3-4
待ち合わせは夜の九時だった。
僕達の通う大学は夜の十時になると閉め切られてしまう。部室棟は勿論図書館のある棟も通常教室のある棟も、広い講堂のある棟も研究室棟も、全て出入り不可となるのだ。
だから待ち合わせの時間ともなると、テスト前でも無い限り構内には殆ど人気は無い。つまり、場所も人目も気にせず怪しげな会話もし放題なのだ。そう云う理由で先方がこの時間を指定してきた。
見知らぬ相手に真っ暗で人気の無い時間に会う、と云うのはどう控え目に云っても不安でしかなかったが、先方の云い分も分かる。代わりに、構内の何処で会うかは此方が指定させて貰った。部室棟四階の喫煙所だ。ホームと云う程では無いが、文芸部の部室に一番近い喫煙所だから馴染みがある。僕は煙草を吸わないが先輩は喫煙者だし、どうやら相手も喫煙者らしいのだから寧ろ喫煙所を選ばない手は無い。煙草があると無しでは、ある方が話が弾む、と云うのを何処かで聞いた事がある。
僕と先輩は待ち合わせの五分前に部室を出た。流石にこの時間まで残っていたのは僕らだけで、ドアに鍵を掛け壁に設置されたナンバー式のボックスに鍵をしまった。エレベーター近くの喫煙所は真っ暗で、相手はまだ来ていない事が分かる。
僕が先に立って中へ入り、手探りですぐ横の壁にある明かりのスイッチを入れた。
「いきなり点けないでくださいよ眩しいなあ」
「うわあっ」
聞こえてきた声に思わず声を上げる。奥の椅子に、男が座っていた。先輩も声こそ出さなかったものの、やはり驚いた様子だった。
「初めまして、人文学部臨床心理学科三年のソヨギシュンです」
入り口で立ったまま呆然とする僕達に座ったまま名乗った彼は、ぱっちりした目の少年だった。とても二十一歳には見えない。制服を着れば高校生と云うより中学生に見えそうだ。髪は癖毛なのか緩く跳ねていて、白いシャツに黒いベストを着ている。ジーンズは細身の黒。頭の上に乗っていた赤いベルトの付いた黒のソフトハットは、自己紹介の際に外され今は彼の鞄の上に。何となく、マジシャンぽいなと思う。
先輩と顔を見合わせ、彼の向かいに置かれたパイプ椅子に並んで腰を下ろす。それからソヨギ先輩に倣って自己紹介をした。ソヨギは梵、シュンは舜と書くそうだ。それを聞いたカミコ先輩が僅かに眉根を寄せたのを、僕は見逃さなかった。
「それで、探してる人が山犬の飼い主さんじゃないかって話だっけ」
ソヨギ先輩はそう云いながら、灰皿の縁に置いていた箱から煙草を取り出してジッポで火を点ける。煙を吸えば美味そうに目を細めて、満足そうに吐き出した。
「その人の写真ありますかね。あれば、見て同一人物かの判断くらい出来るんだけど」
「それが一枚も無いの。写真に写るのを酷く嫌がっていて」
「あー、うん、じゃあちょっと待って」
そう云うとソヨギ先輩は銜え煙草のまま、足元に置いていた自身の鞄を拾い上げて膝に乗せた。黒い布張り鞄は硬そうで重そうで、鞄と云うよりボックスと云った見た目をしている。帽子を自分の頭の上に戻すと、その中からA4サイズのスケッチブックと皮製のやけに細いペンケースを取り出した。
スケッチブックを開きペンケースからシャーペンらしき物を取り出すと、淀みない手つきで何かを描き始めた。五分もすると手が止まり、スケッチブックがこちらに差し出される。
人物のスケッチだった。肩の辺りまで描かれたその人は少しやつれて目の下には隈があり、首が細く鎖骨の浮いた男だった。髪は肩より長く目つきは鋭いのに少し垂れ目で鼻はあまり高くない。
「俺が会ったのはこんな感じの人だけど、どうですか」
ソヨギ先輩の言葉を聞きながら、カミコ先輩はじっとスケッチを見詰めてぶつぶつ云っている。時折、指先で輪郭の外をなぞったりしていた。
「……私の知っている彼は、もう少し……と云うか、かなり太っていたから随分イメージが違うけれど、目と鼻はそっくりだわ」
聞くとソヨギ先輩はスケッチブックを受け取り紙を一枚捲る。そうしてまたすらすらと描いていく。
再び見せられたのは、先程の男を目鼻立ちはそのままに二十キロくらい太らせた男だった。目の下を黒く染める隈はそのままで、けれど頬がふっくらした分、先の絵よりは健康的に見える。
それを見た先輩の顔が、泣きそうに歪んだ。
「……この人で、間違い無いわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます