『誓い』
女性が一歩、後ずさった。
「待ってください」
ビクリと、女性はまた大きく身を震わせた。
震えている。そのまま、小刻みに震え続ける。もう一人、奥にいた方がこちらから近い方の女性の腕をとり、引き寄せるようにした。まるで、庇うように。
そして、そのままもう一人の女性は首を振る。何度も横に振る。
その意味が分からないが、二人はどちらも震えていた。
彼女たちの様子は……怯えている、だ。庇われている方の女性の、琥珀色の瞳が怯えに染まっている。
これは、予想になかった反応である。
とりあえず、逃げる様子はない。しかしながらこんなに怯えられるとは思っておらず、ひとまずシルビアは神官にその旨を伝えるべく後ろを振り向く。
「アレックス神官、危険性はないようです。逃げる様子もありませんが……」
どうしたことか。
シルビアの歯切れ悪い言い方に、神官は怪訝に思ったらしい。首を傾げ、歩いてきた。
「酷く怯えていますね」
「そうなのです」
何か誤解でもされているのだろうか、という気分になる。何しろ、女性たちは害があるようには見えず、むしろこの状況ではシルビアに非がある気がしてくるのだ。
だが、可能性としては邪神信仰者ゆえに、見つかったと思っていることからの反応なのだろうか。
「邪神信仰者ではなさそうですね」
「どうしてですか?」
邪神信仰者である可能性も頭に留めておかなければ、と思っていたところだった。
シルビアは、思わぬ言葉を聞いて、神官を仰ぎ見た。
細い路地のため、シルビアの背後から覗き込んでいる形になっている神官は、シルビアに視線を移してから、シルビアに促すように下方の女性たちに視線を戻す。
「彼らは土地を移りゆく民で、どうしても豊かにはなり難いようなのです。『よう』と言えども実情でもあるのですが……衣服を見てください」
マントの下の衣服は、ドレスだ。
シルビアにはデザインの良し悪しの感覚はいまいち分からないのだけれど、粗末ではないとは分かる。
「ここで重要なことは、邪神信仰者の中には貴族はいないということです。国を持ちませんからね。定住せず旅をするか、一つの場所に留まっても生き方は一般の民のそれでしょう。そのような生活の中こうした衣服を身につける習慣はないと言えます」
名門貴族でもある神官曰く、ドレスはかなり質がいい。マントまでも同じく。
つまり、とシルビアは考える。邪神信仰者には貴族はいない。この女性はかなり質のいいドレスを着ている。貧しい生活や平民の生活より、豊かな生活が窺える。
「この人は、貴族ということですか?」
「身につけているものに関しては間違いないかと思います。ですが、この状況は……かなり複雑な事情を抱えているようですね」
それは間違いない。
貴族の女性だとして、こんなところに武装もしていない女性が二人。こんなにも怯えた様子なのは誰にでも違和感を抱かせる。
「シルビアさん、私に任せていただいてもよろしいですか?」
「はい。お願いいたします」
邪神信仰者でなければ、ここからどうすればいいのか分からなかった。
取り調べることもないが、このまま放っておくわけにはいかない。明らかな事情持ちだ。
ありがたく神官に任せるため、シルビアは壁に張り付くように避け、神官を通す。
女性たちは、進み出てきた男性にビクリと震えた。
神官は彼女たちの前にしゃがみこむ。
「私、見て分かる通り神官です。貴女方、その身なりからすると、貴族のご令嬢と侍女というところだと見受けます」
もう片方、庇うように抱き締めている方は侍女だったのか。
神官はよく見ている。シルビアも、もっとよく見て、分かるようにならなければ。
「ただ事ではない状況だと見ますが、どうしたのか聞かせてもらえませんか?」
柔らかに、ゆっくりと語りかけるような声音だった。
神官の言葉に、侍女と見られる方が前のめりに、口を開いた。
「──」
しかし、声は微かにも発されなかった。
女性ははっとした表情で喉を押さえ、それから泣き出しそうな表情になった。
その表情に、シルビアは一瞬苦しくなった。本当に、泣き出してしまいそうな目と表情、雰囲気になったのだ。
もしかして、話せない。彼女は声が出せないのだろうか。
「……アレックス神官、彼女は」
「……ええ」
彼女に聞くより、貴族の令嬢と思われる方の女性に話してもらう他ないかもしれない。
だが、そのときである。
侍女の様子に、令嬢が何か声をかけようと──またも音は微かにも聞こえてこなかった。
その様子を、シルビアはしっかりと目撃していた。
違和感が増える感覚がした。
片方のみならず、もう片方も明らかに話そうとしたのに、声が出せない様子。彼女たちの場所だけ、音が消えたようだった。
聞こえるのは、微かに降る雨が地面に落ちる、小さな小さな音だけ。
「……貴女方、声が出ないのですか?」
声がなかった場で発された声は、神官のものだった。
間に、怪訝さが混ざっていた。おそらく、神官もシルビアと同じ違和感を感じたのだろう。
両方ともこの様子は、引っかかる。侍女が声が出なかった時点では、体の要因か何かで、と原因を思わせた。けれど二人ともという時点で、不思議さが生じ、同時に流していた違和感が頭を出した。
話そうとして、声が出なかったような反応をした、という点だ。
声が出ないことに慣れた様子では、ない。
神官の問いに、女性たちは顔を合わせて頷き合ってから、こちらに向かって慎重に頷いた。肯定。
「失礼ですが、喉か、舌に『異常』もしくは、病気ですか?」
病気か。もしくは、そうさせられたのか。神官は『異常』と言い方を変えていたが、こういうことだろう。このおかしな状況、異常なまでの怯え。危害を加えられ、喋る行為を奪われた。
神官はさすがに厳しい表情をしていた。彼の慎重な問いに対する答えを、シルビアもじっと待つ。
女性たちは、またも互いに視線を交わして、それから。
首を横に振った。否定。
「……違う……?」
呟いたのは、神官だったか、シルビアだったか。どちらも同じ気持ちではあっただろう。
違う?
シルビアは訳が分からなくなる。それらの要因がなければ、なぜ喋ることが出来ないというのか。
「……どういうことでしょうか? 彼女たちは要因を明かしたくないか、明かせない事情があるのでしょうか」
シルビアは今度は、言えない理由を探しはじめていたのだが、神官は違ったようだった。
「いいえ、シルビアさん」
「?」
「他に一つ、残る可能性があると言えばあります」
「話せない要因ですか?」
「ええ」
なぜだか、神官の声も雰囲気も固かった。
「『誓い』」
気のせいではないだろう。女性たちが、互いに身を寄せ合う腕と、手に力を込めた。
「『誓い』であれば、可能性があります。喋らないのではなく、精神的に喋れないのでもなく、物理的に喋ることができない。ただし、声帯を潰されたという類いの物理的、ではありません」
「……『誓い』とは、何ですか?」
誓い、とは何か。
話の肝であると分かるその単語が、普通の意味で使われていないことも分かった。しかし意味は知らなければ分かりようがなく、尋ねた。
尋ねてから、神官がそれまでの雰囲気が霧散したように、意外そうな顔で見てきたので、アルバートに尋ねるように尋ねてしまったと気がついた。「あ」と声が零れる。
「申し訳ありません」
「いいえ、大丈夫ですよ。日常では聞かないことだと思いますので、私でよければお教えしましょう」
数秒にこり、と微笑み、すぐに真剣な顔に変わる。
「『誓い』とは、誓うことで己に制限をかけることを言います。誓いは神への誓いで、昔は自らの忠誠心を表すために王への忠誠を神に誓い、自分から反逆しないなど制限をかけた者がいると言います。しかし少なくとも今では、誓わせた相手に制限をかけることを想起させる方が多いでしょう。……これは制限をかけられる人物が直接口にしなければなりませんが、無理に言わせる方法はないわけではありません」
シルビアに『誓い』について教え、神官は改めて女性たちに向き直った。
「貴女方、『誓い』のことは分かりますか」
彼女たちは、首を縦に振った。肯定、だ。
「貴女方が話すことが出来ないのは『誓い』を行わせられたからですか」
動かない。
彼女たちは、首を縦にも横にも振らなかった。互いに視線を見交わせど、悲しそうな顔をするのみで、明確には肯定や否定の動作もしない。
これは……?
「……そこは答えられないようにされている、ということですか」
神官は少しシルビアを振り返り、「『誓い』をかけられていることは間違いないようです」と言った。
「……困りましたね。これでは、おそらく事情を紙に書いてもらう手段も使えなさそうです」
「……彼女たちは制限をかけられている、ということですか?」
『誓い』を行わせられたからだと、神官は判断した。『誓い』とは、制限をかけられることだ。
「そうです。かなり細かく、隙なく誓約させられたようです」
話せないのも、首をどちらにも振れず答えられないのも。紙に書いてもらうことさえ出来ないというのか。
彼女たちに直接事情を聞くことが出来ない。この様子では当てずっぽうに聞いて当たっていたとしても、駄目だろうと神官はため息を吐く。
「たちが悪い」
直後、ぽつりと呟いた。
今や、神官はこれ以上ないほど眉間に溝を作っていた。
「『誓い』は高度なものです。その影響から、神々から使える者が制限されているように使用できる者は少ないと聞きます。貴族か、そうでなくともそれほどの使い手ならば神官か騎士団に所属している可能性が高いです」
何と。言われてみると、そうなるかともなるが、「たちが悪い」の一つの理由が分かった。
「何より、どのような経緯かは分かりませんが、どのような理由であれ、『誓い』を使って声を出せないようにするなどやりすぎです。彼女たちは怯えています」
これがもう一つ、理由だろう。
シルビアに『誓い』が何たるものか教えてくれる前置きで、日常では聞かないことだと思う、と神官は言った。そんなに簡単に使われていいようなものではないのだ。
「ひとまず貴女方を保護致しましょう。雨が降っていることもあります。お城に来ていただいてもよろしいですか?」
女性たちは、揃って首を振った。
「心配いりません。城と言いましたが、教会で貴女方を保護します。会いたくない人と会ってしまうと考えたのかもしれませんが、心配しないでください。貴女方の存在は外には秘密にし、『誓い』を破るために手を尽くしましょう」
先程の神官の「貴族か、そうでなくともそれほどの使い手ならば神官か騎士団に所属している」の可能性を考えると、城に現れる人物である可能性が充分にあることとなる。
彼女たちが懸念するのは無理もない話だ。
「もちろん、犯人を見つけた暁には『誓い』の乱用について、セトラ家の名にかけてきっちりお灸を据えていただきます」
しっかりとした約束に、しばらく女性たちは視線を交わし合い、首を振ったり頷いたりする。
シルビアと神官は、ひたすらに様子を見守り、待つ。
小さな雨の音のみが、響いていた。
話せなくても、意思の疎通は取れている模様だった。
やがて、彼女たちの動きが落ち着いて、おもむろにシルビアたちの方を見た。
そして、ゆっくりと頷いた。
「では、早速。暖かい季節のはずですが、雨が降っています。レディの体をこれ以上冷やすわけにはいきません。立てますか?」
神官が、両者に手を差し伸べる。
その慣れた様子と、流れるような動作に神官より貴族という面が表れているようだ。
令嬢は躊躇い、侍女は音が鳴りそうなほど首を横に振っていたが、結局神官の笑顔に負けておずおずと手を取っていた。
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