二十一話 闘神

 その部屋には不用心な事に鍵もかかっていなかった。聖堂内に不埒な真似をする曲者がいるかも知れないなど、ジャスティは思いもしていないのだろう。ユーシュリカはそっとドアを開けて身体を滑らせて入り込むと、後ろ手に閉めて小さく息をついた。

 ごくごく普通の客室。机に椅子、衣装棚、壁には絵画、奥には観葉植物にステンドグラスと、必要最低限ではあるが埃一つなく整えられた個室のベッドに、ジャスティは服も着替えず寝転がり、目を閉じていた。

 ユーシュリカが近づいても、すうすうと規則正しい寝息を立てているだけでこれといって目を覚ます気配はない。

 たまにむにゃむにゃと口を動かし、喉元から寝ぼけた声を漏らしている。身体や表情からは完全に力が弛緩しかんし、とてもよく熟睡している風。

 時折誰かの名前を寝言みたいに呟いているようだったが、聞き取れそうになかった。


「気楽そうで、無垢で、悩みなんかないみたい……でも」


 思慮深く、数手先を常に読んで動ける方ではないのだろう。だけど物事に対して愚直でお人好しで、突拍子のない行動でよく周囲の度肝を抜くけれども、それだって自分の中にしっかりと決まった正義にどこまでも忠実なため。

 その一方では怖がりで、まともな教育も受けておらず、成熟しているとも言い難い。正義が関わっていなければ年齢以上に頼りないのだ。だからこそ誰かが側で支えてあげなければいけないのだと、ここまでの付き合いでユーシュリカにもそれはよく分かっていた。


「本当に、無防備……」


 粉雪のように声を落とし、ユーシュリカは持ち上げた布の中身を少しずつずらしていく。

 衣擦きぬずれの音がして、布がはらりと床へ落ちた。

 手元に現れたのはずっしりと重く固い、刃先が湾曲したナイフ。柄は緑と金に縁取られながらも赤いクリスタルがはめ込まれ、じんわりとした光を放っている。


「……このままいけば、あなたはいずれ、行き場のない袋小路へ進む事になる……」


 ユーシュリカはナイフを両手で握り込み、その切っ先をジャスティの胸元へかざす。


「……その時に見せるであろう決断が……私は怖いのです。あなたの苦しみも、痛みも、悲しみも、私はきっと、見たくない――だったら」


 ユーシュリカは両手に力を込める。ぎり、と、指が白く、血管が浮くほどに。


「悪に侵され、その正義が曇ってしまうくらいなら。そうなるくらいなら……いっそ、今ここで」


 息が詰まる。腕ががたがたと、滑稽なくらい震えていた。視野がぶれて狙いがまったく定まらず、ナイフは頼りなく空を左右に泳いで。


「ここで私が終わらせて、そして永遠に――ッ!」


 悲鳴のような声が迸り、しゃにむにに力を込めてナイフを突き下ろそうとしたが――決心とは裏腹に、からん、と無機質な音を立てて、ナイフはベッド脇の床へ落下していた。


「――ああ……ダメ、できない……!」


 ユーシュリカはさめざめと両手で顔を覆い、嗚咽おえつを漏らす。ジャスティは煩悶はんもんするユーシュリカに気づいた様子もなく、ただ眠りの中にいた。


「私には……ジャスティの命を奪うなんて、できません……ローデルタ様――!」

「……そうか。失望したぞ」


 はっとユーシュリカが顔を上げると、後ろのドアから音もなくローデルタが踏み入って来るところだった。険しく目尻を吊り上げ、硬質な瞳の中にユーシュリカを映している。


「貴様ができぬというなら、そのナイフを渡せ。儂が代わりに手を下そう」

「い……嫌です。ジャスティは……殺させません」

「なぜそうもその勇者に肩入れする。正義は次の、もっと完璧な勇者へ託せばよい。それが我々が出した答えだったはずだ」

「ジャスティの代わりになる完璧な勇者なんていません! 彼は……彼は私に、絶対なる正義を見せてくれるんです! 何にも負けない、最強の正義をッ!」

「絶対なる正義だと……たわけが、まだそのような世迷い言を!」


 ユーシュリカは杖を構え、ローデルタと相対した。


「それに二人で、約束したんです……最後までともにある、と!」


 なんと言われようと、と一歩も退かぬ思いで睨み据え、声の限りに思いの丈をぶつける。


「ジャスティの命も、その正義も、全てジャスティだけのものです! あなたにもデイライズにも、それを刈り取る資格なんて、どこにもありはしな」


 寸時、予備動作すらもなく踏み込んだローデルタが腕を伸ばしてユーシュリカの喉を掴み上げ、そのまま部屋奥の壁へ叩きつけるように押しつけていた。

 ユーシュリカがうめき、力なく杖を取り落とす。


「貴様の戯れ言に付き合っている暇は世界のどこにもない。そこの狂人ともども、無間地獄へ落ちろ」

「ジャスティ、は……っ、狂って、なんかっ……!」


 ユーシュリカはあえぐように口を歪め、ローデルタの腕を握って外そうとするも、老人の二の腕は万力か鉄骨のようにびくともせず、逆に呼吸が断絶させられてしまう。


「安らかなる死の世界へ送ってやろう。落伍者にはそれがふさわしい」


 ローデルタが空いた反対の手を握り込み、拳を形作る。

 ユーシュリカは知っていた。その枯れ木のような拳が、この世のどんな武器よりも――攻城に使われる兵器ですら遠く及ばない程の絶対的な暴力を備えている事を。


「ジャス……ティ……っ!」


 事ここに及び、ユーシュリカはその名だけを呟いて覚悟を決めるように目を閉じ――。


「――やめろっ!」


 突然側方から叫び声が上がり、見ればベッドから跳ね起きたジャスティがローデルタめがけて駆け寄り、殴りかかっているところだった。ローデルタはとっさにユーシュリカを手放し、体重を感じさせぬ後方へのステップでジャスティから距離を取る。


「ユーシュリカ、大丈夫か!?」

「ごほ、ごほっ……は、い……うぐ……ぅ……」


 呼吸が回復しながらも片膝を突いて脂汗あぶらあせを全身にかき、しきりに咳をするユーシュリカを一瞥し、ジャスティは怒りの眼差しでローデルタを射貫いた。


「ユーシュリカに何してるんだ! 仲間じゃないのか!?」

「その神官はとうに教会から破門された身……にも関わらずのこのこと戻り、臆面もなく儂の前に姿を現した。ならば神の名において裁くのが、筋というものだろう……?」

「そう……なのか、ユーシュリカ……?」


 肩越しに振り返ったジャスティの目には動揺が見て取れ、ユーシュリカはか細く応じる。


「……はい」

「――い、いや、だとしても、ユーシュリカが悪い事をするわけがない! ずっと一緒に旅をして来たんだ! 今すぐユーシュリカに謝れ!」

「できん相談だ……これより貴様らともども、神の御許へ召されるわけであるからな」


 ローデルタは構えを取りながら腰を深く沈み込ませ、まっしぐらに突っ込んで来た。

 目視がどうとかいうレベルではない、影すら残らない神速。なんとか反応できたジャスティは防御姿勢を取るが威力を殺しきれず、部屋の壁をぶち抜いて中庭へと投げ出される。


「……なんてパワーだ、腕が痺れて……!」


 訓練場まで転がり、距離を取りながら立ち上がるジャスティの前へ、壁にできた穴からローデルタがのっそりと踏み出して来た。


「今のを耐えるか……ならばより責め苦を強めるだけよ。闘争の神ルィット・ド・ホライゾンよ、我に猛き信仰の炎を宿したまえ――神魔法オーダー・オン・リアクト!」


 高らかに詠唱し、そうして天をも驚きおののかせる凄絶な咆哮を腹の底から張り上げると――骨格が変化するかのような音と共に全身の筋肉が急激に膨張し、司教の衣装を内側から打ち破って上半身が外気へ露出される。

 そして出でたのは一回り筋骨隆々とした体躯。とりわけ装束がちぎれ飛び、あらわになった上半身が纏う筋肉は無駄がなくさながら甲冑のようであり、その至る所には苛烈なる修行によるものか闘争によるものか、数え切れない程の白い傷痕が生々しく残されていた。


「ローデルタ! ユーシュリカには手を出すな……っ」


 言語に絶する重圧を放つ大司教と相対しながらも、その後ろの部屋から顔を出すユーシュリカをちらりと見て、ジャスティは内側から湧き上がる恐れを抑え込むように要求する。


「事情はよく分からないけど、俺はユーシュリカの味方だ、そう約束した! だからお前も約束してくれ……この決闘で、俺が勝ったらユーシュリカを許す、と!」

「よかろう……その折りには貴様を紛れもない勇者であるとも、認めよう」


 ジャスティは一つだけ安堵の息をつき、ユーシュリカへ目配せした。


「ユーシュリカは見ていて。大丈夫、俺一人で勝ってみせる。だから信じて……!」


 なのにユーシュリカは逡巡するように、目線を暗く下へ落としてしまう。


「ユーシュリカ……?」

「――ただし、一つだけ訂正させてもらおう」


 その態度を見て困惑したように目を見張るジャスティだが、ローデルタからは鮮血を彷彿とさせる真紅の闘気が立ち上り、間もなく開戦の合図を告げていた。


「これから行われるのは決闘などではない――粛清だ」

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