送り火
豆崎豆太
送り火
「死ぬことにしたんだ」
佐藤宏太にそう切り出されて、私は思わず吹き出した。懐かしいフレーズだった。
「やっと?」
揶揄するように言うと、宏太は眉を下げてはにかんだ。典型的な、しかし年齢の割に濃い影をまとった中年男性の顔をしている。
「うん、やっと」
佐藤宏太は私の幼なじみだ。凡百な名前、凡百な容姿、成績も運動能力も中の中、目立って秀でたところも劣ったところも持ち合わせない彼は、中学時代から死にたいと繰り返していた。勿論、死ななかったからこそ今こうして私の目の前でチキンステーキにかぶりついている。
「電話で言ってた話ってそれ?」
宏太が電話を寄越したのはその日の夕方だった。会議中に電話に出るわけにもいかず、タスクもあったので定時を待って折り返した。なんとなく「ごめん」と前置きをしたものの、悪いのは平日の昼間に電話をよこした宏太の方だ。
「それ。ごめん、急に呼び出して」
金曜の夜、十年前と同じくいやに迂遠な電話に呼び出されてのこのこと顔を出したファミレスは、飲み帰りの主婦やサラリーマンで存外賑わっていた。頼んだオムライスは、待たされた時間の割にはチープな作りで、レンジで温めた冷凍チキンライスにチルドの薄焼き卵を乗せて市販のケチャップをかけました。以上。みたいな味がした。グリーンピースを見つけては宏太の皿に移す。宏太は何も言わずそれを食べ、代わりににんじんのグラッセを私の皿に乗せる。テーブルにはそれに加えてウインナーポテトとシーザーサラダがあるのだから、到底これから死のうってやつの食欲ではない。
「別にいいけど、それで私に何の用? 挨拶回りでもしてるの?」
「手伝って欲しいんだ」佐藤宏太は昔から、先を促さなくてはならないようなまだるっこしい話し方をする。
「手伝うって何を? 言っておくけど、自殺幇助は嫌だからね」
「いや、片付け。部屋とかの」
「ああ」
だったら同性に頼めばいいのに、と思いながら、頭の隅で宏太の部屋を思い返す。昔は頻繁に入り浸っていたものの、その「昔」から十五年ほど経過しているはずだ。その十五年の間に、私たちは高校を卒業し、就職を経て、三十路をゆうに超えている。マンションの一室から女性の遺体が発見されました、なんてニュースを頭の隅で想像する。もちろんそんな度胸のある男ではない。
「ならいいけど、時給次第かなあ」
「りっちゃん、仕事に夏休みとかある?」
「あるよ。土日含んで四日」
「じゃあその期間、もらってもいい?」
「特別ね。その代わり餞別はナシ」
「六文銭くらいは自分で用意できる」
ああでもあれって現代の硬化でもいいのかなあと宏太が言い、両替機くらいあるんじゃないのと適当な返事をした。
こうして八月のとある四日間、私は佐藤宏太の部屋に泊まりこむことになる。
■
佐藤宏太はつまらない中学生だった。同じようにつまらない高校生だったし、その後もつまらない人間だったことは想像に難くない。高校時代の佐藤宏太と現在のそれは綺麗に直線で繋がる存在だ。首元を締めるものが詰め襟からネクタイに変わっただけ。中学時代より僅かに身長が伸び、それ以上に老けこんだだけ。
彼が「死にたい」と言ったとき、私はだいたいそれを聞かなかった。宏太も聞いて欲しいと言ったことはなかった。その時も私はただ英語の教科書をめくって、「あーはいはい」とおざなりに答えただけだった。
「ところでこの未来完了って何?」
「たとえば『明日には宿題が終わっているはずだ』みたいなこと」
二日前の私の発言を混ぜ返して宏太は笑った。その時も私はノートと教科書といくばくかの必要物資を持って宏太の部屋に居たのだ。
「終わると思ったんだってー」
「ちなみに未来完了の過去形とかもあるから。『彼女は昨日には宿題を終えているはずだ』」
「ちょっと待っていっぺんに言わないで」
高校受験の前の秋ごろだったと思う。私は英語が苦手で、代わりに理科と数学はそこそこできた。宏太はどの教科もそつなくこなすけれども、三角関数だけはどうしても理解できないらしかった。私たちは定期テストが近くなるとお互いに教示を乞い、引き換えにプリンを献上した。プリンは互い幼い頃の好物で、その頃は特段好きだったわけでもなかった。プリンは私たちの間でほとんど貨幣だった。
「今日中には終わりそう?」
「終わらせる、見捨てないで宏太先生」
「早くしないとプリン二つとももらうよ」
「待ってってば」
宏太はジョーズのテーマを口ずさみながらプリンを手に取り、蓋を開けようとし、私が静止するのを聞いてけらけら笑った。立場が逆になったら同じことをしてやろうと思っていて、結局その機会には恵まれなかった。宏太はいつも私を待ってくれ、部屋の隅に放置されて生ぬるくなったプリンを二人で食べるのだった。
■
「あの頃は綺麗な部屋だったのにね」
「それを言わないでよ」
宏太は母親に咎められた子供が痛い腹を隠す時のような顔をした。
「悪いとは思ってるんだ。だいぶ荒れてるから」
一人暮らしの宏太の部屋は、当時の殺風景な様子ではなかった。一言で言えば散らかっていた。それも生活雑貨が出しっぱなしになっているタイプの散らかり方ではなく、目に映るほとんどがゴミ。テーブルの上のコンビニ弁当を広げるスペースと、ベッドの上の大人が体を縮めてどうにか眠れる程度のスペースだけが空いている。
「帰ってきて、コンビニ弁当食べて、寝る」
玄関、テーブル、ベッドの順で指しながら確認すると、うん、合ってる、と苦笑いが返ってきた。ワンルームと言ってほとんど差し支えのない小さな部屋には、それ以外の行動を取るスペースが残されていなかった。
「よくそんな小綺麗な格好ができたね」
「そっちにコインランドリーがあるんだ」
宏太は部屋の外を指して言う。洗濯ができるならゴミくらい捨てなさい、と言うと、ゴミは捨てなくても仕事には行かなきゃならないからね、とまたずれた返事が戻ってくる。つまり、仕事に行くために最低限の家事だけを行っていたのだ。いつからか、今まで。
「呆れた」
「ごめん」
「別に怒ってるわけじゃない、呆れてるだけ。ゴミ袋は?」
「買ってある。一番大きいやつをたっぷり」
言いながら、傍らのビニール袋からゴミ袋を取り出す。よくこれだけ散らかった部屋でどこになにがあるか把握できるものだ、とピントのずれたことを考えながらそれを受け取り、よし、と声に出す。
「まずは片っ端から詰めよう」
「相変わらず頼もしいなあ」
「だから呼んだんでしょ」
「もちろん」
■
六歳で出会い、半ば兄妹のようにして育った私たちにとって、お互いは長く気のおけない親友だった。高校まで、用がなくても連絡をしなくても毎日のように顔を合わせていた。別々の大学に進学してからもわざわざ連絡を取ることはなく、私たちは自然に疎遠になった。
「久しぶりに連絡が来たと思ったら『自殺を手伝え』ってどういうことよ」
ゴミ袋の口を結びながらひとりごちると、え、何か言った、と別の袋を結んでいた宏太が振り返った。
部屋に散乱していたゴミは袋にまとめられたことで先程までよりいくらかの高さをもって、いくらか小さな面積に収まるようになっていた。
「本は全部捨てる?」
あたかも二回目かのようなトーンで訊く。あー、と間延びした声のあと、
「せっかくだから売れるものは売っちゃおうかな。資源ゴミの回収日、再来週の月曜なんだよね」
その頃はもう生きてないはずだから、と、宏太はなんでもないように言う。そっか、そうだね、と適当な返答をする。本人に変わった様子は見られない。だんだん引っ越しの手伝いでもしているような気になっていたが、そういえばこいつ死ぬんだった、と思い出す。佐藤宏太は死ぬのだ。こんなにも平然と、まるで日常みたいな顔をして。
「じゃあ、面倒だから全部古本屋に送りつけよう。売れないものは勝手に捨ててくれるとこもあるし。服は?」
「肌着とか以外は同じく古着屋に持って行こう。その前に洗濯かな。本はあとでいいや、先に服をまとめてランドリーに持って行こう。時間空くからお昼食べようよ。もう三時だし、お腹すいたでしょ」
「了解。売れそうなのと捨てるのは適当に分けるから」
「ありがとう、よろしく」
まるで宿題でも手分けしているような具合で、ひどく穏やかに。
「残すものとか、ないの」
コインランドリーは清潔な匂いがする。病院や介護施設のあの清潔さとは違う、一片の不安も含まない安全と清潔の匂い。宏太の服を――スーツを含めてすべての衣類を全自動洗濯乾燥機に放り込み、がたがたと動き始めたそれを眺めながら尋ねる。
「もう死ぬのに?」
宏太の笑顔はどこまでも晴れやかで、穏やかで、異物だと思った。この温かい、清潔な匂いのする、不安を含まない場所で死ぬ準備をするのはそぐわないと思った。
「まあ、そうだけどさ」
「どうせ実家にはいくらか残っちゃうんだけどね。アルバムとか。一人暮らしするのに持ちだすのも不自然だし、あれくらいは許容範囲かな」
それはつまり、死ぬために、死ぬ前にできるだけ多くのものを処分するために、宏太が今までそうしてきたという意味だった。いつから、と聞きたくなるのをこらえる。そんなのは当然、少なくとも私一人は、中学時代から知っていたことだ。
死にたい。飽きるほど聞かされていたはずのそれ。
宏太の部屋中がゴミだらけだったのは、ゴミ以外の何も持とうとしてこなかったせいかもしれない。
「ここに来るのも最後だなあ」
誰かに聞かれていたとしても、それは引越前の大袈裟な感慨にしか聞こえなかっただろう。まるでこれから新天地で新しい生活が始まるのだとでも言うような、静かな喜色を孕んだ声で宏太はつぶやいた。
コインランドリーにどんな思い入れがあるのか知らないが、あの部屋の状態と宏太の服装を見るに、足繁く通っていただろうことは想像に難くない。
こいつは今まで会ったすべての人と、同じような事を考えて別れたのだろうか。それとも、もしかしたら周囲の人間になんか思い入れも感慨もなくて、唯一別れを思ったのがこのコインランドリーだったのかもしれない。
「まだあとで洗濯物取りに来るでしょ」
「ああ、そうだった」
だとすれば随分寂しい男だ。
「エロ本が一切ない」
食事をし、洗濯の終わった衣類をたたんでまとめ終わった頃には十七時を回っていた。それから部屋中の本をまとめにかかり、書類を分け、一通りまとめ終わってから苦情を言うと、返ってきたのはやはり苦笑いだった。
「りっちゃんは何を期待してたのさ」
「だって男の一人暮らしでしょ? よくもまあこうつまんない本ばっかり集めたね」
本棚にあったのはほとんどがビジネス書で、見てもピンと来ないカタカナやアルファベットがずらずらと並んでいる。それ以外にあるのはいくつかの文庫本くらいのものだった。
「年寄りじゃないんだから」
「年寄りじゃあないけど、おれももう中年だからね」
中年っていうか、修行僧っぽい。短く刈り込まれた頭を指して言うと、上司にも言われたよそれ、と返事が返ってきた。陳腐なことを言ったような気がして居心地が悪くなる。
「エロ本といえば昔りっちゃんさあ、どこに隠しても絶対見つけてたよね。人がトイレとかに行ってる間に」
宏太の口ぶりは非難がましく、同時に笑みを含んでいた。方や恨めしい、方や懐かしい思い出を語る口ぶり。あの頃はパソコンなんてもちろん高校生の持ち物ではなかったし、テレビもビデオデッキも居間にしかないとなれば手が届くのはグラビア誌くらいのものだった。工夫をこらして隠されたそれを、毎回のように暴き出して宏太の目の前で熟読していたのは遠い過去の話だ。
「あんたがもの隠す場所なんてお見通しなのよ」
「自分の部屋に戻ったら隠してたエロ本りっちゃんが読んでるんだよ勝手に。おれの気にもなってよ、何回泣きたくなったか」
「後半楽しくなってたなあ私」
「そういうとこいじめっこだよ」
「宏太にだけね。十五年年言いたかった苦情がそれか」
蘇った懐かしい記憶、それを今さら非難されること、そしてそれを今更と言える歳になってまで同じことをしていたのがおかしくて胸の奥から笑いがこみ上げてくる。ほとんど連絡を取らなかった十数年、変わらなかったものがあると実感できた。そういえば昔あったエロ本の自販機みたいなのはどこに消えたんだろう、と更に記憶を掘り返して言うと、あったあったそんなの、と宏太は目を丸くする。
「ずっと忘れてた。中学生の頃とか、肝試しみたいに買いに行ってみんなで回し読みしてたんだっけ」
「私あれ羨ましかったな、楽しそうで。女は来るなっていっつも外されてたし」
「そりゃそうでしょ」
私は宏太とほとんど兄弟のようにして育った。そして、実際には兄弟たりえなかった。私は女だったから宏太の弟にはなれなかったのだ。私は私達の仲が性別のために引き剥がされるのをいつも不満に思っていた。宏太は私の友達なのに、という幼い嫉妬が、そうして仲間はずれにされるたびにちりちりと胸を焼いていた。
宏太の隠した本をいつも探し出して眺めていたのも、知っていることの差をできるだけ埋めていたかったせいかもしれない。
「私は宏太の親友になりたかったんだよ」
それも、誰より一番の。他の誰よりも宏太を知っているのだと、一番付き合いが長いのだと、私はあの時主張したかったのだと思う。
「え、おれは親友だと思ってたんだけど」
「私だって思ってたけど。でもやっぱり取られちゃう気がしてたと思うよ、そうやって『女は来るな』って言われるたびにさ」
宏太は一度私から目をそらし、わざとらしく何拍か沈黙した後で、でも今、まだ残ってるのはりっちゃんだけ、と言った。慰めのつもりなら下手な言葉だった。
「そこは嘘でも否定しなさいよ」
携帯が鳴る。宏太はそれを一瞥して、無視した。出なくていいの、と訊くと、明日折り返す、と答えた。非常識だよね、こんな時間に。もう二十二時回ってるのに。
「……本といえばさあ」
一瞬流れた重い空気を、関係のない話で押し流そうと試みる。
「昔、小説家になりたいとか言ってた時期無かったっけ」
言うと、宏太はみるみる表情を歪めた。よく覚えてるねそんなこと、と一度返答した後、歩くタイムカプセルめ、これだから幼なじみはとぶつぶつ文句を続ける。
佐藤宏太は中学時代、本の虫だった。比喩ではなく一日一冊、薄い文庫本だろうが分厚いファンタジーだろうが、毎日図書室に通っては端から読み潰していた。私はといえば、本は夏休みの読書感想文で課題図書を読むだけのような人間で、それすら面倒がって宏太にあらすじの説明をさせていたくらいだ。
いつかの課題図書の冒頭に、坂道を転がっていく大量のオレンジの描写があった。それをいやにはっきりと覚えているのは、その後もほとんど読書に触れずに生きてきたせいかもしれない。
「あれ、どうなった? 何か書いた?」
「一冊だけ出したよ、本。自費出版だけど」
宏太は早速観念したのか、間をおかずに答えた。
自費出版、と言われて思い浮かぶのは文字だけで、その実態がどういう仕組みになっているのかは全く想像がつかない。よほどのことがないかぎり書店に立ち寄ることもないので、売られていたとしても目に入ってはいないだろう。
「へえ、ここにある?」
「ある。そこの紫の」
指された先には、確かに「紫の」としか形容できない、簡素な本が刺さっていた。表紙には歪、佐藤宏太、と文字が並んでいる。知っている名前が入っているというだけで、その本は親近感を通り越してしみったれた印象を受けた。
「読んでいい? どれくらい売れた?」
「二十は売れなかったんじゃないかな」
それは、本が売れた数として多くないのが私でもわかる量だった。けれど、宏太を知りもしない、この本を読んだ誰かが、この世界に二十人もいるというのは十分感嘆に値した。
「ベストセラーじゃない。卒業文集より読まれてるんじゃないの」
「個人ランキングとしては一位だね」
暫定一位。今となっては最終結果一位。そして永久欠番。言葉遊びのような賛辞を並べながら、そのソフトカバーをぺらぺらとめくる。
「貰っていっていい?」
「いいけど、りっちゃん本読まないでしょ」
「形見ってことで。気が向いたら読むよ、宏太先生のベストセラー」
りっちゃんのそれは読まない時のやつだと思うけど、と指摘を受けながらページをめくっていると、たまたまあくびが出て、ほら慣れないことするから、と笑われた。
「眠い。粗方まとまったし寝よう」
「夕飯は?」
宏太が指差したのは、昼食の帰りに買ったコンビニのパン。軽い空腹はあれど、食べる気にはならないそれ。
「いいや、明日食べよう」
「ならお風呂使っていいよ、お湯張ったから。男物のシャンプーしかないけど」
気にするべきはそこなのだろうかと頭の片隅に疑問符が浮かんだのを無視する。どちらにせよ、銭湯まで足を運ばずに済むのはありがたかった。
「タオルは?」
「さっき洗った」
「じゃあ借りる。ありがとう」
風呂を借り、コンビニで買った歯ブラシで歯を磨きながら部屋に戻ると、宏太が煙草を吸っていた。何度目かに見るその光景は、しかしいまいち馴染みのある光景ではない。高校時代の佐藤宏太と現在のそれは直線で繋がる一つの人間で、そこに煙草だけが異物として存在している。
「この前も思ったけど、宏太煙草吸うんだね」
「意外?」
「意外。似合わない」
似合わないかあ、と言って宏太の唇は笑みの形に歪む。
「おれね、自分で選んで煙草に依存したんだよ」
「どういう意味?」
「煙草は、アルコールみたいに判断力を奪わないから。違法でもないし、はたから見ればただの嗜好品。どんなに依存したって財布以外は痛まない」
それでいて体に悪い。すごく悪い。煙草吸ってる間は、おれは死んでいられる。判断力を保ったまま、おれは死んでる。淡々と話す顔にぺたりと張り付いたような笑顔。
「ねえ、あんたの顔、それ何? わざとやってる?」
「うん。半分はわざと。でももう笑う以外に人と喋る顔が見つからないんだ」
「……あっそ」
「寝るならベッド使っていいよ」
大量のゴミと散らかっていた衣類を纏めた甲斐あって、ベッドの上は本来持つスペースを取り戻している。
「じゃあ半分借りる」
宏太が「半分?」という顔をするので「宏太も寝るんでしょ」と付け加えると、宏太はまた笑った。煙草の煙が気管に入ったのか、軽くむせる。この部屋にはソファのような准ベッドと言えるものがない。床で眠るのは、体の硬い中年にはつらいことだ。
「床で寝ないで済むのはありがたいけど、りっちゃん、警戒心とか無いの?」
「警戒? 今更?」
「確かに今更だけど、いい大人がシングルに雑魚寝もどうかと思うよ。小学生ならまだしも、おれら三十三だよ?」
「私はまだ三十二だけど。そもそも泊まりの時点で大差ないでしょ。……まあいいや、おやすみ」
「おやすみ。明日もよろしく」
それから宏太は部屋の明かりを落とし、風呂に入り、煙草を吸い、一度ベッドに入って、また起きて煙草を吸い、眠り、起きて、煙草を吸い、眠った。
■
初めて出会った六歳の時、私たちは初対面で大喧嘩をした。理由は覚えていない。性格がほとんど真逆だから、無理もない事だと思う。その後なぜだか仲直りをし、なぜだか仲良くなり、お互いの得意と苦手を――例えば宿題と口論を――わけあってともに成長した。どちらかが間違えばどちらかが正し、どちらかが行き詰まればどちらかが手を引いて。
正解のわからないことについて悩んだときは二人の間で最適解と思えるものを、何年も使って探した。そうして二人の正解は、二人の間だけでは絶対だった。
たとえそれが自ら死へ進むことであり、死にゆく親友の背を押すことであっても。
まとめた本と衣類は、レンタカーの後部座席に収まる程度の量だった。それらをすべて古本屋と古着屋に押し付け、代わりに五千円を受け取ってチェーン店のファミレスに入る。
「大した額にはならなかったね」
「そりゃ、大した量でもなかったし。勝った部類じゃない、五千円」
正確には五千と五十八円。宏太はわざとらしく目をそらして、眉を下げ、どうしても買った時の額と比べちゃうからなあ、と笑った。
「まあいいか。二人で五千円ならそれなりに贅沢できるし」
ファミレスだけどね、と言うと、そのためのファミレスでしょ、と宏太は言った。すごく高くてすごくおいしいものをちょびっと食べるより、安くてそれなりにおいしくてお腹いっぱい食べられるものの方がいいよね。ここのミルクジェラートおいしいし。
「デキャンタワインと海老のアヒージョ頼んでいい?」
贅沢を言ったつもりで覗き込んだメニューにはしかし、デキャンタワイン三百九十九円、と文字が並んでいた。値段を見ないで選んだのがばかみたいに思えた。
「じゃあ生ハムとチーズの盛り合わせも。帰りは代行頼んで、おれも飲む。赤? 白?」
「白」
懐かしいと思った。宏太とこうしてお酒を飲むのは初めてで、それでも懐かしかった。田舎のスーパーのお菓子売り場で、数百円分のお菓子をああだこうだと選んでいた時と同じような気分だった。世間とかなんとか小難しいことは私たちの世界からは消え去って、自分たちの握りしめたほんの僅かなお金で世界中が手に入る気分だったあの時。
「乾杯」
デキャンタからワインを注いだグラスを小さく鳴らして、そのまま缶チューハイよろしくほとんど一気に煽る。悪くないワインだと思う。宏太も同じようにワインを煽って、はあ、生き返る、と呟いた。ひどいジョークだ。
「まだ死んでないでしょ」
「そうだった」
あと二日。宏太は小さくつぶやく。あと二日。私は心の中で繰り返す。
「あとで宏太のお墓にお酒かけてみていい? 生き返るかどうか」
「そんな洋画みたいなこと。土葬じゃないから生き返らないよ」
「そうだった」
ふたりで声をひそめて笑いながら、それぞれに生ハムとチーズとアヒージョを頬張る。オリーブオイルの染みたバゲットがおいしくて、ワインの二杯目を注ぐ。
「でも本当においしい。安いからあんまり期待してなかったけど」
「貧乏舌にはちょうどいいんじゃない? 四百円」
「そうかも。お得」
もちろん、私たちの持つほんの僅かなお金で世界のすべては手に入らない。けれど、世界中のすべてを手に入れる必要はどこにもないと、三十代の私たちは知っている。
「そういえば、この前りっちゃんから電話よこしたときあったよね? あれ何だったの?」
訊ねられて一瞬記憶をたどる。何の話だっけ、と思うまでもなく思い出すことができた。アルコールで浮かれた胸に、冷たいしこりが落ちる。
「この前っていつの話よ。四年くらい前じゃないのそれ」
「そんな前だっけ?」
「これだから中年は、去年のことと十年前のことの区別もついてないんだから。……電話したことは覚えてるけど、用事までは覚えてないや。四年前じゃ電話番号も変わってないはずだし」
「そっか、その前に連絡取ったの電話番号変わった時か」
「機種変しても電話番号変わらなくなったのってここ十年くらいだっけ?」
「じゃないかなあ。就職してからもそれであちこち連絡取った覚えがあるから」
「連絡する相手なんかいたんだ」
「社会人してればそれなりにね。電話で思い出した、昨日の電話折り返さないと」
「大丈夫なの酔っぱらい」
「まだそんなに酔ってないよ。これでも結構強いんだ」
電話している時の宏太は、明朗で闊達として、まるで別人のようだった。曖昧さやまだるっこしさ、私が宏太に抱いていたイメージを全く持たない、佐藤宏太。
仕事らしい話を五分程度した後、それじゃあ、また来世、と言って宏太は電話を切った。
「それを正しいタイミングで使う人初めて見た」
「俺も今初めて正しいタイミングで使った」
ちょっと寒かったかな、と、相変わらず宏太のピントはどこかずれている。
「そんな話し方できるんだ」
「何?」
「なんかはきはきして、滑舌が良くて、別人みたいだった」
「ああ、まあね。おれもそれなりに大人だからね」
手伝いを始めて二日目、深夜にファミレスで会ったことも含めると三日目。宏太は私の知らない顔をいくつか浮かべて見せた。私が宏太を知っているのはほとんど十八歳の時までの話で、あんなに全部知りたがっていたのに、今はもう、私が知っている佐藤宏太は他の大勢が知っている宏太とは全然別物なのだ。
「立派になって」
言って、私がよよよと大袈裟に泣く真似をしてみせると、宏太は「親戚のおばちゃんか」と言ってまた笑った。
「そういえば昨日、本と書類分けてて思い出したんだけど、公共料金周りの手続きってどうなってるの? 今からで間に合うの?」
二つ目のデキャンタが空になり、もう少し飲もうか、それとも締めにドリアでも食べようかと相談していた頃、私は宏太に尋ねた。宏太はメニューを眺めて、そういえばピザ食べてないねと商品の一つを指した。
「それはもう手続きしてある。アパートの解約も。あとは月曜に敷金の調査が来ておしまい。ガスも水道も電気も、月曜で止まる」
「周到だこと」
「もちろん。だからあとは家具家電の処理と、ゴミ捨てだけ」
最初の宣言通り、宏太は本当に「片付けとかの手伝い」以外私に求めてはいなかった。すべての手続は暗黙のうちに行われ、隠蔽された。どうせ会社ももう辞めているんだろうと思った。きっとこのまま、私以外の誰にも知られず、順調に、円滑に、この男は死ぬ。
「人って四日で片付くもんなんだね」
「まさか。二十年近くかけたんだよ」
■
律、律、と呼ばれて重いまぶたをこじ開ける。豆電球の薄明かりの中に、宏太の顔が見えた。ひどく心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「なに?」
「うなされてた。なにか悪い夢でも見てるんじゃないかと思って」
曖昧に返事をしながらまぶたをこすると、こすった手の甲にべっとりと汗がついた。体がこわばって、顎が疲れている。
「恋人に殴られて流産して捨てられる夢見てた」
「え」
「嘘。……もう忘れた。ねえ私、もしかして歯ぎしりしてた?」
宏太は小さく首肯した。
「なにかつらいことでもあったの」
「あんたが言うか」
混ぜ返して笑わせるつもりでいたのに、宏太は少しも笑わなかった。
「おれに話して楽になるなら、話してよ」
イラつく。
「……これから死のうってやつが、人の心配なんてしてどうするの」
「これから死のうってやつだから、何を喋っても墓場まで持って行ってあげられるよ」
近い近い、と返答すると、やっと宏太は少し笑った。
「そう、近いからどんなに大きい荷物でも持って行ってあげる」
イラつく。
こいつはいつもそうだ。いつも他人大事で、誰かのことばっかり気にかけて、結局自分が損して、そのくせそれでいいなんて言って。死ぬほどつらかったくせに、死ぬほど思いつめたくせに、その荷を誰かに打ち明けることはしないで、人の荷物ばっかり背負って。
「ばかじゃないの」
自分だって何も話さないくせに。
「ばかだよ」
「あんたのその性格、十五年でどうにかならなかったの」
八つ当たりだと、ひどいことを言っていると微かに自覚しながら叩きつけるように言葉を吐く。目は見ない。宏太がどんな顔をしているかも、見ない。
「どうにかなってたら、死なずに済んだのかもね」
性格を修正するべきなのは宏太ではなく私だと、私はずっと知っている。
「寝る」
「……おやすみ、りっちゃん。今度はいい夢を」
■
カーテンの隙間から差し込む強い日差しに目を覚ました。眠い目をこすり、痛む顎をさすりながら、枕のないベッドから体を引き抜く。のどが渇いている。隣でのんきに口を開けている宏太の、静かに上下する胸に耳を当てる。
どくどくと心臓が動く音を聞きながら、生きている、と確認する。佐藤宏太は生きている。明日死ぬための準備をしながら、今、生きている。りっちゃん、と声をかけられて内心で驚いたのをどうにか隠した。隠せた、はずだ。
「起こした?」
「夜這いでもされるのかと思った」
宏太は言いながら大あくびをひとつする。私はその額を一度叩く。
「いまさらするわけないでしょ。だいたいもう十時だよ、昼だよ昼」
水飲みたいからちょっとどいて、と言うと宏太はのろのろと体を起こす。私はその横を通ってベッドを降り、キッチンへ向かう。
「今日、業者さん来るのお昼すぎらしいから、悪いけどちょっと待ってて」
ゴミはまとめた。本も服も処分した。他に処分するべきは幾つかの家電家具だけで、今日それが終われば「片付け」は終わりだ。
「お盆時期なのによく呼べたね」
「ちょっと前から予約したからね。それなりに割高だったけど、無理を通してもらった」
喉を滑り落ちていく水はぬるい。冷蔵庫は私が来た時、既に電源が抜かれていた。中身はもちろん空で、使えないのと訊くとずいぶん前に壊れたと返答があった。
洗濯機もどうやら壊れていて、同じく電源が抜かれていた。というより、この部屋に今まだ電源がつながっている家電はエアコンくらいのものだった。
「エアコンつけていい?」
返事を待たずにスイッチを入れる。スイッチを入れたあとで、いいよーと間延びした返事を聞いた。
「三時間くらい暇だし、拭き掃除でもしようか」
「じゃあこっちの捨てるタオル使っちゃってよ、あと適当に捨てていいから。おれ先にカーテン外したり布団まとめたりしないと」
「布団も?」
「一緒に回収してもらうから。今日は寝るところ無いし、明日手伝ってもらうこともないし、だから今日でりっちゃんの仕事は終わり」
粗大ごみの回収だけなら私は不要じゃないかとか、本当は昨日の時点でもうやることはなかったんじゃないかとか、言いたいことはいくつかあった。それを言わずに私は使い古しのバスタオルを裂く。
しかし、宏太がこの日まで私を留めさせた理由は、この後わかることになった。
「これが私を呼んだ理由か」
「ばれた?」
宏太は不必要なほど声を潜めて、いたずらっぽく笑った。「隣に可愛い『奥さん』がいれば、まさか自殺前の身辺整理だとは思われないでしょ」
要するに、すべての家具家電を捨てるために「転勤」という言い訳では足りなかったのだ。まだ使える寝具、ケトル、小さな冷蔵庫に洗濯機。それらすべてが「結婚」という言葉にはすっぽりと隠れた。シングルのベッド、小さな冷蔵庫、くたびれたカーテン、それらは新婚生活に似合わない。
「口ばっかり達者になって」
「ごめん。助かってる」
次々運びだされていく粗大ごみを見送りながら、私は盛大に溜息をついた。
「それならそれで、あんた彼女とかいないの? 三十三でしょ」
「いると思う?」
「いないと思う」
即答すると、宏太はまた笑った。
「正解。それに、りっちゃん以外に頼めないことだったから」
もともと恋人がいなかったのか、それとも死ぬために別れたのか、それは訊かなかった。宏太はここに来るために、何者にも阻害されずスムーズに死ぬために、切れる縁は全て切っているはずだと思った。孤独死、という言葉が背筋を冷やす。孤独死するための準備。手ずから周到に用意された孤独。
その上で宏太の死を予め知らされ、今それを阻むことのできる唯一の人間が、私だった。
「引き止めないよ」
わざと声に出すと、なに、と傍らの幼なじみが振り返る。
「引き止めたって代わりに生きてあげられるわけじゃない。代わりに死んであげられるわけでもない。宏太が出した結論は宏太のものだ」
怪訝に歪んでいた表情が、驚きに変わり、ゆるゆると笑顔に変わる。眉が下がり、頬が緩み、目元のシワが深くなる。
「俺、間違ってないよね」
口先だけが気弱な宏太の表情に、しかし不安は少しも浮かんでいない。
「間違ってない。私たちの答えが間違ってるなんて、誰にも言わせない」
「ありがとう。やっぱり、りっちゃんを選んでよかった」
私以外では引き止められてしまうから。何も知らないくせに、何もわからないくせに、無責任にやめろと言われてしまうから。だから宏太は私を手伝いに選び、私は宏太の期待に答えた。宏太の命よりも、宏太の判断を尊重すると決めた。宏太と同じく、一人で。
「じゃあもう帰るから。せいぜい死に損なわないようにね」
文字通り空っぽになった部屋を一通り眺めてから、私は靴を履いて宏太を振り返った。宏太はそこに立ってひらひらと手を振り、気をつける、ありがとう、と言った。その笑顔にイラつく。
「……やっぱり一回殴らせて」
「え、ちょっと待ってどこを?」
「左頬」
私が大袈裟に右手を振りかぶると、宏太は強く目をつむって口を閉じた。左手で右頬をはたく。左って言ったじゃんと小さな抗議が上がる。
「それと、煙草くれない? まだ吸う?」
「煙草? いや、いいけど、りっちゃん煙草吸うんだっけ」
「吸うかはわかんないけど、形見ってことで」
それ一昨日も聞いた、と言われながら、紅白二色のソフトケースと安っぽいライターを受け取って、宏太の本が入った鞄に同じように放り込む。
「じゃ、ばいばい」
「うん、ばいばい」
宏太の住むアパートを出ると、西日が終わろうとしていた。もうすぐ夜が来るというのにまだ油蝉が鳴いていて、吹く風に心地よさのたぐいは一切含まれていない。
明日はまだ休みだ。何なら今からお酒でも買って帰ろうかとぼんやり考える。
■
暗い部屋の中に宏太がうずくまっていた。呼吸は荒く、その合間に呻くような喘ぐような声がする。私が部屋に入ってきたことに気付かず、目の前に立っていることにも気付いていない。
声をかけるためにしばし逡巡したあと、目の前に膝をついてその頭を鷲掴みにする。弾かれたように顔を上げた宏太の顔面は、ひどく青ざめていた。
「ひどい顔してるよ」
「りつ」
がたがた震える宏太の両手が伸びてきて私の腕を掴む。額を私の肩に押し付けて、絞りだすように「ごめん、怖い、助けて」と言った。私は宏太の小さく丸まった背中をぽんぽんと叩いた。
「死にたい」
「だから死ぬんでしょ」
宏太の震えは収まらない。
「ごめん俺、最後までこんな、迷惑かけて、俺もうなにも返せないのに」
「何言ってんの、今まで私が散々迷惑かけたんじゃない。恩返しくらいさせてよ」
宏太がいなかったら大学入れなかったよ私、とわざと軽口を叩く。それどころか高校も出られなかったかもしれない。そしたら中卒だよ。学歴社会だから今みたいにまっとうな仕事はできてないかもしれない。宏太先生様様だよ。
「律は――律は、なんでそんなに強いの」
宏太の声はまだ震えている。私は少し大袈裟に笑ってみせる。
「あんたがこんなに弱ってるのに、私まで弱ってどうするの」
私たちは六歳から一緒に成長してきた。どちらかが間違えばどちらかが正し、どちらかが行き詰まればどちらかが手を引いて。
「私は宏太の親友だよ。あんたの一生はもうあと一日しかないけど、私は一生あんたの親友でいる。いさせてほしい」
そうして私たちが導いた結論は、二人の間だけでは絶対だった。
宏太は腕を掴んでいた手を離し、背中に回して、目元を私の肩に擦りつけた。
「律、ここにいて。今は一人になりたくない」
「だからちゃんと戻ってきたでしょ」
親友に縋ることすら恐れる男が、走らなくても、大声を出さなくても、助けてと言えるところまで。私がその声を聞けるところまで。
「落ち着いた?」
背中を叩いていた手を止めて声をかけると、宏太はのろのろと顔を上げた。顔色は元に戻っている。ごめん、ありがとう、と答える声は気まずそうで、いくら相手が私とはいえ、三十路男が女に縋って泣けばそりゃ気まずいだろうなあ、と勝手な憶測を巡らせる。
「そういえばりっちゃん、なんで戻ってきてくれたの? 忘れ物?」
訊かれたので傍らのビニール袋を示す。
「最後の夜に飲まないでどうすると思っていろいろ買ってきた」飲もう、と言うと宏太は袋と私とを交互に見て、気持ちは嬉しいけど、と眉を下げた。
「今お酒飲んだら悪酔いしそうだから」
「そう言うと思って全部ジュースだよ。あとポテチとかお菓子。煙草も買ってきた」
ぷし、と小気味いい音を立てて炭酸の蓋が開く。オレンジ派だったよね。どうせ香料だけで味は同じらしいけど。言いながらポテチとチョコレートの大袋をパーティ開けにする。さすがりっちゃん、と宏太は笑う。
「間違ってるのはわかってるんだ。いろんな人に迷惑かけて、自分のわがまま通して」
「間違ってるなんて言うのは宏太をなんにも知らない人だけでしょ。私はそんなこと言わない。宏太は私を信じればいい」
私は宏太が死にたい理由を知らない。けれどそれは、宏太に死ぬなと言うであろう人々も同じだ。知らないなら知らないなりの振る舞いがあるだろうに、無責任に死ぬなと言えるのは宏太のことを何も考えていない人々だけだ。そしてそれらは私ではない。
「一回あったけどね、俺らが二人で間違ったこと」
何を言っているのか、すぐに思い当たって笑う。
「私たちの人生最大のミス」
「魔の十六歳」
私たちには出会ってから四ヶ月だけ、親友ではなかった時間がある。私の間違いを宏太が止められず、揃って踏み外し、正しく修正が成されるまでの四ヶ月間。
「その節はごめんね」と言うと、宏太は大袈裟に目を丸くして、「りっちゃんが俺に謝るなんて」と言った。「明日、雪でも降るんじゃない?」
「言うに事欠いてこの男」
頬をつねると、痛い痛い痛いと宏太は笑った。すっかり普段の調子に戻っている。
「でも私さあ、三十路になった今、あれが間違いだったとはあんまり思ってないんだよね。なんだかんだ元に戻れたし、セーフかなって」
「俺も。今日親友でいられたから、その他はどうでもいいや」
それから、メーカー違いでうすしおばかり四種類買ってきたポテチを各々食べ比べ、芋の味がどうだの歯ごたえがどうだのとわかったふうなことを話した。三十三にもなって、と宏太が笑い、まだ三十二だと言い返して私も笑う。
「どうだった?」
「何が?」
「三十三年生きてみた感想」
宏太は一度目を逸らし、考える素振りをして、小さく吹き出した。
「これから死のうってやつに訊くこと?」
「これから死のうってやつに訊かないで誰に訊くのよ」
それもそうだと言って宏太はまた笑う。目が赤い。
「よかったよ。すごくよかった。特に最後の四日感は最高に楽しかった」
りっちゃんのおかげだ、と、ほとんど独り言のように付け足して、宏太は砂糖と香料と着色料のジュースを煽った。
■
「じゃあ、気をつけて」
前日と同じように、宏太はひらひらと手を振る。
「うん。じゃ、また来世」
私が言うと、それ言いたかっただけでしょ、と宏太が笑う。
「また来世」
送り火 豆崎豆太 @qwerty_misp
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