第6召喚 勇者内定者

 俺が二度目の異世界拉致から帰還して三年半が経過した。

 一年間留年して、今は大学五年生。俺は人生の軌道を徐々に修正し、卒業論文完成一歩手前まで辿り着いていた。就職活動では一流企業の内定を獲得し、大学卒業後は総合職として働くことになっている。

 卒業論文に関しては、説を立証するために必要な大規模調査はすでに終了している。あとは文書作成ソフトで結果をまとめて期限内に教授へ提出するだけ。それによって卒業の条件である必修科目の単位は全て満たし、俺は無事に卒業できる。


「猿渡君、もう卒業論文は終わった?」

「まだだけど、調査は済んでいるし、来週には完成できるよ」

「いいなぁ。私の論文も手伝ってほしいのに……」

「別にいいよ。少しくらいなら」

「やったぁ! ありがとう猿渡君!」


 何だかんだ色々あった大学生活だが、俺は人生の軌道を修正して普通の社会人へ向かおうとしていた。同じゼミに配属された連中とも、カラオケやら飲み会やらを通じて仲良くやっている。

 俺は夕暮れのゼミ室で、同じゼミメンバーである野間のま優子ゆうこの論文作成を手伝った。彼女は多くの学生にアンケート調査を行っており、回答ごとの仕分け作業に追われている。彼女がデスクに置いている段ボールには何百枚ものアンケートが収納されており、これを全て数値化するらしい。そこから見えてくる因果関係を推測し、解析して論文にまとめるようだ。俺は野間の隣に座り、アンケートを一枚一枚眺めては箱ごとに分けていく。


「そういえば、猿渡君は来週東京に出かけるんだっけ?」

「うん。会社の内定式の予定が入っちゃってさ」

「いいなぁ。私なんて内定すら取れていないのに……」

「大丈夫だって。卒業してから就職活動する方が落ち着いて希望に沿った会社を探せる、ってどこかの偉い先生が言ってたよ」

「内定獲得者からの嫌味にしか聞こえないんですけどぉ」

「はははっ」


 野間優子はかわいい。肩までの短い黒髪に、透き通るような白い肌が印象的だ。目がパッチリとしており、どこか気の抜けたふわっとした言動が男性の興味を惹く。

 俺は近いうちに、彼女へ告白しようかと思っている。野間と過ごしていると、不思議と心が落ち着くのだ。きっと、これが「好き」という感情なのだと思う。たわいない会話をして、たわいないことで笑い合う。豪華な家も高い地位も刺激の強いイベントも必要ない。何気なく穏やかに彼女と暮らしたい。そんなことを願っていた。

 以前は「異世界でハーレムを作る!」なんて意気込んでいた俺だが、野間と付き合えるならば他の女なんて諦めてもいいと思える。異世界無双作品に登場するハーレム主人公君にはこの感情は一生分からないだろう。他の一切を捨てて一人の女だけを愛したい。所詮、ハーレム男は女性を動く性欲解消装置、もしくはアクセサリー程度にしか思っていないのだから。ハーレムの人数が多ければ、それだけ趣向を変えて様々なプレイが楽しめるし、自分の権威を多くの人間に示すことができる。欲を断ち切った僧侶でもない限り、若い男が沢山の女性を傍に置いておく行為には性欲に直結した目的があるはずだ。多くの女性キャラに囲まれてウハウハしている男性主人公は、ハーレム内関係のこじれで生殖器をもぎ取られてしまえばいいのに。


「猿渡君、帰りのバスは大丈夫?」

「え、もうそんな時間か……」


 しばらく野間の作業を手伝い続け、一段落したときには完全に日が落ちていた。好きな女性と一緒に過ごしていると時間の経過を忘れてしまいそうになる。野間の横顔を見ていると、作業の疲れなんて吹き飛ぶのだ。


「それじゃあ、また今度ね猿渡君」

「ああ」

「内定式、行ってらっしゃい。みんな別々の進路を目指してバラバラになっちゃうの、何か寂しいなぁ」

「今の時代、SNSも発達してるから簡単に連絡できるし、会おうと思えばいつだって会えるじゃないか」

「それはそうだけど……」

「野間もまずは卒業論文がんばれよ」

「分かってますぅ!」


 このとき、俺はすっかり異世界に召喚される恐怖を忘れており、極普通の大学生として暮らしていた。まさか今日がゼミ仲間と会える最後の日となるとは、全く想像できなかったであろう。

 パルナタードは人生が順調な時期に限って俺を拉致する。偶然か、はたまた狙っているのか。いずれにしても、彼女は死神以上に恐ろしい力を持つ疫病神であることに変わりはない。








     * * *


 俺は電車を乗り継ぎ、就職予定の会社へ向かった。リクルートスーツを着込んだ若者たちと合流し、椅子が並べられた会場へ足を踏み入れる。


「猿渡拓斗です。本日は宜しくお願いします!」

「こちらこそ、よろしくね」


 気の良さそうな人事担当者が俺たちを席へ誘導し、内定式は開始された。社長が挨拶し、先輩社員が挨拶し、スムーズに式は進行していく。


 そして――


「それでは、内定者代表として猿渡拓斗さんに決意表明を行ってもらいます。猿渡さん、お願いします」

「はい!」


 俺は椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしたまま講壇へ上がった。会場にいる全員の目が俺を捉える。内定者代表に選ばれるなんて、俺も会社から期待されているらしい。俺は考えてきたスピーチ文を口に出そうとマイクを構え、呼吸を整える。


 そのときだ。


「お願いです勇者様、魔王を倒してください!」


 天から聞き覚えのある声が俺だけに降り注ぐ。悪寒を抱かせる醜悪な甲高い声。黒板を引っ掻くような、発泡スチロールを擦り合わせるような、そういう類いの不快な音だ。顔中から脂汗が吹き出し、背筋が凍る。

 あの屈辱を忘れるはずがない。間違いなく、今のはパルナタードの声だ。『二度あることは三度ある』。そんな諺どおり、俺は三度目の拉致を受けてしまう。


 嘘だろ?

 このタイミングで……?


 これは、パルナタードによって異世界拉致される感覚だ。数秒後、俺はこの世界から消え、例に倣ってあの魔方陣の上に立っていることだろう。そして魔王討伐という苦行を強いられる。

 今、この会場には何十人もの内定者と社員が椅子に座り、全員が俺に注目している。このまま俺は彼らに見られながら消えてしまうのか。


「あっ……かはっ……!」


 スピーチで述べるはずだった言葉が、喉の奥から出てこない。

 せっかく卒論を書き上げて一流企業の内定まで獲得したのに、また全て崩れてしまう。

 俺はこれからどうすればいい?

 霞んでいく視界には、絶望の未来しか映らない。


「な、何でこんなときに……!」


 やっぱり異世界は嫌だ。行きたくない。

 確かに「ハーレムを作る!」なんて意気込んでいた時期もあったが、それは昔の話だ。あれから二度と召喚されない可能性に懸けて大学での勉強やサークル活動にも精を出してきたのに、その全てが理不尽な不可抗力によって捻じ伏せられようとしている。大学は論文提出が間に合わず留年が確定するだろうし、ここで長期間行方不明になれば内定も取り消される。


 一気に精神が憔悴し切った俺の口から出たスピーチは、次のようなものだった。


「み、皆さん……内定、おめでとうございます。私は大学での忙しい卒業論文作成の合間を縫って企業研究を行い、努力を積み重ね、高い競争率の中で内定を勝ち取ったつもりです。それは皆さんも同じだと思います。しかし、私は残念ながら、この先に進むことはできません。なぜなら、今ここで消えるからです。皆さんは私のようにならないでください。日本での何もない平凡な日常を精一杯謳歌してください」


 俺の言葉に、人事担当も学生たちも怪訝な表情へ変化していく。俺が何を言ってるのか分かっていないのだろう。

 ふと、俺の頬に温かい何かが触れた。

 涙だ。俺の頬に涙が流れている。俺は悔しいのだ。多くの人間に「勇者様」と崇められつつも戦いを強いられ足蹴にされたような扱いに、もう心の髄まで疲れた。彼らの要望どおり魔王を倒して現代日本へ戻ってきたとしても、俺に待ち受けているのは再び拉致される運命と積み重ねてきた努力を抹消される未来。まるで賽の河原で横から石を崩しに来る鬼のようだ。


 どうして俺が選ばれたんだよ!

 俺が何をしたっていうんだよ!


「猿渡君、だ、大丈夫かね?」

「うるせぇ! お前らはいいよな、ずっと同じ世界に暮らし続けていられるんだからなぁ!」

「どうしたんだい猿渡君?」

「俺はアイツを許さねぇ! あの女ァ! お前に地獄を見せてやるからなあああああああああああああああああああああああああッ!」


 俺の理性は乱れ、荘厳な式の雰囲気に似合わない言葉遣いで心に溜まっていた鬱憤を全力で吐き出した。それは日本で平凡に暮らす人間への嫉妬だった。心配してくれた人事担当者を振り切り、天に向かって吠える。

 俺のことを見ている学生たちは厳しい社会競争の中へと羽ばたき、俺は理不尽な異世界へと突き落とされる。学生は国の経済を支える歯車となり、俺は日本から完全消失して戦争の道具と化す。


「え、え、何が起こっているの?」

「あの人、頭大丈夫かしら?」


 俺はキョトンとしながら見つめる内定者を指差し、マイクを強く握った。


「いいか! お前たちも社会に出て何か辛いことがあったとき、この名前を思い浮かべるんだ。異世界にはお前らの想像を遥かに凌駕するような理不尽に固められた醜悪な絶対的悪夢が存在することを、今からお前たちに俺の身を以て教えてやる。あの女の所業に比べたら、ブラック企業の長時間残業や賃金未払いなんて塵やかすに等しい。これからお前たちは、自分が幸せな状況に置かれていることを強く自覚して生きていくんだ……!」


 俺はマイクスタンドを蹴飛ばし、天を仰いだ。


「今から俺の身に起こる数奇で不憫な運命をその眼によく焼き付けておけ! そして、この生きる災厄にして究極の蛇蝎だかつの名前を決して忘れるな! パルナタード・ランス・ルミエーラアアアアアアアアアアアアッ!」


 その瞬間、講壇に立っていた俺は、学生たちに見つめられながら光となって消えた。

 気づいたときには、すでに魔法陣の上だった。

 もちろん、目の前には金髪巨乳の悪魔が佇み、困り顔で俺の瞳を覗き込んでいる。

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