第12話 雪の花
銀の実亭に戻ったのは、14時をとうに回った頃。
ブーツは冷たいし、靴下は濡れて足先は感覚ないし、手なんかガチガチに拘縮しちゃって、食器を持つどころじゃない。
荷物を奪われてなければ靴下の替えがあったのになー。ほんっと許せない!
「足だけでもあったまりんせぇ」と、女将さんと住民たちが用意してくれた足湯の温かさといったら!
もう一生このままでいいと思ったよ。ヒース、アルビーと三人足をつけながら、放心状態。全身浸かりたいのはやまやまなんだけどね、この後も外に出ることを考えたら我慢我慢。
そうそう、アルビーが合流してから、外より寒いあの家のおじさんを訪問したんだ。雪かきは一切されてなくて、やっとこさ玄関を開けると昨日よりも寒かった。
このままじゃ凍死するんじゃないの!?
やっぱりおじさんは薄着で(でもさすがに今日は上着を着込んでいた)、「おらは行かん」と再び銅像のように拒否だった。飲み水は確保できてるし、どこも悪いところはなさそうだし、まあ大丈夫なのかな…。
一休みして、ヒースとアルビーは再び出て行った。わたしは避難している人の問診と、グレース様の警護を指示された。不特定多数の出入りが多くなってきたし、イライラする人も出る頃だ。昨夜みたいなトラブルがまた起こってもおかしくない。
グレース様は部屋に戻っていた。
「お加減はいかがでしょうか」
「あら、おかえりなさい。もうすっかり平気よ。寒かったでしょう?こちらへどうぞ」
淡いピンク色のショールを肩からかけて、テーブルで書き物の途中だった。帳面を閉じると、ストーブの近くに手招きして自分も腰掛ける。
「住民は皆無事なのかしら」
最初にこれが出てくるのが、さすが領主だと思う。
「はい、わたしが訪問した先は大丈夫でしたし、近所で協力しながら何とかやりくりしていました」
「よかった…。あなたたちも大変なところに来てしまったわね。ごめんなさい、私のせいで」
グレース様の顔が陰ったので、慌てて首を振る。
「いえ!そんな!天候なんてたまたまですし、基地にいたら駆り出されてますから」
記録的寒波になっているはずだからね。基地の辺りも雪が降っているだろうか?
「他人のために、当たり前のように身を呈しているのよね。すごいわ」
ううん、…わたしはまだ、当たり前になれていない。
そんなんで人を助けられると思ってんのか。
死ぬ気でやれないなら一度死んでこい。
諦めんな!!!
入隊したその日から、グレイヴ隊長には怒鳴られてゲンコツだった。ものの数ヶ月前のことなのにはるか昔のようで、たぶん辛過ぎて記憶から削除されたのだと思う。
決して理不尽なことをされたわけではないよ。敵を倒して生還するために必要な訓練なのはよーく分かるんだけど、それでも本っ当に(いやもちろん今でも)鬼隊長だと半ば恨んだものだ。隊長は他の隊の指導もしているから、あまりの厳しさに辞めてしまった新兵も少なくない。
それでもまだ、わたしはやらずに済む理由を探してしまう。逃げるための嘘が口をついてしまう。
「わたしは隊長や皆んなに甘えてるだけなんです。ほんと、情けなくって…」
なるべく明るく言おうとしたのにね、体が温まってホッとしたからからかな。鼻がツンとして、じわっと涙が湧いてきた。
焦って下を向いたけど、グレース様には完全にばれてしまったみたい。
「向いてないんじゃないかと、言っていたわね」
薪ストーブの上に置かれた小さなヤカンが、シュンシュン言っている。グレース様はハーブティを淹れてくれた。
今までのとは違って、濃いオレンジ色でほんのりスパイシーな香り。しっかり主張する味で飲みごたえがある。
「
カップを両手で包みながら、低い声だった。
おかしいでしょ?だってグレース様は侯爵で領主で、そんなことは下々にやらせておけばいいじゃない?
「男に産まれれば良かったのよね。その方が合っていたと思うわ」
明るく言った。けれど、わざとだ。ずっとずっと心のひだの奥底に隠しているものが、顔を出した瞬間。
ハッとして、どうしようかと一瞬迷って、でもわたしはそれを掴んだ。
「そんなことありません!あのっ、医療処置は得意なのに料理は全然ダメな友人がいます。わたしも片付けが苦手で部屋が汚くて、でも隊長の部屋はいつでもきれいで…だから、女だからとか、関係ないんじゃないでしょうか」
…わたしなんかが偉そうに言えた立場じゃない。けどね、昨日だってわたしは何も言えずにやり過ごしてしまったんだ。
グレース様はわたしを見つめて、待ってくれている。
「軍では男も女もありませんが、それでも配慮はしてもらえる時はあります。政治の世界のことはよく分かりませんが、女だからと甘やかしてもらえる場所じゃないところで、グレース様はずっと戦ってこられた。
それに、わたしの仕事は辞めようと思えばいつでも辞められますが、グレース様にその選択肢はないのですよね。わたしなんか、怒られるたびにもう辞めたいと思ってしまいます。だから、辞められないことの大変さは並大抵ではないと思います。それで、その…」
頬が熱くなるのを感じた。もう何を言ってるのか、何が言いたいのか、自分で混乱して分からなくなってしまった。
「それで、産まれながらに公務を定められてきたグレース様のお気持ちは、わたしなんかには到底理解できませんし、お会いしてまだほんの少ししか経っていませんけど、でも、グレース様ほどの方でも悩むことがあるなら、あの…力になりたいです」
まるですべすべと艶のある一枚の布のような滑らかな肌。少し眉尻が下がり、微かに唇が震えて、それから花が咲いたように微笑んでくれた。
「ありがとう、メグ。あなたに会えて本当に良かった。でも、私の悩み相談ではなくあなたの相談じゃなかったかしら?」
「あっ…」
棚上げして置き忘れちゃうんだもん、グレース様に比べたら、わたしの悩みなんてちっぽけで安上がりだこと!
「辞めたいと思いながらも頑張っているのね。私もそうよ。もうよいのではないか、ここが潮時ではないかと思うこともある。けれども、そうね、私の代わりはいないから、逃げ出すわけにはいかないものね」
それから、お茶を一口飲むと深緑色の瞳でわたしを見た。
「あなただって、情けないことなんてない。他人を思いやり、命懸けで私を守ってくれたもの」
つっかえるものはたくさんたくさんある。けれど今だけは、その言葉を素直に受け入れても良いのかもしれないと思った。
わたしはグレース様とは違って、他人の為とか、ましてや国の為なんて気はさらさらない。
けど、何かをこんなに頑張ろうと思えたのは初めてで、文字通り吐くまでやったのも初めてで。だから、まだ負けたくない。
窓に顔を向けると、降り積もる雪が深緑の瞳に映った。
「侯爵家にとって子孫を残せないことは致命的だけど、それは私の子孫ではなく領民皆を幸せにするよう、与えられた使命だと考えていた。だから領民を自分の子だと思い接してきたわ。もし私が男に産まれていたら、そうね、同じようにはいかなかったでしょうね」
この雪のように、彼女の思いは領民に降り注ぐだろう。気付かぬうちに溶けてしまうかもしれない。
けれど、その結晶を目にする人もいる。その人はきっと心から彼女に感謝し、敬うだろう。
それからわたしは1階に降りて、避難者たちの問診をした。ずっと座りっぱなしは血流に良くないので、簡単な体操を一緒にやったり、暇を持て余した子供たちと巨大な雪だるまを作った。
「すごいな」
「あっ、隊長、おかえりなさい」
どんどん転がして大きくしたのは良いんだけど、これ重すぎて上に乗せられないなーと思っていたら、グレイヴ隊長が手伝ってくれた。拾ってきた枝で手と顔を作って、女将さんがくれたニンジンを鼻にすると、子供たちから歓声が上がる。
公民館方面の安否確認はほぼ終了し、ダグラスらと交代で休憩することにしたそうだ。
「こっちはどうだ?」
「ヒースが回っています。こっちも被害は無くて、住民同士で薪や食糧を提供し合って凌いでいました」
目下の懸念は薪だった。パン屋が薪を切らしており、パンが焼けないという、ゆゆしき事態である。各家庭からの寄付で今日の分は何とかなったが、明日はわからない。
2階の部屋に入ると、ストーブの前で手と足を温める。わたしはソファに腰かけた。
「グレース様は?」
「今はお休みになられています」
「さっき公民館で、ラッセルから病のことを聞いた。体調に変わりはないか」
「はい…。それ以上のことは何も聞き出せていませんが、今は痛みや症状はないとおっしゃっています」
ラッセルが隊長に報告したということは、やっぱり病状は…?
「あの、グレース様のことなんですが…」
隣室に目を向け、無言で隊長は人差し指を口に当てた。声のトーンを落としてわたしは続ける。
「病を抱えている以上、湯治目的はあっても、妊娠を希望されているわけではないように思います。見立てが間違っていなければ、妊娠出産に耐えられる体ではありません」
「だとすると、命を狙われているというのも嘘かもしれないな。盗賊ジルバの言動は不自然すぎる」
「本当の目的は一体何なんでしょうか」
隊長には何か目星がついているのかもしれないと思ったが、答えは「さあな」と乾いたものだった。
ストーブに薪を足すと、手足が温まったのだろう、今度はわたしの横に腰かけた。
「人は、本当のことは話さない。賢い奴ほど無意識に言葉を並べて隠そうとする」
怒鳴るか、ボソッと話すか、中間が無いのが隊長だ。ちゃんと聞かなきゃと思うから自然と体ごと隊長の方を向く。
「お前の言ってることだって、本当はそうじゃないと俺は思ってるぞ」
「えっ!?」
ドッキーン!いやいや、別に嘘ついてるわけじゃないよ?
澄ました顔で隊長は目を細めた。
だとすると、どうしたらグレース様の本心を引き出せるんだろうか。うーん、目覚めたらお風呂にお誘いしてみようかなぁ。
なんて思ってたのにね、異変というやつは、なぜかいつも日暮れとともにやって来るのだった。
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