第3話

「私は、広瀬衣怜那と言います」

 

 言った直後に車が来て少し怯える。そして続けてこう言った。


「衣怜那の「え」は衣という字。「れ」はりっしんべんに命令の令。「な」は刹那の那。繋げて衣怜那と言います。覚えてくれました?」


 「へぇー、そうなんですか」と一言、苦笑を浮かべながら言う。よくよく考えると不思議な名前だ。


「私、これからはあなたの事を陸斗さんと呼んでいいでしょうか?」


「あぁ、別に気にはしません。呼びたいように呼んでください」


「それと、私に対する敬語はもう必要ありません。タメ口で結構です。あと、もう一つお願いがあります」

 

 突然の要求に戸惑う僕に、彼女は今までにないくらいかしこまって、掴んでいた僕の腕を強く握り引き止める。そして、


「私の事は、衣怜那と、そう呼んでください! お願いします!」


 僕は黙ってしまった。そうだろうな。今まで生きてきて、こんなどこかのゲームのような展開がここで訪れようとは。実は僕は、女子にはほとんどタメ口で会話した事がない。例外も多少いるが、先輩などはもちろん、同級生や中学生との会話は専ら敬語を使っていた。ホント、なんて返答してやればいいのかな。全然わからねぇ……。困りながら彼女の泣きそうな表情を見る度に、さらに僕を困らせていく。


 「ダメでしょうか? 陸斗さん!?」


 これ以上待てないと急かすように、彼女の目には、すでに涙さえ浮かんでいる。いけない、このままでは非常にやりにくい状況になってしまう。今ここで泣かれたらと思うとぞっとする。刻々と迫る彼女の涙腺崩壊。

 そしてやっと、僕は決心した。


「わかったよ。これからは普通に喋るよ広瀬さん」


「衣怜那って呼んでください! 全然改善してないじゃないですか!」


「わかった、わかったから泣くのは止めてくれ! 泣かれると凄く困るから!」


「じゃあちゃんと言ってください! 今度こそ本当に」


「……えっ衣怜那。これでいいだろ?」


「はい! 陸斗さん!」


 彼女が泣いてしまう事態は何とか避けられた。もう疲れた。思えば今日、単に暑いからという理由で川沿いを歩いていただけなのに。気付けばもう夕方6時半。あたりは暗くなり、街には灯りが点る。濃いオレンジに染まった空には、まばらに星が見え始めている。僕たちはもう家の近くまで来ていた。

 そして僕はまだ、彼女に腕を掴まれている。



 僕の家。別に立派とはいえない家だ。横幅・奥行きが狭いが四階建てで、ほぼ同じ体積の空き家と隣り合っている。ちなみに言うと、この空き家は僕の家が所有している。まだ小さかった頃、僕の祖父がこの空き家を買い取った。


「ただいま」


 玄関のドアを開けて、誰かが出てくるのを待つ。廊下は薄暗く、その先にある居間だけが明るく照らされていた。


「おかえり陸兄……、もう飯の時間だよ~」


 誰も出てこず、居間からは妹の声だけが虚しく聞こえた。


「陸斗さんには妹さんがいらしたんですか?」


「まあね。凶暴な妹だけど」


「元気な証拠だと思います。きっとカワイイ妹さんなんだろうなぁ。お肌とかツヤツヤそうです!」


「いや、勝手な妄想を広げないでくれ。全然かわいくないから」


「早く入ってきなよぉ。飯冷めるぞぉ。全部食っちゃうよ?」


 催促のような脅しに焦る。仕方なく僕は衣怜那の事を一つも伝えないまま、居間へ入っていく。

 ドアを開けると、そこには妹と母さんがいた。二人とも、テーブルにある夕飯を早くも啄んでいた。


「遅いぞ陸斗。何をしていた?」


 そう言って冷めた目で僕の方を睨む。が、すぐにその目を丸くした。ついでに妹も。


「陸斗が……こいつが人を、しかも女を連れてきただとぉ!?」


 うるさいよ。悪いか母さん……。妹はというと、持っていた箸を落とし、唐揚げを口に頬張った状態で静止してこちらを見ている。


「僕が人を連れてきた事がそんなに珍しいかよ」


「あぁ、びっくりした」


「陸兄が女の人!? 彼女をつれてきたぁ!?」


「彼女じゃねーよ!」


 馬鹿な親子だった。妹に限っては変な妄想まで始めている。


「いやぁ彼女だなんて……恥ずかしいですよぉ」


「お前もかよ!」


 頬を赤くして、恥ずかしそうに身体をくねくねさせている。

 親子? 否、馬鹿な女どもだった。


「ったく、普通の友達だよ。ついさっき知り合ったっていうか……、なんていうか」

 

 きまりの悪い曖昧な言い訳を云っていると、母さんは無視していまだにくねくねしている少女に興味を示した。


「そこの制服少女ちゃん。制服がボロボロだが? まさか、ウチの陸斗がキミに手を出したかな? 襲ったとか?」


「違うわアホ!」


「陸斗さんはその……ちょっと強引だったけど……ああゆうのも…」


「それ以上言うなよ!!」


 なんだよこの変態集団。


「はは! 面白い少女だ。名前を聞こう」


「私、広瀬衣怜那といいます。初めまして。陸斗さんとはついさっき会ったばかりです。なんていうか、死の淵から助けてもらった感じです」


「うん、そうか。キミの状貌を見るに、ホームレスかな? 制服がボロボロなのはそれでか」


「へ? なんで判ったんですか?」


「勘かな?」


 勘のいい母は、最初から気づいていたようだ。さっきの馬鹿な会話は母なりの気遣い? といったところだろうか。


「途方に暮れる少女か。親でも亡くしたのか?」


「……違うんです」

 

 ここで衣怜那は、橋の下で僕に言った一連の事情を母さんに話した。今度は前と違って感情的にならずに、ゆっくりと落ち着いて話していた。でも、話した内容は変わらない。聞いているだけでいやになってくる。親のいる僕、人間はどんなに幸せなのだろうと。


 話終えた後、母さんはただ「なるほど」と一言。そして妹に


「鍵」


 言われた妹は黙って、母さんが指定したらしいその鍵を持ってきた。


「母さん、この鍵は?」


 僕は聞く。家にこんな鍵あったっけ? とにかく初めて見る物だった。


「あぁ、隣の空き家の鍵だ。制服少女、キミにこの鍵をあげよう。これからはキミがあれの住人だ。喜べ」


 僕も衣怜那も、目を丸くした。


「マジすか……?」


 僕は言う。


「そのままだ。あの空き家を少女に与える。私にはいらん所有物だからな。他に言う事はなにもないよ」

 

 祖父、じいさんからもらったこの空き家を、母はあっさり明け渡した。名残惜しさなど一つもないといって。一方の彼女、衣怜那は固まっていた。


「……本当、ですか?」


「あぁ。好きなように使っていい」


 そして、……彼女はもう何も言えず……バタリと膝を落とし、自分の顔を抑えた。


 涙、涙、涙、……。


 本当に、幼い子供のように、泣いたのだった。そこには、今はいない彼女の母がいて、優しく抱きしめているような、そんな風景が僕には見える。


「私……私は、全然……不幸なんかじゃなかったんですね……」


 途切れ途切れの声で彼女は言った。母は衣怜那をなだめ、妹はもらい泣き。

 そして僕も、知らないうちに、涙が毀れていたのだった。    

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それぞれの物語 「恨みの物語」 渋谷 優 @falenshzvald

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