十四の段 湯の山温泉

「義苗どの。温泉おんせんに行こう」


 大相撲おおずもう興行こうぎょう間近まぢかにせまったある日、馬公子まこうしさまが急にそんなことを言い出しました。


明後日あさってには江戸の力士りきしたちが菰野こものにやって来るというのに、何をのん気なことを言っているんですか……」


 義苗さまはあきれてそう言いました。


 そうなんです。60数名の力士たちがそろそろ菰野藩にやって来るという手紙が、昨日、菰野こもの陣屋じんやとどいいたばかりだったのです。


 飛脚ひきゃく(手紙や荷物にもつを届ける、今で言う郵便屋ゆうびんやさん)を使って手紙をよこしてくれたのは、ハギちゃんの相撲のお師匠ししょうさんの小野川おのがわ才助さいすけという人で、後に第五代横綱よこづな小野川おのがわ喜三郎きさぶろうとなる超実力者でござる。


「たくさんの力士たちをどこに宿泊しゅくはくさせるか決めないといけないのに、温泉なんて行っているひまはないですよ。それに、温泉なんかどこにあるんですか?」


「あるよ。温泉なら、菰野藩の領内りょうないにある」


「え?」


の山温泉というなかなかいい温泉でな。伊勢いせの国にたったふたつしかない温泉のひとつなんだ」


「えええーーーっ⁉ こんな貧乏びんぼう借金しゃっきんまみれの、吹けば飛ぶような小さい藩にそんなぜいたくなものがあったの~⁉」


 義苗さま、何もそこまで自虐的じぎゃくてきにならなくても……。


 でも、気持ちはわかりますね。なーんにもない田舎いなかの領地だと思っていたのに、そんな立派な観光地かんこうちがあったと知ったらおどろきますよ。この時代は遊園地ゆうえんちなど旅行先で遊べる場所なんてありません。だから、旅先で温泉を見つけたりしたらウッキウキでござる。


「でも、老中ろうじゅうまつだいら定信さだのぶさまが『ぜいたくは禁止だ!』と倹約令けんやくれいを出した影響えいきょうで、温泉旅行に来てくれる人がめっきり少なくなってなぁ。昔は、湯の山の温泉街おんせんがいで買い物をして、お金を落としていってくれる人たちがいたんだが……」


 まーた松平定信さまですか。菰野藩はとことん定信さまにのろわれていますな!


「その絶賛ぜっさんさびれつつある温泉に、なぜ今行こうとするんですか?」


「『絶賛さびれつつある』とか言わないでくれ。悲しくなる。……実は、今、あるお方が湯の山温泉におしのびで来ているんだ。そのお方に義苗どのを会わせたくてな」


「あるお方とは、だれですか?」


「松平定信さまに勝つための切りふださ」


 馬公子さまはそう言い、ニヤリと笑うのでした。







 というわけで、義苗さまは、馬公子さま、ミヤ、南川みなみかわ先生、ピョンピョン左衛門ざえもんとともに湯の山温泉に向かいました。


 ハギちゃんは、大相撲菰野場所を宣伝せんでんするために伊勢の国をあちこち走り回っているため、不参加ふさんかでござる。


 ドラぽんも、もうすぐやって来るお相撲さんご一行の宿の準備を馬公子さまに押しつけられたため、不参加。


「うわーん! それがしも温泉に行きたかったのにぃ~! 胃が痛い胃が痛い胃がいたーい!」


 中間ちゅうかん管理かんりしょくは大変でござるなぁ~……。


 さて、拙者せっしゃと読者のみなさんは義苗さまご一行について行きましょう。


 湯の山の温泉街おんせんがいは、鈴鹿すずか山脈さんみゃく主峰しゅほうとなる御在所ございしょだけ中腹ちゅうふく標高ひょうこう400メートルあたり)にあります。義苗さまたちは、温泉街までの山道を歩いて行きました。


(山道はやっぱりきついが……。東海道とうかいどうでさんざん歩いたおかげで、オレも少しは体力がついたみたいだな。山道にく花々を楽しむ余裕よゆうがあるぞ)


 義苗さまは、御在所岳の美しい自然に心いやされていました。


 山にはたくさんの花があります。

 たとえば、あわあお紫色むらさきいろの小さく愛らしい花を咲かせているタテマヤリンドウ。

 明るくあざやかな赤紫色あかむらさきいろ可憐かれんなホンシャクナゲ。

 シロヤシオという大きな木には、純白じゅんぱくの花がじらう乙女おとめのように葉のかげにかくれて咲いています。


(菰野にはこんな素晴すばらしい自然があるんだな。殿さまのオレが、この美しい菰野の地を守らなきゃいけないんだ)


 自分の領地の美しい自然を見て、義苗さまは殿さまとしての自覚じかくをあらためて強く持ったようでござる。


「殿さま。気をつけてくださいです。わたしたちを尾行びこうしている者がいるみたいです」


 山道の途中とちゅうで、ミヤが義苗さまに小声で言いました。


「また松平定信さまの隠密おんみつか‼ おのれぇ~‼ オレが退治たいじしてや……むぐぐぅ⁉」


「ピョンピョン左衛門どの、発言するたびに馬鹿ばかでかい声で怒鳴どなるのはやめてください。隠密に気づかれます。もう少し落ち着いた性格にならないと、殿さまの護衛ごえいはつとまりませんよ。超特大バッテンです」


 南川先生がピョンピョン左衛門の口をふさぎ、そう注意しました。


うしろの木のかげから感じる気配けはいは、ふたつあります。おそらく、敵は二人。そのうちの一人は、さっきプーッとおならをしたので、じゃがん二郎じろうだと思いますです」


 邪眼の二郎、お腹にガスでもたまっているのでしょうか……。


「どんなわなをしかけてくるかわからないから、十分用心ようじんしていこう」


 馬公子さまがそう言い、義苗さまご一行は再び歩き始めたのでした。







「くっさ……。おまえ、おならをする時は一言ことわれよ」


 義苗さまご一行を尾行中の疾風しっぷう一郎いちろうは、相棒あいぼうの邪眼の二郎がいきなりおならをしたことに怒っていました。


「許せ。やみの力を体内に封印ふういんしているため、たまにおしりからが出てしまうのだ」


「言っている意味がわからない……」


「そんなことよりも、さっき偶然ぐうぜんつかまえた子熊こぐま絶対ぜったいに逃がすなよ」


 邪眼の二郎は、疾風の一郎が抱いている子熊を右目でチラリと見ながら、そう言いました。


「この子熊を何に使うつもりなんだ?」


「子熊を温泉街にはなつ。きっと、近くにいるはずの親熊おやぐまが探しにやって来て、温泉街の旅人たちをおそうだろう。そうしたら、菰野の若殿も熊にケガを負わされるかも知れない」


「なるほど。菰野の若殿が大ケガでもしたら、大相撲どころではなくなるな。……それにしても、本当に江戸を脱出だっしゅつして菰野にやって来ていたのか。なんて命知らずなガキだ」


「アホな菰野のご隠居いんきょおいっ子だから、土方ひじかた義苗もアホなんだろう」


 ……義苗さまも、あんたらにだけはアホ呼ばわりされたくないでしょうな。


 それにしても、子熊を誘拐ゆうかいして親熊に義苗さまたちをおそわせようとするとは、卑怯ひきょうなヤツらでござる。


 本当にクマったヤツらですな。クマった! クマった!


 え? 寒いギャグはやめろ? ごめんなさい……。







「あそこのなみだばしを渡れば、温泉街まであと少しだ」


 馬公子さまが古い橋を指差ゆびさすと、ミヤが「涙橋って、何だか悲しそうな名前の橋ですね」と言いました。


「ああ。実際じっさいに涙橋には悲しい物語がある。今から88年ほど前、あの橋の上で大石おおいし内蔵助くらのすけが恋人の阿軽おかるに泣く泣く永遠えいえんの別れをげたのだ。だから、涙橋と呼ばれているんだ」


 大石内蔵助とは、『忠臣蔵ちゅうしんぐら』という物語の主人公のことでござる。


 大石内蔵助たち赤穂浪士あこうろうし四十七士しじゅうしちしは、主君しゅくん浅野あさの内匠頭たくみのかみかたきである吉良きら上野介こうずけのすけたおすため、雪の夜に吉良の屋敷やしきち入りしました。


 内蔵助は、討ち入りを決行するために京都から江戸へ向かう途中とちゅうで、恋人の阿軽と湯の山に立ち寄り、恋人との最後の時間をすごしました。そして、涙ながらにこの橋の上で別れたのです。


 内蔵助たち赤穂浪士は主君の仇をとった後、幕府の命令で切腹せっぷくしたため、内蔵助と阿軽が会うことは二度とありませんでした。そんな悲しい歴史が、湯の山温泉にはあるのです。


「うおおお‼ 悲しすぎるぅぅぅ‼ 涙橋にそんな悲しい物語があったとはぁぁぁ‼」


 ピョンピョン左衛門が号泣ごうきゅうし、さけびました。


 いちいちうるさい! 静かにしなさいと、さっき南川先生にしかられたばかりでしょうが! というか、地元の人間なのに知らなかったのでござるか⁉


「ぐおおおおお‼」


 だーかーらー! さ・け・ぶ・な‼ まるで熊みたいな声じゃないですかぁ~。


 ……ん? 熊? そういえば、さっき隠密コンビが親熊に義苗さまをおそわせようとしていましたよね? もしかして、このき声は……く、熊でござるか⁉


「まずいな。近くに熊がいるらしい。急いで橋を渡り、温泉街に入ろう」


 馬公子さまがいつになくあせった声でそう言うと、義苗さまたちも緊張きんちょうした面持おももちでうなずき、足早あしばやに涙橋を渡るのでした。


「うぎゃぁぁぁ!」


「たーすーけーてー!」


 またもや別の声が聞こえてきましたぞ。


 あれれ? この声には聞きおぼえがあるような……。







「これが湯の山の温泉街か。けっこう立派じゃないか」


 涙橋を渡った後、くねくね曲がった急な山道を歩き、義苗さまご一行は温泉街の入り口に到着とうちゃくしました。


 なるほど。たしかになかなかよさそうな温泉街ですな。


 入り口にあるいしどうろうをスタート地点にして、東から西へとつらぬく一本の道の左右に二、三階建ての温泉おんせん宿やどが10けんほど。酒屋やお菓子かし屋、うどん屋、そば屋、豆腐とうふ屋、本屋、日用品にちようひんや女性の化粧けしょう道具どうぐ・かんざし・くしなどを売る小間物屋こまものやなどのお店も建ちならんでいます。


「菰野藩の三代藩主・土方ひじかた雄豊かつとよさまが戦国時代にれ果ててしまった温泉街を復興ふっこうさせたんだ。……おや? あそこの温泉宿の様子ようすがおかしいぞ」


 馬公子さまの言う通り、「橘屋たちばなや」というのれんがかかった宿が何だかおかしいでござる。宿の前で人がたくさん集まり、深刻しんこくそうな顔で何かを話し合っています。


「何かあったのか、橘屋」


 馬公子さまは、橘屋の主人である30代前半ぐらいの男に話しかけました。


「それが……。馬公子さま、大変なのです。温泉旅行に来られた尾張藩おわりはんのご一行が散歩に出かけたまま、おもどりにならないのです。何かあったのではと心配して、宿の者たちと手分てわけして探していたのですが……」


「何⁉ 尾張藩のご一行が行方不明ゆくえふめいだと? それは一大事いちだいじだ。今、この近くで熊がウロウロしているから危険だぞ」


 尾張藩は、前にお話した将軍さまの次にえらい尾張徳川家のことでござる。


「尾張藩士はよく湯の山に来ているのですか?」


「ああ。尾張の国は伊勢の国のとなりだからな。尾張からの旅行客はけっこう多いんだ。

 ……しかし、こまったな。その尾張藩の一行の中に、義苗どのと会ってもらいたいお方がいるんだ。あのお方にもしものことがあったら、菰野藩が幕府に怒られる。お取りつぶしもありえるぞ」


「ええ⁉ そんな重要人物の『あのお方』って、も、もしかして……」


「尾張藩のお殿さま・徳川とくがわ宗睦むねちかさまだ。本当は参勤さんきん交代こうたいで江戸にいるはずなのだが、菰野の大相撲おおずもうを見物するためにお忍びで湯の山温泉に来ていたのだ」


「ええーっ⁉」


 あ、あわわわ。徳川将軍家のご親戚しんせきが義苗さまの領内りょうないの山で遭難そうなんしちゃったら、江戸幕府は大激怒だいげきどまちがいなしですぞ⁉


「殿さま、おどろいている場合ではありません。近くで熊が出没しゅつぼつしているようですし、急いで探し出しましょう!」


 南川先生に肩をたたかれ、義苗さまは何とか冷静れいせいさを取りもどしました。


「そ、そうだな! みんなで力を合わせて、宗睦さまご一行を見つけるんだ!」


 果たして、徳川宗睦さまはご無事なのでしょうか⁉

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