アリシアの想い(3)
アリシアが何を思いだしているのかは解らない。しかし、きっとアリシアはその多感な時期に様々な人間のイヤな部分を、よりにもよって両親から多く見せつけられてしまったのだろう。そんなアリシアに、たやすく慰めの言葉などかけられない。
湧磨もハーブティーを飲み干して、少し間を置いてから、
「それで、一人で日本に残って暮らし始めて……それから何があったんだ? お前はどうやってエクスマキナに辿り着いたんだ」
「わたくしのブログに突然、エクスマキナに関する書き込みがありましたの」
「ブログに、書き込み……? お前、そんなものを信用したのか」
「まさか。その人は、父が日本で働いていた会社の同僚で、わたくしを心配して、一人でも生活をし続けていける手助けがしたいと思っている……と、そう仰っていましたけれど、当然、会ったこともない人を信用できるはずがありませんわ。
それに、わたくしもあなたと同じで『格闘技なんてできるわけがない』と思っていましたから、その誘いはすぐに断りましたわ。でも……」
ふっ、とアリシアは表情を綻ばせ、膝に載せている青空色の封筒を優しく撫でる。
「ちょうどそんな時に、あなたからこれをいただいたんですのよ。そしてあなたのことを人づてに知って、わたくしは自分を変えるための一歩を踏み出しましたの。いつまでも悲劇のヒロインなど演じていないで、あなたと同じように強くあらねば……。
そう思って、わたくしは一度は断った誘いを受けることにしたのです」
「それは勇気があるというか無謀というか……。っていうか、まさか俺の手紙がお前にそんなことをさせていたなんて思いもしなかった。なんというか、微妙に申し訳ない気もするというか……」
「どうして? わたくしはとても感謝していますわよ。このラブレターのおかげで、今のこの暮らしがあるんですもの。全てはあなたと、そしてずっとわたくしを支えてくれているゆりりんのおかげですわ」
「いや、それは違うだろう」
そんなに感謝などされるような覚えはない。思わず少し照れてしまいながら、湧磨はソファの背もたれに腕を載せて寄りかかり、
「俺も、ゆりりんも、ただ手助けをしただけだ。どれだけキッカケだとか支えがあろうと、その当人が頑張らなきゃ何も始まらないだろ? だから、今を作ったのは俺でもゆりりんでもない、ほかならぬお前自身のはずだ」
「湧磨……」
アリシアは呟いて、それからこちらへ向けていた目を隠すように下へと向け、目元を指で擦る。
――え?
まさか泣いてるのか? 別に泣かせるつもりなどなかったから、予期せず広いリビングを満たした静寂の中で、ただキョトンとすることしかできない。
「湧磨」
つと、アリシアがその顔を上げる。涙に濡れた青い瞳で色っぽく湧磨を見つめながら、半ば倒れ込むようにその身体を湧磨へ密着させてくる。
「ア、アリシア……?」
「ねえ……どうして、あのプログラムなんですの? わたくしじゃ……いけませんの?」
何を言っている、どういう意味だ? さらに湧磨は狼狽するが、アリシアはこちらの視線を掴んで放すまいとするように湧磨を強く見つめ続け、
「アルテはただのプログラム、現実には存在しない女性なんですのよ。確かに、彼女はまるで妖精のように美しいですわ。けれど、それはまさしく彼女がわたくしたちとは別世界の存在であるという、その証ではなくて?」
「いや、でもアルテは……」
「でも、何かしら? こうやって、彼女はあなたに触れることができますの? 偽りではない、本当の温かさを分かち合うことができますの?」
言いながら、アリシアは湧磨の指にその指を絡ませ、さらにその大きな胸を湧磨の腕に押しつけてくる。
「な、ど、どうしたんだアリシア、急に……!」
「わたくし……あなたのことが、好きですわ」
わずかに躊躇いの色を見せながら、しかし湧磨の目から決して視線を逸らさずにアリシアは言った。
「わたくしは、あなたをずっと見てきた。あなただけを見てきた。ずっと、ずっと……あなたをもっと近くで感じたいと思っていた。あなたのことが……ほしかった。このあなたへの気持ち……これだって、わたくしにはあって、彼女にはないものですのよ。
彼女があなたを気に懸けているように見えたとしても、それは単なるあなたの思い込みでしかない。だって、彼女には肉体だけでなく、心だってないのだから……」
「…………」
驚き、言葉が出て来ない。
アリシアの潤んだ瞳の青さが、繊細に輝く金色の髪が、ふくよかな胸が、こちらの手を握る汗ばんだ手が、花のような香りが、湧磨の思考を瞬く間に麻痺させる。
だが、湧磨を何よりも驚かせたのは、アリシアのその必死さだった。まるで命乞いでもするようにアルテという存在を否定しようとしているその追い込まれた姿に対して、湧磨は最も面喰らったのだった。
アリシアは本当に俺のことが好きでいてくれているんだ。唯一無二の存在と感じてくれているんだ。必死さからストレートにそれを感じさせられて、思わず胸を衝かれる。しかし、反論せずにはいられない。
「もし……アルテに心があるとしたら?」
「あるわけがありませんわ。プログラムに心なんて……」
「でも、もしあるとしたら……アルテは世界の誰よりも孤独だと思うんだ。バーチャルの世界のずっと奥深く、現実から遠く離れた場所で、生きていることを誰からも認めてもらうことができないまま、いつも独りきりで……」
「……そう、そんなに彼女のことが気になってしょうがないんですのね」
アリシアは顔を曇らせながら俯き、湧磨の手からその指を解いた。そして、悄然と伏せていた顔を上げたと思うと、その顔を湧磨へ近づけて、
「んむっ……!?」
その唇を、湧磨の唇へ押しつけたのだった。
唇を包み込む、温かな感触。アリシアの閉じた目以外にはほとんど何も見えなくなった視界。首に両腕を回しながら、覆い被さるように密着するアリシアの熱い肉体……。
唐突に押し寄せたその刺激の突風で、湧磨の思考は今度こそ完膚無きまでに吹き飛ばされた。
十秒だろうか、三十秒だろうか、もしくは三秒ほどに過ぎなかっただろうか、湧磨は唇を揉まれるようなアリシアのキスにただ呆然として、だがやがて慌ててアリシアを身体から引き剥がし、
「お、お前……な、何を……!?」
と、思わず唇を手で押さえる。アリシアはなぜか勝ち誇ったような微笑を浮かべ、
「あなたはわたくしが出品した、わたくしのファーストキスを勝ち取ったでしょう? それを引き渡しただけのことですわよ」
「…………」
開いた口が塞がらないとはかくのごとく言葉を失う湧磨を見てアリシアは微笑を深め、再びしなだれるように湧磨に身体を密着させ、湧磨の喉仏を人差し指で撫でる。
「ねえ……。どう、湧磨?」
「ど、どうって……?」
「これでも、あのプログラムのほうがいいと言えるかしら?」
喉から胸へ、胸から腕へ、そして手の甲へとその指を這わせると、湧磨の手を優しく掴んで自らのふとももへ――そのまっさらな素肌へと誘う。
「あなたは、今とても動揺していますわ。その視線、息遣い、胸の鼓動、掌にまで浮かんだ汗……。やっぱり現実のほうがいい。今あなたは、そう感じているのでしょう?」
「お、俺は……」
「否定なんてできませんわよ。アルテなんてただのプログラムだ。いくら可愛くても、現実でこんな温かさは感じさせてくれない、気持ちよさは与えてくれない。そう思ってしまっているあなたが、あなたの心の底にはいるはずですわ」
「…………」
その通りだった。湧磨はいま確かに激しく動揺させられていた。一気に坂を転がり落ちてしまいたい。転がり落ちてしまえばいい。そんな衝動に、胸の底から突き上げられていた。
もしもあと一秒長くアリシアが湧磨に身体をもたせかけていたなら、その衝動に耐えられなかったかしれない。だがアリシアはそれを鋭く感じたようにスッと身を離すと、
「湧磨。今度はあなたが戦い(オークシヨン)の出品物になりなさい」
「俺が……?」
「ええ。あなたがアルテを好きなことはよく解りましたわ。あなたは本当に、真心からあの子を思って、悩んでいる。それは認めますわ。けれど、あの子はあなたをどう思っていますの? あなたの気持ちを喜んでいますの? あなたの気持ちを受け取る気はありますの?」
「それは……」
「解らない、ですわよね?」
「……ああ」
「そう。ですから、わたくしに勝負をさせなさい。そうすれば、あなたも彼女の気持ちを確かめられますわ。もしあの子があなたのことをなんとも思っていないのなら、わたくしには勝てない。例え相手がチートプログラムであろうと、今のわたくしであれば、絶対に、誰にも負けませんわ」
こちらへ一心に向けられているその青い瞳には、わずかな迷いの色もない。確かに今のアリシアならば、アルテ相手でも勝ってしまうかもしれない。
「でも、俺が出品物なったところで、あのチーターが入札エントリーしてくるとは思えないぞ」
「わたくしもそう思いますわ」
「それなら――」
「それならそれまで、ですわ。あの子にもし本当に『心』があって、あなたを求めているのならば、必ず入札エントリーをしてくるはずですわ。してこないのなら、やはりあの子は単なるプログラムに過ぎなかったということ。あなたも自らの想いが幻想であったと諦めるべきですわ」
と、アリシアは剣を突きつけてくるかのように容赦のない、間違いのない言葉で湧磨に迫ってくる。
「……ああ、そうかもしれない。でも、俺の気持ちは俺のものだ。戦い(オークシヨン)で競り落とされたからって、どうにかされるものじゃない」
「その心配はご無用ですわ。わたくしのこの気持ちは――この真心は、必ずあなたに伝わりますもの。かつて、あなたがわたくしにそうしてくださったようにね」
そう言って、アリシアはにこりと屈託ない笑みを浮かべる。
アリシアにこんなことを言ってもらえて、こんな笑顔を向けられて、思わず目眩がしない男なんてこの世にいるのか? そう身に染みて思いつつも、湧磨はどうにかすんでのところで自らを律する。俺にはアルテがいる。そう自分に言い聞かせる。
「でも……ふふっ」
と、アリシアが急におかしそうに噴き出す。
「本当に、昔とはまるで逆ですわよね。前はあなたがわたくしに告白をしましたのに」
「今さら振った後悔をしてるのか?」
「もちろん。でなければ、こんなことを言い出すはずがありませんわ」
「そ、そうか……」
冗談半分に茶化したつもりが凄まじい剛速球が返ってきて、湧磨のほうがむしろ慌てさせられてしまった。アルテは壁掛け時計へと目を向け、
「さて、やると決まったからには、すぐに始めることにいたしましょうか。ちょうど、もうすぐログイン可能な時間ですわ」
「今すぐだと? ちょっと待て、まだ心の準備が……」
「戦うのはわたくしですのに、なぜあなたがそんなことをする必要がありますの? わたくしの予備のブレインスキャンがありますから、あなたもここでログインしなさい」
言いながらアリシアはソファから立ち上がり、リビングを出て、二階へと階段を上がっていく。湧磨はその後について行きながら、
「『ブレインスキャン』って、頭に被るアレのことか?」
「当たり前でしょう。あなた、そんなことも知らずに使っていましたの?」
「お前もゆりりんも、そんなこと何も教えてくれなかっただろ。そうだ、ところで、ゆりりんに報告はしなくていいのか?」
「ゆりりんはほとんど一日中ログインしていますもの。今もきっと中にいますわ」
「……なあ、ずっと気になってるんだけど、ゆりりんって一体、何者なんだ?」
「さあ? 彼女のほうから言ってくれないということは、あまり話題にしたくないと思っているということでしょう? そういうことは詮索しないのが淑女の嗜みというものですわ」
そう言ってアリシアが入った一室は、パソコンデスクと、小説と漫画、クラシックのCDケースがぎっしりと詰まった本棚、それから巨大なスピーカーを擁したCDプレーヤーが置かれてある、書斎のような部屋だった。
パソコンデスクは扉の向かい側の壁際に置かれてあり、デスクトップ型とノート型のパソコンが、それぞれ一台ずつそこに置かれている。
――アリシアはいつもここからログインしてるのか。
アリシアの寝室でもなんでもないのだが、それでもやはり女の子の部屋はどこでも物珍しくて、思わずソワソワしてしまう。
与えられたノートパソコンでソワソワと準備を整えて、リクライニング機能つきのイスに座るのを勧めてくれたアリシアにそれを譲り、ブレインスキャンを被ってフロアリングの上に横になる。
そして、なんとなく思う。
アリシアは、『自分を気に懸けていた父親の同僚からエクスマキナを紹介された』と言っていた。そして、二人がいつ出会ったのかは定かでないが、『ゆりりんは自分のことをずっと支えてくれている』とも言っていた。もしかして、その『父親の同僚』というのは――
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