アリシアの想い(2)

「さ、さっきは取り乱してしまって、申し訳ありませんでしたわ」





 赤く染めた顔を伏せながら、アリシアがティーカップを二つ乗せたトレイを持ってキッチンからリビングへとやって来た。





 ヨーロッパ貴族の邸宅にでもありそうな花柄刺繍入りのソファ。艶やかに輝く木目のテーブル。高そうな食器がズラリと並べられた食器棚。天井で輝く小さな、しかし紛うことなきシャンデリア……。





 それらから発せられる高級感に押し潰されそうな気分で身体を強張らせていた湧磨は、ああ、と曖昧な返事だけを返す。ネグリジェというのだろうか、薄手の白いワンピースに身を包んだアリシアは、テーブルの上にトレイを置きながら湧磨の隣に腰かけて、カップの一つをそっと湧磨の前に置く。





「どうぞ、冷たいハーブティーですわ」


「ああ、どうも……」





 アリシアがこちらへ少し前屈みになったために、その胸の谷間がちらりと見えてしまった。湧磨がその柔らかそうなふくらみに思わずドキリとしていると、アリシアが自らのカップを手に持って、どこかうっとりとしたように言った。





「このカップ、とても綺麗でしょう?」


「あ、ああ、そうだな」





 青い絵の具で絵が描かれた、白いカップである。高級品なのか安物なのかよく解らないが、確かに綺麗なのでとりあえず頷いておく。アリシアはハーブティーを一口飲んで、





「これはね、わたくしが戦い(オークシヨン)で勝ち取った物なんですのよ。それに、このテーブルも、ソファも、食器棚も、カーペットも。ここにある物は全て、わたくしがわたくしの力で勝ち取りましたの」


「全て……?」





 湧磨は驚くが、アリシアはただ優しく微笑し、





「ねえ、湧磨? あなたのアパートの近所に、解体途中の古いアパートがあるのをご存じかしら?」


「ん? ああ……」





 確かに、ある。でも、どうして今そんなことを訊いてくるんだ? 湧磨が怪訝に頷くと、アリシアはカップをテーブルに置いて、静かに微笑みながら言った。





「実を言うと、ですけれどね……あそこは、わたくしが中学を卒業する少し前まで住んでいた場所なんですのよ」


「お前が、あんな場所に……? お前みたいな金持ちが、どうして」


「わたくしが生まれつきのお金持ちだったのは、中学に入ってすぐの頃までですもの。その年の六月にもならない頃に父の会社が倒産して、そのまま一家は離散。父にも母にもついていきたくなかったわたくしは、一人で日本に残ってあそこで暮らしていましたの」


「…………」





 全く知らなかった。言葉が出ない。だが、アリシアはよい思い出話を語るようにどこか楽しげに、





「毎日毎日、カレーパン一つだけを食べて暮らすような貧しい生活でしたわ。パパを通じてお爺さんから充分な生活費は送られてきていたのですけれど、反抗期の盛りで、可能な限り誰の力も借りずに生きようと意地を張り通していましたの。まあ、それは今も続いているんですけれど」


「ちょっと待て。お前の両親が、離婚……?」





 そんなの初耳だ。ようやく喉から声を絞り出して尋ねると、アリシアは小さく頷く。





「ええ。ですから、わたくしとあなたは、とてもよく似た境遇ですのよ」


「そ、そうなのか。今まで全然……って、ん? お前、どうして俺の家族のこと知ってるんだ?」


「それは……風の噂で。それに、あなたはわたくしの恩人ですもの。気に懸けているのは当然のことですわ」


「は? 恩人? 俺が?」





 驚きの連続で、話についていけない。湧磨の動揺を見てアリシアはくすりと微笑し、





「ちょっと待っていて」





 ソファを立ち、リビングを出て行った。





 どこへ行ったのだろう。戸惑いながらも、しんと静かなリビングで忠犬のように待っていると、アリシアはすぐに戻ってきて、その手には一枚の封筒があった。青空模様のそれを見て、湧磨は思わず「げっ」と声を出し、





「お前、なんでまだそんな物持ってるんだ!」


「お馬鹿さんですわね、捨てるわけなどないでしょう。これは、わたくしを変えてくれた大切な宝物ですもの」





 と、ソファに腰かけながらアリシアが封筒から取り出したのは、一枚の便せんである。それは湧磨が文房具店で選びに選び、十回近く書き直してようやく封筒に入れたラブレターである。忘れもしない、アリシアに見事振られた苦い記憶の結晶である。そのはずなのだが、





「宝物……? それが?」


「そう。あなたはもちろんご存じでしょうけれど、あの時のわたくしは、ほとんど日本語が話せなかったでしょう?」


「ああ、クラスの最初の挨拶も、確か英語でしてたよな」


「ええ、あの時のわたくしは、どうせ日本に長くいることなどないだろうと思って、日本語を憶える気なんて全くなかった……。けれど、そんなわたくしに勉強をさせ始めるきっかけとなったのが……このラブレターでしたのよ」





 春のうららかな陽射しのような笑みを頬に浮かべながら、開いた便せんをそっと指でなぞって、





「『My name is Yuma Kiyosato.I love you.』……。ふふっ、それ以外は全て日本語で書かれているこのラブレター……一体、どういうことが書いてあるんだろう? それが知りたくて、わたくしは日本語の勉強を始めましたの。友達なんていなかったから、主にマンガとアニメを教材にして」


「そ、そうだったのか……」





 それだから、そんなお嬢様口調になっちまったのか。思いがけず謎が解けて納得していると、アリシアは便せんを封筒へしまい、





「おまけに、あの出来事のおかげで、わたくしはクラスメイトの方々とも少しは話ができるようになりましたわ。スケベの湧磨からわたくしを守るって……友達とは言えない距離感だったかもしれませんけれど、皆、わたくしをよく気に懸けてくださいましたわ」


「そりゃよかったな。そのせいで、俺は中学の三年間、話したこともない女子連中からも、たびたび睨みつけられていたわけだが」


「それは申し訳なかったと思っていますわ。けれど、わたくしのほうもそれで少し困っていましたのよ。皆が折角わたくしからあなたを遠ざけようとしているのに、わたくしからあなたに話しかけるわけにもいきませんし、かと言って皆の親切心に強く注意をするわけにもいきませんし……」


「俺をエクスマキナに誘ったのは、その時の謝罪をするため……なのか?」


「理由の一つではあるかもしれませんわね。でも、それだけではなく、わたくしはただ純粋に、あなたの強さにずっと魅力を感じていましたのよ」





 俺の強さ? 俺より数十倍も強いヤツが何を言うんだ。と湧磨が訝ると、アリシアはハーブティーで唇を潤してから、





「後からあなたのご家庭のことを色々と知って、わたくし、とても驚きましたわ。まさかあなたのご両親も離婚をされていたなんて……本当に、わたくしは思いもしなかった。


 だって、あなたは自分がそんな辛い状況にあるなんていうことを、全く顔に出さず生活をなさっているんですもの。あなたは本当に強い人だと……わたくしはそう思いましたわ」


「そんなの、別に大したことじゃない」





 自分の両親の離婚は、自分がまだ小学校の低学年だった頃のことである。『離婚』という言葉自体を知らなかったから、その出来事によるショックはほとんどなかった。昔から母より父が好きだったし、母は仕事であまり家にいなかったし、父との二人暮らしには薄情なほどスムーズに慣れてしまった。





 だが、その暮らしに寂しさを感じることがなかったと言うのは嘘になる。学校から帰って父が仕事から帰ってくるまでの間、暗い家で一人きりでいる時などは、正直とても不安で、怖かった。





 ――ああ、そうか。





 と、湧磨は不意に気がつく。





 ――俺はアルテに、昔の自分を重ねていたのか。





 エクスマキナのずっと奥深く、あるいはデータとデータの狭間の空間、その誰もいない場所にぽつんと座っていたアルテ。その孤独な姿が目に焼きついて離れないのは、アルテの美しさだけが理由じゃなかったのか……。





「湧磨?」





 アリシアが湧磨の顔を覗き込んでくる。いつの間にかアルテのことを考えていた湧磨はハーブティーで気を取り直し、





「いや、その……それはアレだな。俺が明るくいられたのは、親父のおかげだ。親父が親父らしくいてくれたから、俺はきっと安心していられたんだ。ただそれだけだ」


「そう……。よいお父様に恵まれたんですのね。うちとは大違いですわ」


「大違い? どうしてだ? 俺、お前のお父さんのことはよく憶えてるぞ。入学式の時、ニコニコ手振りながら、ずっとカメラでお前のこと撮ってた、あの金髪のオジサンだろ? 背高いし格好いいし優しそうだし、あれのどこに文句があるっていうんだ」


「そういう、外面だけはいい所ですわ」





 不快の感情を眉間に示しながら、アリシアは自棄飲みするようにハーブティーをぐっと飲み干して、





「わたくしはああいう、自分の行動と言葉に責任を持たない人間が大っ嫌いなんですの。ついでに、文句ばかりで自分では何もしようとしない人間もね……」





と、吐き捨てるように言う。

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