第2章6話

 目を覚ませば、薄いカーテンの向こう側に朝日が昇っている。時計の針は七時二四分を指していた。僕を包み込むのは、高級感など一ミリも感じられぬ布団に、量販店で売られていた一般的な家具たち。現実での一日が、またはじまったのだ。


 ベッドを降り、学校に向かうのは昨日と同じ。電車が一〇分遅れというサプライズはあったものの、他は何もかもが普段通り。昨日を巻き戻してもう一度再生しているのではないか、と思うほどに代わり映えしない一日である。


「隆人? どうした? 起きてるか?」


「え?」


「最近の隆人、いつもぼーっとしてるよな」


 学校での現代社会の授業中、グループ学習の最中だ。同じグループのクラスメイトが、僕にそう指摘する。確かに、彼の言う通り。僕はすぐに愛想笑いを浮かべ答えた。


「ごめん。最近、変な夢ばっかり見てて」


「変な夢? なに、どんな夢?」


 お前が想像している夢こそどんな夢だ、と言いたくなるようなニヤケ顔を僕に向けるクラスメイト。誤解は是非とも解きたいところだが、本当のことを言っても頭のおかしいヤツか痛いヤツ扱いをされて終わりなので、説明は簡単に。


「なんか、勇者になって世界を救う、的な夢」


「マジ? お前が勇者? 何そのラノベのテンプレ。ラノベの読みすぎだろ」


「かもね」


 まずこのクラスメイトの口から『テンプレ』『ラノベ』という単語が出てきただけでも驚きである。もう少し話を膨らませてみるのも面白いかもしれない、と僕は素直に思った。だが、今は授業中だ。私語で先生に睨まれたくはない。


 僕が黙るとクラスメイトも黙り、グループ学習を再開。授業中は真面目に勉強する以外にやることがないので、とりあえず与えられた課題――グループ発表の題材決定に取り組む。


「それより、グループ発表は何にする?」


「う~ん……」


 誰も答えようとしない。まず、考える気がない。ごもっともだ。現代社会に関する何かを研究・調査しグループで発表しろ、という漠然とした授業に対し、興味も関心もない生徒たちがすぐに答えを出すわけがない。

 ただ、こうして悩んでいるだけでは一歩も前に進めないので、僕は率先して真面目に意見を出す。


「僕の案なんだけど、身の回りの文房具とか、家電とか、そういう物にどれだけ海外の製品が混じってるのか、調べてみるのは?」


「この消しゴムがヴェトナム製とか、そういうヤツか」


「そうそう。で、原料とか部品とかも調べれば、輸出入の話にも広げられる。そこから世界の中の日本、国際関係にまで話を広げれば、発表時間は十分に埋められると思う」


「はあ……」


 グループメンバーの反応は微妙だった。彼らの表情には、そこはかとなく『面倒』という言葉が滲み出ている。授業自体が面倒なのだから、その表情は先生に向けてほしいものだ。


 他に意見はなく、対案も出せないが、僕の意見を採用したくもないグループメンバーたちは、やはり黙ってしまう。はっきりと、その意見は嫌だ、という人もいないから、僕の意見は宙に浮いたまま。


 この状況で口を開いたのが、メンバーの中で最も発言権の強い生徒である。彼女は閃いたばかりの意見を机上に乗せた。


「あのさ、良いこと思いついたんだけど」


「なになに?」


「みんなにアンケート取ってさ、世論調査してみるのとかどう?」


「ああ! 良いね!」


「なんか楽しそう。私、それやってみたい」


「俺もやりたいわ、それ」


「んじゃ、もうそれで良くね?」


 あるメンバーが出した意見を、そのメンバーと仲の良いメンバーが持ち上げ、やる気のないメンバーたちがその意見を採用。僕の意見は、いつの間にか遠い過去に葬られてしまった。


 正直、生徒にアンケートを取って回る方が僕には面倒に感じるのだが、そこは人それぞれ。彼らには彼らのやりたいことがある。仲が良いわけでもない僕の意見、しかも面倒な意見を彼らが採用しないのは、考えてみれば当然のことだろう。


 自分の意見を押し通す意味もないので、僕は彼らの意見に従うことにした。それだけで話し合いが進むのなら、それが最も正しい選択と信じて。


 自分の意見を捨て他人の意見に従うのは、自分の勝手だ。自分で勝手に譲歩しているのだから、誰かを責めるつもりもない。だけど僕の心は、せめて僕が自分の意見を捨てたことに気づいてほしいと、無意識のうちに他人に求めていた。

 心の中身を表に出すことなく、それが故に一人で不満を抱き、その不満を殺そうと四苦八苦する。狭い世界で、我ながらアホらしい話だ。


 授業が終われば、グループのメンバーたちは仲の良いクラスメイトのもとに向かい、グループ学習での話し合いをあっという間に上書きしていく。先生すら、仕事に忙殺され別のことを考えていた。誰とも話さず、グループ学習の今後を考えるのは、僕一人。

 あとは、教科ごとに変わる先生たちの授業を一方的に聞き、本日の学校生活は終わりだ。学校が終われば、人混みの一部と化して電車に乗り、家に帰るだけ。


 帰りの電車の中、つり革を握りながら、今日こそ夢の世界で目覚めたいと、いつもの願いが僕の頭の中で踊っている。日頃の退屈さと不満を解消するために。


 一方で窓に映った冷酷な自分は、僕の胸で騒ぎ立てる不満を代表し、不満から僕を逃がそうとしてくれない。


――誰も僕の言うことなんか聞いていない。誰も僕のことなんか見ていない。僕が居ようが居まいが、誰も気にしていない。それでも僕は、みんなのために生きるのか?


 冷酷な自分は僕に問いかけ、さらに言葉を続ける。


――みんなのために生きるしかないだろうな。自由に生きれば、誰かの自由を奪う。誰かが引き下がらなければ、争いが起こる。なら、自分が引き下がれば良いんだ。


 これは自分が望んでいること? 違う。これは諦めだ。僕はこの現実世界を諦観し、事なかれで生きているだけだ。


――ここに自分の居場所はない。だから夢の世界に逃げた。それで? 夢の世界に自分の居場所はあったか?


 その問いかけには答えたくない。事実に目を向けたくはない。けれど、冷酷な自分は構わず言い放つ。


――夢の世界が居場所と言えるのは、僕ではなく勇者だ。夢の世界の住人が求めているのは勇者の救いであって、篭坂隆人を求めている人はどこにもいない。篭坂隆人の居場所は、夢の世界にもありはしない。


 見て見ぬ振りをしていた。分かっていたのに、ぬるま湯に浸かっていたい気持ちが勝り、僕はその事実から目を背けていた。冷酷な自分は、その事実から目を背けなかった。

 事実を突きつけてきた冷酷な自分とは、何者なのか。分かりきったことである。何が冷酷な自分だ。冷酷な自分とは間違いなく僕だ。そして、僕の本心だ。


――僕の居場所はどこだ?


 現実世界に居場所を見つけられなかった僕は、いつの間にか夢の世界に居場所を見出そうとしていた。リィーラと過ごす日々が僕の居場所なんだと、本気で思っていた。でも夢は夢。もう目を覚まさないといけないのかもしれない。


 エッセに生まれれば良かったのに、という現実逃避をしながら、退屈なコピー機の中でため息をつく僕は、無感情のまま家に帰る。


 家に到着後、勉強とゲームをそこそこに、一九時になれば夕食の時間。今日は父親が早く帰ってきたのもあり、久々に家族三人で食卓を囲った。


『――自衛隊とアメリカ軍の大規模な軍事演習に対し、演習地に選ばれた地元の住民は不安と戸惑いを隠せません。これに関し、国会では野党による政権の追求が相次ぎました。ある野党議員は、この演習が自衛隊と米軍の一体化を――』


 父親がつけたテレビに映る、国会議事堂での一場面。学校の生徒会による会議と大差ない政治家同士の論戦が編集されたニュース番組は、芸能人たちがわざとらしいコメントを繰り返すグルメ番組へと、すぐさま変わってしまう。

 我が家においてテレビのリモコンの主導権を握っているのは母親だ。父親もテレビには特に興味がないようで、文句の一つも言わない。


 作られた笑い声と芸能人たちの冗談がリビングを支配。口数少なくトンカツを口に運ぶ僕たち家族は、いつも通りという沼の中を過ごす。唯一の救いは、食事が美味しいと感じられることぐらいか。


 皿は空となり、ふと時計を見る。時間は一九時三〇分。眠ろうにも眠れぬ時間だ。父親はさっさと自室に向かい、母親もテレビを見ている気配がない。そこで僕は、リモコンを持ちテレビを操作した。

 テレビ画面に映ったのは、僕がまだ文字も読めないような頃から見ていたSF映画である。派手なアクションと魅力的なキャラクターたち、何より男の子の心をくすぐる乗り物と世界観を凝縮したその映画は、僕を夢中にさせてくれる数少ない存在だ。


「あれ? 自室に戻らないの、珍しいわね」


 台所に立つ母親が、首をかしげてそんなことを口にする。映画に集中していた僕が黙っていると、母親は言葉を続けた。


「ここ数ヶ月、夕食が終わったらすぐに自室にこもっちゃったのにね。しかも早寝早起きまでするから、健康的な生活もしてたし。それに、なんだか楽しそうだったのに。なんかあったの?」


 今、僕は大好きな映画を見ているんだ。どうして母親は、そんな僕を邪魔するのか。どこにも居場所がない僕が、せっかく心落ち着ける時間を、どうして母親は奪うのか。どうして、楽しかったリィーラとの時間を思い出させようとするのか。


 自分が今、あまりに勝手な感情を抱いているのは分かっている。母親が僕の夢のことなど知っているはずもないのだから、母親を責めるのは筋違いだ。でも、それならば、僕の心を侵食する得体の知れない感情をどこに持っていけば良いのか。


 少なくとも、落ち着いて映画を見られる状況ではないのは確かである。僕は再びリモコンを握り、映画を中断させ、そのままテレビを消し、席を立った。


 どうせ僕の居場所はどこにもない。我が家にすら僕の居場所はなく、どこにいたって、一つの荷物も置かれていない倉庫のような空っぽの時間を過ごすだけなのだ。リビングにいようと自室に向かおうと、それは変わらないのだ。


 僕がリビングの扉に手をかけ、廊下へ出ようとしたその時、母親は僕に尋ねた。どこか心配そうな表情をして。


「隆人」


「……なに?」


「明日もいつも通り?」


「うん」


 明日だけじゃない。明後日も来週も来月も来年も、ずっといつも通り。居場所のない世界で、コピーされた毎日を永遠に過ごし続ける、退屈ないつも通りが、僕を待ち受けているのである。


 自室に戻った僕は、だからといって何をするわけでもない。スマートフォンでゲームをしながら、それに飽きればネットを漁り、無意味なストレスを抱えると、無為に動画を垂れ流していた。


 眠ってしまえば、夢の世界に行けるかもしれない。もし、ウェスペルに行けば、リィーラと会えば、また「タカトくん」と呼ばれれば、きっと僕の心は落ち着きを取り戻すのだろう。でも、それはできない。彼女は、夢の中の世界の住人でしかないのだから。


 夢の世界で僕ができるのは、勇者を演じることだけだ。誰も僕を必要としていない現実世界よりかは、勇者を演じられる夢の世界の方がマシというもの。


 勇者に選ばれ、魔物を倒し、魔王を倒し、世界を救う。物語としてはありきたり。だが、実際にそれを体験してみると、子どもの頃に感じた世界に対する新鮮さが蘇り、夢の世界の毎日は、クリスマスプレゼントの箱を開けるように楽しかった。


――夢は夢だ。


 僕は勇者に選ばれたらしいが、勇者は僕ではない。魔物を倒す毎日は刺激的だが、所詮は夢の中での出来事だ。リィーラは、夢の世界の住人だ。


 夢の世界で必死になってどうするのか。僕は夢の世界の住人ではない。僕は現実世界を生きている。いつまで僕は、退屈な毎日から逃げるため夢を見ているのだろう。


 考えれば考えるほど、マイナス思考が僕の体を乗っ取り、蝕んでいく。こんなことなら、思考能力も止めてしまおう。僕はベッドの上に横たわり、頭も心も空っぽにして、ゆっくりと瞼を閉じるのであった。

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