第5話 三半規管クライシス

 昨日の出来事を深く考えることはなかった。生徒会のプリントの裏にあのような出来事があったとは!なんて、激動の展開に至るには、俺の中でなにかの要素が足りなかった。漫画の単行本をまとめ買いしようとしたら3巻だけ抜けていた。そんな感じの、冷めた気分だ。理由がなぜかはわからないけど、その理由を考えることにすら興味を無くしていた。




 ぼんやりとしながら、いつものように授業を聞いていた。1限目は俺の好きな現代文の授業だ。好きとは言うが先生の話を聞く気はあまりなかった。今日のセクションは芥川龍之介の羅生門だが、老婆の引剥には何ら興味がわかないので、全く関係のないページをパラパラと捲った。




 中原中也=サーカス。金子みすゞ=詩集より一部。夏目漱石=夢十夜。このあたりがお気に入りだ。俺の語彙力でこれの魅力を伝えるのは困難を極めるが、どこか寂しいリズムが好きなのだ。寂しいけど、うーん。寂しいけど寂しい。その寂しさが良い。




 この学校に入学してからあの3人とともにいる時間が殆どになった。現代文の授業中は数少ない、一人でいる時間を大切にしている気分になれる時間だった。先生に指摘されなければの話だが、今日はご指名を免れたので平和な50分だった。




 チャイムがなって、起立と礼で締めくくる。それとほぼ同時にわっと教室内がやかましくなるのは、このクラスはどの生徒もテンションが高いことを物語っていた。カラカラと鉛筆が転がる音とか、ノートを教科書に挟んで閉じて、机の下の収納スペースに押し込む雑さが一番うしろの席からはよく見て取れた。




 活字を追いすぎた俺は立ち上がるのも面倒はほどの眠気に誘われて、机の上だけ重力が強くなっていた。チャイムがひとつなるたびに頭が机に近づく。夢の世界へあと3センチ。というところで、しかし阿古丸がそれを静止した。




「寂蓮、ちょっといい?」




 流されるようにうとうととまぶたを沈めていこうとしていたところなので、ちょっと機嫌の悪そうな返事になってしまった。




「んー?何だよ」




「話がしたいんだけど」




 眠気まなこで阿古丸の方を見る。真剣な眼差しに気づくと、俺は伸びとあくびで眠気を払う。




「いつもしてるじゃん。俺が恋しくて仕方なくなった?」




「はいはい、もうそれでいいよ。それで、昨日のことで気になったことがあってさ」




 阿古丸は近くの空いてる椅子を引っ張って俺の机の方に寄せて、背もたれに両腕と顎を乗せるようにして前後逆に腰掛けた。




 昨日のことといえば、やはり生徒会長の話したことに限られるか。話すことなどあるだろうか。そういう話は俺よりも灯庵にしたほうが乗り気で聞いてくれるだろうと思ったが、あいつは授業をサボって教室にいないのを思い出す。




 仕方なく、少しは真面目に聞こうと思うが現実味がなく、しかも俺達にとってほぼ関係のないことだ。信じられないとは言わないが、だから何なのだ。明日の天気のほうがまだ気になる。俺にとっては優先順位の低いことだったが、しかし阿古丸にとってはそうでもないらしかった。




「トラウマ能力・・・・ピカレスクだっけ。呼び方は何でも良いけど、やっぱり本物なのかな」




「本物なんじゃない?少なくとも由理先輩の能力は手品とは思えなかったけど」




 俺が投げやりにそのように言うと、阿古丸の表情が少し翳った。何を憂うことがあるのか俺にはわからなかった。




 阿古丸が賢いのはよく知っている。だから俺には考えもつかない事に気づいてしまったのかも知れない。ひょっとしたら、ピカレスクの発現条件とか、今後起こる可能性のある生徒会の裏の巨大な陰謀論とか。俺は阿古丸が次に口を開くのを待った。迷いながらも、阿古丸は言った。




「じゃあ仮に本物だったとして、寂蓮の能力はどうなるんだ?」




「え?」




「え?じゃないよ。トラウマを持ってることがピカレスクの条件なら、寂蓮には『魚の骨のトラウマ』があるだろ」




俺はハッとした。言われてみればそのとおりだ。なぜこんな当たり前のことを失念していたのか、ゲップを飲んだらコーラが出るくらい当たり前なことなのに。




「どこの星の常識だよ」




 阿古丸の冷ややかなツッコミは今日も今日とてキレがよい。




 そうとも、俺には何を隠そうトラウマがある。喉に魚の骨が刺さった経験。あれのせいで未だに魚料理を見るとヒヤヒヤする。一口飲み込むのに5分もかかる。安心して食べられるのは寿司だけだ。




 魚の骨ぐらいで大げさなと言う諸君に逆に問おう。例えば注射されるのが好きなやつがいると思うか?え、いる?マジで?それは・・・・すごいですね。養蜂家になればいいと思うよ。ともかく、ヤツは人類史に置いて最も人の喉を傷つけた悪辣な戎具だ。それに深い警戒心を抱くことを何らおかしいとは思わない。




 本題だ。トラウマがあるということは能力者であるということ。俺もその一角をなす存在といえるわけで、日奥先輩の言うからには、魚の骨にまつわる特殊能力を発現する、ということになる。果たしてそれはいかなる能力であることか。俺は頭を抱えた。




「・・・・わかるわけがねえ・・・・」




「いや、真面目に考えられても困るんだけど・・・」




たとえ寂蓮が金星人とかでも僕は友達だよ、という意味不明な同情をされたことも耳に入らない。俺はここに来てようやくなぜこれほどまで昨日の出来事を眼中に見なかったのか、答えが出た。単に目を背けていただけである。




 薄々感づいていたのだ。自分のトラウマが能力に反映されたとて、いかほど情けなく矮小なものが生まれるのか。だからきっと、本能的に深く考えることを拒否していたに過ぎない。




 ・・・・いや、しかし、待てよ。俺は顔を上げた。考えてみれば確かに、この件に関しては不明瞭なことが多すぎる。そしてたかが俺の頭を十全に可動させてみれば、疑問というのは水に投げたピンポン玉のように、自然と浮かび上がってくるものだった。なので俺は阿古丸に逆に問いかけた。少しの希望を胸に秘めて。




「いや、待て。そもそも能力の発現の条件ってなんだ?トラウマがあっても俺はまだ能力ピカレスクを持ってないぞ」




「そうそれ。それもわからないよね。何か他に条件があるのか、それとも発現してるけど自覚してないだけなのか」




「これ、一番大事だよな。もし他に条件があるなら、それを叩けば解決するんじゃ?・・・・あ、けどあの人も2年以上研究してるんだよな」




「できたらとっくにやってるかもね。じゃあ、後者?」




「それなら、能力の存在なんて知らなければ何も困らないんじゃないか?能力を持っていてもそれに気づいていなければ持っていないのと同じようなものだろ」




「確かに、それだとあのカウンセリングのプリントの意味が本末転倒になっちゃうね」




 うーむ・・・と、二人して首を傾げるも謎は謎を呼ぶばかり。あわよくばこの場で謎が解決して、ピカレスクを発現させない方法などに気づけたなら、俺は我関せずと高みの傍観を決め込む事ができたのかも知れないのに。三人寄れば文殊の知恵、というからせめて灯庵の頭脳を借りたいものだ。円興は猫の手。結局生徒会に顔をだすのが一番手っ取り早いのだろうが、ここまで考察しておいて直接聞くのはなんか癪。




「そんな安いプライドなんてメルカリで売っちゃえよ」




「安いって言うなよ。俺にとってはプレミアム価格だぞ。」




「言いたいだけでしょ、それ。でもまあ、寂蓮が楽しいならそれでもいいか」




 ふふ、と微笑む阿古丸のそれはとても男のするようなものではなかった。このスマイル、正直金払ってもいい。貸し切りスマイルにしたい。パないわ。パなソニックだわ。


 惜しむらくは、生まれる性別を間違えたことだ。女に生まれればよかったのに。ホント、女に生まれればよかったのに。俺。




 それはそれとして楽しんでいるかといえばそうでもない。大味な物語ともなるなら、大きな釣り針であることも承知で人は食いつきたがるものだ。眼前にサーロインステーキぶら下げられて捨てるという選択肢は極めてイレギュラーだから。しかし見た目がどうあれこれは舌を出して空気を舐めたくなるほどしょっぱいのが事実だ。楽しめる要素などどこにもない。こじつけるにしても、今のうちが関の山だ。




 いよいよこの場で考えられることにも尽きかけてきた頃だ。教室の戸が開いた。見慣れた眼鏡をした男、灯庵が、ニヤケ顔を引っさげて立っていた。




彼は俺と阿古丸の姿を正面に認めると、一直線にこっちへやってきた。




「寂蓮、阿古丸。ちょっと来い。あと円興はいるか?」




何やら急ぎの用事らしい。要件を後回しにしてでも俺達の召喚を優先するとはただ事ではないことを伺わせる。しかし、あの表情。あれは悪いことを考えてる顔である。




灯庵の悪知恵は闇を喰らう牙である。過去、入学式当日の出来事を思い出すと、ああ、もう、身震いを起こしそうになる。校長の長話を、オンエア中にカット編集した彼は間違いなく我がクラスの、いや、我ら一年生の英雄である。


 その一大偉業の片鱗に、恐らくこれからつきあわされる。今度こそ俺は身震いした。




「やだ!」




「いいよ、なら来なくて。」




「ちょっ、そこは引き止めて!」




「やっぱ来るな。」




「私を甲子園へ連れてって!」




「よし、お前には甲子園の土の味を味わわせてやる」




「俺とお前でバッテリー」




「いや、お前のポジションは左サイドベンチな」




「ちくしょう謀ったな!俺の青春返せ!」




 一生終わらなさそうなコントに強引にオチをつけると、俺は木と鉄でできた微妙に足の長さの揃っていない椅子を立ち上がって伸びをした。「ああ、くそ」と声を漏らし、いかにも渋々といった演出をしてみせる。


 しょうがねえな。ついていってやるよ。とは、灯庵の誘いに乗るときの決まり文句である。




 満足気に灯庵は頷くと、阿古丸の方に視線を移して、お前も頼むと再度歎願を示すのだが、俺に対する態度とは全く、百八十度、昼と夜ほどの差があるので、クシャッと梅干しのようなシワシワの顔をせずにはいられなかった。

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