銀の御手のサジタリウス
阿部登龍
銀の御手のサジタリウス
手のひらをかざす。
痣が
老人はまなじりに皺を寄せた。病熱にしわがれた唇から、〈太陽〉を表す古語がこぼれる。サジの目にも、その顔にはどこからか光りが射して見えた。サジの手に残った銀の痣が、まるで曙光ででもあるかのごとく。
老人の顔に浮かぶ安堵とも幸福ともつかぬ表情は、つかの間、サジをためらわせた。
「サジ」
サジの視線が動いた。その先には、老人の痩せた身体にすがりつく孫娘の姿があった。豊かに渦巻く銅線のような髪と、丸く愛らしい鼻。そして老人と同じ黒オリーブ色の
彼女とこうして見つめ合うことを、たしかにかつてサジは望んだ。だがそれは、これほどに憂いを帯びたものではなかった。泣き濡れて、そののち涙も乾上がった、涸れ川のようなものでは。けっして。
鉄の杭に貫かれたような痛みをサジは感じる。
「そなたに」
歯を噛みながら、サジは老人の頬へと手をのばした。
触れて、告げる。
「銀の御手の慈悲よあれ」
長くため息が漏れた。立ち枯れた木の
それが誰のものであるのかサジにはわからなかった。
ただ、知っているのは、己を貫く痛みのこと。
それを自らにもたらすべき、白く、雪のごとき、
草むらで息をひそめ、サジは堅いイチイ材の弓を撫でた。
自ら作った弓に、自ら作った
そうでなくともサジは異端の子だ。
成人である十五を過ぎ、このままならば、
ならばすべて、遅いか早いかのこと。〈聖なる山〉に天運を問うてみるのもいい。
かくてサジは験しに名乗りを上げた。
しかし、この十年、狩人と認められた者はたったふたり。験しを受けた者はその数十倍はくだらないのだから、途方もなく狭き関門だ。
溺れそうなほど濃密な魔性の気配に、サジは息をゆっくりと吐き出した。気を緩めれば、またたく間に肺腑が押し潰されてしまいそうだった。震えだす身体の手綱をとりながら、深く、深く息をする。
試練は厳しい。だが、真におそるべきは、験しに成功した者の数などではなかった。
十年のあいだ、追放者がただのひとりもいないことだ。
古き魔性の息づく〈聖なる山〉がサジを験す。
裁定の天秤の一方には、彼自身の心臓が載っている。
試練の期限となる三日目、サジの焦燥は限界に達していた。
この三日、ついにひとたびも、彼の弓が箭を放つことはなかった。
獲物がいない。
これまで数多の凡夫を葬ってきた、〈聖なる山〉に
初めは移動すら怯えながら。しかし三日目ともなると、恐怖より焦りが勝ちはじめた。サジの所作は遥かに大胆に、彼はいま、〈聖なる山〉を気配すら殺さずに駆けていた。
「プロメ」
少女の名が口をついた。
銅線みたいな髪、太い眉。底抜けの笑顔と黒緑の眸。
異端の子に石を投げず、花をくれたひと。
彼女と共にありたい。彼女と並んで歩むことのできる自分でありたい。呪わしき異端の烙印も、狩人の験しをくぐり抜けた名誉の前では力を失おう。それに思いいたったとき、サジの胸を支配したのは、そんな、ただまじりけのない思慕だった。
太陽が中天にさしかかる時刻。ふいに雲が温もりを遮った。
景色が薄墨を刷いたように暗くなって、サジは足を止めた。
なにかがおかしかった。
すぐさま
冷たい風が、うなじの
唾液を
木漏れ日が下生えに織りなす、まだらな光の絨毯。そこに真っ白なひづめが入ってきた。
次に前脚が、鼻先が、頬が、瞳が、首が、胸が、肩が。暗がりにひそめられていた肢体が、光によって順に輪郭を取り戻していくさまはまるで、いままさに大理石から彫りだされつつあるかのようだ。
サジは言葉を忘れ、進行する光の彫像へ魅入った。
そうしてようやく全身を陽の下に晒したのは、一頭の美しい白馬だった。
サジが耳元で、びょう、という音を聞いたのと、白馬が彼を見たのは同時だった。すくなくとも彼は刹那、そう考えた。だが実のところ、その後に起こったことを思えば、白馬が彼を見たほうが早かった。
鏃は白馬の頚を掠め、傷口は血しぶきを舞い散らせた。木漏れ日の下できらめくその血のひとしずくまで、狩人たるサジの目はとらえていた。
血は水銀のように、青みがかった銀色だった。
そしてなおもサジを見つめる白馬の額には、一本の角が伸びていた。
それこそが彼の手元を狂わせた元凶だった。
「一角獣」
神々しき魔性がそこにあった。
山を下りたサジを出迎えたのは、驚きと嘲りのまなざし。
それは異端の子に対する常と変わらぬ歓待のさまだ。
日暮れ前に村に戻った少年の持ち物は、背にかついだ弓と腰に提げた山刀だけ。それらは狩人の験しにあたって携行を許される、ただふたつの品だった。
生きのびたことは慮外。験しに破れるのは予想通り。彼を囲んだ村びとたちは、ついに異端の子が村を去る瞬間が来たとざわめいた。
だがそれも、彼が取り出したものを見るまでだった。
螺旋に溝が刻まれ、純白にほの光る一本の角。
そしてそれを握りしめる手のひらは、月光のように青めいた銀。
「帰ったか、サジタリウス」
どよめく群衆を割って老人がやって来た。
細身で小柄な、しかし威厳を感じさせる村の長老。
その後ろに付き従うのは、
「プロメ」
「サジ、やり遂げたんだね。信じてたよ」
少年は頷いた。飛び込んできた少女の体重を受けとめて、そのまま強く抱擁する。
予想していなかった反応だったのか、少女は「わあ」と声を上げた。腕の中でもぞもぞ身動きすると、ブラックオリーブの瞳がサジを見上げる。口元には稚気の混じった笑み。
「いつからそんなに背が高くなったの?」
「ずっと前からだ」
「うん。知ってるよ。わかってた」
サジは少女の温もりが潮のように自分を満たすのを感じた。
「こら、プロメ」
老人は孫娘を優しくたしなめると、サジからそっと引き離した。
「われわれの〈狩人〉殿に、失礼をするでない」
その一言に、事態を見守っていた村びとたちが、いっせいに歓呼の声を上げた。
この村では初めての狩人だ。村びとたちの変わり身の早さに腹を立てることもできたが、サジはそうしなかった。これから一生、この村で生きていくのだから。
プロメと共に。
〈聖なる山〉で獲物を捕らえた狩人はみな、かれの験しになぞらえて異名を得る。
得るというよりは、詩人たちが活躍を讃えた詩を歌えば、そのなかの名が自然に定着するというべきか。ともあれその名は〈聖なる山〉を囲む森の民の集落すべてにどよもす。
〈小鬼殺しのイシドエル〉や〈
サジに与えられた異名はまず前者で、それから後者に変わった。
「〈一角折り〉よ」
「なんだ」
呼びとめられたサジはふり返り、三人の村の若者を認めた。
当然だが、そうして狩人として
「本当のことを言ったらどうだ、狩人様よ。あの角は偽物だろう。お前は森の掟を破った異端者の子だ。どうせ浅ましい人間の商人から買いでもしたに違いない」
「ちょっとあんたたち。サジはもう」
「いいんだプロメ」
猛り立つ少女をサジは制した。
「たしかに俺は異端者の子だよ。森の掟を破って人間と交わり生まれた〈雑じり〉だ」
だが、とサジはすばやく背中から弓を抜き放った。若者たちが身構える前に、すでに箭は放たれている。三本。その鏃は寸分も違わず彼らの額に突き立っている。
「それでも〈狩人〉だ」
ただし、地面に伸びた彼らの影に。
悲鳴すら上げることができない若者たちを尻目に、二人はふたたび並んで歩きはじめた。
「ちょっと怖いくらいだね」
プロメの言葉に、サジはあいまいに頷く。彼女が彼の手のことを言っているのがわかった。神域に達する弓の技は、間違いなくそこに残された銀の痣のせいだった。
サジはその痣を、一角獣の血に触れたせいだと説明していた。
あの銀の血。木漏れ日に舞い散ったしぶき。美しき化生の血に、侵されたためだと。
「サジ?」
「すこし、考えごとをしていた」
「そう。楽しい考えだったら嬉しいんだけど」
「きみがいればいつだって楽しいよ」
「お上手だこと」
この日サジが長老から呼ばれたのも、その痣が理由だった。
「一角獣の血には力がある。痛みを除き、安らぎを与える力だ」
長老が言った。いま三人がいるのは、村でも有数の弓作りの名手、アルの家だ。
彼は寝室に続く扉を示しながら続けた。
「であれば、サジタリウス。そなたの手にも、その力が宿っているのではないか。今日はだから呼んだのだ」
彼の黒オリーブのまなざしと、狩人としての知識から、サジは長老の求めるところを寸分違わずに了解した。
「癒やしの力ってことだ?」
孫娘に問われ、うむ、と長老は唸った。
「似たようなものだな」
サジタリウス、と長老に促されて、サジは寝室に入った。扉の向こうでプロメが文句を言う声が聞こえた。なぜ婚約者である自分が共に行ってはいけないのかと、そういった内容だ。
彼女の明るい声を耳にしたあとで、寝室の様子はなおさら悲惨だった。
サジは虚ろな表情を浮かべた家族たちと目を合わせないように、寝棚まで近づいた。
痩せた老女が横たわっていた。皺だらけの顔に、頬骨が浮き、髪はまばらに抜け落ちている。落ち窪んだ眼窩の奥には、意識の兆しさえ見えなかった。
「弓を手先で射ようと思うなよ、サジ。けものを狩るならばそれもいい。なれど、まこと望むものは、それはお前の心で狩るほかにないのだからな」
かつてサジにそう言ったひと。目の前の変わり果てた老女が、異端の子にも隔てなく弓の技を教えてくれたあのアルテミスなのだとは、にわかには信じがたかった。
〈聖なる山〉を
であるのに。アルの様子はどうだ。
彼女を冒すのはこの数年、森の民を襲いつつある病だった。
原因も理由もわからない。どころか、実のところ、これが病であるのかすらわからない。そも、老いによる衰えとも、病による苦しみとも無縁なのが森の民だ。それを究明する手段や知識の蓄えがあるはずもなかった。
だから、サジが呼ばれた。
一角獣の角と血。
万病を癒やすという角は、人間にとっては垂涎の至宝であろう。
だが、もとより病を寄せ付けぬ、サジたち森の民にとってはそうではない。欠片を粉末にして啜らせてもアルは癒えなかったのだから、その伝承ですら疑わしくあるほどだ。
「〈一角折り〉殿。どうか祖母に慈悲を」
枕元に立ち尽くすサジに、すがるような言葉がかけられる。
サジはぎこちなく頷き、その右手をかざした。
月光のような銀色が寝室を染め、アルの顔におだやかな光りを取り戻す。
「アルテミス。なんじ、よく眠れ」
頬を撫でる。寝室のそこここから、家族たちのうめきと、感謝の言葉とが聞こえた。
角が万病を癒やすのならば、一角獣の血は万病を終わらせる。
それは至高の毒薬なのだ。
〈銀の御手のサジタリウス〉
それがふたつめの異名であった。
「サジタリウス」
名前を呼ばれてふり返った。風になびく銅線の髪。プロメだった。
「君にそうやって呼ばれるのは久しぶりだ」
「そうだっけ」
サジタリウスは頷いた。
「また、なにか考えごと?」
おずおずとプロメが尋ねる。無理なからぬことだ。彼女は〈銀の御手〉の力が振るわれるさまを初めて見たのだ。それも、自らの祖父に対して。
「思いだしていたんだ。父のことを」
「お父様のこと」
ふたたびサジタリウスは頷く。
異端者である父について、サジタリウスが覚えているのは、いまや彼の言葉だけになった。愛した人を同胞たちの手によって奪われ、故郷を放逐される以前のこと。もうその時には、彼は自分を待つ未来を予感していたはずだ。
「
「ふたつ?」
「そうさ。なんだと思う」
考え込んで唸るサジタリウスを父は笑って、すこし難しかったな、と言ったのだ。
「父は幼いぼくに、ぼくたちが手に持つことのできるものは、たった二つしかないと言った」
「ふたつって?」
それはあの日の再演だった。
おそらくは、呪いの。
「それは剣と花だと」
「剣と花」
プロメが眉根を寄せてくり返した。
「そうだ。剣と花。子どものぼくにはよくわからなかった。だけど、いまはわかるような気がしてしまう」
サジタリウスは自分の胸に手を当てた。銀の痣がほの青く光った。
花をもらった。あの幼い日の野辺で。
石の代わりに花をもらった。
痛みの代わりに、かぐわしい香りを。可愛らしい色を。
やわらかい温もりを。
それを返したいと思うのは、間違いだったのだろうか。
毒にたおれた美しい化生。その角を切り取って、立ち去ったことは。
サジを見つめるその目に怒りはなかった。だからあの日、貫かれるべきだった胸には、傷跡も、深い孔もなかった。
痛みだけがあった。
永遠に訪れない、まぼろしの痛みが。
「弓がある」
顔を上げた。プロメが彼を見つめていた。黒オリーブの目がおだやかに微笑んでいた。
サジタリウスは、自分の胸の内の虚しさに一点、打たれる光りを感じた。
それはあの、冷ややかな銀の光りではなかった。
「弓があるよ、サジタリウス」
あたたかな、太陽に似た、
銀の御手のサジタリウス 阿部登龍 @wolful
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