二話 セーフティ・システム

 とっぷりと日も暮れて、煌々こうこうと夜を照らす満月の下。村の広場には半刻ほど前に起こった激しい戦いが嘘のような静寂が立ちこめていた。

 家屋の半分が消し飛び、壁には風穴が空き、半ば吹きさらしになった酒場には数人の人影がある。

 そこには客や遠方から来た旅人、店員などを問わずある者は地べたに座り込み、ある者は茫洋とした眼差しを何もない壁へ向け、ある者はふらふらと歩き回りぶつぶつと下を向いて何事か呟いていたりと、悪党達から取り戻したはずの活気がどうにも感じられない。


「私の店が……築三十年の大衆酒場が……壊れてしまった。……だが、正義のためなら仕方ない、のか……?」


 端のあたりが消滅しているバーカウンターの席に座り、店主もまた虚ろな目でそんな事をこぼしている。

 と、そこで顔をしかめてテーブルに打ち付けた腰をさすった。


「あの……大丈夫ですか?」


 そこへ、杖を持った神官の少女――ユーシュリカがおずおずと声をかける。店主はゆらりとうろんな目を向け、緩慢かんまんな動作で頷いた。


「ああ……別に……平気だよ、私は……ああ、でも、やっぱり痛い、気がするな……」

「そ、それなら私の神魔法で傷を癒して差し上げる事ができるのですが……よろしいでしょうか?」

「好きにしてくれ……」


 では、と表情を引き締めたユーシュリカが杖を額に当てるようにしてからかざすと、先端のクリスタルに穏やかな白い光が灯り、どこからか歌声のような音色が響いて来た。


「慈愛の神サラ・ド・ホライゾンよ、どうかこの者の傷を余さず癒したまえ――神魔法ハーモニー・ザ・リアクト!」


 花弁を思わせるゆったりとした燐光が店主へ移り、内側へ染みこむように消えていく。そうすると心なしか、店主の視線はぼんやりとしているものの、顔色は良くなったようだ。


「ああ……楽になった。さすがは神官様だ……」

「いえ……これくらいは神の使徒たる者の務めです。でも」


 ユーシュリカは周囲でうろついている人々を気遣わしげに見回す。


「あの方達も……どうしてしまったのでしょうか。お聞きしたのですが、別段怪我をしているわけでもないというのに」

「さあなあ……私の場合家の風通しが良くなったのもそうだが、何だかどっと気が抜けてしまって。何をする気にも、やる気にもならんのだよ……君もそうじゃないのかい」

「はい……実を言うとなぜか身体が重いのですが、私には使命がありますので……」


 ふう、とユーシュリカが疲れたようにため息をついた矢先、横合いから声がかかった。


「へー、すごいなあ。それが神魔法?」


 振り向けば、そこにいたのはダー兄弟を倒したジャスティである。

 あの剣はいつの間にか霧のように溶けてなくなり、ダー兄弟もまたいずこかへ逃げ去っていたようだ。

 本人は店の料理人が作ってくれたサンドイッチをかじっており、先ほどのような鋭利な迫力は露とも残っておらず、つい別人かとユーシュリカは一瞬疑ってしまった。


「はい……見るのは初めてですか?」


 うん、とジャスティはこくりと頷く。ぽけっとした顔立ちにくっついた瞳は無垢な好奇心に輝いており、ユーシュリカはくすりと笑って向き直った。


第二魔法セーフティ・マジック、神魔法は誓約をする神々によって授かるものです。私は慈愛の神、サラ・ド・ホライゾン様と誓約をしているので、このように傷を治癒する魔法が使えるのですよ」

「そうなんだ……神様って他にもいるの?」

「もちろんです。最高神サンティーネ様を頂点とし、戦いを司る神、豊穣を司る神……その存在は千差万別です。皆、私達人間を守護するために、誓約を交わして恩寵おんちょうをもたらしてくれるので、いつも感謝の心を忘れてはいけませんよ」

「俺にも使えるかな?」

「それは……どうでしょう。神魔法は原則、神々のご神体のあるサン・ルミナス教会の神官、司祭様方しか神と誓約を許されておらず、よって平民の方は誰も行使できないはずですので……」


 このジャスティは旅人らしい格好をしているもののどう見ても神職には思えず、また当人も残念そうに口を尖らせている。ユーシュリカは励ますように柔らかく微笑みかけた。


「でもその代わり、私達神官は皆さんを慈しみ守るべく邁進まいしんし、日々修行しています。私もまだそう大きな魔法は使えないですけれど、いずれは司祭様にも負けない強いセーフティを手に入れるつもりです。どうか安心して下さいね」

「セーフティってなに?」


 え、とユーシュリカはぽかんとする。それくらい、今の言葉はちょっと信じられなかったのだ。


「ご存じ……ないのですか? セーフティ・システムですよ?」

「うん、だからそれなに? おいしいの?」


 さらに驚かされる。神魔法について無学なのはまだいい。神官や王族の他、民衆にその詳細が知らされていないのは教会の方針だからである。

 しかし、セーフティに関してはまったく意味が違ってくるのだ。この大陸に生きる――あるいは外海の国々でさえ――誰もが知っていて当然のそれ。いわば世界の根幹、法則といって過言ではないセーフティを知らないとは、一体この少年は何者なのだろう。

 これならまだユーシュリカがおちょくられているか、ジャスティ自身が相当のバカかろくな教育を受けていないと考える方が自然である。


「セーフティというのはですね……意志力みたいなものです。人の誰しもが持つ、いわば心の力です。これが神魔法を使うには必要不可欠なんですよ」


 けれども生来の生真面目な性格ゆえか、ユーシュリカは本格的に講義を始める気になったようだった。


「セーフティがある限り、何度でも魔法の使用が可能なわけです。その代わり、回数や威力、規模に比例して少しずつセーフティも削られていきますが」

「セーフティがなくなるとどうなるの」

「意志が弱くなったり、魔法への抵抗力が低くなったり……非常に不安定で、容易に他者の甘言とかに耳を貸してしまいやすくなってしまいます。逆に自制心がなくなり、酔っ払ったみたいに強力な魔法を使いまくってしまうパターンなんかもですね。……使い切るとそれこそ、人形か廃人のように何もできず、感じられなくなってしまう事までありえます」

「じゃあだめじゃん」

「大丈夫です。無理に使い続けず、適度な休憩を挟めばセーフティは規定値まで回復しますから。体力と同じですね。健康な精神は健康な身体に宿る、と」


 へー、とジャスティは目をまんまるにしながら、分かっているのかいないのか適当な相づちを打っていた。


「なんだかいろいろめんどくさいんだ」

「大いなる力にはそれに伴った大きな枷――制約や代償があるものです。それは魔法以外にも言える事でしょう。便利な道具も、使い方を間違えれば危険な武器となるように」

「それもそっか」

「ものは考えようですよ。このセーフティを何よりの芯として尊重し、ちゃんと良いように扱っていけば、恐れる事なんてないんです。……それが私にはまだ大変なんですけどね」


 ユーシュリカが照れたように笑うと、つられた風にジャスティも口元をほころばせた。


「でも、そうかぁ……だから俺、今まで聞いた事なかったんだ。アンクトゥワはセーフティなんての、使ってないみたいだし」

「アンクトゥワ……ですか」


 ユーシュリカが真顔になる。ジャスティは不公平と言わんばかりに頬を膨らませ、頭の後ろに両腕を回して月の方を見上げている。


「アンクトゥワが使ってるのって、神魔法とは違うんだよね?」

「はい……彼らが用いるのは闇に属する呪われし魔道です」


 あの日――八年前の日。


 突如として空には、巨大な黒い太陽が昇った。光を食らうような、不吉な輝きの極光である。

 その瞬間から大陸各地にアンクトゥワが現れ人々を襲い、世界を混乱へ陥れたのである。

 アンクトゥワは様々な異形の姿を取り、身体能力は人間や動物を格段に凌ぐ。


「通称、悪魔法と呼ばれる強力な魔法を行使でき、それらは総じて攻撃に特化していて、そのほとんどが神魔法よりも強力なのです」


 何よりも大きな差異は、それほどに恐るべき力でありながら、セーフティを消費するという制限がない点だった。

 すなわち、実質的な無尽蔵。いくらでもどれだけでも悪魔法を使い放題で、治安を守ろうと奔走する国々は劣勢を強いられているのが現状である。


「けど、アンクトゥワは元は人間なんだよな……どうしてそんな強い力を使えるんだろう」


 そうですね、とユーシュリカもまた苦い顔をする。アンクトゥワは何もどこからともなく出現したわけではない。

 先だってのヤナンを見れば分かるとおり、あくまでも人の中に発生した存在なのだ。病巣のように身内へ巣くい、そして発症する。


「実は……セーフティが削られる要因は魔法だけではありません。ただ日々を過ごして、様々な出来事に触れる事でも増減します。喜びだったり悲しみだったり……心を揺さぶられる事があればあるほど、セーフティを消耗するのです」

「へえ……自分じゃあんまり自覚ないけど」

「ここからは調査を通した教会の見解になっちゃいますけど、そうやってセーフティの回復が間に合わず、失いきった人々は……ある日突然アンクトゥワに姿を変えるらしいのです。これをアンクトゥワ化、と私達は呼んでいます」


 アンクトゥワ化。そうなったらもはや人間とは呼べず、良識もモラルもなく欲望のおもむくまま破壊や殺戮を繰り返す怪物も同然になってしまうのだ。


「といっても、日常生活でセーフティを全てなくすなんて事が起きていたら、今頃世界中はアンクトゥワだらけです。ですからそこまで摩耗まもうさせる原因となる環境に身を置いている――つまり元から悪や外道を進む人ほど、アンクトゥワ化する可能性は高まるんですね」

「悪……」


 そう聞いた途端、一瞬だけジャスティの目線が鋭くなった気がした。


「セーフティには囚われず、アンクトゥワとして生きるので、悪魔法もそれに準じた彼らなりのルールがあるはずです。……それが何なのか、まだ分からないですけれど」


 でも、それに対する一つの答えが、今ユーシュリカの目の前にいるのかも知れない。

 ここで彼女は、思い切って本題へ切り込む事にした。


「あの……あなたは本当に、正剣の勇者様……なのですか?」

「そうだよ」


 何の気なし。ごく当然といった口ぶりで答えが返ってくる。だがそれは何よりも心強い、証左と呼べた。


「ほ……本当なんですね!?」


 ユーシュリカは湧き上がる感情を抑えきれない、と言う風に瞠目し、ジャスティへと詰め寄った。


「ああ……神よ! ついに、ついに勇者様がこの世へ遣わして下さるなんて! 私は今、感謝と興奮に包まれております!」

「お、おおげさだなあ……」


 ジャスティが引くのも構わず、ユーシュリカは浮かれたように言葉を続けている。


「おおげさなものですか! 正剣の勇者といえば、あらゆる神々をお作りになられた最高神であり正義を司る神、サンティーネ様直々の啓示と正義の剣を手にした、伝説の救世主なんですよ!?」


 乱あるところに勇者あり。悪が人々を苦しめ、天へ救いを求めた時に必ず現れ、その剣にて闇を打ち払ってくれるという言い伝えがあるのだ。

 実際、このラクシーラ大陸の歴史を見ても、勇者を名乗る人物が大きな戦争や巨悪を阻止し、再び平和を取り戻したという記述がいくつも残されている。


「力なき人々の希望にして、正義の証。それが正剣の勇者なのです……ああ、悪しきアンクトゥワに苦しめられるこの大陸を救うため、やっと現れて下さったのですね!」

「うん、そう。俺は正義を成すためにここまで来たんだ。正剣トワイライトがあれば、どんな邪悪な敵にだって負けやしない」


 剣なんて握った事もなく、戦う事さえおぼつかなさそうな純朴な見た目であり、歴戦の戦士たる風格は微塵も感じないのだが、そう気負いなく告げるジャスティには不思議な力が宿っているようにユーシュリカは思え、いよいよもって、救世の時は来たのだとばかりにぐっと拳を握りしめる。


「で、では勇者様は世直しのための旅の途中……という事でよろしいでしょうか?」

「そうだよ。まだどこに向かうか決めてないけど」


「それなら――どうか私もお供させて下さい!」


 杖を抱き、ユーシュリカは一心な面持ちでジャスティへ訴えた。


「私も人々とこの世の行く末を案じる身。まだ不才ですが、きっとお役に立ってみせます! ですからどうか、勇者様の偉大なる任務の一助になれるよう、同道を許してはくれないでしょうか?」

「いいけど……大変だよ?」

「どんな辛い仕事だってくじけません、必ずや最後までついていきます!」


 ジャスティは迷うようにしばらく、ユーシュリカの顔を見つめていたが――ふっとはにかむように笑って、こくんと頷いた。


「分かった、一緒に頑張ろう! ――この世の全てを正義へ染め上げるために」

「はい、この世の全てを正義に……え?」


 はて、聞き間違いかとユーシュリカが首を傾げる間もなく、ジャスティはその細く華奢な手を差し出して来た。


「俺、ジャスティ。きみは……?」

「ユーシュリカ――ユーシュリカ・ハイネです」


 その手をユーシュリカはしっかりと握り、花開くように微笑みかける。


「どうかよろしくお願いしますね、勇者様!」

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