『穏やかな空間』
ジルベルスタイン家の侍女がいるのはシルビアの世話のため。
そもそも最初に侍従が現れたのも、シルビアに少しでも警戒されないため、戸惑いを消すためだったという。彼はアルバートの侍従だが、アルバートがいない今、アルバートの命もありシルビアの元にいるそうだ。
アルバートは、もう、発ってしまったはず。
目が覚めたのか、単に目を開いたのか。
見慣れない天井を目にした。
部屋は薄暗い。静かに身を起こし、ベッドに腰かけたままで止まる。ここに来て、過ごす服装がドレスとなったため、身支度は侍女の手を借りる。
そもそも何となく起きたけれど、今がどれくらいの時刻なのか。眠る気も起きないため、ぼんやりとして待っていた。
しばらくすると控えめなノックの音がし、声がかけられ、扉が開く気配がした。ジルベルスタイン家の侍女だろう。
「おはようございます」
シルビアはベッドから降り、向き合ってから同じ挨拶を返した。
「……お嬢様、よくお眠りになれましたか?」
「充分に眠りました」
「それなら、よろしいのですが……。ここに来てから三日、ずっとお早くお目覚めになられているようなので……」
侍女は気がかりそうにシルビアを見たが、シルビアがじっと見返していると、身支度の準備を始めた。
ここに来て、三日が経った。
食事の回数と、寝る回数。侍女も言うのだから三日で間違いなかった。
ジルベルスタイン家から持ち込まれた、普段着のドレスに着替えて、シルビアの一日がまた始まる。
この部屋には、基本的にジルベルスタイン家から来た使用人しか出入りしない。出入りが制限されているようだ。
そのため、部屋の様相が異なることに目を瞑れば、部屋にいるとまるでジルベルスタイン家にいるようだった。
ジルベルスタイン家の使用人が城に召喚された効果が出ているというものだろう。
ただ、完全にそう思えるわけではない。
廊下に出てもジルベルスタイン家の廊下ではないし、養父も養母もアルバートもいない。
養父と養母からの手紙が届けられた。
養父は、戦目前の忙しい中を縫ったと思われる走り書きに近い文面が。養母からは毎日届いている。そういえば、彼らから手紙をもらうのは初めてだった。同じ家に住んでいたのだから、手紙を出す必要性など出てこなかった。
こんなに、一日とは暇だっただろうか、と思った。
やることがない。騎士団の制服は回収され、神剣も同じく。戦う術を没収された気分だった。戦う必要はない。出させないと言われているような。
剣を振ることは出来ない空気。
しかし、それが出来なくともジルベルスタイン家でも、剣を振っている時間よりその他の時間の方が多かった。
では、なぜか。
養母がいないことが大きいのかもしれない。まだシルビアが騎士団に入る前、養父とアルバートは仕事に出掛けて一日の多くは家にいなかった。
その間、シルビアは勉強をしたり、剣術を習ったり。やることもあったけど、自由な時間もあった。
自由な時間に、ほとんどのときシルビアと一緒にいたのは養母だった。
お茶にしましょうと、シルビアを誘い、お菓子を食べましょう、と誘い。ドレスや装飾品をシルビアに見せ、聞き、世の流行りや自分の好みについて話し。花を飾ることを始め、なくても構わないけれど暮らす中に楽しみを加えるという「嗜み」をあれこれシルビアに教え、語った。
実用的な知識の大部分をアルバートが担ったとすれば、彼女は「暮らし」の知識を担っていたのだろうか。
離れてみて、存在の大きさが分かる。自分は、人という環境に恵まれていた。
「……そのことを感じている場合でしょうか……」
養母がどれだけ、自分のことを気にかけてくれていたか。改めて異なる面から気がつくのは大事なことだろう。
だが、そもそも、今。
シルビアは本の頁を捲る手を止めた。本は城のものだ。読むのであれば、ジルベルスタイン家の図書室の蔵書の途中から読みたいが仕方ない。
他に行動出来る範囲もあるにはあって、その範囲の散策は大層時間潰しにはなっただろうが、シルビアは止めた。
いる場所は、あまりに静かだった。戦に行く者が発ってしまったから、というより、この場所が隔てられている。
実際隔てられているのは、事実でもある。出入りする人間が限られていること自体そうと言えるのだ。
そして、小さな庭があるのだと、城の大きな庭園とは別の、こじんまりとした庭に案内されたとき、感じた。
庭は青々とした植物に満ちて、そよ風に吹かれていた。植物が揺れる音だけが微かに聞こえて、太陽の光が上から降り注ぐ光景があまりに穏やかだった。
ここだけ、切り取られている。繋がっているはずの世界から、一つ切り取られてしまっているとさえ感じ、今すぐその場から離れなければならない気になった。
──戦の空気一つ、ここにはなかった
「──様、お嬢様、」
気がついたときには、呼び掛けに加えて、目の前で手を振られていた。
「はい」
ぱちぱちと瞬いて、返事した。
侍女の呼び掛けは、何だか、一刻も早く気がついて欲しい、という声が聞こえてきそうだった。
見上げた侍女自身、焦りが見てとれた。
「どうしたのですか」
「お、王妃様が」
彼女は、そこで一瞬、扉の方を気にした。
「王妃様?」
「はい。王妃様がこれからいらっしゃるとのことです。すぐ、お召し替えを」
王妃様が来る。
唐突な言葉を飲み込めないながら、シルビアは促されるままに椅子から立ち上がった。とにかく、一刻も早く普段着のドレスを着替えなければならないらしい。
が。
「王妃様がお越しです……!」
違う侍女が、知らせに来る方が早かった。
侍女が若干顔をしかめた。
斯くして、シルビアは、本来普段着で会うことは失礼な地位の女性とそのまま会うことになってしまった。
果たして、着替えをする間待たせることと、普段着のまま会うこと、どちらの方がより失礼か。
吟味しようとする者が現れる暇なく、侍女一同「待たせてはまずい」という方向に振り切られたようだった。
いつも落ち着いているジルベルスタイン家の使用人といえど、さすがに唐突な王妃様の訪問と訪問までに猶予がなさすぎると慌てるらしい。
「少し、慌てさせてしまったようね」
シルビアはいいえ、と答えた。
その女性は、先触れであったから当然王妃だった。先日の夜会で見たことがあったため、シルビアも知っていた。
彼女は、立つシルビアを眺めるように見た。
シルビアは、ドレスが普段着だと分かったのだろうかと思い、何と言おうか初めての状況に言葉を捻出しようとしていたのだが。
「本当に、美しいのね」
ドレスのドの字も出なかった。
「夜会のときのようなきらびやかなドレスも、宝石もなくても関係ない。あなた自身が美しい」
ドレス、と王妃は言ったが、どうやらドレスにきらびやかさが足りない、とか、今の身だしなみを言われたようではなかった。
彼女は、ただシルビアを見ていた。
「ああ、立ち話はいけない。お茶にしましょうか」
王妃が微笑み、用意されていた席に促した。
身分の関係上、自らが動くより来させる方が圧倒的に多いだろう王妃。だからこそ侍女が慌てたのかもしれないが、いざ来た王妃は当然のようにお茶を始める。
「ハーブティーよ」
お茶は、王妃が用意させたもののようだった。
確かに、あのタイミングでこちらが用意させたのでは間に合っていない。
「私、ハーブを育てる庭を持っているのよ。フローディアも育てているでしょう」
「はい」
ジルベルスタイン家には、華やかな花々が育つ花壇だけでなく、養母の趣味の一つでハーブが植えられている「花壇」がある。
「私が育て始めたのはフローディアの影響。あなたは庭いじりに興味は?」
「母と、庭に出ることがあります」
「そう。あなたがグレイルに輿入れしたら、一緒に出来るかしら。グレイルは王太子として忙しいし、陛下はもっと忙しいわ」
彼女は、王妃。王太子の母。
シルビアが王太子と結婚すれば、城にいることとなる。ジルベルスタイン家の人間より、過ごす時間が長くなる人。
色々なことが立て続けに起こり、忘れかけていた話を「輿入れ」の言葉で一気に思い出した。
「こんなときの機会になって残念だけれど、あなたとゆっくり会う機会がようやく出来た気持ちよ」
恐れ入ります、と、シルビアはこの前の夜会で覚えた言葉を呟くように言う。
「こうして話してみると、不思議。普通の女の子のよう」
普通、とは何だろう。そんな疑問が微かに生じたが、些細な感覚に成り果てた。
「でも、確かにあなたがグレイルの隣に立てば──私の息子は、歴史に残る王になっていくのね。この世の『伝説』を、また一つ、今度はグレイルが作る」
王妃が、こちらを見る目が、酷く心地が悪くなった。
「ねえ、シルビア?」
「……恐れながら、私には分かりかねます」
「あら、だってあなたは『そう』なのでしょう? 夢のような存在──いいえ、伝説上だった存在」
「……」
「あなたが『あなた』である所以を私も見てみたい」
シルビアが、『そう』である所以。
「……お嬢様?」
黙り込んだシルビアの側に控えている侍女が、そっと声をかけたが、シルビアは黙り込み、一点を見つめたまま。
「お嬢様、大丈夫ですか」
シルビアは、微かに首を振った。
大丈夫ではない、という意味ではなく、他のことを考えていて首を横に振った。
──駄目だ。
「どうしたの? 大丈夫?」
侍女に気がつき、王妃までもシルビアに同じ種類の声をかけた。
「私ごときが恐れながら、王妃様」
「ええどうぞ」
「ありがとうございます。──我が主人は、少し、体調が優れないようです」
「あら、そうなの?」
「実はお城に移ってから、慣れない環境ゆえか眠ることが出来ていないようでもありました」
侍女がするすると言葉を紡ぎ、答えていく。シルビア本人が口を挟む暇がないほどに。
王妃が話していることに気がつき、シルビアが任せてしまっている侍女に目を向けると、王妃に許しを請う際に膝をついていた彼女はシルビアの手にそっと触れ、押し止めた。
「今日は、これで失礼するわね」
王妃は「よく眠れるようなものをあげるわね」という言葉を残し、出ていった。
「お嬢様、お座りください」
王妃を見送り、扉が閉まると、すかさず侍女が椅子を引き、シルビアを促した。
「任せてしまい、すみませんでした」
「いいえ、とんでもございません。……失礼ながら、あれ以上の言葉をお嬢様に聞かせたくないと感じました。差し出がましい真似をしました」
侍女は頭を下げたが、とんでもなかった。
シルビアのことを思ってくれたのだ。本当に、人という環境に恵まれている。
ただ、シルビアは王妃の言そのものに黙り込んだのではなかった。王妃は、今一度シルビアに気がつかせた。
「お嬢様、お休みになりますか?」
「……いいえ、体調が悪いわけではありませんから」
「ですが、あまりお休みになれていないのは事実です」
そうかもしれない。
寝ていたのか、単に少し長く目を瞑っていただけなのか分からない夜が続いている。
……そもそも、それが間違っている。
自分がベッドで横になって、本を読んで、さっきはハーブティーを飲んでいた。ドレスを着て、落とせば粉々になりそうなティーカップを持って。
「……私は、これでいいとはどうしても思えないのです」
シルビアは、呟いた。
「『これ』とは、何でしょう」
「私がここにいることです」
そうだ。
シルビアがここに、国で一番警備が厚く、安全な場所にいていいはずがない。駄目だ。
どうして、あのときアルバートに反論出来なかったのだろう。いや、反論したとしても、決めたのはアルバートではないのだ。
──「俺も今回ばかりはそれがいいと思っている」
あの言葉は気になるけれど、 決めたのはもっと別の人々、立場を持つ人だ。
戦地に行く選択肢が閉ざされていいはずがない。シルビアの我が儘であり、しかし、そうではないのだ。
「お嬢様は、ここにおられて良いのです。そうあるべきなのです」
「……そうかもしれません。でも、そうあるべきではない面があるはずです」
「そんなことは──」
侍女がシルビアの言葉を即座に否定しようとしたときだ。
前触れなく、扉が開いた。
シルビアと侍女が同時に見ると、いたのは扉の外に控えている者で、
「王太子殿下がお越しです」
王妃よりもっと突然の訪問を告げた。
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