017 実地訓練のその前に…
「――遅い。一体いつになったら来るのだ、あの男は……!」
「たぶんもうすぐだよ。だからリアちゃん、落ち着こう? あんまりピリピリしていると疲れちゃうよ」
「そうは言うがな、ミレイよ。午後の訓練は正午の鐘が鳴ってから半刻以内に開始と決めたのは、他でもないあの男であろう。特に今日は午前の訓練が無しになっているのだ、遅れるなど普通は有り得ん!」
憤って周囲に睨みを利かせるリアの気持ちは、確かにミレイにも分かる。
いつもの訓練場……だが、いるのは
伝言して回った時に『午前の訓練は無し』と聞いた時もリアは怒っていたが、そこにこの遅刻だ。二時間おきに鳴らされる鐘の中でも一際大きく特徴的な正午の鐘から、もうかなり経つ。日の位置と影の長さからすると、一時間半は経ったはずだ。
不機嫌丸出しのふくれ面のリアは腕組みをし、じろりとミレイを見据えてきた。
「……あの男、確かに午前の訓練は無しだと言ったのだな? 午後の間違いでは無いな?」
「う、うんっ、そこは間違って無いよ! ほら、準備とか色々あって遅れてるんだと思うな。レグ兄、何か考えがあるみたいだったし」
「考えなしなら毒でも食らわしてやるところだぞ。それから、ミレイ。言伝された時は気付かなかったが、其方はいつあの男に会ったのだ? まさかとは思うが……」
疑惑の眼差しに至近距離から責められ、ミレイは愛想笑いで誤魔化そうと……したものの、すぐに脳内で白旗を上げた。嘘を吐くのは苦手で、絶対にボロが出る。
「えっと、その……二日前に、レグ兄の所に行って、その時に」
「バッ、あれほど止せと言ったであろうに! 変なことをされたのではないかっ? 裸にさせられたり触られたりと、逆らえない立場に付け込まれて口にはできないような淫猥な行為をされたのでは……?!」
白い頬を紅潮させ血走った目で訊いてくるリアの勢いに押されつつ、ミレイはどう説明していいのか困ってしまう。
当然、
かといって黙り続けることも上手く誤魔化すことも出来そうにない……ので、ミレイに出来ることといえば、言っても問題なさそうな事実を端的に話すだけだった。
「誤解だよ、リアちゃん。脱がなくても出来たから大丈夫だったもん」
「……ぬ、脱がなくても出来た……?」
「うん。殆どレグ兄に任せていただけだけど、温かくて何だか気持ち良かったし……あっ、それから終わった後にあたしが動けなくなっちゃったけど、ちゃんと泊めてくれたもん! あれでレグ兄、悪い人じゃないんだよっ」
この機会に少しでも兄のように慕っている人の株を上げようとフォローしてみたミレイだが、すぐに思っていた効果が出ていないことに気付く。
どういう訳かリアの顔はさっき以上に真っ赤に染まって、わなわなと唇を震わせていた。そしてどうやら話を聞いていたらしい他の二人も顔を赤くして、明らかに動揺している。何故かシーリスからは殺意も吹き出ていて、余計に意味が分からない。
「……あれ? 何だか、思っていた反応と違うような……?」
期待とは程遠いチームメイトの反応にミレイは戸惑い、どうにか別の話題に変えようと、そのヒントを探して視線を彷徨わせ……その中で、こちらへと近付いて来る人影を見つけた。
「あっ、レグ兄! ほらほらリアちゃん、レグ兄が来たよ!」
「ぬっ……破廉恥極まりない不届き者がようやく来たか……!」
余程怒っているのか凶悪と言ってしまってもいい目つきになったリアは、ミレイの指差す方へと視線を向ける。他の二人もほぼ同じタイミングでそちらを見た。
レグが歩いて来るのは予想とは違い、南の森側へと繋がる道からだ。てっきり西側の、普段行き来に使っている街道へ繋がる道から来るとばかり思っていたので、単純に寝坊して遅刻したということではなさそうだった。
「ねえねえリアちゃん、あっちの方って何かあったっけ? 森とか岩山とかあるのは知ってるけど……」
「……………………」
「あの、リアちゃん? 聞いてる?」
こちらの問い掛けに、何故かリアは鋭い目つきのまま答えない。怒りを押し殺しているというより、もっと別の何かに注意を向けているように見えた。
それはシーリスとセーラも同じで、二人からどこか緊迫した雰囲気が伝わって来る。
一体どうしたんだろうと、ミレイは改めてレグの方を見て……気付く。
いつもと同じ黒い貫頭衣を着たレグの手に、黒剣が握られている。そしてその刀身から影が伸び、後ろで塊のようになっていた。
「あれ、何だろう……何かを引きずってる……?」
ぽつりと呟いた疑問に、誰も答えてはくれない。それはそうだろう、ここからだと影が見えるだけでそれが何かなんて分かるはずもない。
ただ、リアは戦闘態勢と言ってもいいくらい警戒していた。シーリスはいつの間にか槍の
皆の様子にミレイは付いていけず戸惑っていると、やっと来たレグが小屋から少し離れた位置で立ち止まるのが見えた。
「待たせたか? 少し見つけるのに手間取ってな」
「見つけるって……えっ? あの、レグ兄、後ろの影が動いて……?」
「気になるだろうが、まずは話を聞け。これから今日の訓練内容と、今後に関する説明をするから」
それはミレイだけでなく、警戒をより強くしてピリついた雰囲気の三人にも向けられた言葉だった。
すぐにリアから抗議の視線が向けられるが、レグはまるで気にする風なく手にした黒剣の切っ先を地面に突き立て、杖代わりにして話し始める。
「まず、訓練内容の前にこれからのことを話すが……四日後の訓練日は通常の訓練は無しで、代わりに
ミレイはこくりと頷くが、また影の塊が動いたので、どうしてもそちらに気を取られてしまう。ただの影とは違って立体的な厚みがあり、しかも中で何かが暴れているようにも見える。あれを気にするなという方が無理だ。
現にリア達の警戒はレグ本人より、後ろの影に注がれている。シーリスだけでなくリアとセーラも
それを感じ取っているはずなのに、レグは平然と話を続ける。
「一応、現役
「えぇっ!? なんでっ、どうして?!」
「そうだ、有り得ぬ! あれをこなさなければ、予選参加の資格がなくなるのだぞ?!」
ようやくで視線をレグに向けたリアからも抗議が飛ぶが、それに対する返事は素っ気ないものだった。
「決まってるだろ。死ぬかもしれないからだ」
「…………はっ、
「
「……ああ、そう言うと思っていた。だから参加させろ、ってな」
「当然だ。弱腰の余り本来の目的を捨てる羽目になるなど、認められるはずもない!」
言って、リアは手にした
暴挙としか言いようが無いこの行為にミレイは慌てる……が、一つ年下の王女様の気持ちも分かる。予選で負けて本戦に出られないのならともかく、それ以前に道が閉ざされるなんて、絶対に嫌だ。
その気持ちはここにいる全員が同じはずで、だからこそ余計に分からない。レグだってそれは重々承知しているだろうに、あんなことを言い出すだなんて。
――そんなミレイの困惑は、すぐに望まない形で晴らされることになった。
「ちなみに一応訊くが、お前等の中で実際に
「それは……いないんじゃない? 普通に暮らしていたら目撃することだった殆どないし……あっ、でもリアちゃんは襲われたことがあるって……」
先日聞いた話を思い出して振ってみると、リアは曖昧に頷く。
「あるにはあるが、幼い時分にみっともなく逃げた経験があるだけだ。戦闘を見た、と言える程でもない。護衛は殆ど戦いにならずに破れ、
「なら、まともに
「…………っ!?」
レグの言葉に不穏なものを感じ取り、ミレイは反射的に一歩後ずさり、瞬時に集中して右手に
現れたばかりの大剣を両手で構える中で視界に入ってきたのは、黒い影が弾けて飛ぶ瞬間だった。
そして露わになった影の中には――黒みがかった巨大な塊。
澱んだ橙色の瞳と、青く輝く石のような角を持つ、猪の形をした化け物だった。
初めて見る生き物だが……それをなんと呼ぶか、ミレイは知っている。
「……ぃ、やっ、
「決まってんだろ。お前等をテストする為だ。わざわざ朝から山奥まで探しに行って、無傷で捕らえるの大変だったんだぞ」
「そんな苦労いらないよっ!? まさか、こんな……おっきいし……!」
影の中から現れた
生まれて初めて見る
他の皆も緊張と警戒で固まる中、この状況を作り出したレグだけがいつもと変わらない様子で話を続けた。
「さて、テストがてら確認しておくか。普通の獣と
「……変な呼び方をするな、です。違いは様々だが、一番の違いはその強度だ、です」
「……普通の武器じゃ傷付かないし、生命力も強い……」
槍の穂先を
獰猛な唸り声を上げる猪系の
それでも、怖い。恐怖で体が動かなくなりそうで、ミレイは震えに膝が笑いそうになるのを誤魔化すように半身で構え直す。
荒れ狂う
「次、そこのビビってる王女。
「ッ、怯えてなどおらぬ!
「あ、あと、色の濃さでも強さが変わるって聞いた、けど……」
「チビ、それは鵜呑みにするな。確かに
「……ならば、その
「姫さんの心配は外れだ。色の違いは決定的な差で、青と緑の
それは実戦の経験から得た知識と容易に想像出来て、ミレイの背筋にまた震えが走る。
――
あんなにも恐ろしい怪物と、誰かの助けを借りられないかもしれない状況で。
「ま、こいつは青の等級通りの強さだな。
……レグの言葉に、嫌な予感が倍増する。自然と呼吸が浅くなり、動いてもいないのに息が上がりそうだった。
これからどんな展開が待っているか、呑気だの考え無しだの言われてしまうミレイだって、流石に分かる。
つまり目の前に現れたこの
「さて……そろそろ本題といくか。この課題がクリア出来たら、お前等の実地訓練参加を認めてやる。ダメなら当然、参加は認めない」
「……フン、良かろう。そもそも許可など不要だが、経験しておくに越したことは無い。この地で生きる以上、いつ出会すか分からない宿敵だ。これを糧とし、新たな強さを得る機会と思うことにしよう」
「威勢が良いのは結構だけどな。他のは、どうする? 別に止めてもいいぞ。その代わり、実地訓練の日は拘束がてら吐くまで体を動かして貰うが」
絶対に頷きたくない内容に、返事をする者はいなかった。だが、ミレイを含めて全員拒否はしない。
その決意と覚悟で踏み止まっているミレイは、手が痛くなるくらい大剣を握り締める。他の仲間も
まだ
「誰も降りない、か。じゃあクリア条件を告げるから、その直後に
四人の反応を窺ったレグは、地面から黒剣の切っ先を引き抜く。それだけで
「クリア条件は、百秒の間全員が戦える状態を維持出来ていれば合格だ。誰か一人でも
――レグの言葉に、
「なっ……!?」
「……舐めてやがる、です……!」
特にリアとシーリスは驚きの声を漏らし、悔しげに表情を歪ませる。
倒せ、ではなく、制限時間を持たせるだけ。四人がかりで、敵の状態やダメージについては言及すらない。
拍子抜けどころか馬鹿にされていると怒る二人の気持ちも分かる……が、ミレイは全く別の感情が生まれていた。
焦燥感と共に湧き上がったのは、先程までとは別種の恐怖だ。
その感覚が正しいと証明するように、大きく飛び退いたレグの口から聞きたくない言葉が容赦なく放たれた。
「んじゃ、始めるぞ――お前等、死ぬなよ」
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