第8話 流されて夏の隣人

好きという感情とは程遠かった。そもそも、横山にとって恋愛とは好き嫌いで語るものではなく、社会の仕組みの一部、いうなれば就職面接とあまり変わらない認識であった。というのも過去、横山が経験した恋愛とは相手の一方的な押しつけでしかなかったもので、求められたものとは愛や人情ではなく自身の体だけであったというのが、恋愛観の印象悪化の原因であったためである。




だから、男に対して女として興味をもつことはすこしもなく、異性に憧れを抱くのは恋愛観によるものではなく、どちらかといえば小動物に向けるのと同じような愛玩欲求に親しいものであった。ということはすなわち自分にとって劣情を寄せるのは年下のみが対象であるということであって、それを自覚しているので、自分は恋愛弱者であるという認識のもとそういったこととは一線を引いた位置に立つように自然と落ち着いていた。




それ以前に、そもそも横山は自分が人間であるという自信がない。よほど情熱を持って接されない限りは人間関係のあれこれには抵抗の念が拭いきれないでいる。




そのために、この告白はまるで想定しなかったものである。電撃的な展開を迎えた横山は今の衣装を若干恥じらいながら、少年と話をした。




「いやー・・・それは・・・ごめんね。気持ちは嬉しいけど、そういうのはちょっと、無理かなって」




横山はとっさに拒否してしまった。煮え切らない返事は逆に相手に根拠のない希望をもたせてしまうと思って、常套句でフォローしつつも、突っぱねるような回答をした。保身の為ではなく相手のためを思ってのことである。あまりに唐突なことだったので、ケイジの言い分を本気に捉えられなかったというのもある。




しかし冷静に考えれば、ちゃんと名乗ってまで告白してくるとはかなり真剣な申し出だったのかもしれないと考え、申し訳無さが募り始めた。しかも横山の興味の対象の枠内に辛うじて食い込む容姿の、自分にはもったいないくらいの若い男の勇気ある行動である。申し訳無さと同時に、今ひょっとして自分は滅茶苦茶勿体無いことをしているのではないかと、じわじわと後悔がつま先から浸透し始める。




「あ・・・・す、すみません!そりゃ、困りますよね、いきなりこんなこと言われたら!その、ホントにごめんなさい。」




ケイジの表情がみるみる落ち込む。その間、横山は密かに飼主の行動に感心していた。後先考えずに勢い任せに突進できるのは若者の特権か。という、年上であるという謎の余裕からくる上から目線の評価を誰にともしれず送る。だが、後先考えないのは自分も同じであるとブーメランが帰ってきて、頭を揺さぶられた気になったのは顔に出さぬよう堪えた。




それではこれにて御免と言いたいところであるが、とはいえ青年を落ち込ませたまま放置というのも良心の呵責に苛まれるので、思ったことを思ったままに世間話でお茶を濁すことにした。




「同じマンションだったんだね。すごい偶然。手の怪我は大丈夫?」




「え、あ、はい。それはもう、おかげさまで。」




「それは良かった。って言っても、殆ど何もしてないけどね」




「いやいや、そんな。あなたのおかげで迅速に治療できたんで。ホント助かりました。」




「そう言ってもらえると、おばさんのお節介も無駄じゃなかったって思えるよ」




アフターケアはこのくらいで十分だろうと、横山は足早にその場を立ち去ろうとする。我ながら悪印象を残さぬよう謙虚さと気遣いのできる女ぶりを披露できたことだろうと内心でほくそ笑む。




じゃあね、と一言残して散歩の予定をキャンセルした横山はケイジの横をすり抜けようとしたところ、呼び止められた。




「あ、あの、せめて名前を教えてもらえませんか?」




このご時世、名前一つでどんな問題にも発展しうる物騒さを内包している。ことがあれば発展は秒刻みで拡散され、危惧するひとも多かれ少なかれ居ることだろう。横山も、そういったいざこざを懸念して慎重になるタイプの生き物である。




横山は再度、青年の様子を分析した。瞳の奥を覗き込むと、黒い眼には横山自身の姿が写る。若干潤む瞳に免じて、横山は名を名乗ることにした。




「横山。あまり言いふらさないでねー。こんなカッコでここに住んでること」




ひらひらと手を降って、今度こそその場を離れた。彼にどういう印象で心に残ったか定かではないが、せめて恋心を棒に振ったろくでなしとして確定されないことを切に願う。




その後やはり、柄にもなくひょうきんに振る舞ったことを恥じて、いちいち行動の一つ一つを懺悔したくなった。横山の性格がひとの顔色を窺うことに特化しすぎたせいである。過去の出来事に最適解を模索するものだから、あとでああしておけばよかったかもしれないとシュンとしてしまうのだ。




これにてケイジとの一件は落着、舞台は閉幕し楽屋享楽に耽る日常に帰るものと思われた。故に此処から先は舞台裏の物語である。




ゴミ捨て場で偶然顔を鉢合わせたその数日後、今度はまた同時刻に同じ場所で。燃えないゴミの日であった。




それからまた数日後に今度はコンビニで、その数日後には駅で、妙にうずうずした様子で立つケイジとは軽く挨拶を交わす程度の間柄であったが、かの日を境にどういった風に導かれたか、横山が向かう先には度々ケイジの姿があるようになった。




つけられているふうでも、先回りされているふうでもなかった。横山にはプライベートの生活パターンというものが確立されていないし、飼主が同じ大学の友人同士でつるんでいるところに出くわしてしまったりと、ほんの偶然の出来事であるかのように思われる。




極めつけは会社帰りにたまたま発見した定食屋の暖簾を潜った所にまでつらを合わせてしまったので、奇妙な運命を感じてついに自ら相席に椅子を置いたのである。気まぐれの精が背中を押したらしい。




「最近よく会うねえ」




横山はケイジがたっぷり黒色調味料に浸かりに浸かった鯖の醤油煮定食を食べるのを見て、同じものを注文した。ケイジの食い気の旺盛なことで、お椀によそった白米の上に、更にお椀をひっくり返したような大盛りの2段ライスをかき込んでいた。



 10席あるかないかの小さな定食屋の片隅、他の客と言えばペアのサラリーマンばかりでむさ苦しい絵面の店内で、紅一点の横山は頬杖をついて飼い主の反応を待つ。



 ケイジは横山が向かいの席に座ってから箸を鈍らせた。気を使っているのだろうと横山は想像する。実際はたじろいでいるだけなのだが、横山がそれに気づくことは古今東西ない。




「おかしなこともありますね。」




精一杯の愛想で無害オーラを発するケイジは、電池切れ間近の電気マッサージ器のようにカタカタとした手つきでお冷を手にとって口に含む。一連の動作を頬杖をついて眺める横山だが、それがケイジの緊張を煽っているのだと気づくことも金輪際ない。




「あの、つかぬ事を聞きますが」




ケイジは視線をエビの飛び下がりの勢いで泳がせながら、口を開いた。




「うん」




「その耳と尻尾は、いつもつけているんですか?」




やはりひとと関わる上でこの手の質問は免れ得ぬらしい。生涯つきまとうであろうこの奇怪なオプションパーツの正体については横山自身最も明らかにしたいところである。取外し可能なものならば喜んで永久に箪笥の奥に突き放すものであるが、いつも装着せねばならないのっぴきならぬ事情ゆえにこの場はYESと答える他ない。




「そうだね。いつもつけてるよ」




そう言って横山は、わざとらしくひとのものではありえない二等辺三角形の耳をピコリと動かしたり、ゆらゆらと尻尾を揺らして見せた。ケイジはゲホッと喉奥から咳を飛ばして横山を凝視した。




「それは、なんとも愛嬌に満ち溢れてますね」




精一杯の平常心でボキャブラリーをテンポラリーで活用するケイジは電池の切れたような無反応な手付きでお冷を手にとった。一連の様子に、「だよね」と横山は苦笑した。




「昨今は話の早い人達が多くて助かるよ。かねてからアニメ文化の浸透してくれてるおかげかな」




「若い人たちからしても、仰天は間違いないと思いますが」




「まだいいよ。歳くって脳が固くなると、思考停止してひっくり返るもん。上司がはじめ、そういう反応してた」




「心中お察し致します」




「お心遣い痛み入ります」




「いや、上司の方の心中ですかね」




「あれま」




なんとも、枯れた会話が繰り広げられる。そうこうへらへらと口を開けるのは、ケイジの発する落ち着いたムードが為せるワザか。単に横山の年の功がどこか空虚さを醸しているのか。告白してきたときはなんて大胆な小僧だと思ったりもしたが、こうしていざ腹を割って対面してみるとなかなかどうして安心感を得るものである。もともとこれがケイジの性分で、大胆不敵は火事場の馬鹿力に相当するものだったのだろうと、横山は一人で腑に落ちた。




「飼主はどうして、オレのこと好きになったの?」




つい口が勝手に動いていた。ケイジは横山の唐突な暴露話の話題振りに脳内悪戦苦闘を繰り広げる。まるで見合いのいち風景だ。横山自身、なぜこのようなことを聞いてしまったのか、またたく間に脇を締めて縮こまる。聞くときはまるで他人事のように聞くのに、ケイジの口から溢れるのはまず自分を褒めちぎる言葉が出てくるに違いないと直感したときにはもう遅かった。この空気感でこの話はまずいと悟った横山は咄嗟の判断で自分と同じ年くらいの店員に向かってビールを注文した。酒がなくては、きっと恐らく間違いなく、いたたまれなくなってしまう。




「そりゃ、ええと、その、手を握られたとき・・・・すごく、愛みたいなのを感じたからです!」




ぐわあ、と横山は戦隊ヒーローショーの悪役の断末魔のような声を上げた。


案の定の回答に、身から出た錆と思いつつも、飼主の口から吐露されるエスプレッソのごとく熱く黒くドス甘い文言に獣の耳をパタリと閉じずにはいられなかった。

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