第8話 私の恋と、未来のお話
黒服の少女が描かれたスケッチの端に、小さなメモが記されていました。
【今日はクリスマスイブです。贈り物はできませんが、あなたの姿を描きました。じつは、絵は苦手ですけど描くのは好きなんです】
その時の心境は、うまく言葉では表せません。
私はふらふらと膝をつき、座り込んでいました。
……彼は。
私が鏡を開かなくなっても、なお、そこに居たのです。
私が遠ざけようとしていた間、ずっと。
でなければ、クリスマスイブにしか意味のない言葉を、どうして窓に飾れましょうか。
「……柏原さん」
鏡をなぞり、彼の面影を残す四畳半を見渡します。彼の過ごした部屋。勉強用の教科書や参考書が、びっちりと並んだ机。身長の高くなってきた彼には、ちょっと狭いベッド。
私は彼の部屋を愛おしく見渡して、メモの続きに目を向けます。
【城木さん。いま俺は受験勉強を頑張っている最中で、もしあなたが鏡を開いても、上手く会えないかもしれません。
けれど、あなたと会えない間に、考えました。
城木さんに応えるには、どうしたら良いだろう?
遠く離れた俺にできることは、何だろう、って。
……そう考えた時、俺はまず、城木さんを心配させないことを考えました。
城木さん。俺だって、あなたの重荷になりたくない。
あなたと鏡越しでもいいから、顔を合わせたいけれど。
俺に迷惑がかかっていると、思ってほしくない。
だから俺は、まずは大学に進んで夢を叶えようと思います。城木さんといつお会いしても、誇れる自分になりたい。城木さんがいつ鏡を開いても、俺は元気で頑張っている。そう伝えることが、あなたに報いることだと思いました。俺自身のためにも】
私は文字を追いかけます。食い入るように。
【このメッセージは、定期的に変えようと思います。あなたに伝わっているかは分かりません。けど俺が、あなたに届いていると信じて。
……そして、もし。
叶うなら、俺が大学に行く前に。
卒業式を迎えた三月一日の夜に、もう一度だけ、会うことを許してもらえませんか?
そこで、俺と、あなたとの将来について。
きちんと、話をさせて下さい】
彼の言葉は、そこで締めくくられていました。
鏡を閉じて部屋を出ると、姫様がお待ちしていました。鏡の使用を察したのかもしれません。でも私にとって柏原さんは、たとえ黄泉の世界の相手であっても、私の想い人なのです。
「姫様。……ごめんなさい、約束を破って。でも私は、どうしても、彼と話をしたい」
諦めようと、何度も思いました。
ですが、この世には、決して叶わぬ無理難題であっても、諦めきれない時があります。
だから――
「大樹守様。私は鏡を使った多くの人が、不幸になると話しましたけど、それは噂で、きっと、少しくらいは、幸せになった人も、いると思います! だから帝国が来ない時は、えっと」
「……ありがとう。姫様はお優しいのですね」
私は彼女の頭を撫でながら、鏡を使うときは白の国に迷惑をかけないことを約束します。私が鏡を開き、自分の生命や国の命運を脅かすことは、柏原さんも望まないこと。
私と、彼は――ようやく、成すべきことを見定め始めたのです。
そうして厳しい冬を越え、迎えた三月の頭。
鏡越しに久しくお会いした彼は、一回り精悍な顔つきになっていました。私の知らない、けれど私を大切に思ってくれる、男の子。
「柏原さん。もしかして、身長が伸びましたか?」
「え。そうですか?」
「はい。男らしい顔つきになった気がして」
「……だったら、嬉しいかな。俺も男ですから」
彼は頬を緩ませ、大学に合格した旨を伝えました。朗らかな笑顔に、私はやっぱり彼が好きなんだと自覚し、すべてを打ち明けます。
鏡を開くと、魔法の力を消耗してしまうこと。
私自身も白の国も、危機に陥ってしまうこと。
「黒の帝国は、冬の間は雲海を渡りません。けれど雪解けの後は、必ず姿を見せると思います。それに……これから先は、もっと、大変な戦いになると思います」
それでも。あなたは私と共に居てくれますか……?
彼は背を伸ばし、私と顔を向き合わせました。誠実な話をするとき、彼は私を見つめます。決して逃げない太陽のような強い眼が、好きです。
「城木さん。これから俺はこの部屋に、手紙やメッセージを残していこうと思います。余裕のあるときに、覗いてください。時間が会えば、また、お話しましょう」
「……私には、嬉しいお返事です。でも、あなたは」
柏原さんは窓に手紙を書くことで、想いを届けられる。
でも私からあなたに届けるには、鏡越しに、顔を合わせるしかありません。
指ひとつ触れられない、窓越しの恋を……
あなたは、本当に許してくれますか?
突然連絡が取れなくなっても、許してくれますか?
「柏原さん。俺は……約束を、絶対に守れるとは言えません。俺だってある日突然、何かあるかもしれない。けど、元気でいる限り、必ずあなたに伝えます。……それは、城木さんにも同じであって欲しい」
彼の指先が、私の頬を撫でるように宙を掠めます。
生者と死者、交わらない距離であっても、熱が伝わるようでした。
「俺は、あなたをずっと想いたい。出来れば、想われたい。――生きている限り」
彼の言葉に、私も覚悟を決めて「はい」と頷きます。
生きている限り、私達は、頑張りたい。
「城木さん。……会えなくても、ずっと元気で。俺は大学に行って、いつか戻ってきます」
「はい。私もあなたを待ちながら、皆さんを守ります」
そして――私達は、しばらくの別れを告げました。
高校卒業と共に、私達は別の道を歩み始める。彼の、私の期待に応えるために。
いつまでも、遠く想いながら。
柏原さんは鏡を閉じる間際、すこしだけ泣きそうに鼻をすすり、くっと唇を噛んで、切なく、叫ぶように声をあげました。
「城木さん。最後に言わせてください。俺は、あなたが、好きです!」
それが、鏡越しに聞いた、彼の最後の言葉となりました。
その日から、私は彼の気持ちを勝手に空想し、ネガティブになることを止めました。
私自身を卑下することもやめました。
私は埴輪のように古風で、イマドキの女子高生としては硬く、要領も悪いかもしれません。でも、それを良しとしてくれた彼に、申し訳が立たないと思ったのです。
柏原さんはその後も約束通り、大学の夏休みなどを利用して実家に戻り、窓際にメッセージを用意してくれました。
【そちらのご飯の味は分かりませんが、健康に良いものを食べて元気に過ごして下さい】
大樹守様は栄養不足になりません。心配ご無用です。
でも折角なので、その日のご飯は姫様にお願いして、新鮮な焼き魚と野菜といった、ビタミンがありそうな盛り付けをお願いしました。姫様は珍しくもりもり食べる私を、不思議そうな顔で見ておりました。
【夜は布団を温かくして寝てください。風邪などひかないでくださいね】
大樹守様は風邪などひきません。柏原さんは心配性です。あなたは私の母ですか。
翌日、骸骨さんに頼んでふかふかのお布団を用意して貰いました。久しぶりに丸まって寝込むと、心地良い目覚めの朝を迎えることができました。
【歯磨きはきちんとしてください。この前、俺も虫歯になって辛かったです】
大樹守様は虫歯になりません。むしろあなたが心配です。
……翌日、姫様の飼っているペットの毛をこっそり拝借して歯ブラシにしてみましたが、じゃりじゃりして上手くいかなかったうえ、即日バレてものすごく怒られました。
その後も彼の言葉は続きます。
日々研鑽を積む彼は、実家に帰る暇すらないほどに忙しく、言葉はどれも不定期に残されていました。
【国家試験に合格しました。これから頑張ろうと思います】
【研修医の当直がこんなに大変だとは思いませんでした。電話の音が耳から離れません】
【先月、救急で運ばれてきた女の子がいました。その子は通り魔に襲われて危ういところでしたが、無事に一命を取り留めました。俺は、自分にできることが増えました】
文章は簡素で、日常生活の一遍を丁寧に切り取ったかのよう。
それ等のメッセージは彼の知らないところで、私に勇気をくれました。
――彼と別れて、やがて十年が過ぎます。
メッセージが長く続けば、私だって分かります。
たとえ会えなくても、彼は自らの道を切り開き、今なお私のことを想ってくれていること。
私にできることは、日々をしっかり生きることでした。
朝起きてカーテンを開き、太陽の光を浴びて背伸びをする。
朝ご飯をきちんと頂き、大樹守様として結界を管理する。
夜はまた美味しいご飯を食べ、お風呂で身体を休め、布団に入ってしっかり眠るのです。
雨の日も。
風の日も。
黒の帝国が、大挙して押し寄せてきたときも。
国が嵐に晒され、危機に陥ったときも。
それからの私は白の国の大樹守様として、手腕を振るうことになりました。白の国は新たな船を作り、ようやく他国との連携を取ることもできました。私は唯一無二の大樹守様として、黒の帝国に対する最前線の旗頭として、末永く、国を守り続けます。
その間に、様々なことがありました。
まず姫様が懇意の殿方と出会い、結ばれました。
骸骨さんは百年近い寿命を終え、土へと帰りました。
そして私にもまた、新たな仲間ができました。黒の帝国と戦う、他の国の仲間達です。
――そうして、とてもとても長い月日が経ちました。
柏原さんがその後、どのような未来を辿ったのかは分かりません。しかし、私達の世界には時代と共に、変化の波が押しよせていました。技術革新です。
いかに私が強力かつ数百年の長寿をもつ魔法使いでも、人類の進歩には及びません。黒の帝国もまた歴史と共に、人間らしい戦争技術を用いて変貌を遂げました。その版図はやがて白の国の周辺国すべてを陥落させ、黒船はいつしか立派な艦隊となり、蒸気タービンを回し、大砲は大火力となり、飛行機の運用により空へと支配図を広げます。
大樹歴、280年。
彼ら帝国の力は長い年月を経て、ついに私の力を凌駕し始めたのです。
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