最後の戦い(2)
階段を駆け上がってガラスドアを押し開け、巨大タンカーの甲板上の風景が映し出されているアリーナへ出る。
すると直後、湧磨の上を大きな影が通り過ぎた。
空を見ると、六枚の羽を羽ばたかせながら、黒くヒビ割れた空を竜のように泳いでいる巨大な蛇がいる。アリシアとの対比でモニタ越しでも解っていたが、実際に見ると想像以上に大きい。
――アリシア……負けたとは言え、よくあんな姿のアルテと戦ったな……。
改めて感心しつつ、湧磨はとりあえず海へ弾き飛ばされないように甲板の中央辺りまで走る。と、以前までとは格段に身体の軽さが違う。これなら確かに、何もできないまま殺されるなどという最悪の事態は避けられる……かもしれない。
まるで獲物のネズミでも見つけたようにアルテが旋回し、こちらへ緩やかに降下してくるのを見上げながら、湧磨は早速、ゆりりんから貰った『ゆりりんのとっておき・その4』を手に具現化させて身構える。
サッカーボールほどの大きさの、淡く青く光る半透明の球体である。それは湧磨の手と直接に触れていないが、磁石で引き寄せられているように掌の上から離れない。その様子から、どうやらこれは投げてぶつけられるものではないらしい。
ならば――と湧磨は身構えるが、アルテはこちらへ一直線には突っ込んでこない。六枚の羽を羽ばたき、空中で頭を起こしながら静止し、瞳じみた模様の入った真っ赤な羽を空に広げる。
と、その模様の前に、六つの紫色の魔方陣が現れた。
「嘘だろっ……!?」
落雷の嵐。
腹が突き破られるような轟音が連続して鳴り響く中を、湧磨は勘を頼りに駆け抜ける。
甲板を蹴って跳ぶ足の裏から膝までがビリビリと痺れるように痛んだが、湧磨はどうにかそれを躱しきり、上空のアルテに叫ぶ。
「おい、アルテ! 俺だ! 俺が解るか!」
その声を掻き消すような鈍い風切り音を立てながら、アルテがその大木のような尾をムチのように真上から振り下ろしてくる。声など聞こえないという解りやすいその返事を、湧磨は後方にあるブリッジの上まで跳びながら躱す。
その尾の一振りはタンカー全体を沈み込ませ、さらにそれだけでなく、鉄の甲板をプラスチックのように割り砕いた。
その割れ目から覗く闇の中へ垂れた尾をずるりと引き抜き、再び高度を上げるアルテのその姿は、恐れよりも、痛みを伴うような悲しさを湧磨に感じさせた。
やはりアルテは人間じゃないんだ――
そうまざまざと思い知らされているような気がして、思わず気が滅入りそうになる。
だが、そうではないのだ。アリシアも言っていた。自分とアルテとは気が合うかもしれない、と。それはつまり、アリシアはこの姿のアルテにこそ、人間らしさを見たということだ。
――俺は……。
と、湧磨は動揺しかけている自らの胸を見つめ直す。
俺は……確かに、何よりもアルテの容姿が俺の理想だったからこそ、アルテに心を惹かれた。それは否定しない。だが、それだけじゃないはずだ。アルテの瞳や、声の中にちらりと見えた気がした感情の輝きに魅せられて、それにもっと触れたくてアルテから目を離せなくなっているんじゃないのか。
感情という芽を息吹かせつつあるアルテに、もっと色んなことを知ってもらいたい、感じてもらいたい。そして俺はいつでもその隣にいて、アルテが見せてくれる色んな表情を一つ残らず記憶に焼きつけたい。
――俺たちはまだ何もできていない。それなのにもう別れが来るなんて、早すぎる。そうだろう、アルテ!
『いつか一緒に、本当の海に行こう』
言えなかったその言葉も、エクスマキナの技術が進めば言える日が来るかもしれない。だから、ここで全てが終わっちまうなんて、俺はそんなのイヤだからな!
「行くぞ、アルテ!」
叫ぶと、アルテはそれに応じるように吠えた。空気が震え、まるでコンクリートが割れるような鈍い音を立てて、空全体に黒いヒビが走る。
上手く行くかは解らない。だが、アリシアの勘を信じるしかない。腹を括り、湧磨は先に動いた。
アルテの攻撃をまともに喰らえば、まだ自分程度のステータスでは即死の可能性が高い。だから、破れかぶれに突っ込むのは得策とは言えない。この『とっておき』アイテムは一つしかない。つまり失敗は許されない。可能な限り確実にアルテに触れられる状況を、どうにかして作らなければならない。
湧磨はブリッジの上から甲板上へと降り、アルテとアリシアの攻撃でひしゃげていた細い配管を力ませにねじり切ってそれを握る。そして、赤い魔方陣を出現させていた六枚の羽の一つへ向けて、それを槍のように投擲した。
それは矢のような速度で飛び――赤い羽に浮き出た黒瞳を貫通した。
アルテは叫び声を上げ、既に発動させていた魔法を海や空へ向かって暴発させる。その間に、湧磨はねじ切れそうな鉄パイプに目をつけ、次々とそれを投げ放っていく。
アリシアがステータスを上げてくれなければ、こんな芸当はできなかったに違いない。アドバイスも何もかも、心底、アリシアに感謝しながら、四枚目の羽に狙いを定めた時だった。アルテがバランスを崩しながらも、大きく開けたその口の前に紫色の魔方陣を出現させた。
反撃が来る。電撃系魔法だ。そう察知すると、湧磨はその口へ向けてあえて軽く鉄パイプを投げた。アルテが放った電撃魔法の大半は吸い込まれるようにそれへ向かっていき、さらに湧磨は既にその場から遠く跳び退いていた。
そして、再び目をつけていた鉄パイプを投擲して四枚目の羽も貫くと、自重に耐えきれなくなったように、アルテは身をくねらせながら甲板へ落下した。
この好機を逃す手はない。
湧磨は落下したアルテへ向かってすかさず疾走し、だらりと投げ出されているその巨大な尾に『ゆりりんのとっておき・その4』を添付した。アルテの黒い硬質のウロコへ、それはスッと音もなく溶け込む。
――よしっ……!
と、湧磨は緊張を解いたが、
「っ!?」
周囲、様々な方向から風を切る鋭い音が聞こえ、咄嗟にその場から飛び退く。と、無数の細い黒蛇が奔流のように目の前を掠めていった。
あのアイテムは即効性のものではないのだろうか? アルテから一旦、距離を取りつつそう思ったが、それにしては遅すぎる。煙突のようにゆらりと頭をもたげてこちらを睨み下ろすアルテの様子には、苦痛の色も困惑の色も全く表れていない。
まさか効いていないのか? アルテが残った三枚の羽を広げ、こちらへ向けて電撃魔法を放ったのとほぼ同時、不意にコールの通知が点った。ゆりりんからのコールである。応答すると、
『通じた!? よかったみゅん! なんとか通信可能にできたみゅん!』
「まだいたのか、ゆりりん! さっさとアリシアを連れてここから出ろ!」
自分でもどうやって動いているか解らないほどの宙返りを繰り返しつつ怒鳴るが、ゆりりんはそれを無視するように沈着に言う。
『そっちの様子を見てたけど、ごめん、どうやらあの『とっておき』はアルテには効かないみたいだみゅん。それがなんでかはゆりりんにもちんぷんかん――だけど、た――ルテはもうプログラムだけどプログ――じゃない――』
どうやら完全には通信を回復しきれなかったらしい、通信はフッと切れてしまったが、ゆりりんが何を言いたいのかは解った。『ゆりりんのとっておき・その4』は、どうやらアルテには効かないらしい。
ならば、どうする? などと考えるまでもない。もう何も頼れるものはない。自分の力以外に、頼れるものはない。
――怯むな、やれ。
極限に感覚を研ぎ澄ました戦士のように、湧磨は瞬時に己に命令を下していた。隠し手など存在しない。湧磨は虎のごとくアルテに突進した。
飛ぶための力を失った三枚の羽の前に魔方陣を出現させて、アルテは魔法を放ってくる。が、それでも湧磨は足を止めはしない。
壊れた空から降り注ぎ始めた雪のような光の中、湧磨は『アイアンナックル』を発動させて右手にホールド、そしてアルテが横薙ぎに払ってきた尾の一振りを跳躍して躱し、跳躍したそのまま、
「アルテェェッ!」
その下顎に、右の拳を叩き込んだ。
重い。だが湧磨はその拳を振り切る。さながら恐竜のようなその頭部が上へ跳ね上がるのを見つつ湧磨は着地。すると、その時には既に、いま使用したLPが瞬時に回復していた。間髪入れず、湧磨はアルテの腹に『アイアンナックル』をアッパーで放つ。
アルテが叫び声を上げ、その身体がわずかに宙へ浮く。まだだ。湧磨は手を休めない。
アルテ、アルテ、アルテ、アルテ、アルテ――
心の中で繰り返しその名を叫び、そのエメラルド色の瞳を思い出しながら、湧磨はアルテを空へ空へと打ち上げるように、立て続けに『アイアンナックル』を放つ。
LPゲージはあたかもチートを使っているかのように空になってはすぐさま満ち、満ちた瞬間に湧磨はアルテへ拳を叩き込む。
唐突、分厚いゴムタイヤのように固い蛇腹から、細い――しかし湧磨の腕よりも遥かに太い蛇が湧き出して湧磨に牙を剥く。しかし湧磨はそれを無視する。右手と両足が無事なら他はどうなろうと構わない。
腹を噛ませ、左手を噛ませ、湧磨は繰り返しアルテの腹に『アイアンナックル』のアッパーを放ち続ける。
目が霞み始める。現実の神経が焼き切れかけているのか、それとも目に涙が浮かんでいるのか、もはや何も解らない。ただまさしく死ぬ気でアルテに拳を打ち込み続け、
「っ……!」
空中へ身体を浮かされ、身体をくの字にさせられたアルテが、鬱陶しさに耐えかねたようにその本丸の頭で、自らの身体の下をくぐり抜けるようにして湧磨に牙を剥く。
湧磨はこの瞬間を待っていた。
口から血のような液体を垂らしながら飛びかかってくるアルテの攻撃を上空やや後方へ跳び上がりながらそれを躱すと、湧磨の真下へ投げ出されているアルテの頭部へ向けて、落下する勢いのままに『アイアンナックル』を打ちつけた。
打ちつけた。打ちつけた。打ちつけた。打ちつけた。打ちつけた。打ちつけた――
拳で串刺しにするように甲板へめり込ませたアルテの頭部に、湧磨はさらに執拗に拳を叩き込んだ。
もがき苦しむようにアルテは尾を振り、甲板上から鉄パイプや柵が海へとなぎ払われていく。それでも湧磨はアルテの頭に食らいついて『アイアンナックル』を打ち込み続ける。
返り血で全身が熱い。口の中が生臭く、血が喉に絡みついて呼吸が上手くできない。目が焼けるように鋭く痛み、視界が黒く滲んでほとんど何も見えない。
『清里くん、もうダメだみゅ! アルテから――バグがサイト全体を侵蝕し――る! もう諦めるし――ゅん! いま戻らないと、二度と現実に戻れ――なるみゅん!」
「俺に構うな! 俺は『向こう』に行く! その覚悟はできてるんだ!」
と、突然、打ち下ろしたはずの拳が完全に空振った。
拳に感触が返ってこず、そのうえ膝から力が抜けたように重心を失った。
アルテの頭部に、黒い穴がぽっかりと空いていた。
その穴はあらゆるものを吸い込むように周囲の光を呑み込みながら、急速に巨大化していた。湧磨はそこへ、頭から真っ逆さまに落下した。
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