『脅威』
前半シルビア視点、「*」マークを境に後半アルバート視点になっています。
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その人の名前を、知っていた。
他の『彼ら』は名前さえ知らなかったけれど、彼は唯一シルビアに兄だと言い、名乗った。
何年も前に別れたきりの、兄、だった。
目の前で揺れた、瓶の中の目を思い出した。
どんな目に遭っているか分からない。死という言葉さえ過り、どうか無事であってくれますようにと願った兄が、いる。
喉の奥が熱くなった。
泣きそうでたまらなかった。安堵と嬉しさが胸いっぱいに広がっていく。
兄は、シルビアから少し離れた位置で立ち止まった。
正面から向き合う形で、はっきりと顔を見るには十分な距離。
けれど、手を伸ばしても全然届かない距離で、例えば間合いとしては完璧の距離──
「神剣使いか」
シルビアの手元を一瞥し、彼は、言った。無感情な声色は、酷薄に響いた。
シルビアは、兄のそのような声を聞いたことがなかったら、最初彼が喋ったのだと分からなかった。
しかし、口が動いたところを見ていたから、遅れてその声は彼のものだと頭が判断した。
違和感めいた感覚が芽生え、ふっ、と現実に引っぱられた。
そこで、水色の隻眼が、冷たくシルビアを捉えていることを、認識した。まるで、敵を見るような鋭い目付き。
なにかが、おかしい。何が?
ほんの少しだけ芽生えた意識を深掘りしようとする前に、兄の姿が、一気に近づいた。
一息で距離を詰めた様子は、防衛本能を呼び起こすには十分な雰囲気を孕んでいた。
「──!」
吹き飛ばされそうになった。
物理的な衝撃によるもので、瞬きをし再び視界が開けたときには、剣を、辛うじて反応したことで受け止められていた。しかし、完全に油断して神通力が抜けていたため、剣を衝撃で手を離さなかっただけでよくやったと言えた。
シルビアに打ち付けた剣を握るのは、兄だ。距離が縮まり、もう、すぐそこに彼はいた。刃越しの距離。手を伸ばせば、触れられるだろう。
でも、今そんなことをする余裕はない。すれば刃を通してしまうだろう。
──何が
防がれたとみて、刃が離され、また振られる。速い。こんなに近くにいるのに、刃がぶれる。
──何を
稽古の賜物だろう。シルビアが神通力を流した剣は、攻撃をまた受け止めた。
身に染み付いたものがなければ、どうなっていたか分からない。アルバートを相手に生半可にやっているようなものだった。
一撃目に反応さえできなかった、かもしれない。頭が真っ白だ。
では、反応できていなければ、どうなっていたのか。
──待って
切られていた?
──兄様
まさか。そんなはずはない。
──どうして
頭が真っ白で、体についていけない。状況についていけない。
実力差は歴然で、そんな相手に、こんな状態でいつまでも凌げるはずがない。そして、体の奥底からの拒否反応が、とうとう決定的に足と、手を鈍らせた。
腕と、体を、軽い衝撃に揺さぶられた。
「────ぁ」
兄は、すぐそこにいた。
表情は、一見無だとしてもそこに滲む感情があると知っていた。
しかし今、前にした顔が浮かべるのは、完全なる無表情だった。
「……っ」
痛い。
理解できなかった。
痛みは、腕と、腹部か。
おかしい。剣を握っている方の腕が動かせない。動かそうとすると、痛みが増す。肉が簡単に割っていくものがある。腕を、なにか液体が流れ落ちている。
見下ろすと──剣が腹に埋まっていた。切っ先は見えない。切っ先は、腹の中の方へ。
冷たい刃に、腕ごと腹を串刺しにされていた。
理解、できない。
「シルビア!」
名を呼んだ声は、目の前にいる兄ではなく、アルバートの声だった。遠くからの声だ。人が吹き飛ぶ光景に、強い神剣使いがいると感じて、こちらの様子を見ていたのだろうか。
ずるり、と腕と腹から異物が引き抜かれ、血が飛んだ。
シルビアは膝をつく。
腕が痛い。腹が痛い。痛みが、全身に広がる。
血が流れ出していることが、分かる。腕から手にかけ血が流れ、地に伝い落ちていく。
遠くで、喧騒が聞こえはじめてきていた。
ああ、そうだ。ここは、戦場だった……。敵と命を奪い合う場所。
立たなければ。ここは戦場。駄目だ。アルバートにあれだけ言ったのだ。
けれど、それは、何のためにだったかと言えば──。
兄は、アウグラウンド側の服を着ていた。
当たり前と言えば、当たり前だ。彼はアウグラウンドの人間だ。シルビアだって元はアウグラウンドと呼ばれる国にいたようなのだ。彼が連れ出して、イグラディガルという国での生活を与えてくれた。
でも、なぜ、兄が敵にいるのだろうか。
そして、なぜ、こうなっているのだろう。自分は、誰に貫かれただろうか。
兄に刃を向けられ、貫いた刃も同じものではなかっただろうか。
顔を上げることが、こわい。確かめるのがこわい。見てしまったら、取り返しのつかない何かに襲われそうで。
地面を見下ろす視界が、ぼやける。意識がおぼろ気になる。
……王太子が、言った。「その脅威を前にしても、狼狽えず、決してその身を渡すことはないように。それだけは約束できるか」と。
これは脅威か。
痛みが脅威だと訴える。
だけれど、違う。違うのだ。彼はシルビアの兄だ。ただ一人の兄。
不確かに侵食されていく意識でも、身を刺すような空気を感じた。
ここに来てから浴び続け、向けられ続けたそれは、殺気だ。
今も前から向けられている。
──どうして
見なくとも、そこにいる人物は変わらないだろう。
分かっているからこその絶望だった。
ぽたり、と、地面に血ではないものが落ちた。
貫かれた利き腕は垂れたままで、剣を持ち上げる力は出なかった。柄を緩く包む手が、重い攻撃を受け止め続けた影響で震えていた。
剣を向けようとも、反抗しようとも、思えなかった。
だって、彼はシルビアの望みそのものだ。
手の震えは、攻撃によるものだけとは、言えなかった。
シルビアは、ゆっくりと、顔を上げた。
変わらず前にその人はいた。アウグラウンドの制服を辿り、見上げていくと、こちらを見下ろす顔がある。
「にい、さま……」
見上げ、目が合った。振りかぶられている刃から、血が手まで垂れ、触れ──刃がぴくりと動いた。
「──シルビア、立て! 逃げろ!」
アルバートの強い注意喚起の声に、せめてここから離脱しなければと思うが、思っているより傷が酷いのか、感じたことのない酷い痛みのせいか上手く足を踏ん張れない。
それでも、立ち上がろうと──
「退け、ヴィンス」
戦場に不似合いな綺麗な音の中に、不協和音が混じる音が鳴り響いた。
白いものがぶつかった様子がぼんやりと見え、シルビアの前に振り上げられていた白い刃が弾かれたようだった。
誰だ。アルバート、では、ない。
「ああ、その目。確かにそうだ。私達の女神」
耳に入った声は、嫌な声だった。
ある種の気付け薬のような効果を持ち、シルビアの意識が一瞬敏感になった。周り、すぐ近くを囲まれている。
『彼ら』だ。
「こんなところにいるなんて。でも、手間が省けた」
「すぐに連れて帰るからな」
「おかえり、いとしい女神」
手が見えた。直後、ばちっ、と視界が真っ白になって、意識が急激に閉じていくことを感じた。
体が地面から離れ、誰かに持ち上げられている。何かにもたれている。
「シルビア!!」
周りの喧騒が遠ざかり、最後に聞こえたのは、離れたところにいるはずのアルバートの声だった。
*
アルバートは少し離れた場所で敵の相手をしながら、神通力を目の方にも回し、強い神剣使いが出たらしき方向を探っていた。
近くにいる人員が複数で結託すればいいが……見ていると、予想外の人物が見えてあっという間に事が起こされていく。
「退け!!」
吠えざまに、周辺の敵を力業で吹き飛ばし、連続で次は目的地への最短距離の直線上の敵を処理しにかかる。
何が何かはアルバートにも分からないが、やるべきことは一つ。シルビアを一刻も早くあの場から救出する。
「ヴィンス、どういうつもりだ……」
ヴィンスがシルビアに今にもその刃を振り下ろしそう、という見たくもないがあり得もしない光景を見て、柄になく焦るどころではない。
アルバートは剣に力を込める。ヴィンスだけを狙って、飛ばせるか。何を考えているのかは知らないが、シルビアの状況が最悪だ。
最優先はシルビア。ならば、友であれ相応の覚悟をしてもらう。
だが、アルバート自身覚悟して剣を振ろうとしたとき、視界の端に何かの動きが引っかかった。動いている者など無数にいるが、違う。無視してはいけないものが、いる。
「──シルビア、立て! 逃げろ!」
それが出来るなら、とうにそうしている。出来ないから、あの状況なのだ。
言っておきながら、自分に舌打ちしそうになっていると、『何か』がヴィンスの剣を弾き、シルビアの元に到達した。
到達してしまった。
アルバートの感覚は正しかった。到達させてはならない人物『達』だった。
「……冗談だろ」
次々と現れた男たちは、アウグラウンド側の兵が身に付けている制服姿とは少しデザインが異なっていた。
その剣は、神通力のみで形作られたもの。
ざっと確認して、三人。
アウグラウンドの王族。シルビアの兄に当たる者たちが、この戦場に全員出てきている。世継ぎも何も関係なしか。
とんでもない戦力を投入していたと、驚愕の事実に本気で冗談であれと思った。
だがいる。
シルビアを囲み、シルビアが見えなくなる。
「『イントラス神に祈る』」
このままではまずい。最悪はさっきではなかった。今だ。そして、もっと悪いことが起こる先さえある。
素早く力を呼び起こし、標的を変更して斬撃を飛ばす。それに、一人が気がついた。こちらを見た男の口が動く。「『ベルギウス神に祈る』」だ。
斬撃は見事に相殺された。
その間にもそちらに向かっていたが、不意に三人一気に突っ込んできた神剣使いがいた。足止めか。
それらを排除している短い間に、当然彼らはその場を去った。
「シルビア!!」
一歩、などという些細な距離ではなかった。
無情にも、アルバートの手は全く届かず、シルビアは連れ去られていった。
目で探しても、追い付けない。届く範囲の周りの敵を殲滅し、道が出来ても、そこにいない。
──ヴィンス、どういうつもりだ
同じく、敵に紛れ、見えなくなった友の姿に歯を噛み締めた。
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