4-8

 僕は走っていた。ホームから線路に飛び降り、ケータイを握り締め、線路や石に足を取られながら懸命に走っていた。

『聞こえました。鈴? さっきまで聞こえなかったのに』

『お前の存在が気付かれた。捕まったら終いだ。逃げろ』

『トンネルは駄目なんですね? 反対方向へ逃げるのは?』

『音はその反対方向からしている筈だ。トンネルの方へ行くしかない。さっきもいったがその中には入るな。線路から逸れるのも駄目だ』

 僕と彼の遣り取りの間に、彼を非難するレスや、音がするならやはりそこを離れるべきだ、と云うレスが付いた。

『分かりました。逃げます。助けて下さい、お願いします』

 そのレスを最後に、僕はケータイを閉じて駆け出したのだった。

 足音は僕のもの以外聞こえない。けれど確かに鈴の音が聞こえていて、いつの間にか太鼓らしき音も混ざっていた。そしてそれらは、確実に近付いてきていた。次第に人の声も聞こえ出す。

 おぉおおおおぉぉ

 おぉおおおおぉぉ

 遠くで、低く叫ぶ様な、呻く様な声だった。

 息が上がる。気管が焼ける様だ。冬だと云うのにこめかみを汗が伝い、顎から落ちた。

 足元にごろごろと転がる石に躓いて派手に転ぶ。地面に突いた膝や掌が酷く痛んで、暗くて見えないがきっと血が滲んでいるのだろうと思った。脚ががくがくして上手く立ち上がれない。

 顔だけを上げると、ぽっかりと真っ暗な大口を開けたトンネルが、ほんの二、三メートル前に鎮座ましましていた。

 どちらにせよこれ以上は進めない。そう分かって僕は、線路の上に座った。トンネルに背を向け、音の迫る闇へ目を向けて。

 もう五分くらい経ったんじゃないか? 彼は未だ来ないのか?

 徐々に音が迫って来る。

 間に合わないのか。

 諦めて目を閉じようとした瞬間、目の前に一本足の人影が立った。

 人影は、暗さの所為で本当にただの影の様に見えた。細く、小柄な男の様だった。片足の無い老人を思い浮かべる。最初の、消息が不明になった体験者に線路を歩くなと忠告したのと同一人(?)物だろうか。

「全く、どうして生きた人間をこうも引き込みたがるかのう」

 しゃがれた声が、目の前の影から聞こえて来た。呆れた様な、溜息交じりの声。

「魂の数が多ければ良いと云うもんでもなかろうに」

 そう云って、影が振り返った。顔は見えないが、優しく笑っている様に見えた。

「安心おし。もうすぐ迎えが来るよって」

「……あなたは、」

「大丈夫」

 一際大きくなる音。鈴と太鼓と呻き声。

「五月蝿いのう」

 音の方へ向き直った影がそう云うと、パシン、と何か弾ける様な音がして、鈴と太鼓と呻き声が遠退いた。しかしまたすぐに音が近付いてくる。パシンと弾ける音がして、鈴と太鼓と呻き声が遠退く。繰り返し。

 呻く声は、怨嗟の声だ。パシン、と弾かれる度にそれは低く不機嫌になっていき、その声だけで全身が震えた。見えない触手が迫ってくる様な、体を這い上がっていく様な気色の悪さを感じる。脂汗が噴き出し吐き気が込み上げた。

「ああ、間に合った」

 しゃがれた声が安堵を零し、最後に一際大きくパシンと鳴って、一本足の影はもうそこに居なかった。

 呆然としていると、上空でびゅおう、と派手な風音がして、

「無事かっ」

 切羽詰った様な男の声が降って来た。掠れたテノールに頭上を見上げる。暗過ぎて、何か大きなモノがある事しか分からなかった。

 すぐに頭上の大きな影がざっと音と砂煙を上げて、先程まで一本足の影が居た場所に着地した。

 巨大な狼だ。白銀の毛が、闇の中で薄らと輝いて見える。その背に乗っている人が、こちらに手を差し出してきた。

「立て! 早く!」

 その声にはっとして、慌てて立ち上がる。足を縺れさせながら男の手を掴むと、ぐっと凄い力で引っ張り上げられて、次の瞬間目の前に男の顔があった。闇の中で爛々と、金色の目が輝いている。

 僕の背に回された男の腕は思いの他細く、この腕でどうやって僕を持ち上げたのだろうと思うと同時に、僕らを乗せた狼が飛び上がった。

 風を切って飛ぶ狼の上で、片手で僕を支えもう片方の手で狼にしがみ付く男に、僕はしがみ付いた。真っ暗な中でかなり高い位置を、それも凄い速さで飛ぶものだから、怖くて怖くて仕方が無かった。先までの疲れと恐怖も手伝って声も出ない。

「大丈夫だ」

 すぐ近くで囁くテノールに、少し体の力が抜けた。

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