第1話 上意(改稿)
——人は、常に何かを削ぎ落としながら生きている。
人が生き永らえるためには、別の何かを補填し続けなければならない。
そして、何かを得るためには何かを犠牲にしなくてはならない。
しかし、それは決して等価ではなく、失う方へと常に天秤は傾いている。
人は与えられた時を与えられた方法でしか生きることができず、常に満たされることなくその生を終えるのだ。
人は常に終わっていく方へと走らねばならない。
だからこそ、
だからこそ、
だからこそ、
その生に全力であるべきだ。
その生を謳歌するべきだ。
その生に命を懸けるべきだ。
必ず満ち足りた人生を送れるとは言わない。
努力が報われる人生が送れるとは言わない。
だが、それでも、諦めないでほしい。挫けないでほしい。そんなお前たちを、俺はどこまでも祝福しよう。
急速に気温が上がりつつあるのを感じる。東の空から上る日が静謐を湛えた道場を照らす。古ぼけた稽古場の木の香りを肺に吸い込んで、礼をして神棚に手を合わせる。そうして、準備運動を始める。
陽の光を照り返す磨き抜かれた床板は美しく思えた。室内ながら大気に含まれた深緑の香は夏が盛りを越えたことを感じさせている。
未だ待ち人は来ず、気を紛らすように一人素振りを始める。血豆を幾重に潰しながら握ってきた木刀の柄は黒くくすんでいた。それでも俺は木刀を離さない。身を削りながらも修練に励む様を見て、いつか姉が『剣の亡霊』と言い表したことがあったが、正しく的を射た言葉であったと今では思う。
亡霊になっても、たどり着きたい場所があるから。
姓は深凪。字は悠雅。諱は鍵時。
【
「――早いな」
汗がしたたり出してきた頃、背中に声がかかった。
「では、朝稽古を始めるとしよう」
・・・・・・
「無貌の魔人――尾張の大うつけ・織田信長がそう呼ばれ出したのは、かの明智光秀の謀反によって起こった〈本能寺の変〉から少し経った頃」
【
――なんでいまさらこんなことをしなくてはならないのだろうか?
当のうつけ者はそんな事を考えながら、こっそり四角く切り取られた残暑を眺めた。もう九月半ばだというのに遅刻気味な蝉が「女が欲しい」とけたたましく叫んでいる。存外セミの世も
「――本能寺の変にて
大通りを行き交う人々の残暑に喘いでいるさまを見て、うつけ者は心の中でそっと敬礼する。
(お勤めご苦労様です)
労働は尊い。だがそれ以上に命はもっと尊いものである。そうあるべきなのだ。この茹だる暑さに倒れる人が出ぬよう彼はひっそりと祈った。
「――信長の天才的な政治手腕と隣国との戦争に明け暮れている欧州諸国の状況が後押しをして、遠く離れた極東の地でしかなかったわが国は驚異的な発展を遂げる。こうし……って悠雅さんちゃんときいてるんですか?」
じろり。そんな擬音が聞こえてきそうな目付きで咎めるように瑞乃は幼馴染の名を呼んだ。
隻眼に切れ長の三白眼という少しばかり人相の悪い顔の青年――は外から吹き込んでくる残暑の温かい風に総髪をたなびかせて、
「聞いてますよ。その続きは『こうして、織田信長と呼ばれる一人の魔人の手によって天下統一が成された極東の島国・
「……明らかに聞いていなかったのに、そうやって一言一句当てられるとちょっと腹が立ちますね」
「そう怒らないでください、お嬢。腹を立てるよりも、あんたは腹を空かせるべきだ。いつまで経ってもやせっぽちだし、ちんちくりんだし」
「余計なお世話です、私は貴方のお嬢になった覚えはありませんよ。それに、私だってこんなことやりたくてやってるんじゃないんです。悠雅さんが身を入れて勉強してくだされば、早く終えてゆっくりお昼が食べられるんです。わかってますか?」
「だからって一般常識から始めなくても良いでしょうに……」
「幼馴染として、小さな頃から木刀ばかり振っていたのを見ていたからです。……これでも気を遣っているのに」
(どう考えても馬鹿にしてるだろう……)
白けた様子で瑞乃に聞こえぬように彼は嘆息を漏らした。
深凪優雅という男には望みがあった。だから、これまでの人生で勉強する時間を余り取ってこなかった。
【 英雄になること 】
言葉にしてみると何とも陳腐で、現実味の無い望みだ。しかし、彼はそうなることを切望している。敬愛すべき育ての親であり、尊敬すべき恩師にその恩を返すために。
だから、こんなことをしているくらいなら木刀の素振りをしていたいと思ってしまうのだ。
もう一度、うつけ者は窓外の残暑を眺めた。気だるい暑さの中、蝉の声は鳴り止まない。
・・・・・・
道場の中心に男がいる。
目の前に立つのは、目をつぶったまま木刀を構える白髪の老剣士。対峙するだけで総毛立つ。熱を
今でこそ衰え、
しかし、臆しはしない。俺はこの男の意志を継ぐ人間なのだから。
「——はぁっ!!」
瞬時に間合いを詰め上段から木刀を振り下ろす。戦場においては速力は何よりも尊ばれる。謀略においてのみならず白兵戦でもそれは同じだ。
しかし、老剣士は俺の木刀をあっさりと躱すと手首、脇腹、胸部に一撃ずつ、
それも一呼吸で打ち込んできた。激痛と胸部への一撃で瞬間的に肺から酸素が失われ、苦痛に満たされる思考を気力で強引にねじ伏せる。
床を思い切り蹴りつけ跳躍。俺にちゃちな小細工は向いていない。自身そう思うし、そう教え込まれた。だから、相手が格上だろうが格下だろうが正面突破あるのみ。
一つ一つを全霊かけて、叩き込む。
「踏み込みが甘い」
木刀を弾かれた、と認識した頃には技の全てを叩き落とし、爺さんの
「てぇっ……!」
「速いし力強い。しっかりと教えを守った良い剣だ」
「本当に目が見えないのか怪しくなってきたぞ……」
「おー、見えてないぞ、なんなら右耳も聞こえてないな」
にへら。なんて音が聞こえてきそうなくらい深く笑う爺さん。自身の肉体機能の欠損をここまで嬉々として語る人間もそうはいまい。
それだけ自身の実力に自信があるということの裏返しなのだろうか。
「くそ、遠いな……いつになったら近づけるんだ、俺は……」
「そう卑下するな、私は言ったはずだぞ? 良い剣だ、と」
「勝てなきゃ意味ないだろ……」
「やれやれ、そんなに勝ちたいならとっとと立ち上がって、私から一本とってみせろ」
「言われなくても!!」
再度、老剣士に挑むべく木刀を握りこむ。
俺の心の奥底にある原風景はこの古ぼけた道場で、その中心にはいつだって彼がいる。
木刀をたずさえて不敵に笑っている、盲目の剣士。
男は
彼は常に帝の事を考え、民草を案じ、国の行く先を憂いていた。
俺はそんな男の背中を見て、追いかけてきた。師と仰ぎ、親と敬い、追いかけてきた。その意志を継ぐべく。新たなるこの国の剣となる為に。
それが深凪悠雅という人間の起源だ。
ならば、俺が彼を師事し、幾度となく挑むのは極々自然な事で。
「——シィッ!!」
短い呼吸と共に床を擦る低姿勢から
「流石の圧だ。並の人間なら風圧だけで吹き飛んでしまうだろうな」
「なら吹き飛んでいないアンタはなんなんだよ!!」
「無論、」
口角を釣り上げて、彼は笑って、
「神さまだよ」
「……それ、冗談になってないだろ」
「そら、文句を言ってないでさっさと立て。まだまだ行くぞ」
「わかってるっての……!!」
数刻後。
道場の床で這いつくばり、一本も取ることが出来ずに歯噛みをする俺を、爺さんは一瞥し、
「後で隊主室まで来い。お前に人攫いを頼みたい」
そう言い捨て、立ち去った。
(次の話の冒頭イメージ)
征夷大将軍が座す軍都・安土は、この国において皇都・京都と双璧を成す極大都市である。(略)
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