伸ばした手、止めた手






 この前の話、と具体的に示されなかったが、直前まで考えていたこともあり、あの話だと思った。

 アルバートは、切り出したはいいが「何から話すか」と小さく言った。


「俺は、お前を預かると決めたとき、こんなに情が湧くとは予想していなかった」


 灰色の目は、庭を──遠くの方を見ているような目付きをしていた。


「確かに、普通に生活を送れるように教えることは最初から教えるつもりだった。だが、お前を『あいつの妹』として認識していたから、それ以上に思い入れることはないと思っていた」


 そこで、言葉が切れた。

 しばしの沈黙が挟まり、不意に、庭の方を見ていた目がシルビアの方に向いた。


「お前に、もう少し選択肢をやれると思っていた」

「……いいえ」


 やはり、決まれば、シルビアには他に選択肢がないだろう結婚の話だった。

 シルビアは首も横に振って、否定した。


「アルバートさんたちはいつでも充分に私の気持ちを聞き、選択肢を与えてくれました」


 些細なことも、全部。

 結婚の話が出るとは思っていなかっただけで、大きな選択肢自体がないことは分かっていた。

 シルビアは微笑んだ。

 感謝している。色々なことを教えてもらった。色々なものを見せてもらった。たくさん会話をして、笑って。日々に当たり前のように温かさがあるとを知った。


「違う」


 間髪入れず、否定が突きつけられた。

 肩を捕まれ、体ごと横に向く。アルバートと正面から向き合うことになっていた。

 アルバートの表情が厳しく、正面からシルビアの言葉を否定する。


「それ自体は当たり前だとこれからも思っておけ。何もかもを自分以外の人間に決められて、受け入れ続けることの方が当たり前じゃない」


 それだけは間違ってはならない、特別なことではないのだと、彼は言った。肩を掴む手に、微かに力が入った。


「は、い」


 正面からこちらを捉える目に意識を奪われつつ、返事をした。

 アルバートは肩を掴んでいた手を、ゆっくりと離した。


「シルビア」

「はい」

「グレイルとの結婚について、嫌か、嫌じゃないか、考える余地はあるか。結婚が意味することを含めて、聞いておきたい」


 アルバートの目は、シルビアを真っ直ぐ映していた。彼の纏う雰囲気が変質したように感じた。胸騒ぎのするそれではない。

 むしろ、最近感じていた、感覚でしかなかったいつもと異なった様子が全て削ぎ落ちたような。別のものも削ぎ落ちてしまったような。

 やはり見た目には変わらない。


 その様子は、養母に答えたことを答えようとしたシルビアの口を、違うように動かした。


「もしも」


 アルバートは首を傾げた。


「嫌だと言ったら、どうするのですか」


 言うつもりなどないのに、もしもを問うことなんて初めてだった。

 けれど、アルバートの様子がいつものようであって、違うと感じてしまって、嫌だと言えばどうするのか聞きたくなった。困らせるのは嫌だ。だけれど、彼が困ったところをシルビアは実際に見たことがなかったし、今の彼が困るなんていう予感が微塵もしなかったのだ。そんな、様子。


「言って、どうにかなることではないのですよね」

「わざわざ気がつかなくてもいいところに気がつくな」


 アルバートが微苦笑した。

 しかし、ふっと、その表情は変わる。真剣なものに。

 同じく真剣な目に見られ、シルビアは一瞬呼吸を忘れた。


「お前が嫌だと言うのなら」


 彼は、少しも揺れることのない口調で、言うのだ。


「ヴィンスがしたように、この国から出してやろうか」

「──そんなこと、出来ないのでは、ないのですか」

「立場上そうだな」

「じゃあ、どうして、言うのですか」

「やろうと思えば、出来るからだ」


 立場上出来ないと肯定したばかりなのに、そんなことを言う。もしもを聞いたのはシルビアだけれど、戸惑う。

 アルバートは、また、苦笑に近い表情を滲ませた。


「……俺は、父上のことをどうこう言える立場じゃないんだよな」

「……?」

「こっちの話だ。で、どうだ。選択肢が増えたところで、正直なところが聞きたい」


 問われている。答えを待たれている。

 シルビアは一度、改めて考える。

 王太子のことはよく知らない。結婚なんて言われても、想像出来ない。

 結婚が意味することは、聞いて、考えたから分かっている。この国にいようとするのなら仕方のないことで、この国にいたいと思う理由はあるから、受け入れられることであるのだ。


 けれど、口にしたのは別のこと。


「逃亡は、嫌、です」

「逃亡先がないと思っているのか」


 首を振る。

 違う。確かに、この国を離れ、ジルベルスタイン家を離れ、行く先がないとしたらきっと不安定なのだろう。想像でしかないけれど、不安定な状態になるとは分かる。

 でも、違う。


「……アルバートさんといられなくなるのは、嫌です」


 かつて、酷い雨の中、大切な人と別れたように、アルバートと会えなくなるのは嫌だ。


「だから──」


 自分なりに考えた。

 結婚は正直実感が湧かなくて、想像できなくて、戸惑う。

 そして『意味』は理解している。シルビアがその場に収まることが、この先この国がどのようなことに巻き込まれようと、守ることに繋がると理解する。

 養父母、アルバートに出会い、もらった『自分の周りの世界』を失わないようにと考えて、役目を担えればいい。

 王太子のことは、彼に本当は失礼なことをしているのはシルビアだ。王太子がシルビアを受け入れられるのなら。そちらの方を気にするべきだと思う。


 もう、手間をかけまい。だから、と、ようやく、養母にも言ったことを今度こそ伝えようとした。

 でも、だから、の続きが言えなかった。


 ──アルバートと会えなくなるのは嫌だ。

 その一言を声にして、ずっと、ずっと蓋をしてきたものが、溢れてきてしまった。


 結婚は好きな人とするものだと、養父母を見ていて思っていた。結婚自体は自分には縁のないことだと思っていたが、シルビアは気がついてはいけなかった想いを得てしまった。


 何を、引っかかるところがあるのか、気がついた。これも、気がつかなければ良いことに、今気がついてしまった。

 アルバートが好きなのだ。

 最近は鳴りを潜めていた苦しさが、戻ってきた。

 どうせ、『兄妹』だからどこまでいっても報われないと分かっているのに。これは前から分かっていたことなのに、どうして、苦しくなってしまうのだろう。

 アルバートが好きだから、そのことを思うと、たまらなく苦しいのだ。


 こういうのを、きっと「我が儘」だと言う。言葉は知っている。

 いつから、こんなに我が儘になってしまったのだろう。

 望みなんてなくて、ここに来てから出来た望みもたった一つだったのに。

 本当に、いつからこんなに我が儘になってしまったのだろう。


「俺がお前を直接連れて行くんだって言えばどうするんだ」

「…………ぇ」


 苦しさを上回る、驚きの発言に、アルバートを見ることしかできない。


「誤解していないか、誰が他人に任せるなんて言った。やるなら俺がやる」

「そんなこと、出来ません」

「俺が出来るって言っているのに、どうして断言出来る」


 確かに。アルバートが出来ると言うのなら、出来るのだ。


「信じてみろ。ヴィンスがしたことでもあるだろう」


 信じている。

 かつて、『彼』が、アルバートは信用できる人物だと言ったからではなくて、シルビア自身がそう感じているから。

 でも、アルバートはこの国の人で、ジルベルスタイン家の人間だ。王家に連なる名家。

 実際地位も持つ人にそんなことさせてはならない。

 決して、今差し出されている手だけは取ってはならないのだ。それはきっとシルビアの勝手だ。シルビアが想いを抱くがゆえに、揺れそうになる勝手だ。

 アルバートが結婚すると聞いたとき、胸に仕舞い続けるのだと決めた。シルビアが結婚する側になっただけではないか。


「……結婚の話は、問題ありません。……殿下が受け入れられるのであれば、私が拒む理由はありません」


 ようやっと、シルビアは問いへの答えを返した。最初から、言っておけば良かったのだ。

 アルバートは、その答えに、ゆっくり瞬いた。


「……そうか。グレイルはいい奴だ。それは間違いない。上手くやっていけるなら……それがいい」


 アルバートが微笑み、シルビアに手を差し出した。手のひらが上で、シルビアがおそるおそる手を乗せる。触れた瞬間、離しそうになった。

 その手を、アルバートはエスコートするときのように少しだけ包み、持ち上げた。


「俺は、お前のために力を尽くし続けよう。兄として」


 まるで、誓うようだった。

 手は下ろされ、そっと離された。


 シルビアも手袋をしていて、アルバートも手袋をしていて、体温が伝わる間もなかった。

 その手が、シルビアを撫でなくなったのはいつからだろう。

 胸が苦しくて、苦しくて。


 結婚しても、しなくとも、こういうことなのだ。自分と、アルバートはこうなのだ。

 物理的に手が届く距離でも、想いは届かず、届いてはいけない。

 早く。いっそ、早く、消えてくれればいいのに……。

 伸ばしかけた手を、動かす寸前で止めた──


 ふわり、と、肌を風のような感覚が触れた。

 嫌な風だった。

 シルビアは、アルバートの袖を掴んだ。










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