あり得ない
袖を掴む指に力が入る。
「アルバートさん」
顔が強張る。シルビアの突然の表情の変化を見て、アルバートも様子を変えた。
「どうした」
「嫌な感じが、します」
「……どういうことだ」
ここが、例えばこの前の港であれば、彼の問いかたは違ったかもしれない。一度あったと、察したかも。
だが、今、アルバートは意味が汲み取れず、問い返す。
シルビアも、理由が分かるからこそ戸惑っていた。
「この前、魔物を前にしたときのような感覚です」
嫌なものを感じる。微弱な感覚だ。
けれど、これは──魔物が、いる。一度経験し、確信があった。
「……街中か?」
「いいえ。そんな遠くでは、ありません」
そんなに遠くて、こんな感覚を抱いたか分からない。街中に出現したらしいときは、感じなかったことを思うと、どうか。
誰が問うても、街中かと聞いただろう。
けれど、シルビアは否定せざるを得ない。
「少なくとも、この敷地の中に」
シルビアは自分でも、信じられない思いで伝えた。
アルバートも、さすがに瞠目した。
「──まさか」
ここは、城。最も強い神域にあり、魔物は現れるはずがない場所。
だが感覚が訴えてくる。いる。
暗い外。夜の闇は、灯りが届かない奥を覗くと、魔物が染みだして来そうな雰囲気を醸し出す。
───────!
微かな何かの音、いや、鳴き声、を耳が捉えた。
声は十秒ほどで、完全に消えた。
「……ありえないとか言っている場合じゃなさそうだな……」
アルバートも聞こえたようだ。音が聞こえなくなって、彼は一つの方向を睨んでいた。
「シルビア、俺は様子を見に行って来るから父上と母上に伝えろ」
「分かりました」
シルビアの背を中へ押し、アルバートは外に走って行った。姿は、闇に消える。
振り返った顔を前に。シルビアは会場に戻った。
中には、音は聞こえなかったようだ。誰かと話していたり、周りに話し声があれば聞こえなかっただろう。
参加者が談笑する中、シルビアは養父母を見つけた。
するりするりと人の間を通っていき、近くまで行くと、気がついた人たちが最後の道を開けてくれた。
「お父様、お母様」
「シルビア。ん、アルバートはどうした?」
シルビアが耳を、と動作をすると養父は身を傾けてくれる。
その耳に、シルビアは事を小さく伝える。
「この敷地内に、魔物の気配がします」
言葉が終わるや、養父が瞬時に身を起こした。
「──まさか」
シルビアをまじまじと見て、信じがたい声を溢した。しかしシルビアが真っ直ぐ見返し、息子の姿もないので、万が一にも冗談ではないとすぐに信じるしかなくなった。
「ルーカス?」
「フローディア。──」
身を寄せた養母に、養父が短く囁く。養母が青い瞳を丸くした。
「ルーカス、姉上、どうした」
周りが少々、どうしたのかという様子になってきたとき、王弟が様子を敏感に察して人並みを割りやって来た。
養父が素早く、顔を近づけ伝える。王弟も、やはり驚いた顔をして何か言おうとして、周囲を気にするよう様子を過らせた。
「──なるほど、お前、腹を下したか」
「お、おぉ、背に腹は変えられまい。それで私が出してしまった深刻さが消せると言うのなら」
「冗談だ。──そうか、娘の体調が優れないか。これは大変だ。息子は頑丈だが、男と女の体の頑丈さは根本から異なる」
さあすぐに休ませねばな、と王弟がシルビアと養父の背を押す。
「姉上は陛下に」
「分かっているわ」
表面上は和やかに手を振って、養母は人の中心に残った。
「姉上があの場は誤魔化して、上手く抜け出して陛下に伝えてくれる」
王弟により、シルビアたちはあっという間に会場を出られた。出入口を避け、手近な部屋に入り、鍵をかける。
「魔物だと? 城か庭かは知らんが、ここに魔物が出るはずがない。なぜそう言える」
「この前、海賊が出たという報告に第五騎士隊が対処しに行った。シルビアも第五騎士隊所属だ。その際……」
魔物が出る前の感覚と、出たあとにシルビアがその感覚が魔物によるものだと確信したこと。養父が手短に話した。
「だからと言って……ここは、最もイントラス神の影響が強い神域だぞ」
「私も、そのことは分かっています」
どれほど信じ難いことかは、反応を見ていて今分かる。
少なくとも、これまで彼らが生きてきた中で、また聞いた中ではあり得ないことなのだ。
「グレゴリオ、今は真実を確かめ、対処しなければならない」
「……確かにそうだ。事実であるなら、とんでもない」
「よし。私はグレゴリオと様子を見に行って来る。アルバートは行ったのか。そうか。シルビアは、この後出てくるだろうフローディアと──」
「お父様、私は、現場に案内できると思います」
感覚を辿っていけば。
養父は難しい顔をした。
「何だ、ルーカス、何か問題があるのか」
「……この前、魔物がシルビアを狙うとも分かった」
「狙われる?」
またここで、養父が説明を付け加える。
「今、シルビアは神剣を持っていない。行くのは危険だ」
「案内があるなら、確実にその方が早く辿り着ける。狙われるのなら、守ればいい」
王弟の言葉を受け、養父は迷っている場合ではないと判断した。
「シルビア、案内を頼む」
「はい」
部屋を出て、シルビアは走るには適していない靴で、先頭を走り始めた。
感覚を研ぎ澄ませる。
嫌な、本当は行きたくない方へ、近づきたくない方へ、進んでいく。
「教会か」
城の横には、主教会がある。
首都には、一般の民も出入りできる教会が別にあり、城の横の教会は全ての教会を束ねる教会だ。
そびえ立つ、白い造形物が近づくにつれ、シルビアの感覚も近いと訴える。近い。間違いない。
教会付近は、わずかに騒がしくなっていた。
夜会よりは人数が少ないと分かるが、明らかに様子が異なり、危機に満ち溢れている。
白い衣服の神官たちが、ざっと数えられるほど外に出ていた。夜だ。神官も大半は帰っている。
「アルバートは中か。……シルビア、もうこの中なのか」
「はい」
神官の一人が持っていた灯りを、王弟が奪取──借り、中へ入る。
不気味な静けさが待っていた。中には灯り一つなく、暗い。
ここで前に出た養父と王弟が、シルビアに方向を確かめながら、慎重かつ素早く進んでいく。
シルビアの靴は踵が細く、つるりとした石の床では音を立てない方が難しい。靴を脱ぎ、二人に習い足音を消した。
入った位置にある、礼拝の部屋を過ぎ奥の扉の向こうへ。続く廊下を奥へ。突き当たりを右へ。突き当たりまで行くと、扉の向こうに階段があり、下に繋がっている。
迷わず地下へ。
また廊下があり、その途中に白い光があった。
「アルバート」
アルバートが、神通力で形作った剣を手に、しゃがみこんでいた。
「父上、叔父上──シルビアまでどうして来た」
「案内役だ」
アルバートの元まで行くと、彼が何を前にしているのか分かった。
神官だった。壁にもたれかかる神官は、白い衣服がところどころ何色かに染まっている。おそらく、赤。
「失礼ですが、叔父上は治療の類いは出来ましたか」
「ふむ、かなり失礼な聞き方だな」
「申し訳ありません。俺は不得手なので」
「何十年もしておらん。陛下と姉上はその手のことが得意だが、私はちまちましたことは苦手としてきたこともある」
『その手』の技能はあればいいな、くらいの騎士団勤めを経て、『辺境伯』をしている王弟はあっさり言った。
それを受けて、アルバートがシルビアを見る。
「シルビア、治療してくれるか」
「はい」
シルビアは神官に近づき、しゃがみこむ。
傷はここだと、アルバートが神官の服を裂いて患部を露にする。
「それでアルバート、魔物は」
「この廊下で三体。それほど強くも大きくもなかったが、問題はそこじゃないだろう」
「邪神の影響がないこの場所で、魔物の自然発生はしないからな」
「そもそも、今いる場所に関しては魔物自体出るはずがないのだがな。……分かっているとも。魔物が出たという今、問題はそれを生み出せる邪神信仰者だ」
「出来ました」
傷を塞ぎ終え、話をしている面々を見上げると、「早いな」と王弟が呟いた。
「神官は運び出している暇がない。ここに魔物が出ないことを祈って先に進むぞ」
「そうだな。シルビア、まだ『感覚』はあるか?」
「はい。強い感覚が……おそらく、もうすぐそこ……」
あの先だ。
シルビアは、長い廊下の先を示した。
奥には扉がある。しかし、それではなく、手間にある、扉が少し開いている部屋。
「アルバート、シルビアを守れ」
「……本来、この中で言えば俺が前に出るべきなんじゃないのか」
「息子であり部下よ、偉い地位についてもたまには前線に出たくなる。──ではなくな、この場で守るべきものは一つだけ、シルビアだ」
「知っている」
「だろうな」
養父は、アルバートがとっくにシルビアを側に寄せていた光景を見て、肩をすくめる動作をしてみせた。
見通しのよい廊下だ。
養父と王弟は、もはや慎重さはなく、普通に歩き、扉の前に到着した。剣の先で、扉を開く。
前の二人が剣を構えたが、すぐに襲ってくるものはなく、中に入った。
シルビアも部屋の外から、室内を目にした。部屋の中は真っ暗だった。
……真っ暗?
いや、真っ黒、だ。
「これは驚いたな。……グレゴリオ」
「ああ、ルーカス、分かっている」
剣が放つ、白い光。
その光は床を少しだけ照らしていたが、養父たちの立つ場所は床らしき色が見えるのに、少し先に黒い靄がちらつき、その先は真っ黒だ。
灯りは今はシルビアが預かっているため、王弟が、剣を灯り代わりにするように、上へ掲げた。
「部屋の中に魔物が満ちている」
ぞくりとした。
道理で、この部屋に到達してから、もう感覚がどこに向かっているのか分からないはずだ。そこら中にいるのだから。
分かってしまえば、部屋の中の『黒』が動き、蠢いているとも分かる。大きな一個体ではなく、複数の『魔物らしきもの』が集まっている。
「まさか、この教会で魔物を見ることがあるとはな」
蠢きが、徐々に速く、速く、激しくなる。
そして。
────────!
闇が鳴き、牙を向く。
王弟が、養父を制する動作をした。自らは剣を真っ直ぐ構え、魔物を睨み付ける。
「『イントラス神に請う。──我に、主が土地、我らが土地を侵すものを滅する力を』」
一撃が、一塊になり襲いくる魔物を貫いた。
「一気にかかってくるとは、能がない」
王弟は、血を払うように剣を一振り。ふん、と鼻で笑った。
室内を、不自然な闇で塗りつぶしていた魔物はいなくなった。
しかし、何ものかはいた。荒い息遣いが、部屋の奥の隅から聞こえてくる。
「シルビア、灯りはそこに置いておけ」
「はい」
部屋の中央のテーブルに置く。
アルバートが、養父に目配せして、部屋の隅へ近づく。
部屋の隅には、一人の女性らしき人が踞っていた。衣服は白い。
あれが、魔物の原因となった邪神信仰者なのだろうか。
「……今さらなのですが、首都の教会に、邪神信仰者は連行されないはずですよね?」
一段落した今、基本的な部分を確認する。
「そうだ。首都で見つかったとしても、すぐにでも首都を離す」
いくら神域だとしても、首都の教会に身柄を置いておくことはない。首都は特に、人が多く、そして王がいる土地だ。
この前、街中で見つかった邪神信仰者も、準備でき次第、首都の外に送られるのだと聞いていた。
「おい、聞こえるか」
アルバートが部屋の隅の者に声をかける。
その声に、その人は、ゆっくりと顔を上げた。
やはり女性だった。少々顔がやつれているが、どこかの貴族を思わせる──。
「……あれ?」
この女性、見たことがある。
琥珀色の瞳。怯えに染まる、その瞳に、頭の中で記憶と合致した。
「アルバートさん、その人──」
「なぜ、ここに」
傍らの養父の声だった。
その声の様子にただならぬものを感じて、見上げると。
養父は目を見張っていた。
「父上? 叔父上も、何だ」
アルバートも、様子のおかしさに気がついたようだ。
叔父をも問う言葉に、シルビアが王弟の方も見ると、彼も同じ表情をしていた。
両方とも魔物がいる、と耳にしたときの表情に似ている。
だが、より強い。
何か、見るはずがないものを前にし、自分の目が信じられない、という風な。
「父上、何だ」
アルバートが再度問うて、やっと、養父は口を開いた。ゆっくりと。
「彼女は──テレスティアの令嬢だ」
え? と、アルバートだけでなく、シルビアも言った。
今、何と?
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