第8話 糸の上
辺りが白み、道が見えるようになるや否やわたしたちは出発した。雨は既に氷の粒になっている。寒い!寒いよー!寒すぎる!
一刻も早く暖をとりたい一心で進む。外套を買っておいて本当に良かった。無ければ凍死していたと思う。表は濡れているけれど内側までは浸み込まず、思っていた以上に熱を逃がさない。
それでもわたしたちにとって、雪が降るような寒さは免疫がない。
早朝にもかかわらず宿屋『銀の実亭』の扉を叩いた隊長からも必死さが伝わった。
何回か叩いていると、警戒しながら主人らしき小太りの男が扉を開けた。
「早朝に申し訳ありません。昨日到着予定だったのですが、賊に襲われ野宿することになってしまいました。こちらの女性だけでも先に室内に入れていただくことはできないでしょうか」
そう言われれば、一人だけどうぞってわけにはいかないよね。人の良さそうな主人は、それはそれは寒い中大変だったでしょうとわたしたちを中に入れてくれた。
木製のすべすべしたカウンターと、テーブルセットが4つ。どれも使い込まれて磨かれて、いい
食堂の薪ストーブに火を入れて、朝食が出来るまでの間待たせてもらえることになった。部屋も温めておいてくれるって!よかったー。
「グレース様、こっちにどうぞ」
わたしは椅子を引っ張ってストーブの側に置いた。
「ありがとう」
椅子に座ると外套の下に足を抱える。
「寒いですか?」
「ええ…少し横にならせてもらえるとありがたいのだけど」
するとラッセルが主人と交渉すると、まだ冷えているけど部屋を使わせてくれることになった。
階段を上がって一番奥が貴賓室でグレース様の部屋。貴賓室は2間あるから、居間スペースの方にわたしは泊まることになった。男4人は隣の部屋だ。
「お
ヒースの言う通り、夜中に侵入されてグレース様に何かあったらわたしの責任だよね。大丈夫かなぁ…。
「隊長、どうしたら寝ている時も異常に気付けるんですか?」
「…警戒しながら寝るんだよ」
ニヤッとされた。いじわる!そんなこと言われたって分かりっこない。
隊長が「何かあったら起こせよ」と言う時は完全に寝る時で、それ以外は半分寝ていて半分起きている状態というのは知っている。どうしてそんなことができるのかというと、厳しく訓練したからだそうだ。
一朝一夕で身につくものではないし、昨夜は寒くて寝付けなかったから今夜はぐっすり眠る自信がある。どうしよう!?
部屋に入り、彼女は外套と靴を脱ぐと、着替えもせずそのままベッドに入ってしまった。よほど疲れていたんだろう。賊に襲われてそのまま野宿したんだもん、どちらも侯爵にとっては初めての経験だよね。
話しかけるのも申し訳ないので、何かあればすぐ気付けるようにドアを半分だけ閉め、隣の部屋でわたしも外套と靴を脱いだ。冷え切った足の指先をストーブに向けると、ジーンとする。
すると控えめに扉がノックされる。開けるとラッセルだった。
「ひとまず朝食まで休めって。グレース様は?」
「もうお休みになってます」
「風邪とかひいてなければいいんだけどな。様子見てくれよ」
「はい」
お言葉に甘えて横になると、みるみるうちに眠気に包み込まれた。次に気付いたのは再びラッセルのノックで、朝食を知らせていた。一瞬のように感じたが、3時間も眠っていたみたい。
冷たい水で顔を洗って、グレース様のところに行った。
「グレース様、朝食の準備ができたようです」
声をかけると彼女は目を覚ましたが、その顔が赤くなっていた。ハッとして失礼しますと額に触れると、間違いなかった。
「寒気がするの。もう少し熱が上がるかもしれないわね」
「他に症状はありませんか」
「少し鼻が詰まっています。食欲はあるから、朝食をここに持ってきてもらえないかしら」
わたしは首を縦に振ると1階に向かった。テーブルには柔らかそうなパンと、野菜がたっぷり入ったトマト味のスープ、ゆで卵のサラダが並んでいる。思わず唾を飲み込んで、席についていたラッセルと隊長たちに発熱していることを伝えた。
「…無理させてしまいましたね。ちょっと行ってきますんで、先食っててください」
苦い顔をしてラッセルが立ち上がった。わたしはお盆を借りて、グレース様の食事を載せて後に続いた。
「失礼します」
やってきたラッセルに、グレース様は視線を向ける。
「おはようございます。昨夜は無理をさせてしまい申し訳ありません。熱があると聞きましたので、診察させていただけますか」
なぜだろう。グレース様の目が一瞬挑戦的になった。そして、
「ご心配には及びません。…と言っても納得してくれなさそうね。朝食をいただいてからでもよいでしょう?せっかくのスープが冷めてしまうわ」
いつも通りの声色で言った。
こちらのラッセルもいつもながらの受け流し対応で「ではお食事が終わる頃にまた伺います」と一礼して去っていく。
食事を置いて、でもやっぱり心配でわたしは振り返った。
「あの…何か必要なものがあればおっしゃってください!」
「大丈夫よ、あなたを心配させるわけにはいかないもの。食事をしたら診察を受けるから安心してちょうだい」
わたしは頷いて部屋を後にした。
温かい朝食に心と体の芯まで癒されると、男子部屋に集合する。テーブルを真ん中に、全員眉間にしわを寄せている。問題はもう一つあったのだ。
「足りないな」
ボソッと隊長。
わたしが寝ている間に隊長はリビを返却したが、ジルバに奪われた4頭分を補償しなければならなくなった。1頭当たり1000オルグ、全部で4000オルグの痛い出費だった。荷物も奪われたのにね!!
ざけんな足元見やがって、この商人もジルバと結託してるんじゃないの?なんてヒースレクサスと悪態をつきまくったところで戻ってはこない。
グレース様にもらった旅費7000オルグのうち、半分はジルバに渡している。残り半分では足らなくて、隊長が自腹を切ってくれたのだ。
問題は宿代だが、全員有り金を出してみたところ合計1250オルグ。
食事付きで一人1日100オルグのところ、5人で1部屋ってことにしてまけてもらって80。貴賓室は150オルグ。1日当たり550オルグかかるから、3泊はできない計算になる。更に今日の朝食と昼食も加算されるから、2泊でも足りないかもしれない。明日帰るというのはまずありえないだろう。
「経費請求にできないんすか」
「忘れたのか、俺たちは休暇中だ」
再び全員眉根を寄せて黙ってしまう。
こんな
人の良さそうなご主人だったけど、今時肉体労働で支払いに代えてくれるだろうか?
「グレース様には黙っとけよ」
ヒースに言われて頷いた。銀の実亭にはわたしたち以外に客はいない。
宿代が払えないために、まさか村から追放とか訴えるとかないよね?軍人が宿泊代金踏み倒したなんて、昨今のご時世からしたら格好のニュースだし、軍上層部からも処分が下されるだろう。
「まずはグレース様を診てきますんで」
しかしラッセルはどこ吹く風で立ち上がると、救急バッグを手に「行くぞ」とわたしに声をかけた。
無造作なのかボサボサなのか分からない髪型といい、こっちが真剣な話をしてるのに面白くもない冗談言ったり、もうちょっと真面目に考えてよ!ってイラつくこともあるけれど、わたしは彼が怒ったところを見たことがない。
再びグレース様の部屋に入ると、彼女は部屋着に着替えてベッドに横になっていた。
「お食事はどうでしたか」
水銀の体温計を振って渡しながら尋ねる。
「パンもスープも丁寧に作られていて美味しかったわ。申し訳ないのだけどサラダは食べる気がしなくて、良かったらどうぞ」
聴診器を耳にはめ、失礼しますとラッセルが言うと、グレース様は胸をはだけた。
元々スリムな体形なのだと思う。しかしそのえぐれた様な痩せ方は明らかに健康ではなく、わたしは顔に出てしまい、しまったと思ったが、さすがラッセルはプロだった。
眉一つ動かさず心音を聞くと、
「いいですよ、肺の音は問題ありません。喉を見せてください」
胸元を閉じるよう促し、口を開けさせて喉の奥を見た。
「喉は少し赤くなっています。悪化させないよう薬を処方したいのですが、常用されている薬がありますね。飲み合わせのことがあるので教えて頂けますか」
計り終わった体温計を淡々と受け取る。
さっきグレース様が挑戦的な目をしたのは、こういうことだったんだ。
あの痩せ方は、闘病生活が短くないことを物語っている。そして恐らく…治る見込みが低い病だろう。
「薬のことなら少しは分かります。あなたが処方しようとしているのは何かしら」
ラッセルは炎症止めの名前を告げた。
「それなら飲んだ事がありますから、併用しても問題ないでしょう」
何も見なかったかのように平然と会話する二人。だけどわたしは衝撃からまだ立ち直れなかった。
「メグ、薬の準備して」
指示されてようやく動くことができたんだ。医療者が動揺してちゃいけないのにね。
ラッセルの救急バッグから薬の箱を取り出す。中は仕分けられているのかいないのか、本人にしか分からないようになっている。
「そう、それを半量にして」
先程の炎症止めの薬包を開封する。
「…時機を見て私からお話ししますから、皆には黙っていてもらえないかしら」
グレース様は深緑の瞳を半分伏せた。
「医療者には守備義務がありますので。ただし、毎日朝と晩に診察させていただきますよ。それに、少しでも体調が悪い時は隠さずおっしゃると約束してください」
「わかりました」
わたしが半量にした薬包に、ラッセルは乾燥させた薬草をすり潰した別の薬を混ぜ、
「私の秘密を一つ知ったのだから、あなた方の秘密を教えてほしいわ」
そして再びわたしたちを見ると、そう言った。
うっ!!秘密ってもしかして、グレース様気づいていらっしゃる?
ダメダメ!今グレース様がお金出してくれるんじゃないかって期待したよね?
しかし彼女の言う秘密はわたしの低俗な想像とは全く別だった。
「あなた方は以前、隊長と隊員を亡くされたと聞きました。聞かせてもらえないかしら」
やっぱり昨夜のわたしとヒースの会話、聞こえていたのかな。
わたしたちの視線を受けて、ラッセルは少し間を空け、
「いいですよ」
と、薬の箱を片付けながら言った。彼が椅子に座ったので、わたしも着席する。
「ちょうど2年前です、管内で起こった集団立てこもり事件でした。犯人は『ヒダン』というゲリラ組織で、掃討作戦は終盤にかかっていました」
勤続25年以上の大ベテランのオルド隊長と、隊長の相棒バナ、ヒース、そして後輩医療班のグレアムと共に、ラッセルは現場に向かった。ヒダンは一般市民を人質に立てこもっていて、救出と
「我々は人質の救出部隊として、先行隊の援護を命じられました。狙撃の名手バナが離れたところから建物内の敵を始末し、力を削いでからの突入でしたので、戦闘はこちらが有利なものでした」
しかし、先行隊が人質が捕らわれている部屋にたどり着いた時、罠が発動した。扉を開けると爆発するという単純なものだ。
「扉を開けた先行隊の2名は、その場で即死でした。厄介だったのは、最初の爆発が他に仕掛けられた爆弾へ連動していたことです」
そして人質とともに脱出の最中、オルド隊長が爆発に巻き込まれた。連れていた親子の上から覆いかぶさり、
「一目見て手の施しようがないことは明らかでした」
隊長の救出は諦めるしかない。ラッセルが意を決してその場を離れようとした時、まだ生きているのだからとオルド隊長を担いだグレアムが撃たれた。
「現場が制圧された時、グレアムと隊長に既に息はありませんでした。人質を救出し、敵を殲滅し、任務は遂行した。しかし、あまりに大きなものを失いましたよ」
聞くだけでも胸に鈍く重たい鉄の杭を打ち込まれたように感じる。これがわたしたちの仕事なんだ。
そんな時に赴任してきたのがグレイヴ隊長だった。ラッセルはグレース様からわたしに視線を移す。
「翌年バナは契約満了で退役しました。グレイヴ隊長を信頼していましたが、バナにとってやはり隊長はオルド隊長だけだったんでしょう。それから今年になって、新人2人が来てくれて今に至るというわけです」
いつも通り、どこまで真面目なのか分からない
「話してくれて感謝します。大変な経験を乗り越えてこられたのね。だから昨日のようにお互いを信じて動けるのね」
そう言われて、ラッセルはかぶりを振った。
「そんなかっこいいものじゃありませんよ」
「やはり、あなたがたを選んで良かった。私なんて常に裏を疑ってしまうもの。
そんなことないと思う。それが彼女の生きる政治の世界なんだ。
でも、わたしなんかが口を挟むのはおこがましい気がして、その時は何も言えなかった。
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