Chapter1 黒き翼、舞う(添削前 2300文字.Ver)

――プロローグ――


 闇よりもなおくらきもの、それは――


 ぽっかりと空いた胸の穴に、ぽっかりと浮かぶ月が降り注いでいた。


 真夜中の寄宿舎を抜け出した青年は一人、がらんとした学院の敷地に迷い込む。

 胸のうちの暗い夢の余韻は拭えない。

 押し黙る寄宿舎や建物の影を抜けて、明るい方へと冷えた空気の中を歩いた。


 かすかに湿った夜気を吸い込むと月の匂いがする。


 あまねくセカイをすみずみまで照らして、月が浸透するやわらかな夜だった。


 ――どうして今頃、あんな夢を見るのか。


 呟く問いにどこからも答えは返らなかった。

 やさしい月明かりが青年の琥珀の髪をすべり落ちていく。


 夜空にかかる月は欠けなくまるく、温度のない光は、あらゆるものの影にも人の心の裏側にも、ひそやかに入り込んで秘密をのぞいている。


 月に暴かれながら、同時に、ひとしく降り注ぐ視線にセカイは守られていた。


「綺麗だな……」


 わずかに心を許した青年は月を見上げ、これ以上ない真円に見守られて月夜を散歩した。


 夜がこんなに穏やかなことを青年は知らなかった。真昼の懐かしい喧騒の中でも同じ感覚を味わうことがある。


 この学院に来てから、昔の夢を見ることはなくなっていた。


 月の影を追うままに、青年は庭園に足を踏み入れた。低い生垣や造形の花壇が眠る、さえぎるものがない広い場所に出る。

 シンメトリーの様式美を浮かび上がらせて走る濡れた石畳の路に、規則正しく街灯が並んでいる。

 その先にかかる月に顔を向けると、ふいに時間が止まった。


「……なん、だ?」


 ごっそりと月が欠けている。不自然に歪にそれは青年の目の中でとどまることなく形を変えていく。


 動いていた。


「え――」


 シルエットと化した街灯の上にかたどられた黒い影は、満ちた月を背景にして翼を広げた。

 あくまでも優美な線を描く、美しいフォルムの――姿

 それが人だという事実に青年ははげしく胸を突かれた。

 止めようもなく両の瞳が見開いていくのを感じる。


 やわらかな夜がうち壊されていく。


 穏やかでやさしい月の夜に似つかわしくない黒々とした脅威は、奇妙な沈黙をはらんだまま、何者もよせつけない孤高さで月に相対あいたいしている。影と一体となった大ぶりなコートが翼のようにひるがえり、流れる髪が月光を吸い込んで宙に舞うと、満月を切り裂いた。


 また月が不自然に欠けていく。絶え間ない動きに幾度も形を変えられ、黒い爪に翼に触手にとらわれる。

 閉ざされた隙間からほとばしる光はいっそう白く、影に押し込まれるほどに美しくその身をさらした。

 さっきまでほほえんでいた月が闇にあらがうようにいだかれていた。


 表情を一変させた月の姿に青年は息を飲む。漆黒の影が瞳の中で、ゆっくりとその身をひるがえした。


 ――気づかれた。


 逆光で表も裏も変わらない顔が自分をとらえ、視線を注いでいることが、はっきりとわかった。


 いつからはそこに佇んでいたのか。


 彼女の夜に侵入したのは青年の方だったのかもしれない。


 逃げなければと思うのに、心は奪われたように呆然として、動くことを拒否した。心が体が天空で繰り広げられる月と夜の饗宴を欲してなぞる。


 目がはなせない。


 ――もっとだ……もっと、見ていたい……。


 月明かりに守られていると感じていた自分はどこに行ったのだろう。心の傷に触れながら目をそらさないでいてくれる月に、やさしさを求めていた青年は、セカイを変えてしまった漆黒の翼に魅せられていた。


 明るい夜空において、なお暗く、どこまでも黒く染め抜かれた影には、月の光さえ届かない。一体となった影を羽ばたかせ、月から温もりを奪い、清冽な光と化したまばゆい輝きと、真っ向から打ち消しあう。

 果てることのない存在は、もはや離れがたくからまり、けして溶けあうことなく、見る者に互いのもどかしさと渇望を植えつけた。


 体をはい上がる歓喜に浮かされながら、食いいるように青年は目を見開く。


 ――綺麗、だな。


 ぐびり、と喉が鳴った。


 いくら引き裂かれても月を隠せない闇の手が、伸ばした翼で月を撫で、光をたたえて白くもだえる月が夜空でともに戯れる。

 意思を持つように笑う月と闇に見返されて、熱い体に責め上げるような波が走った。


 その時、


「――よけなさい」


 凛と響いた声に現実じかんが加速する。反応した体は考えるよりも速く、地を蹴っていた。


 直撃は免れたものの、爆音とともにえぐられた地面が降り注ぐ。


 それで終わらなかった。


 二度目の襲撃を受ける前に、青年の体は宙を舞う。遅れて鳴り響く破壊の音色と衝撃波。


 地面にしたたかに体を打ちつけた青年は、事態を確かめようと涙と呼吸困難でゆがむ視線を上げた。


 そこで見た光景を彼は一生忘れないだろう。


 かつん


 砕かれた石畳のふちに華麗な靴音が舞い上がる。

 黒い翼をなびかせて、あざやかな闇が降り立っていた。


 月の光にあらわれた顔は涼やかで美しく、凍りついたように感情を灯していない。


 高らかに響く靴音が近づいてくる。


 こつ……、こつ……


 逃げることも視線を外すことも忘れて、夜を制するように歩いてくる彼女を目に焼きつける。


 冷え冷えとした残響はあと数歩のところで止んだ。


 見上げる視線はからむことなく、精緻な顔の造作はため息が出るほど美しかった。そこに感情らしきものは見当たらず、くっきりとした輪郭の黒い瞳は、闇のように光を吸い込んで返さない。

 つややかな黒髪が散り、黒い翼ははためいた。それでも、彼女が抱える痛いほどの静寂から目がそらせない。

 あの月のように、磨き抜かれた闇のような瞳に、このまま堕ちていく。

 青年の意識を、無機質な声がうち破った。


「あなた――死ぬのは、恐い?」



 ――闇よりも黒い翼に、魅せられる


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