第6話 あなたは誠実な柏原さん

 雲海の上にある浮遊樹海群も、ふしぎなことに、より高い雨雲より雨が降ります。

 神殿を包む大降りの雨のなか、私はいつもの食事をあまり口にできず、皆に心配されました。大丈夫ですと告げて寝室に戻り、ベッド脇に添えられた水を喉へと押し込んで、すこし気分が悪くなりました。

 深呼吸を行い、制服とスカートに身を包み、通信を始めます。

 鏡を開いて、少し驚きました。柏原さんは薄く日焼けをしていたのです。聞けば厳しい受験勉強のさなか、一日だけ気晴らしに海へ遊びに行ったとのこと。本来は一泊二日の計画だったそうですが、彼は私に合わせて帰宅したそうです。

 ……もちろん、遊び相手も男の人だと、彼は誠実に打ち明けました。

「柏原さん。プールに可愛い女の子はいましたか?」

「そういう意地悪な質問は止めてください」

 たしかに酷い質問だったかもしれません。けれど。

「真剣なお話、です」

 私は背筋を正して、彼を見つめます。

 それはもう、私達にとって、避けては通れない道でした。

「柏原さん。私はあなたとお話できることを、大変嬉しく感じています。……ですが以前のように、私はあなたの恋人として振る舞っても良いのでしょうか」

 彼は顔を強ばらせ、僅かに腰を浮かせました。

「もしかして、怒ってますか? 俺が遊びに行ったの。でも、そんなつもりは」

「分かっています。そういう話では、ないんです」

 彼は誠実で、義理堅く、真面目で一本気です。

 それだけに、痛む胸を押さえてでも、……応えなければなりません。

「あなたは昔、私に触れたいと仰りました。それが恋仲にある、普通の男女だと思います。ですが、いまの私達は例えどんなに願っても、指の一つすら触れることは叶いません。私は、言うなれば鏡に映る死者の亡霊です」

「……そんな悲しい言葉を使わないでください」

「でも、事実ですから」

 私は前もって、言葉を準備したつもりでした。

 それでも指が震え、喉がひりつき、見えない糸に絡め取られます。

 彼に見えないように、手の平を握ります。大丈夫。怯えないで、城木恵。私は間違っていないから。

 だって――彼を鏡の前に束縛してしまうと、彼の幸せを奪ってしまう。

「私は、あなたを庇って亡くなりました。もしかしたら、柏原さんに忘れることができない想いを刻んでしまったかもしれません。それが重荷になるようでしたら、私のことは忘れて欲しい、と」

「っ……待ってください。俺は本当に、あなたのことが好きで」

「では一生、窓越しの女に恋しますか? 目標とする大学にも行かずに」

 彼がひるんだのを、私は見逃しませんでした。

 医学部受験校。帝華大学は少なくとも、彼の実家から通える場所にはありません。

 そして鏡の魔法は、動かせず、この四畳半の部屋にしか繋がらない。

「柏原さん。大学への進学は、必ず成し遂げてください。そこにはおそらく、私より魅力的で、身近なパートナーがいるはずです。……その時は。私のことなど気にせず、先へと進んでください」

 口にしながら、胸から見えない血が零れ落ちていくようでした。

 嫌だ。

 離れたくない。

 せっかく彼と奇跡の縁が結べたのに、こんなこと。

 藻掻くように、柏原さんが手を震えさせます。

「城木さん。……俺だって、ずっと家にいる訳じゃありません。大学に受かったら、向こうで一人暮らしをする予定です。でも夏休みだってあるし、家には帰れる。こうして死んだ後も、奇跡が起きて、あなたと話ができる。別の世界にいても、今みたいに一緒に過ごす事はできます。大学を卒業したら、実家近くの病院に勤めることだって、きっと」

 彼の提案は、甘く、私の耳を揺らします。

 けれど。

「……無理、です」

「どうして、ですか」

「だって私は、……ごめんなさい、私は」

 声が詰まり、苦しいものを飲み込んでいく。

「柏原さん。私はこちらの世界で、大樹守様と呼ばれています。私は人々を守るための魔法を使い、……いま、戦争をしているのです」

 彼は耳慣れない言葉に、眉をひそめました。

「戦争? 城木さんが、戦ってるんですか?」

「今のところ、私は魔法の結界を張って、敵の侵略を防いでいます。でも、いつまで無事かは分かりません。もしかしたらある日突然、私はあなたとの音信が不通になり、永遠の別れが来る可能性もあります」

 私は事実、人の死体を見たことがあると告げました。

 彼は絶句し、二の句も告げず固まります。

「それだけでは、ありません。私はじつは、大樹守様として、数百年の寿命があるのです」

「数百……?」

 柏原さんの顔が、青ざめます。

 理解が早いのは、果たして幸せなのか、どうなのか。

「柏原さんはこれからも歳を取り、二十歳、三十、四十……未来なんて想像もできませんが、私は柏原さんが例えお爺さんになっても、いまの私の姿のままです。鏡の向こうに映るのは、いつまでも十七の私。私はこの姿のまま、あなたの知らないところで戦い、全く違う生活をしている……それはもう、親しい人間と、呼んで良いのでしょうか?」

 彼にとって、その結末が、辛いものになることは容易に想像できました。

 時間が経てば経つほど、私達の重石は深く、人間と大樹守様の差は開いていく。

「ですから、私は……私、は」

 高校生らしい紺色のスカートを掴み、食い込むほどに、握りしめて。

 私達が、まだ無邪気な高校生として、ただの恋人として対面している間に。

「あなたに、別れを告げたいのです。柏原さん」

 口にしたとき、頬に一筋の滴が流れるのを感じました。

 涙は冷たく、私の頬をなぞります。

 しばらくの間、彼はじっと私を見ていました。その時間は死刑宣告を待つ囚人のようで、私は自ら刑の執行を口にしたにも関わらず、震えが止りませんでした。

 どくどくと、胸が痛みを訴えます。

 お別れしましょう、柏原さん。あなたと私は、これが最後――

 イヤだ。本当はイヤだ!

「城木さん。先にひとつ、俺の昔話を聞いてくれませんか」

「え」

「……実は、ずっと隠していた事ですけれど。俺は、城木さんと同じ中学卒なんです」

 彼はそして、私達がまだ何も知らない中学生だった頃のことを、ゆっくりと語り始めました。


 中学の頃、私はよく先生に反論する子供でした。当時の担任教師が、お気に入りの生徒を露骨に贔屓する不平等な人だと気づいたからです。

 私が担任に面と向かって啖呵を切ったところ、教室で苛めを受けました。内容的には上履きを隠される、一人だけ連絡事項を知らされないといったもので、辛くはありましたが我慢できない程ではありません。中学卒業までと耐えました。

 ですが、ある日。私を心配した友達にまで被害が及びました。

 私は激怒して校長室に乗り込み、両親に報告し、学校中を巻き込む騒動を起こしました。城木家は古風な家柄で、今のご時世に「女に教育は必要ない」等という妄言がまかり通るお屋敷です。しかし一人娘が苛められて沈黙するほど愚かではなく、むしろ家族の在り方などに厳しいぶん、一家総出で学校に赴くような家柄でした。

 その時の姿を――彼は、別のクラスからそっと眺めていたのでした。

「中学の時、思ったんです。この人はなんて格好良いんだろう、って」

 それから彼は、私を密かに意識し始めたと語りました。

「最初、俺は格好良いあなたに声をかけられませんでした。その顔を見ることすら、躊躇いがありました。でもあなたと同じ教室になって、城木さんを見てると、本当は優しい人だって気づいたんです。掃除道具とか、黒板消しとか、俺も忘れてた時、白木さんがこっそり片付けてくれたのを見かけて」

 それは、彼が普段がんばってるから、たまには私が代わろうと……こっそり。

「気がついたら、俺は目が離せなくなっていたんです」

 単純な話ですけど、と彼は笑います。

「今だって同じです。城木さんが戦ってるって聞いて驚いたけど、よく聞いたら、戦ってるんじゃなくて、守ってる。あなたは、そういう人です」

 柏原さんが、はにかむように唇を微笑ませました。

 大人しい彼の、人を気遣う、私の恋した笑顔でした。

 ……でも、どうして。

「今になって、何で、そんな話をするんですか?」

 罵りの言葉なら、幾らでも受けるつもりだったのに。

 この期に及んで、優しい言葉なんて。

「城木さん。俺はあなたと付き合って、好きな所をたくさん見つけました。けど、嫌なところも、知りました。俺はあなたの、勝手に自分を見積もるところが嫌いです」

 嫌いと明言され、指先に痛みが走りました。

「十年、二十年、あなたは変わらないし、指も触れられない。歳も、生活もずれていく。でも、だからって勝手に俺の気持ちを見繕わないで欲しい。いまの俺は、城木さんが好きだ」

「でも!」

「ずっと我慢できるだなんて、簡単には約束できない。けど、頑張ることは許して欲しい。俺は、あなたを泣かせたまま二度と顔を合わせられなくなる方が、いまは辛い」

「……柏原さん。私には、そこまでの価値は」

「城木さん。俺が好きな女の子を、それ以上貶めたら怒りますよ」

 痺れるような一言でした。

「あなたは、人のことになると勇敢なのに、自分のことには自信がなさ過ぎる。もっと自信を持ってください。普段のあなたは格好良くて、でも時々抜けてて、そんなあなたに、俺は恋をしたんですから」

 その一言で、私はすべてを封じられてしまいます。

 私は……自分と相手の価値を、勝手に決めていたのでしょうか。

 鏡越しの恋は、彼にとって不幸だと。

「柏原さん。……ごめんなさい。今日はこれ以上、話せそうにありません。一週間後に、またご連絡致します」

「はい。返事を、ずっと待ってます」

 彼の一言を耳に残しながら通信を切り、ベッドに倒れ込みました。

 身体中が熱を帯びたように苦しく、焼けるようでした。静寂が耳にうるさくて、何度瞼を閉じても眠れません。思考は茹でた鍋のように煮立ち、ぐるぐると回るばかり。

 彼の言葉は私を火照らせ、同時に不安にも陥れました。

 彼と、もっと話をしたい。

 共にいたい。でもそれは本当に許されるのか。

 私は、迷いを振り切れなかったのです。

 ――そして神様はあまりに残酷です。

 私達が約束した、その一週間後の再開。

 それすらも、許してくれませんでした。


 当たり前の話ですが、白の国に大樹守様として、強力な転生者が現われたように。

 帝国にも、ときに力ある転生者が訪れるのです。

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