第10話 情状酌量アーカイブ

 あれからやってきたのは、多目的棟の1階の隅に位置する空き教室だった。入口前の表札を仰ぎ見ると、そこには何も書かれていない。白い塗装が剥がれて木肌が顕になっているところから、何年も使われてないどころか、この一帯に人が訪れた形跡すらなさそうであった。

 

 元から隅にあった教室というよりは、隅に追いやられてしまったという様子だ。日の当たらない北側に位置することや、建設物から一歩足を伸ばせば真っ先に学校裏に出ること、その向こうには民家はなく、田畑が連なっていることも助けて、一層人通りの少ない寂れた区域となっていた。



 そんな人々の記憶から忘れ去られてしまった空間に、俺たちは足を踏み入れた。引き戸はレールの上を時々躓きながら開かれた。鍵もかかってはいなかった。


 教室は8畳間を二つ繋げた縦長の、16畳間ほどの畳の部屋であった。普通の教室と比べれば断然狭いスペースであるが、とは言え5人程度が集って使うには持て余すほどには、勿体無いものだった。全員が大の字になって寝転んでも手足を干渉しない。


 すこしホコリが積もってはいるが、中は整理されていた。ほぼ物置にされていたらしく、中に何が入っているとも知れない水にふやけてところどころが破れたダンボールが部屋の角に五つ六つ積み重なっているが、煩雑としていないだけでそう思うに足る様子だった。


部屋を一望して、香川は言った。


「こんなトコあったんだ。元は・・・・茶道部だったりしたのかな?確かうちの学校、茶道部はなかったよね」


「3年前に廃部になったらしい。原因は人が集まらなかったから・・・・じゃなくて、逆に『人が集まりすぎたから』だそうだ」


灯庵は部屋の窓を開けて換気をしながら答えた。


「そんな理由、初めて聞いた」


「来るもの拒まずってスタンスでいたら部活に所属してるって名目だけが欲しい連中の溜まり場になって、まともに管理運営ができなくなったんだと。それで本気で茶道やりたい奴は帯を置いていく始末だ。やむなく茶道部は解散、名前も残らなかった。と、3年の先輩が言ってた」


毎度のことながら、俺は灯庵に眉を曇らせた。


「お前のその謎コミュニティはどっから来るんだ」


「日頃の行いだろ」


毎回授業サボってる奴がなんか言ってるよ。かく言う俺も、今は人のことは言えないわけだけど。


「それで、ここが最近の灯庵の根城になってるわけ?」


「そういうこと。これでもちょっとは掃除したんだぜ?」


言いながら、灯庵は角のダンボールの元へ寄り、箱を開けると中のものを取り出した。片手に湯のみ、もう片手に魔法瓶が握られていた。湯のみを一人に一個ずつ放り投げると、その場に座って得意げに言い出した。


「とりあえず、一杯やってけよ」




* *


なかなかどうして居心地がいいので、皆すっかり尻に根が張ってしまった。ダンボールの中には灯庵の私物が詰まっているらしく、茶にとどまらず茶菓子やらコーヒーやら、嗜好品がぞろぞろと湧いて出た。


しかし、ここに集ったのは茶をすするためでも、菓子を摘んで駄弁(だべ)るためでもなくなく、ピカレスクについて話し合うためであるので、そうもばかりはしていられない。このために大切な授業をひとつ捨てているのだ。なんでもいいから少しでも進展を得なければと、まずは阿古丸が話を切り出した。円興はとっくに鼻提灯を膨らませていた。


「じゃあ、まずは香川さんの話を聞かせてもらおうか。やっぱり・・・・カラスが嫌いになったきっかけとかから聞くのがスタンダードかな?」


司会進行のごとく型にはまった物言いをするのを、しかし灯庵は異を唱えた。


「まあ待て。別にそんなにおカタく・・・・なるこたねえ。大人がよくやる飲み会くらいの具合で丁度いいのさ。楽しく語ろうぜ。そういえば香川。まだ話してなかったけど、寂蓮こいつもトラウマがあるんだぜ?饅頭が怖いんだとよ」


「だから、魚の骨だっつってんだろ。落語家じゃねえんだぞ。」


いちいち笑いをこらえながら人のトラウマを勝手に明かす灯庵に遺憾の意を表明しつつ、俺はパーティー開けしたかっぱえびせんを片手で目一杯つかみ取りをすると、一口じゃ食べきれない量を貪るようにして口へ運んだ。暴食の限りを尽くした絵面に若干腰を弾きながら、阿古丸は問う。


「といっても、善は急げって言ったのは灯庵じゃない」


「それはそうだが、だからって気を急かすのとはわけが違うと思わねえか?曲がりなりにもこれだって一種のカウンセリングだが、医療行為って空気感より、全員で傷を共有しようって心算こころづもりの方が話しやすいし、聴きやすいだろ?それに、その方が学生らしいじゃねえか。海外映画見たことあるか?度々カウンセリングするシーンがあるけどよ、あれのどこが心療になると思うよ?ただの個人面談じゃねえか。あんなのよか友達同士で集まって、地べたに座って菓子食って面白おかしく笑った方が、俺はよっぽど力になると思うけどなァ」


俺は灯庵の持論を聞いてなるほどたしかに、と腑に落ちた。


言われてみれば俺も生徒会側にカウンセリングの相談を持ちかけて見たはいいが、連れていかれそうになったのは生徒指導室だ。


あのスペースをちらと一瞬だけ外から見たが、ほぼ畳1枚のスペースにミニデスクと椅子が二つ置かれた、完全マンツーマンの圧迫感がすでに耐えられそうになかったものだ。それと比べればこの方が気楽であるし、同学年同士であるというだけでも心には余裕が持てるかもしれない。


それに、そのためのこの教室なのだろう。灯庵が香川をこの場へ連れてきたのも、飲み物や菓子をこっそりと溜め込んでいたのも、この状況を見越してのことなのだろう。なんだかんだ言っても、人情的な面もあるじゃないかと俺の中で、密かに株が上がっていた。


灯庵の懐中はどうあれ、香川はそれまで菓子には全く手をつけていなかったものの、灯庵のその言葉を境に、チョコレート菓子に手を伸ばした。カラフルな包装紙を取り去ると、一口サイズのチョコレートが顔をだす。おもむろにそれを口に放り込んで、ようやく香川は声を発した。


「・・・・・よし、心の整理がついた!なんでも話してやろうじゃない!」


どうやら、香川の中では若干良心の呵責が歯止めを効かせていたようだ。ピカレスクの発覚、授業のサボタージュ、学校敷地内で校則違反の限りを尽くしたお茶会。彼女にとっては、あのチョコレート一つが最後の砦だったのだろう。


過去を思い出すことが苦であるというよりは、現状を飲み込むことの方が重大であったらしい。来るところまで来てしまったと、ついに吹っ切れたようである。


それからというもの、彼女のものを語る饒舌さと言ったら早いものだった。同じく目の前に積み重ねられた菓子類の山も見る見るうちに平地まで削られてしまった。



香川が経緯を一通り話し終えると、灯庵は天井を仰ぎながら唸った。


「ははあ、なるほどなあ。そう来たか。トラウマの原因は子ガラスぽいけど、はっきりとは覚えてないと」


「私にも何でかはわかんないのよねー。ただはっきりしてるのは、カラスが嫌い!ってことだけ」


「思ってたより一筋縄じゃいかねえぞ、こいつは」


にやにやとする傍らで、阿古丸が右手でくるくるとペンを旋回させながら聞いた。メモ帳の中に視線を上下させ、内容を洗うようであった。


「それ、他の鳥は平気なの?」


いわれてみればたしかにそうだと俺はひとちた。


香川の話を聞く限りでは、子ガラスを拾い上げた場面がトラウマの根幹となっているように捉えられる。もしもその時、鳥のクチバシや爪などによる攻撃を受けたことが要因となるなら、鳥の特徴とも言えるそれらに恐怖しないわけはない。すなわちカラスのみならず鶏であれセキセイインコであれ、鳥全般をトラウマの対象としてしまうはずである。


しかし香川の回答はあっさりしたものだった。


「うーん・・・別に大丈夫だけどなあ。」


「ってことは、怖いのはカラスだけ?そっか。じゃあ他の鳥になくて、カラスにありがちな特徴?なんだろ」


「俺なら、あの色だな!真っ黒で、目がどこにあるのかもわかんねえ。正直言って不気味だろ」


カラスというのは漢字で『烏』と書く。鳥という字から横棒を一本取り去った字になる。鳥と言う時はそもそも象形文字で、丁度『烏』の字の足りない部分は『目』を表していると言われている。

古代の碩学もカラスの目がどこにあるかわからねえと愚痴を垂れながらこの字を作ったに違いない。


「寂蓮くんのそれにはすっごく同意なんだけど、なーんか違う気がするのよねー・・・あ、目といえば、視線!?狙われてるみたいな視線!ひぃー!考えてだけで超ゾワってする!・・・・けどこれも確信とは違うような・・・」


「考え方を変えようぜ。香川にトラウマそのものの記憶がねえってことは、忘れたくなるほど衝撃的なことがあったってことなんだろうさ。香川の能力が『カラスのトラウマ』だからって、俺らはトラウマの原因がカラスそのものだってフォーカスしすぎなのかも知れねえ。」


「そうしたいのは山々だけど、情報が少なすぎて・・・」


「埒があかないか」


「視野を広げ過ぎるとまとまらなくなっちゃうから、僕は仮説を立てて推論を重ねていくのが無難だと思う」


その場は阿古丸の意見に同意が集まった。



考え始めると、あれよこれよと議論が飛び交った。時に主張を押し付け合い、時に脱線し、時に円興が盛大にイビキと屁をこいてぶち壊す。


それはある意味では、不毛な議論であった。こうして人の過去を洗いざらい暴くことが、果たして本当に克服につながるかどうかは甚だ疑問だった。


俺は行為自体は間違っていないと思うし、手段をとっても、これ以上は望めないとも思う。ピカレスクの存在を見て見ぬ振りというのも、なんだか胸のつかえが残るものだ。俺にとっては魚の骨が喉に刺さるのにも似た嫌悪感だ。


けど、何より香川が望んだことじゃない。彼女にとって成り行きでしかないこの状況を、俺はどうも憂いるばかりだ。


香川の表情を、俺は観察する。不安というのは感じ取れない。今の様子だけをトリミングしてみれば・・・・

灯庵の思惑は見事したり・・・といったところか、議論を交える香川の姿はしかし、どことなく楽しそうにも見えた。


トラウマというのをテーマに扱うのは、非常にデリケートな問題だ。時に人の無神経な面や、不謹慎な発言を浮き彫りにすることだって懸念される。


今回に限っていえば、・・・・・俺が心配することは、あまりないかもしれない。



気づけば、いつの間にやらすっかり話題は変わっていた。


「ていうか、そもそも魚の骨のトラウマって何よ!私と一緒にしないでくれない!?」


「俺のことは関係ないだろ!けどそこまで言われて黙ってられるか!何なら聞くかぁ!?俺の最ッ大ッ級!の恐怖体験談!」


「ブフッ!悪りぃ、思い出したら笑っちまったわ!良いぞ、教えてやれ!お前のクソどうでも良い傷心談義!」


「うるせえむしろお前の言い方に傷つくわ!」


「何だか面白そうね。気が変わったから聞かせてもらおうかしら」


「お前ら俺のトラウマを笑点感覚で聞こうとしてんじゃねえ!」


気づけば、いつの間にやらすっかり小気味良くなっていたのだ。

雰囲気に飲まれたのだろうか。俺のトラウマとて俺にとっては死活問題であるのだが、存外他人にウケが良い。そして語る俺も、それほど不服でもない。

他でもない俺が、トラウマを人に聞かせることをどことなく面白がっていたのだ。


だから、俺が心配することは、ほとんどないのだろう。

傷を舐め合うことの正当化された世界が、ここにあるのだった。



これよりは閑話休題である。

半ば強引に話は戻された。話は落とし所をつけられなかったが、ひとまず現在すべきことは情報収集であるということが結論づけられた。

阿古丸のいう仮説をいくつか立てることにより、今後の指針も少なくとも、方向性だけは決まっていた。


阿古丸の持っていたメモ帳はいつ起きたかしれない円興に渡っていて、円興からそれを受け取った俺はリスト化された仮説を1から読み上げた。


読み上げるうちに、俺は徐々に眉を寄せていった。


⒈子ガラス、または親ガラスの襲撃を受けた

⒉子ガラスに逃げられた

⒊子ガラスの様子が変だった

⒋カラスと思ったらカラスじゃなかった

⒌宇宙人だった

⒍ビーム

⒎記憶をなくした

⒏魚の骨が喉に刺さってた


なんかもう、ツッコまずにはいられなかった。


「いや多い!多いわ!つうか途中からどう考えても遊んでるだろこれ!ビームって何だよ考える気ゼロだろもうただのフローチャートになってんじゃねえか!あと魚の骨いい加減にしろォ!」


「わかんねえぞ。ひょっとしたら5番目くらいはいい線いってるかもしれねえ」


畳に雑魚寝しながら灯庵は言うがその姿には説得力のかけらもない。

と言うかマズい。何がマズいって、このメモはどう考えても円興の悪ふざけなのだが灯庵が悪ノリし始めたのが何よりマズい。

俺は何とも遣る瀬無い気持ちを握りこぶしに込めて、悲痛に叫んだ。


「もうちょっと謙虚になれよ言っても4番が関の山だろ!?なあ阿古丸!」


一番信頼の厚い阿古丸に助け舟を乞うのだが、思えば早々に諦めるべきだったかもしれない。一度この空気になると悪ノリというのは伝染する。しかし悲しきかな、俺のさもしい芸人魂がツッコミ不在というのを許さなかった。


「僕は8番が有力かなぁ」


「どーしてよりによって取ってつけたような8番選ぶかなぁ?どう思うよ、なあ、香川!お前の問題だぞ?」


「私も何だかビーム『出した』ような気がしてきたわ」


お前が宇宙人かーい



その日のカウンセリングもとい新歓は、「お後がよろしいようで」と代弁するかの如し授業の終わりを知らせるチャイムとともに幕を下ろしたのだった。

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