埋まらない本棚

 満員列車に詰め込まれる。最寄りまで20分弱とは言え、日々重ねれば暇も持て余す程あるので、どうぞ四方山事の思考にお付き合い願おう。

 昔。それこそ中学受験を強いられ勉学に勤しむ以外認められなくなる前、確かに自分は所謂読書家だった(とはいえ習い事もしていたので図書館の住人になるほどではなかった)。実家は風呂とトイレ以外に本棚がない部屋がなく、カラーボックスが本の重みに撓む程度には本が身近だったことは大きいだろう。

 当時住んでいた所は、故郷と呼べそうな程この半生で一番長く住んだ土地だったが、お陰様で、今でも恐らく案内はできるが、思い出らしい思い出はあまりない。就学と共に引っ越してきたためそもそも知り合いがいなかったこと、学区のはずれの方であったこと、それからマンション敷地の外へ遠出することを殆ど認められなかったのも大きいと思う。無論当時流行りだった携帯ゲームも持たせてもらえず、年の頃の子供が知っていそうなトランプ遊びも駄菓子屋も話題も殆ど知らなかった記憶がある。その所為か、知らない遊びを聞いても「まぁお前は仕方ないよな」と呆れ半分随分丁寧に説明してもらえたのだが。

 幸い、自分は両親が共に(小説漫画を問わず)本が好きな人たちで、現在に於いては絶滅危惧種ともいわれる所謂中流階級だったため、よっぽど年齢に適さないものでない限り、本だけは潤沢に与えられてきた。然し自分の友人らを見る限り、必ずしも誰もが常に本を与えられる環境にいる訳ではないらしい、という事は分かっている。物語を嫌う人間すらいる。そういう人らは両親も本を読まない人であることが往々にしてある。子は親の背を見て育つ、と言う通り、確かに親の習慣というものは子の習慣に影響するだろう。親が本を読む人で子が読まないのは、余程制限されたか、親子で趣味が合わなかったかである気がする。

 それはさておき、何かにつけ本を読んでいた幼少期だったように思う。本を読むしかなかった幼少期だったともいうだろう。しかし、中高と順調に読書量は減り、大学へ進学してからは更に減った(なお読みたい本や買ったきり読めてない、所謂積み本は順調に今でも増えている)。他の娯楽に触れる機会が多少増えた、というのも全くない訳ではないが、単純に読書のみに割ける時間を確保できなくなってきている。特に長編小説のように世界観に浸かれるようなものほど読めない。某魔法学校冒険譚のシリーズの、二冊組になったハードカバーを発売日に二時間少しで読んだような自分がだ。これには大いに焦った。大人になるとはそういうことだと言ってしまえば聞こえはいいが、本当にそうだろうか。

 何を危惧しているのか、と思うだろう。最近まで自分でも分からなかったのだから仕方ない。自分がその危惧に気付いた切欠は漢字だったが、凡そ物語と言われるものが、子供のみの物になってしまうのは非常に危険だと思う。確かに子供の時分が一等価値観に対して柔軟だろう。しかし、大人になってまた知る価値観がないのは、世界がないのは偏見を壊すものがない事となる。本は元々知識階級の娯楽だった。それが現代に於いて大人の手から離れてしまう可笑しい。抑々子供の期間は短い。寿命を平均してみても極僅かだ。その僅かにしか本に浸れないと言うのは恐ろしい。純粋に世界に浸る意味でだ。余裕のなさに震える。日々を業務で困憊と過ごし、臥せ果てて、まるで吸魂鬼のような世の中だ。こと日本に於いては、言葉一つとっても見て取れる通り、不変を良しとする傾向がある。ラッダイト的である。だからこそ、時代錯誤ともいえるような労働形態が幅を利かせているわけだ。労働に対する蔑視が根底に根強くあり続けるわけだ。話が逸れた。

 此処でひとつ、文字書きにあるまじき発言、誰もが恐らく予見しながら口を閉ざした酷い話をしよう。言霊を信じるならば決して口にすべきでない話をしよう。――何れこの国から文学は消えるだろう。予言だと言っても好い。生きるのに必死になって辛うじてしか生きられない社会に文化など生まれやしないのだから。既存のものも屹度死んでいく。それでもまだ視覚に訴える漫画やゲームなどは生き延びるだろうが、小説などと言うものは屹度死に絶える。前提として、文章が読めなきゃいけない。ルビなんぞあったら世界観が崩れるものだってある。誰が誰に、何処で何時言った台詞か、その意味はをよくよく捉えなければならない。詩歌はまだぼんやりと解釈の自由があるが、小説はそうもいかないだろう。だからと言って強要される活字は活字嫌いを加速させるのは実証済みだ。読者のいない本は錆びるだろう。例え其処に書き手がいたとしても。

 馬鹿馬鹿しいと思うだろうか。しかし、現代に於いて文字は読めても文章が読めない人間が多くあるのも事実だ。読書の作法と言うべき虚構と現実の区別がつかない者の声が大きいのも事実だ。それ故に「この物語は虚構であり、実在の人物(事件)とは関係ありません」などと言う注釈が付くようになっただろう。この世から完全に切り離された物語など、本当にあるのだろうか。実在の時事から動く感情が、跳ねた空想があって形になる産物が、実在の一切と関係ないわけがない。小説より奇しきと言われる現実が、数字以外の記録として後世に残らぬのは損失以外の何物でもないだろう。

 文学は記録だ。文学は追想だ。文学は感傷だ。文学は写し鏡だ。後から読み返して、読み返されて当時が分からぬのは嘘だ。其処には文化が、人が、思いがあるはずだ。現実であろうと虚構であろうと。誇張であろうとなかろうと。だからと言って消費の為に全て暴くのを良しとする訳でもないが、文学の本質が失われてしまうのはあまりにも惜しい。例えばこの先に起こる天災を、凄惨を、感動を、後の世が記録以外で知り得ないのは、後の世の基準で量られ共有できないのは、酷くつまらないだろう。先人の残した文を読んで、楽しめないのは喪失だろう。それ故に文化が衰退するのは道理ではあるが、嘆かざるを得ない。

 最寄りのホームへ滑り込む。降り損ねないように、この思考は此処までにしておこう。

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