第2章 夢と現実の狭間で
第2章1話
エッセで目覚めるのに十日もかかったのは、これがはじめてだ。ようやく目を覚ますことができた僕は、あっという間に過ぎ去るこの一日をどのように過ごすかについて、ベッドの中で頭をフル稼働させる。
ぼんやりと眠気が残る頭をフル稼働させた結果、僕はあることに気がついた。僕が今いるベッドは、ウェスペルのベッドではない。それ以前に、僕が今いる部屋は、ウェスペルの部屋ではない。
簡素なベッドに味気ない家具ばかりの殺風景な部屋。耳に入り込んでくるのは、甲冑の擦れる音ばかり。美味しそうな朝食の香りなどなく、泥臭さが僕の鼻に突き刺さる。まるで徴兵生活でもしているような気分だ。
そんな僕の感想は、あながち間違っていなかったらしい。体を起こした僕の周りにいたのは、薄汚れた鎧に身を包む魔法師団の兵士たちだったのだから。
「勇者様! 勇者様がお目覚めになったぞ!」
「やっとか! すぐに指揮官に伝えろ!」
「了解しました!」
「それと、ケーンも呼んでこい!」
「はっ!」
僕の顔を見るなり、硬直した体をいくらか緩める兵士たち。父親の登場にホッとする子供のような彼らの反応は、僕からすれば見慣れたものだ。
ただし、さすがにこの状況に対する戸惑いは隠せない。ここがメディントンの駐屯地であるのは、なんとなくだが理解できた。問題は、なぜ僕はウェスペルではなく、駐屯地で目覚めたのかである。首をかしげ、とりあえずベッドから降り、立ち上がった僕。
すると、部屋の出入り口から勢い良くケーンが現れる。彼はマグマを吹き出す火山のように、僕に詰め寄り早口でまくし立てた。
「ねぼすけ勇者! 遅えぞ! どんだけ俺たちを待たせる気だ! この九日間、こっちは大変だったんだぞ! 俺たち魔法師団も限界だ! 俺たち魔法師団が限界ってことは、この世界自体が限界ってことだ! 早く着替えて俺についてきやがれ!」
凄まじい剣幕に圧倒され、完全に目を覚ました僕は、そそくさと着替えを済ませる。何があったのかは未だに分からないが、ケーンがあれだけ余裕を失っているのだ。かなりまずいことが起きているのは確実。
着替えを済ませた僕は、部屋を出て行くケーンの背中を追った。部屋を出ると、やはりそこはメディントンの駐屯地。早歩きのケーンは、先ほど怒鳴ったことで冷静さを取り戻したか、不満げな感は残るものの、軽めの口調で僕に対し言った。
「丁寧に説明してる暇もねえからよ、このケーン先生がざっくりと現状を説明してやる。ちょっくら周りを見てみろ」
言われた通り、僕は周り――メディントンの駐屯地を見渡す。駐屯地のテントの数は増え、兵士や馬の数も普段とは比べ物にならないほど多い。中でも特に多く、そして特に目立つのが、負傷兵だ。
擦り傷などは当たり前で、腕や足を失くした兵士も珍しくはない。傷の痛みに耐えながら座り込む兵士たちは、ほとんど亡霊のよう。治療用のテントからは、あまりに痛々しいうめき声が、これでもかと漏れ出していた。
目を逸らしたくなるような光景が広がる駐屯地。そのあまりに凄惨な風景に、僕は血の気が引いた。ケーンは話を続ける。
「九日前だ。魔物の大部隊がシェルド川を越えてきやがった。あいつら、一点集中で前線を突破、こっちも防衛戦を張ったんだが、もうどうしようもなかった」
説明しながらも、ケーンは歩くことをやめない。彼は駐屯地の中で最も高い見張り塔の階段を上りはじめた。
「王都防衛のための戦力温存か、魔物の大部隊を足止めするため魔法師団の全滅を覚悟するか。どっちみち絶望的な状況。お偉いさん方は随分と頭を悩ませてるみてえだぜ」
「戦力温存の場合、メディントンは放棄……」
「そういうことだな。俺たちが全滅すれば、この世界は終わりだ。お偉いさん方は戦力温存を選ぶだろう」
「そんな……」
「おいおいタカト、その程度で絶望されちまうと困るぜ」
「え? まだ何か?」
「お偉いさん方は年寄りばっかでな。年寄りの会議は紅茶と時間を浪費するだけの場だ。魔物たちは会議が終わるのを待っちゃくれねえ。見ろよ、あれ」
階段を登りきったケーンは、見張り塔の上からメディントンの外側に向かって指をさす。彼の指の先にあったのは草原――などではなかった。彼の指の先にあったのは、波打つ黒い海のような集団。
その集団が、草原を覆い尽くした魔物の大部隊であると、僕はしばらく気づけなかった。黒い海と化した魔物の大部隊は、ゆっくりと、しかし確実に、メディントンを呑み込もうとこちらに近づいてきているのだ。
どこまでも続く草原は、絶望渦巻く魔物の海へと姿を変えた。あまりのことに、僕の頭は思考停止。そんな僕の背中に、聞き慣れた冷たい口調が突き刺さる。
「魔物は約一〇万の大軍。対して我らが魔法師団は、残存兵力八万。メディントンとその近郊に布陣する兵力は約二万に過ぎない。今の私たちにできるのは、せいぜい遅滞作戦のみ。メディントンを守ることなどできないし、戦力温存すらも難しい」
ヘリヤによる冷徹な分析が、僕を絶望に縛り付けた。だがそれ以上に、身体中に包帯を巻き、杖なしでは歩けぬほどの重傷を負っているヘリヤの姿が、僕の心をえぐった。
「ヘリヤさん……大丈夫……ですか?」
「私の怪我のことは気にするな。憐れみの視線を向ける必要もない。この怪我は、魔物数匹を倒した勲章のようなものであり、神の忠臣であることの証だ」
平気な顔をして、むしろ誇らしげな表情を浮かべ、ヘリヤはそう言い切った。けれども僕は、憐れみの視線をやめることができない。彼女に重傷を負わせ、メディントンを危機に陥れたのは、この僕なのだから。
「僕が、十日も眠っていたからこんなことに……。僕がもっと早く目覚めていれば……こんなことには……」
絶望的な状況を作り出したのは、間違いなくこの僕だ。勇者として魔物を排除しなければならなかった僕が、十日も眠りこけていたせいだ。僕が、メディントンを危機に陥らせたのだ。
そう、メディントンは危機に陥っている。だからこそ、僕はケーンに聞かなければならないことがあった。
「……メディントンの住民は? みんなはどこに? リィーラは?」
「住民は全員、街の避難場所にいるぜ。近くメディントンからも避難する予定だ。タカトが駐屯地で目を覚ました理由もそれだな」
刹那の安心感を抱きながら、同時に僕は、さらなる自責の念をも抱くことになる。もしリィーラたちが無事に街を避難したとしても、彼女たちは住み慣れたメディントンを、生活のすべてを、ウェスペルを捨てなければならないのだから。
きっとみんな、僕に対して怒りを抱いているはずだ。布団の中で眠りこけていた僕のことを、今でも救世主と呼ぶような特異な人はいないだろう。
「……ごめんなさい」
無意識のうちに這い出てきた謝罪。これで全てが許されるとは思えないが。
「謝罪なんかしたって無駄だぞ、ねぼすけ勇者。もう魔法師団の連中もお偉い方も、街の住民たちも、我慢の限界だ」
正直なことを包み隠さず言い放ったのは、ケーンである。怒りと不満で構成された彼の言葉に、僕は俯くことしかできない。ケーンは続けて、僕に言い放った。
「俺たちに許してもらいたけりゃ、今すぐに戦え。過去のことに対してウジウジ後悔してる暇があれば、杖を振って、あの大軍を追い払え。タカト、お前の『創造魔法』で、勝った気になってる魔王に一泡吹かせてやれ」
「ケーンの言う通りだ。私たち魔法師団も、敗北に耐え続けるのは限界だ。勇者殿、私たちに勝利を」
「ケーンさん……ヘリヤさん……」
二人の言葉は正しい。エッセはまだ滅んでいない。メディントンの人々はまだ生きている。魔法師団はまだ戦おうとしている。リィーラたちは、僕が絶望を振り払うのを待っている。ならば僕がやるべきことは、謝罪をすることではない。
僕が眠りこけていた十日の絶望。僕の知らないあらゆる絶望。それを、わずか数時間、いや数分で振り払ってやる。
「……戦いの準備はできてますか?」
「当たり前だ。十日も余裕があったんだからな」
「指示ひとつで、一万の魔法師団を動かすことはできる」
「では、お願いします! 僕が必ず、あの魔物の大部隊を撃退してみせます! だから、どうか手伝ってください!」
「ヘッヘ、それでこそ勇者だぜ。魔法障壁の破壊は俺たちに任せやがれ!」
「勇者殿、了解した。兵士たち! 戦闘準備だ!」
この世界を守ると、僕は決意したのだ。後ろばかり振り返ったって仕方がない。この世界を、エッセを守ると決めたからには、できることをするだけだ。
*
ケーンとヘリヤの指示により、灰色がかった雨模様の空に狼煙が上がる。魔法師団の兵士たちは、狼煙を確認するとすぐに、メディントンの北壁に向かって走り出した。
持ち場に向かうため、僕も見張り塔から地上に降りた。駐屯地で杖を手に取ると、僕は魔法師団とともに北壁へ。
北壁へと向かう最中のメディントンの街は、人気のない静かな街であった。建物に飾られていた花々は、今では物寂しさを強調するだけ。兵士が走るだけの街は、まさしく戦時中といった感じだ。
途中、避難場所へ誘導される街の人々とすれ違う。街の人々は、不安に押しつぶされまいと気丈に振る舞う人が少なくなく、僕が想像していたよりもずっと明るかった。やはりまだ、メディントンの人々は魔物に負けてなどいないのである。
「おや? 旅の方ではないか!」
避難する人々の中にいた一人の老人が、僕を呼び止めた。ウェスペルで出会ったあの行商人だ。
「十日ぶりじゃの。いやはや、ここで会えたのは都合が良い」
にんまりと笑った老人は、持っていたカバンの中からおもむろに首飾りを取り出し、それを僕に渡してくる。水晶のような透明感を持ち、あらゆる光に輝くニネミアが美しい首飾りを。
この首飾りは、僕が行商人の老人にお願いして作ってもらったものだ。リィーラから渡されたニネミアを使い、リィーラへのお返しとしてプレゼントしようとしていた首飾りだ。僕が一週間も眠りこけている間に、老人は見事な仕事をこなしてくれたらしい。
「これをお前さんに渡しておく。誰かへのプレゼントなんじゃろ? 誰へのプレゼントかの? あの宿屋のお嬢さんかの?」
いたずらな笑みを浮かべた老人の言葉に、僕は少し照れながらも首を縦に振った。そして、老人に新たなお願いをした。
「あの、お願いします。その首飾り、宿屋ウェスペルのリィーラに渡してくれないでしょうか?」
「なんじゃ、その願いは。自分の手で渡すのが恥ずかしいのか?」
「いいえ、違います。この先、メディントンがどうなるか分かりません。僕がいつリィーラに会えるかも分かりません。だから、どこかの避難場所にいるリィーラに、行商人のあなたが首飾りを渡してほしいんです。それが、首飾りを渡すのに一番早い」
きっと、老人の避難先にリィーラはいるはずだ。この首飾りをすぐにでもリィーラのもとに届けるためには、老人に頼む他ない。
だが老人は小さく笑い、僕の願いを引き受けてはくれなかった。首飾りを作ってくれとお願いした時、快く応じてくれた老人は、頑として僕の新たな願いを引き受けようとせず、静かに口を開く。
「よいか旅の方。贈り物で大事なのは、品そのものだけではないのじゃ。ましてや届ける時間でもない。大事なのは、誰が誰に贈り物をするかじゃ」
老人は僕に、首飾りを無理やり握らせた。
「旅の方は、この首飾りにどんな思いを込めている? わしがお嬢さんにこの首飾りを渡したところで、何になる? 旅の方が、その手で、直接にこの首飾りを渡す。そうでなければ、旅の方の想いは伝わらん」
自分が説教くさいことを言っていると思ったか、老人は自嘲気味に笑いながら、それでも話を続ける。
「いつになっても良い。この首飾りは、旅の方がお嬢さんに直接、渡してやりなさい。確かな想いがあれば、時間など関係なく、想いは伝わる」
僕の手の中で、首飾りはまばゆく輝いていた。曇天の空にも負けず、あの時の夕日の輝きを放ち続けているようであった。まるで、リィーラがそこにいるかのようだった。
リィーラに似合うこと間違いなしのこの首飾り。まったく老人の言う通りだ。この首飾りは、僕が直接リィーラに渡さなければダメだ。日頃のお返しを、他人に任せてしまってはダメだ。
「……分かりました。行商人さん、ありがとうございます」
「礼は代金を払ってくれれば十分じゃよ。ああ、代金は早ければ早い方が良いからな」
「もちろん。お金が用意できたら、真っ先に行商人さんを探しますよ」
「それは楽しみじゃ。待っとるからな」
軽く手を振り、またも小さく笑って、行商人は避難誘導に従い去って行く。僕は首飾りをポケットにしまい、再び北壁に向かって歩き出した。魔物の大部隊を壊滅させ、首飾りをリィーラに届けるために。
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