第2章4話
エッセに夜が訪れた。僕は眠りにつくため、大理石を覆った絨毯を踏みしめ自室へと向かう。ウェスペルではなく、城の自室へと。
リィーラの前から僕は消えなければならなかった。自分がいなければリィーラは悲しまない。自分がいなくなることがリィーラを救うことだ。などと自分に言い聞かせ、僕はウェスペルを去り城に戻ってきたのである。
城に戻ってきてから四日目の勇者生活を迎えたが、これといって変わったことはない。勇者として魔物と戦う毎日に変わりはなかった。リィーラの「おはよう」という朝の挨拶が、聞けなくなってしまっただけだ。
暗い廊下を歩いていると、向こう側からケーンがやってくる。魔法石の仄かな光に浮かび上がった、自由気ままに散歩するオス猫のような彼は、僕を見つけるなりニタニタと笑い、話しかけてきた。
「よお、今日も良い仕事だったぜ。あの空飛ぶ兵器、すげえな。あれもお前の世界にある兵器なんだろ?」
「もちろん。戦闘機、攻撃機、爆撃機っていうやつで、僕の世界の大きな軍隊では欠かせない兵器」
「おいおい、まさかアレが大量に存在するのか? そっちの世界の住人は、誰と戦ってやがる」
「……同じ人間同士で戦って、勝ち残るために、僕たちの世界の技術力はあそこまで達したんだ。考えてみると、バカらしい話な気もするけど」
「ヘッヘッヘ、かもな。けどよ、それが生き残る、勝ち残るってこった。あんな兵器をたくさん作れるってことは、そっちの世界の生活は、俺たちが想像もできねえような便利なもんなんだろ」
「まあね」
「そっちの世界じゃ魔物の居場所もなさそうだし、羨ましいぜ」
そう言う彼を見て、僕は思う。彼はエッセの住人であり、エッセを愛し、命をかけてエッセを守ろうとする者の一人。僕とは違う世界の住人なのだ。
雑談を終えると、魔法師団の魔導師らしい顔をして、ケーンは簡単な戦況報告をしてくれる。
「ところで、魔物どもはシェルド川の向こう側に撤退をはじめた。ヘリヤも魔物並みの回復力で、すぐにでも戦場に出られるらしい。お偉いさん方も大掛かりな反転攻勢を決めた。ちょっと前までの絶望的な状況がウソみてえだな。次もよろしく頼むぜ、勇者様」
「任せてくれ。どんな魔物が敵でも、全部倒すだけだ」
「言ったな。頼りにしちゃうぞ」
早くも魔導師らしくない表情に戻り、僕の肩を軽く叩くケーン。彼は僕の横を通り過ぎ、僕に背中を向けた。しかしすぐに足を止め、顔だけ振り返り、僕を呼び止める。
「ああ、言い忘れてた。魔物との戦いに集中して全てを忘れようとするのは良いアイデアだが、もう少し楽しても良いんだぜ。以上、ケーン先生から勇者様への余計なアドバイスだ」
言いたいことだけ言い残して、今度こそケーンは去って行った。ニタニタと笑ったまま、夜の散歩に行ってしまった。
まったく、本当に余計なアドバイスである。そして、彼は本当になんでもお見通しである。ケーンの言う通りだ。だけど、僕はケーンのアドバイスに従えない。今の僕が楽をするのは、許されないことなのだから。
どんな魔法を使っているのだろうか、生ぬるい室温の城を歩き続け、僕は自室までやってきた。王様が僕のために用意してくれた広い部屋は、一人で過ごすにはいささか空間が多すぎる。
出入り口からベッドまでの数十歩。これが、この広い部屋で僕が使う空間だ。ベッドに到着すれば、着替えを済ませ、布団の中に潜り込む。そして、ベッドの脇に置かれた小さな棚にしまわれている首飾りの存在を思い出し、僕は逃げるように眠りにつくのだ。
*
目を覚ませば、薄いカーテンの向こう側に朝日が昇っている。時計の針は七時三八分を指していた。僕を包み込むのは、高級感など一ミリも感じられぬ布団に、量販店で売られていた一般的な家具たち。現実での一日が、またはじまったのだ。
早速スマートフォンをいじり、今日の天気を確認。降水確率四〇パーセントという、傘を持っていくかどうか判断に困る数字にため息をつきながら、ベッドを降りる。
着替えはテキトーだ。ファッションのことなど分からぬ僕は、最初に触れた衣服を身につけるだけである。着替えを済ませると、テレビの音がうるさいリビングへと向かった。
『――が亡くなったこの事故。会社側はどうして事故を未然に防ぐことができなかったのでしょうか? 管理体制の甘さが招いた事故であったと、言わざるを得ません。次のニューです。動物園で生まれた――』
テレビのスピーカーから垂れ流しにされるキャスターの言葉は、キッチンから聞こえて来た流しの水の音にかき消されてしまった。興味があるニュースではないし、そもそもテレビはBGMでしかないのだから、聞こえなくたって問題はない。
リビングにやってきた僕は、キッチンから探し出した朝食――パンを頬張る。美味しいわけでも不味いわけでもないパンを腹に入れるのは、カロリーを摂るのだけが目的。
「隆人、今日はいつも通り?」
洗い物を終えた母親が、コーヒーを作りながらそう質問してくる。もはや耳にこびりついた質問。答えるのも面倒だったが、答えなくとも面倒なことになるのだから、一応は答えておいた。
「いつも通り。というか、何にも言ってない時はいつも通りって、何回言った?」
「何も言わなかったのにいつも通りじゃなかった日、何回あった?」
即座に反撃され、僕は言葉を失う。母親は黙り込んだ僕に勝ち誇ったような表情を見せつけ、満足げにしていた。やはり面倒である。
面倒事から逃れるには、さっさとこの場を去るしかない。数分程度で出発の支度を終えた僕は、学校に向かうため家を出た。ただし、これで面倒事から逃れられたかというと、そうでもない。学校に行くこと自体が面倒なのだから、もうどうしようもない。
家の外に出ると、似たようなデザインの一軒家がずらりと並んだ景色が視界に広がった。僕が勝手に『クローン住宅街』と呼んでいるこの街は、月並みな表現をすれば閑静な住宅街だ。つまり、特筆することは何もないということ。
車が行き交う大通りを歩き、バスやタクシーが並ぶターミナルを抜けると、駅に到着だ。同じような格好の人々が、同じような目的のため、誰にも構うことなく同じ方向に歩いていく。そんな集団の中に、僕も一人混じる。
改札を抜け、ホームへ。ホームには時間通りに電車がやってきて、僕はいつもと同じように電車に乗り込む。電車はいつもと同じ時間、同じ駅を巡り、僕を目的地まで連れて行ってくれた。
電車を降り、改札を出て、再び徒歩による移動。ここまで来ると、周りには僕と同じ制服を着た人たちばかり。
家を出てから三〇分以上。こうしてようやく、僕は学校に到着したのである。目が覚めてから学校に到着するまでの約五〇分間は、昨日と全く同じ五〇分間だった。いつかの退屈な五〇分間のコピーを、無為に過ごしただけだった。
学校生活についても、いつかの退屈なコピーを無為に過ごしただけ、と言ってしまえば全てが終わる。わざわざ説明するようなことは、何一つとして存在しない。ほとんどの人が過ごしている当たり前の生活を、いちいち説明する必要もない。
友達がいないわけでもなく、しかし親友がいるわけでもなく、成績だって普通。学園モノの世界など天国よりも遠いんじゃないかと思える学校生活の毎日は、浅い泥沼に浸かるようなものであった。
時計の短針はなぜもっと早く動かないのかという不満を抱きながら、今日の学校生活もいつも通り終わりを迎える。帰りの電車に乗れば、今日は夢の世界で目覚めることができるのだろうか、という思いで頭がいっぱいだ。
だが同時に、電車の窓に映る自分の姿を見ていると、冷静かつ冷酷な自分が僕に告げるのである。
――僕は勇者? 僕が世界を救う? 現実世界で退屈な毎日を送るだけの僕が、夢の中で人々を救う? 挙げ句の果てに、夢の中で出会った少女から逃げようと必死になっている。今の僕は、狂人そのものだろ。
俯瞰した位置からの意見は時に正しく、時に残酷。たかが夢の世界にどうして必死になっているのだろうか、と言われてしまえば、僕は何も言い返せない。エッセが実際に存在する証拠など、どこにもないのだから。
けれども、エッセが存在する可能性はゼロではない。だからこそ僕は、夢の中で勇者を演じ続けているのだと、たったそれだけの希薄な理由で結論付けた。
家に帰れば、勉強とゲームをそこそこに、夕食の時間になれば母親の作った中華料理を食べ、自室に戻るとスマートフォンで興味のないものを見る。興味のないものを見ていれば、すぐに眠気が襲いかかり、早く夢の世界に行くことができると思っていたのである。
夢の世界で目を覚ますことができたのは、それから四日も後のことだったのだが。
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