アリシアの想い(1)

「イッ……!」





 アリシアの家へと向かって夜の住宅街を歩いていると、突然、胸の辺りがビリッと痛んだ。





 肌が裂けるようなその痛みに湧磨は思わず立ち止まったが、それは瞬間的に走っただけですぐに消えてなくなる。だが、この部分のこの痛みには記憶がある。エクスマキナの中で、チーターに日本刀で斬られた時の痛みである。





 エクスマキナ内で受けたダメージは、神経に蓄積することがある――





 そうゆりりんから説明はされていた。だが、実際に自分の身でそれを感じたのはこれが初めてである。もしあの戦い(オークシヨン)でまともにダメージを受けていたら……。そう想像して、思わず鳥肌が立つ。





 ――大きな利益を得るためには大きな危険が伴う、っていうことか。全く……つくづく危ないことしてるよな、俺。





俺がこんなことをしていると知ったら、親父は怒るだろうか。そう後ろめたくも思うが、今さら後には退けない。それは金のためでもあるが、それだけではない。否、それ以上に大切なものを、エクスマキナの中に自分は見つけてしまっている。





「アルテ……」





 先ほどの戦い(オークシヨン)の、あの最後の瞬間、アルテはまるでチーターの命令に逆らうようにしてあの場から姿を消した。あれはひょっとして、アルテがこちらの声に反応して目覚めようとしたことが原因なのではないだろうか?





――だとしたら……やっぱりアルテは生きている。





確証がない以上、願望でしかない。しかし、その可能性が高まったと言っていいような気がして嬉しくなると同時に、不安にもなった。自分はこの先、何をすべきなのだろうか? 何ができるのだろうか? その、できることへの覚悟はできているのだろうか?





 と、自らに問いかけながら歩いているうち、目的の場所に到着していた。アリシアからメールに記されていた住所と、『赤レンガ造り』、『三角屋根』、『玄関の前に犬の置物二つ』という特徴から間違いない。見るからに高級住宅街な区域の一角にある、ヨーロッパ風のこの大邸宅がアリシアの自宅らしい。





 ――やっぱりいい家に住んでるんじゃねえか……。





 よく手入れのされた生け垣の間を通り抜けて、実物大のドーベルマンの置物二つに守られた玄関前に立ち、なんとなく背筋を正し深呼吸をしてからインターフォンを押す。





 が、いくら待っても応答がない。しばし待ってもう一度押してみても、人が玄関へ歩いてくる気配さえもない。





「ん?」





 試しにドアノブを押してみると、ドアに鍵はかかっていなかった。玄関はやはり無人だったが、そこには見慣れた学校指定の革靴がきちんと揃えて置かれてあり、その先の廊下には明かりが明々と点っている。





「おーい、アリシア……?」





なんとなく少し声を潜めて、湧磨は家の中に向かってアリシアの名を呼ぶ。しかしやはり返事はない――かと思いきや、





「きゃぁぁぁぁぁっ!」





 大きな叫び声が家の中に響いた。アリシアの声だ。湧磨は一瞬でそう気づき、





「おい、どうした!? アリシア!?」





 と、叫び声が聞こえた気がした、廊下にあった一枚の扉を勢いよく開いた。すると、





「どわっ!?」


「ぴぃにゃあああああああああああああああああああああああああああ!」





 超音波的な叫び声を上げながら、髪も肌も濡れたままの、前をバスタオルで隠しているだけのアリシアが飛びつくように抱きついてきた。





「なっ……!? お、おい、なんだ!? どど、どうした、アリシア!?」


「ア、アレが……! アレが! アレがっ!」


「アレってなんだよ!? まさか泥棒――」


「そんなのじゃない、アレですわよっ!」





 アリシアが指差したのは、大理石の洗面台、その排水口辺りを動き回っている一匹のゴキブリである。





 なるほど。これは確かに大変な事態だが、それどころではない。アリシアがゴキブリを指差したその手は、今までバスタオルを掴んでいた手である。その手を放したということは――





「ま、待て、アリシア! 落ち着け! ゴキブリどころじゃないことになってるぞ! 早くバスタオルを――」


「バスタオルどころじゃありませんわ! 早く! お願いだから早くアレを退治して!」





 と、アリシアは半分泣きながら懇願してくるが、何もかも剥き出しのその身体をグイグイと押しつけられているこちらこそ、もうどうしていいか解らない。





 濡れたアリシアの金髪から、花のような香りが濃く匂い立ってくる。湧磨の服に、アリシアの裸体を濡らす汗と水滴がじわじわと滲んでくる。アリシアが押しつけてくる身体の柔らかさが、熱さが、こちらの身体を抱きかかえるその必死な力強さが、湧磨の心臓を破裂しそうなほど高鳴らせる。





「わ、解った! 解ったから、お前は廊下に出てろ!」





うかうかしていたら衝動に耐えられなくなる。湧磨はアリシアを廊下へ押し出し、アリシアの香りがこもっている脱衣場で、人類の天敵との孤独な戦いに臨んだ。





 と言っても、何か武器はないかと開けさせてもらった洗面台の収納の中にはしっかりとゴキブリ撃退スプレーがあったので、それをかけただけである。





 洗濯機の上に畳んで置かれていたアリシアの下着は、淡い桜色だった。


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