最後の戦い(1)
アリシアがアルテに呑み込まれてほどなく、リビングのソファの上に緑色の光が現れた。
その光は空中に土星の輪のような円盤を作りながら渦巻き、緑色の光の粒をその下に降らせる。
と、その光は急速に降り積もり、ソファの上にアリシアを形作った。戦い(オークシヨン)で負けるとホームに自動転送されることは知っていたが、いつもこちらが転送される身なので、その光景を見たのは初めてだった。
確認すると、アリシアは無傷で、呼吸もただ眠っているように穏やかだった。仮想現実内でそのようなことを確認して安堵するのもおかしかったが、ゆりりんでさえ青ざめた顔でアリシアの顔を覗き込んだのだから、ある意味、当然の行動だろう。
とりあえず安心して、それから湧磨は尋ねる。
「ゆりりん、あれは何が起きてるんだ。どうしてアルテがあんな姿に」
「……解らないみゅ。ゆりりんも、あんなの初めて見たみゅん」
「じゃあ、あの空間の裂け目は?」
「それも解らないみゅん。戦い(オークシヨン)が終わったのにアリーナが閉じられないし……もしかしたら、バグが発生してるのかも」
アリシアの傍に屈み込んでいるゆりりんは、アリシアの手を両手で優しく包み込み、
「ここは――エクスマキナはもうダメかもしれないみゅん。たぶんだけど、トウテツはそろそろこのサイトを落とすんじゃないかな。そして、もしかしたらそれっきり……。だから、急いでここから出たほうがよさそうだみゅん。
でないと、ゆりりんたちみんな、エクスマキナの中に意識を閉じ込められちゃうかもしれないみゅん」
「……そうか」
小さく頷いて、湧磨はゆりりんとアリシアに背を向けた。ポータルへと向かって歩き出しながら、
「ゆりりん、アリシアを頼む」
「え? 頼むって……清里くん、何をする気だみゅん?」
尋ねてきたゆりりんに、湧磨はリビングを出る扉の前に立ちながら答える。
「決まってるだろ。アルテを助けに行くんだ」
「た、助けにって……!」
ゆりりんはこちらへと駆け寄ってきて、ドアと湧磨の間に身体を滑り込ませる。
「ダメだみゅん。助けるって言ったって、彼女はただのプログラム――いや、もしかしたら、そうじゃないのかもしれないけど……でも、もう彼女は……」
「もう手遅れかもしれない。それは解ってる。それでも……頼む、行かせてくれ」
「ううん、絶対に行かせられない。ゆりりんには、君を止めなきゃいけない責任があるみゅん」
短い両手を広げながら、ゆりりんは静かにこちらを叱るような、保護者の目でこちらを見上げてくる。湧磨はその目を真っ直ぐに見つめ返し、
「お願いだ、ゆりりん。帰って来られないかもしれないことは覚悟してる。でも、ここで行かないと、間違いなく、俺はこれから一生、この時から離れられなくなる。自分が何もしなかったことを後悔して……生きながら死んだような人間になる。だから……お願いだ、俺を行かせてくれ」
「…………」
ゆりりんはこちらを見つめたまま頑なに動かない。しかし、その瞳が微かに揺れた。それでも何か言い返そうとするように口を開くが、声を失ったように言葉は出ず、その目は悲しげに伏せられる。
「俺は、アルテが好きなんだ。現実の人間じゃないだとか、本当に触れ合うことはできないだとか……そんなことを言われてもしょうがない。アルテは、もう俺の心の中にいるんだ。心の中にいるってことは、つまり俺にとって、アルテは現実以上の存在なんだ」
「……本当に、二人とも……いや、キミたちみたいな意志の強い人間だからこそ、今ここにいるんだよね……」
溜息混じりに呟いて、ゆりりんは湧磨の前からどき、
「解ったみゅん。でも、行くならこれを持ってくみゅん」
と、何やらメニューウィンドウを操作し始める。と、湧磨の視界左下に通知アイコンが現れた。ゆりりんから着信していたメールを見ると、それにはとあるアイテムが添付されていた。
「『ゆりりんのとっておき・その4』……? これって……」
名前に見覚えがある。まさかと予感しつつゆりりんを見ると、ゆりりんはひらひらと胸の前で手を振る。
「いやいや、これには変なウィルスなんて何も入れてないみゅ。この前とは別パターンの、プログラムを強制シャットダウンさせるためだけのアイテムだみゅん」
「本当か……?」
怪しい。また何か妙なオマケをつけているんじゃないかと疑いたくなるが、その円らな瞳はいつになく真剣で張り詰めていた。
「外からはもう何も受けつけないみたいだけど、中からの命令には間違いなく従うはずだみゅん。本当ならそれの作成者であるゆりりん自身が戦いに行くべきなんだろうけど、ゆりりんじゃ彼女に近づけもしないみゅん。だから……お願いみゅん」
「解った。ありがとう、使ってみる」
礼を言い、ウィンドウを閉じてから、湧磨は廊下へ出る扉を開く。が、そこへ踏み出す前に、
「なあ、ゆりりん」
「なんだみゅん?」
「ゆりりんの正体って、アリシアにここを紹介した、アリシアの親父さんの元同僚なんだろ?」
「えっ? な、なんのことだみゅ、急に……?」
あまりにも不意の質問だったのだろう、明らかに動揺して目を逸らしたゆりりんを見て、湧磨は思わず表情を崩し、
「それと、もう一つ。これは俺の勝手な推測だけど、もしかしてゆりりんは――いや、ゆりりんとあのチーターは、エクスマキナの技術を全て知り尽くしてる人間なんじゃないのか? もっとハッキリ言うと、二人はエクスマキナに利用されてるこの技術を開発した人間なんじゃないのか?」
「……どうしてそう思うんだみゅん?」
「ただの物好きにしては持ってる技術があまりにも高度すぎる。
エクスマキナのアバターを使ってエロ動画を作ったり、エクスマキナのシステムを慣れた様子で書き換えたり、アルテみたいな存在を創り出したり、勝手に他人のアカウントを入札エントリーさせたり……そんなことができるのは、よほどこの世界の技術に精通しているヤツか、あるいはここの運営者だけだろう」
ゆりりんは否定しない。湧磨は続ける。
「それに、ほとんどここに常駐してるのだって、それなら話が解る。ゆりりんは、あのチーター――トウテツが技術を勝手に持ち出してこんな場所を作ったって知って、それを逆に利用して技術の運用実験でもしてるんじゃないのか?
俺をここに招いたのもその一環だ。アルテっていう疑似人格がどこまで成長するのかなんてことを、アルテに強い執着心を持ってる俺を使って実験しようとしてたんじゃないのか?」
『マイプリ』のエロMODのオークションは、いわばテストのようなものだったのではないだろうか。ゆりりんは既にトウテツが俺の『彼女』からデザインを転用して『Alte』を作ったことを知っていて、つまりアルテの実験に最も利用しやすい人間を知っていた。
その人間が、エクスマキナで戦える強力な欲望の持ち主であるかどうかを試すために行ったのが、あの全裸MODの出品だったのではないだろうか。
――まあ結局、何も確かな根拠なんてないんだが……。
ゆりりんと話せるのは最後になるかもしれないからとは言え、こんな裏づけも何もない話をすべきじゃなかったかと湧磨は後悔しかけたが、
「降参だみゅん」
ゆりりんは溜息混じりに言ったのだった。
「いつか絶対バレるとは思ったけど、それがまさかこんなに早いとは思わなかったみゅ。全く、一つの間違いもなくその通りだみゅん」
本当にそうだったのか。驚いて見下ろすと、ゆりりんはその表情を陰らせて俯く。
「やっぱり……ゆりりんのこと怒ってるみゅん?」
「怒る? どうしてだ? 俺はむしろ感謝してる」
「感謝?」
「ああ。だって、ゆりりんがここに俺を誘ってくれなかったら、俺はアルテに会えなかったんだからな。それに、アリシアともこんなに話ができるようにならなかっただろうし、ゆりりんにだって当然、会えなかった。だから、本当に感謝してる」
「そんな、ゆりりんは……」
つい話が長くなってしまった。早くアルテのもとへ行かなければ。複雑そうな表情を浮かべるゆりりんに微笑んで足を踏み出して、しかしすぐに足を止め、
「そうだ、最後にもう一つ。なあ、ゆりりん。ゆりりんの中にいるのって、男なのか?」
「え?」
ゆりりんは目をまん丸くして、
「な、何を言うんだみゅん。ゆりりんは見ての通りの美少女だみゅん」
きゅぴん、と星を瞳の中に光らせるような無邪気な笑顔を慌てたように作る。湧磨が思わず苦笑すると、ゆりりんもまた苦笑して言ったのだった。
「それが知りたいなら、ちゃんと無事に帰ってくるしかないみゅ。その時は……きっと会いに行くみゅん」
ああ、と湧磨は頷き、再びポータルへ向かって歩き出す。そして、その脇にあるモニタで行き先を選択していると、
「ちょっと待ちなさい……!」
アリシアが廊下に姿を現した。
「アリシア……! お前、大丈夫か?」
「今はわたくしのことなど心配している場合ではないでしょう」
貧血を起こしたような顔で廊下の壁に手をつきながら、アリシアは湧磨の傍へやって来て、
「湧磨、あなたのメニューウィンドウを開きなさい」
と、湧磨の肩に寄りかかりつつ言う。
急になんだと困惑しながらも、鬼気迫るようなアリシアの表情と声に従ってそれを開く。すると、アリシアは手を伸ばして湧磨のウィンドウを操作して課金ページを開き、自棄になったようにステータスアップの課金をし始める。
「お、おい、お前……!」
「心配はご無用。これは全てわたくしの奢りですわ」
一度にできるステータスアップの上限――元ステータスから五十パーセントまでのステータスアップを一気に済ませると、アリシアは電源が切れたというようにうなだれて、湧磨から離れて壁に背を預ける。
なぜ? 湧磨が驚きに打たれてその顔を見つめると、アリシアは前髪で顔が隠れるほど俯きながら言った。
「もしかしたら案外、話をしてみれば気が合うかも……なんて、そんなことを思ってしまいましたの。単なる予感ですけれど……だからこそもっと話をして、それを確かめたいのですわ。それに、勝ち逃げなんて絶対にさせたくありませんもの」
「勝ち逃げって……」
「よろしいこと? 何があっても、アルテを助けてさし上げなさい。それができるのは、湧磨、おそらく世界にあなただけなんですのよ」
「……あ、ああ」
頷くと、アリシアはふっと笑みを溢し、
「頼りない返事ですわね。ああ……それと、そうでしたわ。あなたに一つ、伝えておきたいことが」
「いや、アリシア。もう時間がない。話は――」
「あの、アルテの翼……」
静かな、しかし重さを孕んだ声でアリシアは言う。
「わたくしの勘でしかありませんけれど、いま考えてみると、あれは対魔法攻撃専用の防御機構なのかもしれませんわ。あれだけの魔法攻撃に晒されて無傷だなんて、そうとしか……なんて、負け犬の後悔に過ぎないかもしれませんけれど、あるいは……」
「解った。後は俺に任せろ、アリシア」
アリシアの肩を支えてその場に腰を下ろさせ、湧磨は二人に背を向けた。
「お前たちは、外で待っていてくれ」
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