第1章5話

 想像していたよりも大きな建物に、僕はまばたきをすることも忘れてしまう。同時に、宿屋ウェスペルの素朴で優しい雰囲気が、僕の心を落ち着かせる。この雰囲気は、リィーラの雰囲気と同じものだ。


「へ~、良さげな宿屋だな」


「そうでしょ! この辺りでも人気の高い、自慢の宿屋なんだよ!」


「そうなのか。ちょっと泊まってみたいな」


 いわゆるファンタジー世界への憧れと、胸を張ったリィーラの笑顔に、僕はふとそんなことを口にした。リィーラは僕の言葉を聞き逃さなかったらしい。彼女は笑顔をさらに満面の笑みに変え、どことなく前のめりになりながら、僕に言う。


「ねえタカトくん、ウェスペルに宿泊しない? タカトくんは命の恩人だし、荷物運びも手伝ってくれたんだから、しばらくは無料で泊めてあげるよ」


 とても魅力的な提案。是非とも! と即答したくなるようなリィーラの言葉。だが、僕の返事は喉の奥に引っかかり、音波としてリィーラの鼓膜を震わせることはなかった。


 僕は勇者である。この世界『エッセ』を救うという使命がある。そんな僕が、自分の都合だけで行動しても良いのだろうか。勇者である僕がウェスペルに宿泊することで、リィーラに迷惑をかけないだろうか。


 そもそもだ。リィーラは僕が勇者であるのを知っているのだろうか。初対面の時点で僕は勇者だったのだから、彼女も僕が勇者であるのは知っているはず。


「……あの、僕が勇者だってこと、リィーラは知ってるよな?」


「うん、知ってるよ」


 屈託無く返答したリィーラ。となると、彼女は勇者に対し、自分の宿屋に泊まらないかと提案したことになる。なかなか大胆な話だ。加えて、リィーラは正直な人である。


「あの勇者様が宿泊した宿屋、ってなれば、ウェスペルの評判がもっともっと上がるからね。このチャンス、逃すわけにはいかないよ」


「それ、ぶっちゃけちゃうんだ。意外と強引なことを」


「かもしれないね。でも、なんでだろう。タカトくんって、あんまり勇者っぽくないから、大丈夫じゃないかなぁ、って」


「え!? 僕、勇者になれてない!?」


「あ、いや! タカトくんは勇者としてすごい人だよ! だけど、なんというか――」


「そっか……中途半端なのか……」


「うう……そういう意味じゃないってば!」


 ではどういう意味なのか、というのはリィーラ自身にも分からないらしい。ますます僕は落ち込んでいく。

 肩を落とす僕と、口を滑らせた結果あたふたするリィーラ。ゴールのない荒野を歩き続けるような不毛な会話を繰り広げる僕たちだったが、そこに軽い調子の男が割り込んできた。


「あれ? タカトとこの前のお嬢ちゃんじゃねえか」


「あ! ケーンさん! お久しぶりです!」


「久しぶりだな。お嬢ちゃんが元気そうで何よりだぜ」


「ケーンさん、どうしてここに!?」


「それはこっちのセリフだ。お前ら、ここで何してんだ?」


 オヤジ臭いニタニタとした表情を浮かべたケーンだが、僕には彼のニタニタの意味が分かってしまう。現在、僕は女の子と宿屋の前で不毛な会話を繰り広げているのだ。きっとケーンのニヤニヤは、そういうことだろう。


 変な勘違いをされてしまっては困る。僕は事実関係を説明するため、一歩前に出た。ただし、口に出すべき説明の内容は未定だった。


「何してるって、僕はただリィーラの手伝いをしてただけで、それ以上でもそれ以下でもなく、今は――」


「おいおい、そんなに焦ってどうした? この宿屋、お嬢ちゃんの実家だろ。見た感じ荷物運びの手伝いってところだな。で、お礼に宿に泊まらないかと誘われた」


「全部分かってんじゃん!」


「ヘッヘッヘ」


 どうしよう、ニタニタがヘラヘラに変わったケーンを殴りたい。僕をからかって楽しんでいるケーンに、何かしらの制裁を加えたい。そんなことを思っていると、ケーンは僕の耳元に近寄り、小声で言う。


「どうせタカトのことだ。勇者がどうこうクソ真面目に考えて、お嬢ちゃんへの答えが分からねえんだろ」


「ホント、全部分かってるんだな」


「おうよ。そこでケーン先生からアドバイスだ。いいか、お嬢ちゃんはタカトに恩返しをしたいんだろうよ。そしてタカトは勇者だ。勇者ってのは、人の恩返しを無下にするようなヤツなのか?」


「……だけど、王様たちにはどう説明すれば?」


「そっちは任しとけ。この国の王は神の言葉が絶対だ。つまり、神の使いであるタカトの言葉も絶対。多少のわがままは許してくれるぜ」


「はぁ」


 随分とテキトーな話だが、彼の言う通り、リィーラの恩返しを無下にするわけにはいかない。面倒なことはケーンに任せて、リィーラの望みを叶えるべきだろう。それに、


「良かったな、お嬢ちゃん。タカトのヤツ、宿屋に泊まりたいってよ」


「本当!? やった!」


 ケーンのフライングによって、僕が宿屋ウェスペルに泊まることは決定事項となった。リィーラは花を咲かせたように目を輝かせ、僕の腕を掴み引っ張っていく。


 僕たちに背中を向け手を振るケーンは、日が暮れ人々の欲求が盛り上がりはじめた街に消えていった。僕はリィーラに連れられ、ついにリィーラの実家でもある宿屋ウェスペルに足を踏み入れる。


 太陽を模した飾り付きの扉をくぐると、石壁に温もりを与える木製の柱や家具、それらを飾る植物やぬいぐるみ、絵画などが僕の視界を支配した。魔法石が輝くランプに照らされたその部屋は、まるで絵本の世界だ。

 巨大な魚の重みも忘れ、部屋を見渡す僕。こちらの世界では、城の大理石と高価な調度品ばかり見てきた僕にとって、こんなにも可愛らしい部屋は想定外だったのである。


「お父さん、お母さん、ただいま!」


「おかえり」


「おかえりなさい、リィーラ。そちらは、お客さんかしら?」


「うん。この前、森で助けてくれた勇者のタカトくんだよ」


「勇者って……あなたが勇者様! せ、先日は娘の命を救っていただき、ありがとうございます!」


 リィーラそっくりの女性――リィーラの母親は、僕の正体を知るなり頭を下げる。たぶんこれが正常な反応なんだろうけど、リィーラの反応に慣れてしまった僕は、どう応えれば良いのか分からない。


 続けてカウンターの奥から出てきたリィーラの父親――ダンディーという表現をそのまま体現したような寡黙な人物――も、僕に頭を下げ感謝の言葉を口にした。僕は困った挙句、とりあえず勇者らしい返答を見つけ応えた。


「勇者として、当然のことをしたまでです。ところで、この宿に泊まりたいのですが」


「勇者様が……私たちの宿に……!」


「タカトくんは命の恩人だから、しばらく無料で泊めてあげたいんだ。お父さん、お母さん、良いかな?」


「もちろんだ」


「リィーラ、お手柄よ! ただ……勇者様は、よろしいのですか? こんな普通の宿屋に泊まっても?」


「よろしいです。むしろ、数日間も眠ったままになるような僕が、いつまでも無料で宿泊しちゃって、迷惑かけないかの方が心配です」


「迷惑だなんて、そんなことはありません! 是非是非、ごゆっくりと!」


 やはり自分の宿に勇者が宿泊するというのは、名誉あることなのだろう。リィーラの父親も母親も、溢れんばかりの喜びを隠すことはできず、表情は明るい。

 ややテンション高めのリィーラの両親。そんな二人に、僕は魚の入ったカゴを渡し、部屋までリィーラに案内してもらった。


 ランプに照らされた階段を上る途中、リィーラは苦笑いを浮かべる。


「ごめんね。お父さんとお母さん、勇者に会うのははじめてだから、いつもより浮かれてるみたい」


「いや、あれが普通の反応だと思うぞ」


「そうかな?」


「そうだ。勇者の僕に普通に接してくれるのは、ケーンさんとリィーラぐらいだな」


「ケーンさんと一緒!? ねえタカトくん、もしかして私、タカトくんに失礼なこと言っちゃったかな……?」


「たった今、ケーンさんには失礼なこと言ってるぞ」


「あ、ホントだ」


 人差し指で頬をかきながら、可笑しそうに笑うリィーラ。彼女の笑みを見ていると、僕も自然と表情が緩んでしまう。


 階段を上り終え三階に到着すると、リィーラはネコの人形に飾られた扉を開いた。扉の先には、ベッドと机、クローゼット、小さな机と椅子が置かれた、こぢんまりとした部屋が。

 城の部屋と比べてしまえば狭い部屋だ。しかし、どこか余所余所しさを感じた城の部屋とは違い、僕の目の前に広がる部屋からは、思いやりのようなものがにじみ出ている。


「どう、かな?」


「良い部屋じゃないか。気に入ったよ」


 正直な言葉を返すと、リィーラは後ろ手を組み、嬉しそうにはにかんだ。まるで、自分が褒められ恥ずかしがるように。少しして、彼女はいつもの快活な口調で僕に伝える。


「もうすぐ夕ご飯の時間だね。ご飯は一階の食堂で食べられるから、好きな時間に来て良いよ」


 伝えるべきことを伝えたリィーラは、そそくさと部屋を去ってしまう。扉が閉まり、部屋に一人残された僕は、窓から外を眺めた。とっくに日は暮れたようで、空には数多の星々が輝いている。


 しばらくした後、リィーラに言われた通り一階の食堂へ。そこで僕を待っていたのは、豪華な肉料理である。城の食事は病院食だったのではないかと思うほどに、美味しい食事であった。


 食事を終え、リィーラと彼女の両親の「おやすみなさい」に「おやすみなさいです」と答え、部屋に戻った僕。部屋のベッドの上で僕は今日一日を振り返った。


 勇者として魔物と戦い、いわゆるファンタジー世界の街を探索し、リィーラと再会し、彼女を手伝って巨大な魚を運び、この宿にやってきて、ゆっくりと目を閉じる。こんなに充実した一日は久しぶりだ。


 だからこそ、眠りについた僕が目を覚まし、見慣れた自室のベッドの上に自分がいた時、僕は言い知れぬ虚無感に襲われた。夢の世界が永遠に続けば良いと思ったのは、これがはじめてである。

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