黒き翼と、つなげる命(みらい)

Chapter1 黒き翼、舞う

――プロローグ――


 ぽっかりと浮かんだ月が心の穴に降り注ぐ。


 昼間の喧騒を忘れた学院の敷地に、ただ一人しみ込んだように現れた人影は、空を仰いでため息をついた。


 ――どうして今頃、あんな夢を見たんだろう


 吐いた息は白くならなかったが、吸い込んだ夜気は冷たく、月が匂うように感じられた。


 押し黙る寄宿舎の影をはなれて、いざなわれるように、青い月光がさす中庭へと踏み入っていく。


 地上で眠る花壇が文様を描き、空には真円の月が皓々こうこうとセカイに微笑んでいた。

 やわらかく温度のない光が青年の琥珀の髪をすべり落ちていった。


 影になった場所も人の裏側までも見つめるような、やさしい月明かりに、悪い夢の余韻がほどけていく気がした。


「綺麗だな……」


 この半年間、仲間と過ごす生活になじんできた心に、突き刺さった夢が、それは幻想だと我に返らせる。


 こうして物静かで孤独な夜の方がふさわしい、と。


 様式美を浮かび上がらせて、黒くぬれた石敷きの道が走っている。変わらぬ月の姿を求めて追う視線が夜空にはね上がる。


「なん、だ……?」


 月がごっそり欠けていた。青年の瞳の中で、見る間にカタチがひらりとゆらぐ。


「――え」


 それは人だ――石の道に立つ街灯のシルエットの上に佇んだ、一輪の闇の花のような人影。


 月と向かい合う後ろ姿に、真黒き翼がひらいた。

 闇に散る髪、はためくコート、まるで一体の生物となった影が月にからみついて舞う。

 からめ取られた月がいっそう白くまばゆい光を放ちながら、青年の目に焼きつく。


 ぐびり、と喉が鳴った。


 目がはなせない、体が動かない。


 漆黒の花が闇のような翼を華麗にひるがえした。

 が振り返る。


 夜よりもなお昏き翼の主人あるじが自分を見つめている。


 ――気づかれた


 熱を持ったように体がかっと熱くなった。


 体の奥底からじわりと歓喜がはい上がる。

 不吉な予感に逃げなければと思うのに、表情を変えていく夜が美しくてたまらない。


 ――もっと。……もっと、見ていたい。


 背すじをぞくりと震わせて、食い入るように見つめる青年の顔を、交互にうつろう闇の影と白い光があざけるように照らす。


 ――綺麗、だな


 より添い、はじかれ、それでもほどけることなく、闇の中で月は清廉とほほ笑み、その光を吸い込んで、黒々とする気高い翼が夜空をひき裂く。


「――よけなさい」


 鉄槌のような無機質な声が響いた。


 思わず、体は勝手に従っていた。


 同時にとどろいた爆音と衝撃に片耳の聴力が奪われる。


 すぐそばに直撃したものが大量の土砂を巻き上げ、青年に降りかかった。


 次の襲撃が落ちてくる寸前、咳き込んでいる体が強引に地面からはがされる。


 すなわち宙を舞い、固く力を込めた体が地面に転がる。


 静寂が水を打つように広がった。


 かつん


 遠くなった耳に、あざやかな靴音が舞い上がる。


 涙と苦しさでゆがんだ視界の奥に、彼女がいた。


 その後に起きたことは、忘れられるものではなかった。


 やがて。


 砕けた石畳を踏んで、くっきりとした足音が近づいてくる。


 さらした素顔は月にあらわれ、どこまでも涼やかに、時を止めたように感情を失くしている。

 みがき抜かれた黒瞳こくどうは、落ちれば二度と這い上がって来れない深さを秘めていた。


 月光をはじく、翼のような影をなびかせて、闇の主人あるじは華麗な足音を止めた。


 漆黒の翼が言葉を口にした。


「あなた」


 美しく温度のない声が音をつむぐ。


「――死ぬのは、恐い?」


 堕ちる――。そう思いながら、青年は口を開いた。

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