡るのを待つためだ。その上で劣勢を演じ、後少しで勇者が勝利する、という場面で逆転して見せれば――この通り」
アンクトゥワ達は憎々しげにジャスティを睨み据え、じわじわと距離を縮めてくる。
「やめて……ああ……来ないで……!」
「信じていたものに裏切られる。その絶望は底がない――積み上げて来た信念が破綻し、まるごと反転するほどに。いわば正義から悪へと転落……いや、昇華されるのだ」
天地が逆さになる感覚。それをたった今ジャスティも味わった。ならば勇者が敗北するという事態を目の当たりにした人々の怒りと絶望は、どれほどのものだろうか。
「殺してやる……俺の期待を裏切りやがって! 殺してやるうぅあああぁぁぁッ!」
「勇者様、勇者様、勇者様、勇者様、勇者様……」
「アンクトゥワになった記念にぃ、まずは勇者様をぉ、血祭りに上げようっとぉ」
ほらほら、とデイライズがちゃめっ気たっぷりに手を打ち鳴らす。
「このままでは守るはずだった人間達に恐ろしい目に遭わされてしまうぞ? もたもたしていていいのか?」
「あ……あぁ……うわあぁぁぁぁぁっ!」
ジャスティは半ば恐慌状態に陥りながら壁に手を突いて無理矢理に身を起こし、通りをよろよろと駆け出す。
それを逃すまいと、足を踏みならしアンクトゥワ達が追いかける。
「殺せッ! 殺せッッ!」
「力がみなぎッてクル……コレがエゴの力……! 力――アアァアァァアアアッ!」
路地を何度も折れ、力の限りやみくもに走り続けたが――捕まるのは時間の問題で、別の通りに出た途端、ジャスティは飛びかかって来たアンクトゥワ達に組み伏せられた。
「死ね! 早く死ね! すぐ死ね!」
「お前が生きているのが耐えられないんだよぉぉぉぉ! お願いだから早く死んでぇぇ!」
乱暴に頭を掴まれ、壁や地面に恐るべき膂力で叩きつけられ、背中や腹部に容赦のない蹴りを入れられ、上から岩石のような腕で潰される。
身を守る動作すら許されず、ほんの明朝に心を一つにして誓い合ったはずの民衆に、陰湿な暴力を受け続けていた。
「正義って弱い! こんなに弱かったんだ! あっはははははははハハハハハハハ!」
「お得意の正魔法はどうした? 使えるモンなら使ってみろよ、ああァ!?」
暴行はおよそにして二十分弱に渡って続き――ようやくアンクトゥワ達が一息ついた時には、うつぶせになったジャスティの身体はところどころが不自然にへこみ、四肢は何段かに分けて関節部がねじ曲がり、先端からは骨が突き出ている。黒髪は血糊がまぶされて固まり、顔面は原形を留めていない。
身体の下からは血液が流れ出て粘性のある水溜まりのようになっており、アンクトゥワの幾人かは身を屈めてしきりにその血を舐めていた。
あたりは楽しそうな笑い声が断続的に響き渡り、もう悲鳴はどこからも聞こえなかった。
「私は何も支配しない。ただ一つだけの法を決めるだけだ……」
デイライズが腕を振るうと、マガト村の外――その南にあるトーレス山が鳴動し、地中から巨大な紫水晶の城がせり上がってくる。
それとともに、デイライズの身体は吸い込まれるように空へ浮かび上がっていく。
「法律は一つ――法を作るな、だ。くだらんモラルと秩序を捨て去り、本能に身を任せ、やりたい事をやればいい。力を振るうも良し、世界を滅ぼすも良し、我が元を
デイライズはマントをはためかせて空中を滑空し、一路居城であるパープルクリスタル・パレスへ向かい、その最上階へ舞い降りる。
天井も壁もない、玉座のみがある頂き。振り仰げば黄金の空には本体――明けの明星を思うさま観測できる。
デイライズは硬質な足音を響かせながら玉座の前へ歩き、ゆったりと腰掛け、足を組む。
「正義は死んだ。悪の夜明け、世界の夜明け、星の夜明け――さあ、誰も見た事のない新しい一日が始まるぞ。いつまでも、いつまでも続く楽しいパーティが」
誰にともなく語るデイライズの容姿が様変わりしていく。
一転して露出の増えたドレスのような衣装には白と黒の色が入り交じり、左頬には目元が覗く黒い仮面、髪には純白のティアラ。そして左目は金、右目は碧へとそれぞれ輝きを変える。
「さて、最初にここまで――
――こうしてその日、人類は滅亡した。
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