第7話 悪性循環トロピカル
「おい!おおい!止まれ!止まってくれ!」
俺は灯庵に言われるまま、教師に走るなと再三注意された廊下をひた走る。
理由は知らないが想像はついていた。今俺は眼の前を走る少女を追っているのだが、恐らく彼女がこのカラスの大群の頭領だ。
俺が走るうちに気づけば少女を追うカラスも数を減らしていたが、少女はそれでも走るのをやめようとしなかった。
「嫌!嫌よ!どうして追っかけてくるのよぅ!なんでカラスなんて!ていうかあんた誰よ!」
「どうしてって言われても俺にもわっかンねえよ!いいから止まってくれ!」
はあ、はあ、と息が上がる。運動不足のはずはないが、それだけ長く走っているのと、少女の足が早すぎるのが俺の心肺に負担をかけている。
俺と少女の距離はゆうに10メートルは間隔があるが、それでも次第に少しずつ離されてゆく。まさか100メートルを12秒でかけれるほどの速さも見込めるその健脚に舌を巻くほかないが、感心している場合ではない。
なぜなら、ぐるりと走り回って中等部の校舎へ入り込んだところで、少女は廊下の窓を目にも留まらぬ速さで開けたと思うと、開いた窓のレールの部分に足を掛けるのが見えたのだ。
「お、おい!待て!ここ3階だぞ!早まるな!!」
慌てて止めに入ろうとする俺の脳裏にあの言葉がよぎる。
天使が窓から飛び散る歌詞のやつ!
「ってアホか!飛び散ってどうする!そんな場合じゃねえっつってんのに!クソッ!させるかぁ!」
いよいよもって飛び立ちそうなのを止めようと腕を伸ばす。
たかだか3階の高さなど6m程度が関の山だが、命にかかわるほどでないにせよ、下手をすれば大怪我することもある。
そんな危険なことをしようとしているのをみすみす見過ごすことなどできようか。それでなくとも、ここから飛び降りられたりすると追うのが困難になる。
間に合え!と心の中で叫ぶが・・・・0コンマ1秒の差で俺の手は
少女はレールを蹴って頭から飛び込むようにして窓の外へと鳥のように飛翔していた。惜しくもスカートの中は見えなかった。
「嘘だろ!?あれで見えねえのかよ!じゃなくて本気で飛ぶのかよ!」
俺は窓の外へ頭だけ出すと、宙を落ちてゆく最中の少女の姿が双瞳に焼き付いた。
その時、俺は少女から目が離せなかった。緊張のためではない。
窓の前には大きな木が立っており、太い幹にふさわしい頑強そうな枝が左右に交互に生えている。少女は落ちるとき、その枝に手をかけ、振り子のように体を揺らして勢いを少しだけ緩和する。そうして着地の衝撃を2階からの落下程度に抑えた彼女は、両足を地面につけた瞬間に膝を一瞬鋭角に折り曲げて、さっきまでと変わらぬ速度で犬走りを走り始めたのだった。
驚異的な身体能力だ。サルのようだと思ったが、それ以上に猫科の動物のような靭やかさを感じた。
俺にはそこから彼女と同じように飛び降りて、追跡を続ける勇気がなかった。彼女の邁進を呆然と眺めるばかりで、結局その場は見失ってしまった。
全力疾走で荒くなった呼吸を整えながら、俺は膝を折る。
「くそ、しょうがない・・・・まあ、Cクラスのやつってのはわかったし、また出直したほうが・・・・ん?」
そう思い、灯庵に失敗したことを伝えに戻ろうとした時だった。視界の隅に、きらりと光るものが見えた。
* *
「ハァ・・・ハァ・・・!もうイヤ!何なのよ、もう!」
少女は日の当たらない真っ暗な閉所で、しゃがみ込み、両手で耳を塞いで一人激情に唾を飛ばしていた。
そこは学校裏の物置だった。ほとんど掃除道具が安置されているが、物置そのものは掃除とは縁遠い砂埃のつもりようであった。
「なんで、昨日の今日でこんな目に合わなきゃいけないの・・・・?この世で一番キライなカラスにも、知らない男子にも追いかけられて・・・元はと言えば、この学校に来てから良いことなんて一つもない・・・!呪われてるんじゃないの?」
誰に対して文句を言えば良いのか、最早あやふやになっているらしい。自分の不幸も日頃の出来事への不満も全てを一緒くたにまとめて罵声を浴びせている。
がたん、と不意に物音がした。少女は「ひっ」と悲鳴をあげると飛び上がり、薄く光の差し込む戸の隙間の方へ目をやる。片目を閉じて隙間から外の様子をうかがうと、人はおろか、カラスの一羽も姿を見せない。どこかで鳴いているのだけはよく聞こえるが、ひとまずこの周辺だけは安全らしい。
物音の正体は、少女が自分の足て蹴ってしまった、その場にあった箒によるもののようである。眉間にシワを寄せたままホッと胸をなでおろすと、膝を抱えた。
「・・・・・・はあ・・・・ほんと、ついてないなあ・・・授業サボっちゃったし、どうせ日が沈むまで、こっから出られないし」
少女はそのまま瞼を下ろした。闇の中、できることと言えばその程度とでも言うように、日が沈むのを待つ。
「なんでこんな事になっちゃったんだろ。私、なんか悪い事したかなぁ・・・・。ちゃんと宿題やってるし、無駄遣いしてないし、門限も守ってるってのに。」
誰にともなく少女はつぶやく。その言葉を受け止めるものは誰もいない。少女の愚痴は闇に溶けゆき、カラスの鳴き声が喰って砂粒ほども残らなかった。
少女の悲哀は留まるところを知らず、今にも嗚咽を漏らしそうなほど肩を揺らす。深夜の眠った街のごとく深い闇のさなかで凍える少女は、誰にも助けを求める事なく独り肩を抱く。
「結局、苦手なものは苦手のままだったな・・・・・高校生になっても、折り合いつけるなんて夢のまた夢・・・。歳だけ食って中身は子供のまま。いい年してカラスが嫌いなんて。笑えちゃう。」
次第に愚痴は自虐へ変貌していた。聞いてくれる人がいないなら、自分に対して言い聞かせるしか鬱憤を浄化する場はない。嘆きならば如何ようにしても己だけは理解者である。だから少女は『誰のともなく』つぶやき続ける。
「いつからだっけ、私がカラスを嫌いになったの...」
そのときから少女は物思いに耽った。
話せば長い。遡れば、彼女がカラスに対して過敏に拒絶を示すようになったのは、今からおおよそ8年ほど前のことである。
彼女は小さい頃から気立ての良く、思いやりのある人物であった。それは人に対してのみにとどまらず、動物にも虫にも、等しく慈悲を向けるような、心の篤い人物と周囲に買われていた。
それは、自分がよく思われたいからしていたことではない。情けは人の為ならずと言うが、彼女の見せる情とは人のために他ならなかった。小さな子供のすることだが、その歳で自分より他人を優先し、わがままを言わないのは、大人たちからすればある意味特に褒められたことであった。
そんな彼女を変えてしまう出来事が、ある日起きた。
彼女が見つけたのは、まだ生まれて間もないカラスの雛であった。小さなそれはまだ嘴が淡い橙を呈しており、ふわふわの産毛を蓄えていた。打ち捨てられるように道路上に一羽残されている姿を見た彼女は、巣から落ちたのだと直感し、迷わずそれを保護しようと試みた。少女にとっては使命感を伴う親切心によって駆り出された行動であった。
手に抱えたそれは、震えていた。子カラスは薄目を開けて、じっとしているだけだった。逃げようとするでもなく、鳴き声を上げるでもなく、ただ凍えているように見えた。
助けを求めている様子には見えず、力尽きてしまっているかに見えた。
近くには親鳥がいるかも知れない。そう考えた少女はまず周囲を見回した。
それから・・・・この先が、少女は思い出せなかった。
最も衝撃を受けた、肝心な部分だ。あの時果たして、自身の身に何があったのか。子カラスに反撃を受けたのか、それとも親カラスに怒られたのだったか。そこが、いまいちはっきりしない。
記憶を失っているかのようだった。それ以上を思い出そうとすると、嫌に発汗が多くなるうえ、頭の中が白くなる。何も思い出すまいと本能が拒絶しているようで、過去を探ることが出来ずにいた。
それ故、少女を苛むトラウマは原因から排除をすることが叶わず、今の今まで抱え続けるしかなかったのだった。
このまま一生カラスに怯えたまま過ごさねばならないのだろうか・・・そんなことを思った時、少女はこちらに近づく物音の存在に気がついた。
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